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短編連作『暮らしたことのない部屋』 ⑩/「みずうみ」

     堂上という人と車で出かけることになった、とリコはメッセージを打った。相手からのレスポンスは期待していない。少しの間スマホを見つめて、左側に何も表示されないところに、どこかの湖に行くんだって、と続きを打つ。リコはそれで気がすんで画面をオフにしてスマホを枕元に置く。部屋の灯りはとうに消していた。すぐに眠気がきた。

     朝になり10時過ぎに堂上からの連絡が入った。約束通り、リコのマンション近くのコンビニに車を停めて、着いたというメッセージを送ってきたようだ。すぐにいきますと書き込んで、リコはバッグを抱えて部屋を出る。
     コンビニの駐車場にはアースカラーの車が一台停まっていて、運転席には誰もいなかった。リコがコンビニに入っていくと、ドリンクが並んだ冷蔵庫の前に堂上が立っていた。リコはバッグを軽く彼の尻に当てて「お待たせ」と言った。堂上と話すときは敬語と常体が混ざる。それが自然で、リコはどちらかに寄せようとは思っていなかった。

     堂上の車に乗るのは今日が初めてだった。車内は清潔で匂いもない。走り出すと膝元のスピーカーから音楽がかかった。「これ、誰?」とリコが尋ねると、堂上は「さあ、知らない」という。プレイリストを適当に選んで流しているだけらしかった。

     リコが住んでいる町は小さくて、車はあっという間に市街地を出て大型店が建ち並ぶ国道を走る。この手のチェーン店がこぞって進出してきたのはだいぶ前のことで、高校生のころはよく利用していた。今ではその半分くらいが撤退してしまい、入口がどこかから拾ってきたような板で塞がれていた。
     二人にとっては見慣れた荒廃であって、心が引きずられることはない。天気がよく、ハンドルを握る手を見るだけで堂上の上機嫌が伝わってきた。国道の遥か先に二千メートル越えの山並みが見える。その麓のどこかにこれから向かう湖があるはずだった。

     堂上は職場の二歳上の同僚で、席も離れていて男女ということもあり、先週のあの日まで一緒に食事に行くようなことすらなかった。
     雨の木曜日のことで、ひとりで昼食に出て、足を踏み入れたことのない店に気まぐれで入ってみたら、そこに堂上がいた。小さな店の昼時で席はほぼ埋まっていて、入口近くの二人掛けの席からリコを見つけた堂上は向かいを指さして「座る?」というふうに顔を傾けた。リコは迷うことなく席に着き、堂上に礼を言った。

     彼も店に入ったばかりのようで、店員に同時に注文し、世間話をしながら料理が来るのを待った。堂上は思っていた以上にリラックスして話せる相手で、食事中気まずくなる瞬間は一度もなかった。
     小さいころに親に連れられて行った湖の思い出を話し出したのはランチの皿が下げられコーヒーを飲んでいたころで、リコはこんな話題にまで至ったこの場を面白く感じた。うろ覚えだった湖の名前を出すと、堂上が「そこ、たぶん来週の週末に行こうと思っている場所だ」と言う。

     リコの両親はどちらも車の免許を持っていなかったので、湖には電車とバスを乗り継いで出かけた。東京からなので、片道三時間はゆうにかかった。
     湖畔の賑やかな辺りから少し離れたところに小さなホテルが建っていてそこに泊まり、湖ではボートを漕いで遊んだ。

     リコの両親は晩婚と言えば晩婚で、一人娘が生まれたときはどちらも三十代半ばだった。リコが物心ついたころには四十を越えていたのだが、二人とも十代が聴くような音楽が好きで、よくライブに出かけていた。リコが幼いころはどちらかが家に残ったが、小学校の高学年にもなると娘を置いて二人揃って出かけるようになった。
     仲間外れにされたわけではなく、リコは何度も誘われては断っていたのだった。親とそういう華やかな場所に行くのがどうしても嫌だった子供時代を、今となっては愛しく思う。家族で静かな湖に出かけるのなら、いつでも大歓迎だった。

    「たぶん来週の週末に行こうと思っている場所だ」という堂上に、リコが「へえ、いいな」と返すと、特に身構えることなく「一緒に行く?」と尋ねられた。その場では「いや、さすがに行きませんよ」と答えたのだが、午後の仕事をしているうちに後悔の念が生まれてくる。
     終業後、堂上にもう一度誘われたときには「行きます」と即答していた。堂上が、車なんだけど大丈夫かと遠慮がちに念を押してきたので、全然大丈夫ですと笑う。

     二人きりの車の中で黙り込んでしまっても、堂上とは気まずくならないだろうなというリコの想像は当たっていた。
     土曜日の昼前の国道は交通量がそれほど多くなく、車はすいすいと進んでいく。山並みが少しずつ大きくなってきて、フロントガラスの先の青が濃くなった空には雲ひとつなかった。
     音楽は軽快でリコが気持ちよくペットボトルのお茶を飲んでいると、「これから行く湖さ、高校時代の先輩が沈んでいったところなんだよね」と堂上がいきなり重たいことを言う。

    「私たちは先輩の供養に行くってこと?」と尋ねると、「まさか」と堂上は笑った。
    「もう十年も前のことだよ」

     ではなぜ、今その話をするのか。リコが尋ねると堂上はふと思いだしただけだと言う。
    「キタミさんには死んだ先輩はいないの?」
    「いないなあ」とリコは記憶をたどってみた。「私が知る限りでは、だけど」

     歳が近い誰かが死んだという話はリコは未だ聞いたことがなかった。先輩も同い年も後輩もみんな二十代だ。きっとどこかで健勝でいて、些末なことに思い悩むことはあっても死を選びたくなるほど追いつめられてはいないと信じたい。

    「俺の先輩も、自殺したってわけじゃないんだけどね」と堂上は言った。「でも、本当はどうだったのか。全部、誰かから聞いた話だからなあ」
    「堂上さんは生まれてからずっとここなの?」とリコは尋ねる。どのくらいの数の知り合いが、この人にはいるのだろうか。
    「うん。オレは大学に行ってないから、地元から出たことが本当に一度もないんだよね」

     リコ自身はどうして東京からここに移り住んできたのか。もちろん理由があったのだが、それを堂上に話すつもりはなかった。
     会話が途切れ、リコは東京に住んでいた大学卒業までの自分を思い出してみる。そのころの姿は簡単に甦ってきたが、なんとなく違和感があった。別々の場所を一枚にした二重写しの写真を見ているような気がした。

     山頂付近に雪が残る山々を背景にして、湖は青々と広がっていた。
     天気のいい週末なので、湖畔にはかなりの人出があった。観光客相手の店が軒を連ねて賑わい、車を停めて大勢の人に混じって湖畔の道を歩いていく。少ししてリコがかつて両親と泊まった小さなホテルが見えてきた。記憶していたほど賑わう場所から離れてはいなかった。

    「子どものころ両親と来たとき、ここに泊まったんですよ」
     もう二十年近く前のことだが、建物はほぼ当時のままのように思えた。屋根の色や傾斜の角度、二階の出窓やテラスに並べられた木製のテーブルと椅子、赤と白のツートーンの日よけが頭のどこかに残っていた。そこそこ有名な老舗ホテルだよねと堂上が言う。映画やドラマのロケに何度も使われているらしい。

    ホテルの向かいには観光協会が営む貸しボートの乗り場があった。
    「とりあえずボートに乗っていいかな?」
     堂上に遠慮がちに尋ねられて、リコはうなずく。ボートに乗って何をしたいのかは知らないが、堂上がこの湖に来た一番の理由は、湖上に出ることみたいだった。
     二人はボート乗り場に隣接した店で飲み物とサンドイッチを買って、ペダルで漕ぐタイプのボートを借りる。よくあるスワンではなく、舳先に丸い角を二本生やした不思議な生き物の頭が付いていた。

     堂上がハンドルを握り、湖に漕ぎ出す。風はなくボートは安定していて、二人は湖の中心を目指して足を動かした。

    「やっぱり先輩のことを考えているんでしょ?」とリコは堂上をからかってみる。今までの彼の話しぶりから先輩が女性であることは分かっていた。
    「違うよ」と堂上は真顔で答える。「別に導かれたというわけじゃない」
     堂上はいつの間にかリコをはぐらかす余裕も失っていて、彼のやりたいことに黙って付き合おうとリコは思う。ここまではっきりと目的のある小旅行に、自分はなぜ付き添いとして選ばれたのか。それもたった一度、ランチを共にしただけで。
     そんな疑問が湧いてきたが深追いしようとはしない。二重写しの記憶についてもそうだ。東京での私とこの町の私はやっぱり一枚の写真の中にいる。
    「十年か……」と堂上が呟いた。

     ボートは円形に近い湖の、ほぼ中心にたどり着いた。
     リコはぐるりと囲む遠くの岸をぼんやりと眺めた。おもちゃのような大きさの車が何台も走り、それよりもさらに小さい、湖畔を散策する人々の針のような姿が揺れていた。向こうはきっと賑やかなのだろうが、その音はここまでは届いてこない。ただ動きを止めることなく時間が確実に流れていることだけが分かった。太陽は真上にあり、降りそそぐ光はボートの屋根で遮られている。
     ふと目の前にある光景とは違うものが見えてきて、リコはいったい誰の視線とリンクしたのだろうと思う。きっと今より遥か前から気持ちを通じ合わせてきた誰かだ。

     まるで自分が影のようなものになって時間を越え、その人と話しその人と手をつないでいるようだとリコは思った。堂上はどうなんだろう?

     魚が跳ねたような水音がして顔を上げる。誰も握っていないハンドルが隣の席で揺れていた。
     リコは一度目を閉じて、再び開く。
     
     それから席を移ってハンドルを握り、岸に向けてボートを漕いでいく。

    #創作大賞2026 #ファンタジー小説部門

     
     
    2025年6月から note を始めました。 東京住みの一般人です。 部屋に積んだまま未読の本を少しでもなくすために、 小説の感想を中心に書いていきます。 スナップ写真の記事も始めました。

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