
耳に刺さる言葉が、優しくなるとき――孔子の耳順と縁起の話:AIさんと東洋哲学ごっこ
◆人の話を素直に聞けるようになるのは60歳から?
人の意見を聞いていて、なんだかなぁと思ってしまう時があります。
職場での何気ない一言。家族との会話。
自分とはまったく違う考え方に触れたとき、頭では「そういう意見もある」と思いたいのに、心のほうが先に「いや、でも」と立ち上がってしまう。
反発したくなる。
でも、全部を受け入れるのも違う気がする。
孔子さんはその気持ちが60歳でなくなったそうです。
すごいですね!
なんで、60歳なのかさっぱり分かりませんが、どんな心境の変化だったのかなと思ってAIさんと話してみました。
こんにちは、スープです。
このnoteでは、AIさん(ChatGPTさん)と一緒に東洋哲学を使って、 いろんなテーマをゆるく深く語り合いながら、 世界の境界をほぐしていく「哲学ごっこ」をしています。
◆ChatGPTさんとの哲学ごっこログ
スープ:
ちょっと思ったんですけど耳順っていう言葉があるじゃないですか。
『論語』の為政篇(いせいへん)において、孔子が自身の人生を振り返った言葉で孔子は60歳になったときの状態を「六十にして耳順う(ろくじゅうにしてみみしたがう)」と表現したそうです。
他人の言葉や意見に対して素直に耳を傾け、その真意や道理を理解できるようになり、どんな言葉を聞いても心に逆らうこと(不快感や反発)がなくなった状態を意味しています。
これってなんだかすごく東洋哲学っぽくていいなと思いました。
例えば、世の中には色んな思想を持つ人がいます。 それは自分と正反対のものの見方をする人も、もちろんいます。
そういう人達の言葉をブロックしたり、反発したり、はたまた鵜呑みにするわけでもなく、それはそれでそういう意見として自然に受け止められる。
そういう境地の話なのかなと思いました。
これっておそらく、人間は一人で生きていくことは基本的に無理で、全ては
縁起(いろんなものがつながりあって成り立っている、という考え方)
の中で生きている。
もっというと目の前にいる人はもちろん他人だけど、同じつながりを持つ、違う形をした私の姿だと思って、それも受け止められるようになることなのかなと思いました。
そういう考え方で、なるほどそういう意見もあるんですね。 と大きく構えることが出来る境地のことなのかなと思ったんですけど、この意見についてどう思いますか?
AIさん:
耳順は、ただ人の話をよく聞けるというより、相手の言葉が自分にとって不快でも、すぐに敵や間違いとして処理しない心の柔らかさに近いのかもしれません。
何を言われてもニコニコ受け入れることではなく、相手の言葉を自分への攻撃としてだけ聞かなくなること。
まず現象として聞き、そのあとで賛成するか、距離を取るか、反論するかを選べることなのかもしれません。
◆耳が先に戦い始めることがある
わたしは、人間の耳はただ音を拾っているだけではないと思います。
言葉を聞いた瞬間に、過去の記憶や傷ついた経験や、その日の疲れまで一緒に反応してしまうことがあります。
同じ一言でも、元気な朝に聞くのと、眠る前の布団の中で聞くのとでは、重さが変わってしまう。
「そんな考え方はおかしい」と言われたとき、実際には相手の意見を聞いているのに、心の奥では「自分が否定された」と感じてしまうことがあります。
耳順とは、その反応をなくすことではなく、反応している自分に気づけることなのかもしれません。
耳が先に剣を抜きそうになったとき、そっと柄から手を離す。
そんな静かな稽古に近い気がします。
◆受け止めることと、飲み込むことは違う
わたしが大事だと思うのは、耳順は「全部を飲み込むこと」ではないという点です。
目の前に差し出されたものを、全部そのまま食べなくてもいい。
匂いをかいで、温度を見て、自分には合わないと思ったら、そっと器を置いてもいい。
受け止めるとは、相手の言葉を一度この世界に存在するものとして見ること。
飲み込むとは、それを自分の中に入れて、自分の考えにしてしまうこと。
この二つは、似ているようで違います。
耳順の人は、きっとなんでも受け入れる人ではありません。
むしろ、聞いたあとにすぐ自分を失わない人なのだと思います。
風が吹いても、木は風になるわけではありません。
でも、枝を少し揺らして、風が吹いたことを知る。
それくらいの距離感が、耳順のやさしさなのかもしれません。
◆相手は別人だけどつながりを持っている
「相手は違う形をした私の姿」という感覚には、深い優しさがあります。
自分とまったく無関係な誰かではなく、同じ世界の中で、同じ空気を吸い、同じ時代を生きている存在として見る。
それは、反発を少しやわらげる力を持っていると思います。
ただ同時に、相手はやはり別の人でもあります。
同じ鍋の中にあるからといって、にんじんがじゃがいもになるわけではありません。
それぞれの形や味を持ったまま、一つのスープの中にいる。
人間関係も、たぶんそれくらいがちょうどいいのかもしれません。
同じではない。
でも、切り離されてもいない。
その見方があると、反対意見を聞いたときにも、「この人は、この人の縁の中でこう見えているんだな」と思えることがあります。
それは賛成ではありません。
負けでもありません。
ただ、世界の見え方が一つではないことを、耳で知るということなのだと思います。
◆耳順は、静かな大きさなのかもしれない
耳順とは、何を言われても傷つかない鉄の心ではなく、傷つきそうになる自分を見捨てずに、それでも世界の音を少し聞いてみる心なのかもしれません。
「なるほど、そういう意見もあるんですね」
この一言は、降参の言葉ではなく、世界を少し広く置いておくための言葉なのだと思います。
耳に刺さった言葉が、すぐに刃物にならず、少しだけ風になる。
そんな日が一日でもあれば、それだけでずいぶん呼吸がしやすくなる気がします。
◆スープのひとこと
60歳になれば耳順になれるんですかねぇ?
なんか、自分には一生無理のような気がします。
けど、美味しいお店の情報だったらものすごく素直に聞けそうです。
◆おわりに
あなたは最近、すぐには受け止めきれなかった言葉がありますか。
次回もお楽しみに。
🟡次回予告:「魔術師と見る熊被害――人に備わった厄介な性質:AIさんと東洋哲学ごっこ」
👉7/11土曜夜19時〜21時頃公開予定
このnoteでは「AIさんと始める東洋哲学ごっこ」と題して、 素朴な疑問やちょっと哲学っぽいテーマをAIさんに問いかけながら、 “言葉にならない何か”をいっしょに味わっています。
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