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【痛快冒険小説】ラスト・メッセージの暗号(前編)

    前編:ヒューストンの不敵な敗者たち

    スタジアムを包み込む大歓声が、悲鳴混じりのため息へと変わった瞬間、長谷川健二(はせがわ・けんじ)は手元のストップウォッチを止めた。
    北中米ワールドカップ、決勝トーナメント1回戦。日本代表は優勝候補のブラジルに1対2で惜敗した。ピッチ上で崩れ落ちる選手たち、天を仰ぐ森保監督。テレビ画面の前の何千万もの国民が涙を流したその時、日本代表のチーフ・マネージャーという肩書を持つ健二だけは、完璧に計算された「次のゲーム」の開始を告げるホイッスルを、己の脳内で鳴らしていた。

    「健二、ロッカールームの撤収準備に入ってくれ」
    ヘッドコーチの声に、健二は「了解しました」と短く応え、いつものように冷静な足取りでスタジアムの地下通路へと向かった。

    健二は有能なマネージャーだった。どんな過酷な遠征でも完璧なロジスティクスを組み、選手が快適に過ごせる環境を整える。だが、彼の真の姿を知る者は誰もいない。彼はかつてロンドンを拠点に世界を股に掛けた伝説的な美術商であり、その実態は、悪徳富豪の資産だけを狙うプロの詐欺師にして、最高峰の鍵師だった。

    美術商時代、彼は数々の天才的な贋作師や詐欺師を見てきたが、彼らには共通する致命的な弱点があった。『どんなに完璧に他人に化けても、肉体に染みついた筆跡と指先の癖だけは絶対に隠せない』――それが健二の抱く確固たる美学であり、同時にプロとして最も警戒すべき「最後の皮膚」だった。

    彼がこの日本代表のスタッフに潜り込んだのは、愛国心からではない。ただ一つの目的――国際サッカー界の最高幹部であり、莫大な不正資金をロンダリングしている悪名高き興行師、アントニオ・シルバの秘密金庫を破るためだった。

    シルバはヒューストンに広大な私有地を持ち、このスタジアムのVIPエリア奥深くに、世界中から集めた裏金と、時価50億円を超えると言われる幻の「純金製レプリカ・ジュール・リメ杯」を隠匿していた。セキュリティは最新鋭の生体認証と、試合日の数万人の動員によって生じる膨大な「通信ノイズ」に守られている。つまり、ワールドカップの試合中、それもブラジル戦という世界が注目する狂乱の90分間とその直後しか、侵入のチャンスはなかったのだ。

    健二はロッカールームに入ると、手際よく選手たちの荷物を整理し始めた。そこへ、スタジアムの現地コーディネーターであるアメリカ人美女、エレーナが近づいてくる。彼女は健二の今回の「共同経営者」であり、元CIAのサイバー専門家だった。

    「状況は?」健二は周囲に目を配りながら小声で尋ねた。
    「シルバは完全に勝利に酔いしれているわ。ブラジルVIP陣と祝杯をあげるために、最上階のラウンジに移動した。金庫室の周囲の警備は薄れている。ただし、残された時間はあと20分。選手たちがメディアの取材を終えて戻ってくるまでよ」エレーナはインカムに手を当てながら言った。

    「十分だ。行こう」

    健二はジャージのポケットから、医療用スプレーに見せかけた特殊な電子妨害装置(ジャマー)を取り出した。二人は関係者以外立ち入り禁止の地下重警備エリアへと滑り込む。シルバの秘密金庫は、スタジアムの電気管理室の裏に偽装されていた。

    最新の網膜スキャンと12桁の暗号コード。健二はエレーナが事前にハッキングして入手したシルバの生体データを網膜模倣レンズでクリアし、自慢の指先で電子ロックの基盤に直接触れた。微細な電流の振動を感じ取る。ジェフリー・アーチャーの小説に登場する紳士泥棒のように、健二は微笑を絶やさない。

    「開いたぞ」

    重厚な防盗扉が音もなく滑り開くと、そこには溢れんばかりの超高額紙幣と、燦然と輝く純金のトロフィーがあった。だが、二人の目的はそれだけではない。シルバが南米の犯罪シンジケートと結託して行った、過去3大会分の八百長と不正送金の全記録が収められたマイクロドライブ――それこそが、彼を永久に破滅させるための「本命」だった。

    健二はドライブを抜き取り、純金トロフィーをあらかじめ用意していたカモフラージュ用のダミーバッグに詰め替えた。
    しかし、その時、エレーナの無線が緊迫した音を立てた。
    「健二、まずいわ! シルバの私設ボディガードたちが、予定より早く地下の巡回に向かっている。あと3分でここへ着く!」

    「出口は?」
    「表の通路は完全に塞がれた。戻るルートは一つ……日本代表のロッカールームへ繋がるダクトだけよ。でも、そこに飛び込めば、今度は選手やカメラの前に泥棒として躍り出ることになる!」

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    健二の脳細胞が超高速で回転する。捕まれば一巻の終わり。だが、日本代表の誇りを汚すことも絶対に許されない。世界が称賛する「美しいサムライブルーのロッカー」という舞台を、自身の逃走劇で汚すわけにはいかないのだ。

    「エレーナ、プランBだ。あの男たちを『合法的に』引き離す」
    「プランBなんてあった?」
    「今作った」

    健二は不敵に笑うと、バッグを背負い、驚異的な身体能力で換気ダクトへと這い上がった。暗闇のダクトを進み、彼が辿り着いたのは、まさに先ほどまで選手たちが悔し涙を流していた、あのロッカールームの真上だった。

    (後編へ続く)


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