
小説と音楽を融合させてみましたPart2
泥にまみれた聖者
夜明け前、世界がまだ深い瑠璃色に沈んでいる頃、トマは目を覚ます。
フランス、フォーレノア。黒い森の端にひっそりと身を寄せたこの村は、常に湿った霧に抱かれていた。窓を開ければ、冷ややかな空気が肺の奥まで入り込み、意識を鮮明に覚醒させる。
トマの朝は、誰に命じられたわけでもない「祈り」から始まる。
それは、村の外縁を流れる水路の掃除だった。
腰まで浸かった水は、骨まで凍りつかせるほどに冷たい。しかし、トマはその冷たさを心地よく感じていた。指先が感覚を失うまで泥を掻き出し、詰まった落ち葉や石を取り除く。じゅるり、と泥が音を立てて流れるたび、水路は本来の呼吸を取り戻していく。
土の匂いが鼻をくすぐる。それは単なる泥の臭いではなく、腐植土の深い芳香と、目覚めを待つ生命が凝縮された、濃密で甘い、大地の吐息だった。
「……よし」
小さく呟き、彼は崩れかかっていた石垣に手をかける。指先の爪の間に黒い土が入り込み、皮膚はひび割れていたが、トマはそれを厭わなかった。石と石の隙間に丁寧に土を詰め、バランスを整える。
誰が見ているわけでもない。明日になればまた泥が積もり、いつかは崩れるかもしれない。それでも、ここを直しておかなければ、大雨が降ったときに下流の小さな畑が浸水してしまう。
その「誰かが困る」という想像こそが、トマを突き動かす唯一の灯火だった。
しかし、日の出と共に村に人が現れ始めると、その静謐な時間は無情にも切り裂かれる。
「おい、トマ! またそんな効率の悪いことをしているのか」
鋭い声が飛んできた。ムッシュ・モレルだ。仕立ての良い上着を纏い、靴に一滴の泥さえ付けることを嫌う彼は、村の近代化を推し進める旗振り役だった。
モレルは、トマが丁寧に直した石垣を冷ややかな目で見下ろした。
「そんな古臭いやり方で何になる。最新の排水設備を導入すれば、お前が数日かけてやる仕事は数分で終わる。時間を金に変えられない人間は、ただの欠陥品だ。お前は本当に、救いようのない『愚か者』だな」
トマは何も言い返さず、ただ小さく会釈をした。モレルの言葉は鋭い針のように突き刺さるが、それ以上に、彼が土を「管理し、支配すべき対象」としてしか見ていないことが、トマにはひどく悲しく感じられた。