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『甘えたさん』とはなにか

    誰が袖

     普段はそういう素振りをほとんど見せないようにしているけれど、(まあばれてるかもしれんけど)、わたしの心の奥には甘えんぼがいる。いちおう「一人前」の「オトナ」として「独り立ち」している以上、すっくと立っているのがよいのだろうし、頼ってくれる人がいれば助けたりしたいと常々思っているのだけれど、なにかが臨界点に達すると、ふにゃふにゃになってしなだれかかりたいという欲求が出てくるのだ。

     かつて『甘えの構造』という本がベストセラーになったように、日本的なコミュニケーションや自我の形成には「甘え」という概念が重要な役割を果たしているといわれている。親子関係から身内、いわゆる「仲間内」で見られる親密さは、ある種の甘さによって成り立ってきた。

     一方で、「甘やかされて育った」ことは、自立していないという意味で否定的にとらえられるし、「身内に甘い」ことが組織の欠点として指摘され、よりドライでクリーンな関係性が求められることも多い。「~は甘え」というのもよく聞く。社会的な次元においては、甘えが生み出すずぶずぶの関係が、ときに搾取や腐敗の温床になってきたことも確かだろう。

     自立した人格を持ち、ドライな人間関係を通じて健全な「社会人」として生きていく中で、じめじめした、あまあまな部分はどこかへ追いやられていく。ただそれってほんとに「健全」なのだろうか。

     手元にとある本があって、そこでは「甘え」について一章が割かれているのだが、とても面白い。特に関西弁の「甘えた」について解説されている部分をちょっと引用する。 

    「甘えん坊」が、誰かれなしに対する甘えの度合いの高さを主として表現している言葉だとするならば、「甘えた」の方は、甘えの技術と対象選択の巧妙さを持って、その特徴としているといえるかもしれない。「甘えた」の人は、人に甘える術にも長けていると同時に、自分が安心して甘えることのできる人を敏感に選択する感受性を豊かに備えている。-中略- 本当の「甘えた」は、この依存欲求をけっして誰かれなしに表明することがない。彼は、自分とうまの合う相手とうまの合わぬ相手とを敏感にかぎわけて、うまの合う相手に対してだけ、「甘えた」ぶりを発揮する。-中略- 彼はそこで最大限に相手に甘えるけれども、その際に相手をも甘やかし、この相互許容の関係を永続させるために、天才的な能力を発揮する。

    『人と人との間』より

    ほんとぎくっとしますね。(というかこの著者もかなりの「甘えた」だと思う。この部分だけなんか熱量が違う)

    甘えられる側にとって、「甘えた」が可愛く見えるのは、知らず知らずのうちに自分も甘やかしてくれているからかもしれないな。

     「甘えた」な人は、実のところ理想主義的で完璧主義的な側面をもっているらしい。現実をありのままに受け入れられず、常にそのギャップに悩み、その隙間を埋めようとする。これはある意味「理想」に甘えているといえるし、だからこそ向上心や生きるための力がわいてくるともいえる。「甘えた」とは、時に自分にも他人にも厳しい一方で、あまあまな欲望を抱え込んでいる厄介で可愛い(ケースバイケースだけど。。)存在なのだ。

     わたしはあまり「甘え上手」ではないけれど、ときどきはあまあまでずぶずぶでどろどろでねちゃねちゃな欲を解放しながら、日々を頑張って生きていこうと思っている。


    次回「遊びと真面目の間:あるいはシリアスにプレイするということ」伊達にあの世は見てねえぜ!!

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