
『ふぅ〜解放〜』と言った人のこと。
先日電車に乗っていたとき、スーツを着た三十代くらいの男性が、パソコンを開いて一生懸命何かを打ち込んでいる姿がふと目に入った。急ぎの仕事なのか、ものすごい集中で高速にキーを叩いている。その姿をぼーっと眺めているうちに、私はなぜか兄の面影を重ねていた。
こういうふとしたときに、兄のことを思い出す。
一緒に観ていた昔のアニメの再放送が、テレビで流れてきたとき。
今日のように、兄と同じくらいの歳の男性が、目の前を横切ったとき。
特別な理由はなくても、兄はひょっこりと記憶の中から顔を出す。
生きていたら、今はどんな職業についていただろうか。もう良い年だから、結婚して、もしかしたら子どももいたりしたのだろうか。
あちらでは、今どんなふうに過ごしているのか。意外と、忙しなく暮らしていたりしてるのかな。
兄が亡くなって、もう15年以上が経つ。
今でこそ、こんなふうに兄を想えるようになったけれど、亡くなって最初の数年はなかなか思い出すことができずにいた。
もう十二分に生き切った姿を見たあとだったから、「もう苦しくないだろうな」という安心感もどこかにあったからというのもあるが、本音をいってしまうと、ただ思い出すと寂しくて、涙がこぼれそうになったから思い出したくなかったのだ。
だから、あえて考えないようにしていた。
今思えば周りのことなど気にする必要はなく、泣きたいなら思うままに泣けばよかった。寂しいときは全力で寂しいと表現すればよかった。
だが、私にはできなかった。
兄がいた頃の生活にはそんな余裕はまるでなかったから。
兄も、両親も、私も。それぞれの環境で、それぞれの立場で、一日一日を必死にもがいていたと思う。
先の見えない真っ暗なトンネルの中を、みんなで手を取り合ってどうにかこうにか進んでいた日々だった。いつになったらこの暗いトンネルから抜け出せるのだろう、いつまで続くのだろう。
ずっとそう思いながら必死に生きてきた。
本当は泣きたかったし、文句も言いたかった。でもどんなに嘆いても、泣いて喚いても、兄の状況が変わることはない。
それがわかっていたらから、そして、一度涙がこぼれると絶対に止まらなくなるのがわかっていたから、いつからか「泣くな」「怒るな」「今できることだけを考えろ」が身についていた。
そうなると気づけば、私は何が好きで何が嫌いで、どんなことに嬉しい楽しいと感じるのか。自分のことがまるでわからなくなっていた。
ただでさえ頑張るエネルギーはもう残っていなかったから、そういう一つ一つの感情の起伏を感じると私のHPは完全にゼロになってしまう。
そのことがわかっていたので、全部を蓋をしてきた。目の前のことと今の自分を守ることに必死すぎて、でもそこまで考える余裕もなくて。
だから全部見ないようにすれば良い、と本能的に蓋をしたのだと思う。
ただただ「いつかは必ず状況は変わる。だから今は歯を食いしばれ。」と、自分に言い聞かせてきて励まし続けるしかなかった。
その「いつ」が明日なのか、10年後なのか、はたまた50年後なのかわからないが、とにかくそういって聞かせないとやっていられなかったのだ。
でも、終わりは突然やってきた。
それがまさか「兄がいなくなる」という結末になるとは露にも思わず。
あっという間すぎて、こういう終わり方だったのか、と呆然としたのを覚えている。
世の中はそう都合よく自分の思い描くハッピーエンドにはならないものらしい。
あんなに必死になって「もう無理かもしれない」と諦めそうになりながらも、小さな希望を持ってここまでやってきた。
それでもその願いは届くことはなかった。
どんなに努力をしても、ダメなことはある。
努力すれば夢は叶うなんて、そんな都合の良い話はない。それをまざまざと思い知ったのだった。
そして、兄が亡くなってときに気がかりだったことが一つだけがあった。
それが両親のことだ。
自分の子どもが病気になり、どんどん悪くなっていく現実。長い間病気と闘う兄をそばで支えつづけた日々。自分より先に逝ってしまう辛さと寂しさ。
私の知らないところで、二人はどれほどのものを背負ってきたのだろう。それを思うと、これから両親は大丈夫だろうか。そのことばかりが頭を占めていた。
けれど、時間が過ぎるというのは本当に有難いもので、亡くなって五年ほど経つ頃には生活はすっかり変わり、兄のいない暮らしにいつの間にか慣れていた。
そして、今まで兄を思い出すたびに涙しか出てこなかったのが、いつからか、兄を思い出すたびにそれを力に変えて前を向いている自分がいた。あれほど悩み苦しんだ日々を送っても、また別の悩みはやってくるもので、その頃にもそれなりの悩みや辛さがあったけれど、そのたびに兄の姿を思い出しては「あの時に比べたらまだいける。大丈夫。もう少し頑張ってみよう。」と折れかけた心を立て直すことができた。
兄は私にとって、いつの間にか人生の師のような存在になっていたのだ。
どうにもならなくて、何もかもから逃げ出したくなる時は、今でも兄を思い出す。
最期まで必死に生きていた姿を思い出すだけで、「あともうちょっとだけ頑張ろうか。」と少しだけ背筋が伸びるのだ。
今回はそんな兄の話をしようと思う。
どこにでもいそうで、いなさそうな人
兄は口数の多い人ではなかった。
それに頑固だし、どこか古風な一面もあった。どれくらい古風かというと「明治時代にいそうな男」と言えば想像がつくだろうか。
誰かとベタベタと馴れ合うのも嫌いだし、恋愛とかそういったことも無縁な感じだ。
見た目も全体的に濃ゆい顔をしていたので、袴でも着れば明治時代にタイムスリップしても違和感ないくらい馴染めそうな、そんな人。
見た目や中身はそんな感じでも、好きなものは現代の子どもと変わらない。
サッカー、ゲーム、週刊少年ジャンプ、アニメ、囲碁。そして小説のシャーロック・ホームズシリーズ。
どこにでもいる普通の…いや、最後は少し変わっているかもしれないが、まあごく普通の少年だった。
何より一番印象的だったのは、なんと表現したらいいか適切な言葉が見つからないくらいのユニークな空気をまとっていたこと。
うまく言えないのだが、誰とも被ることない独自の視点を持つ、変わった人だった。
思わず「あ、そう捉えちゃうんだ?」と言いたくなるほど、不思議な感性を持ち合わせた、ユニークな性格の持ち主だった。
ただ、一つ。
兄には、幼い頃から神経の病気があった。
発症して何年かは薬を服用さえすれば普通の生活ができていた。
症状も抑えられていたから、みんなと同じように学校に通えていたし、友だちとも普通に遊べた。サッカーチームにも所属できて、好きなことはそれなりに楽しめていたと思う。
それでも全てが同年代の子と同じように生活できていたかという、そんなことはなかった。
神経の病気ということもあり、目が見えにくく手も細かく震えるといった症状は常にあり、身体を器用に動かすのも難しい。
だから、読み書きをするにしても何かを新しく習得するにしても、いつも相当な時間と労力がかかっていた。
目や身体の負担が発作の原因にもなるから、花火や映画などの光の多い場所や長時間のテレビは特に気をつけなければいけなかったので、制限はそれなりにはあったと思う。
それでも、できないことはとことん練習する。何においても努力をすることは人一倍長けていたことで、なんとかカバーされて日常生活を送れていた。
しかし小学校高学年になったころ、病気の段階がさらに進んだことにより、学校に通うことはおろか、日常生活を送るのに母の助けを借りないと生活が難しくなった。
歩いたり、食べたり、本を読んだりはできる。でも、長時間何かを読んだり勉強することができない。ちょっとしたことで負担がかかり、発作が頻繁に起こるようになった。
発作が起こるたびにみるみる身体は痩せて状態は悪くなったし、せっかく覚えたこともほとんど忘れていってしまった。もちろんサッカーなんてできやしない。
兄がどんなふうに見えていたのかは私にはわからないが、視界が狭くて物が見えづらい状態になっているせいもあってか、学校に通うのも母の付き添いがなければ通えなくなった。
もちろんみんなと同じように、6時間ぶっ通しで授業を受けられるはずもないので、高校からは養護学校へ通うことに。
全ての動作がゆっくりになったから一つ一つに時間もかかる。加えて、母の手を借りないと日常生活を送ることが難しい。そんな状態に悪化していったのだ。
普通こんな状況になれば、人はどこかで「なんで自分だけが…。」と一度は口に出したくなると思う。兄もきっと心の中では思っていたかもしれない。
でも、彼が泣き言を言ったり文句を言っている姿を、私は一度も見たことがない。
苦しいときも悔しいときも辛いときも、顔にも口にも出さなかった。ただただ淡々と毎日を送っている姿をみると、絶対辛いはずなのに顔にも出さないなんて心から尊敬した。
メンタルが強かったのかなとも思ったりしたが、きっとそれだけではなかったと思う。
元々我慢強い性格ではあったし、元気だった頃からもできないことがあっても淡々と努力してきた人だったから、元来の性格もあったのだろうが、「メンタルが強い」という言葉では片付けられないほどの何かが、兄にはあったのだ。
その「何か」の一つに、兄のお茶目な一面があったことが私は関係していると思っている。
いや、お茶目というか、どちらかというと「ひょうきん」の方が合ってるかもしれない。
小さい頃から少しいたずらっ子な面があって、人をよく笑わせていた。
よく祖父がいつも被っていた帽子を勝手に拝借しては、しれっと被って祖父をおちょくっていたし、そういう兄の一挙一動が周りを笑顔にしていた。
何か小さな悪戯をするたびに、相手の表情を見てはニヤッとする表情がなんともいたずらっぽくて、みんなついつい笑ってしまう。
特別面白いことを言っているわけでもないのだが、兄がやるからクスッと笑ってしまう。
元気な頃からそういう人だった。
それが病気という苦しい場面の中でも、発揮されていたと思う。
自分がしんどくても、楽しむことを忘れない人だった。
それに、賢い人でもあった。
いつだったか、私と兄で英単語の暗記を競争したことがある。「10分でどれだけ英単語覚えられるか」という、ただの兄弟対決なのだが、結果は兄が一章分をほぼ全部覚えたのに対して、私はその半分がやっと。
元気だった頃は数学も得意だったし、暗記も得意だった記憶がある。
病気でなかったら、この人は相当賢かったのではないかと思う。発作のたびに、覚えたことがどんどん薄れてしまうし、勉強できる時間も量も限られていたが、それでもやったことは確実に物にする人だった。少しずつ、でも着実に。
その姿を見ると、なぜこんな人が病気になってしまったのだろうか、と悔しさが込み上げた。
発作が起こるたびに、一生懸命ご飯を食べる姿を見るたびに、なぜ兄なのだろうとずっと思っていた。神様は意地悪だなぁ、と恨んだ時期もあった。
なぜ兄だったのか、その答えは今もわからない。でもきっとそれが兄の人生で乗り越えるべき試練だったのだと思う。
その試練をしっかり乗り越えて、やるべきことを終えたから、次の旅にでかけたのかな。今ではそう思っている。
どんなときも明るさを忘れるな
さらに時が経つと、症状がさらに進んだ。
できないことがますます増え、時折薬をうまく飲み込めなくなったこともあった。
そういう時は病院で鼻にカニューレという管を入れて、母が薬を溶かし、シリンジで薬剤を注入する方法を取るわけなのだが、その管は定期的に交換しなければならない。そういう生活をある時期にしていた記憶がある。
ある時、とうとうその管を外すことになった。
状態が安定したことで医師からもう管を外していいという判断が下ったので抜くことになったのだ。
ここで普通なら「やっと抜ける!」「わーい!」くらいに思うだけだろう。多分私だったらそう言うと思う。
だが、そのとき兄が違った。
管が抜けた瞬間、兄はこう言った。
「ふぅ〜解放〜♪」
私はその場面を直接見ていたわけではないので、あくまで母から聞いた話ではあるのだが、私はこの一言が今でも忘れられない。
兄のことなので、別に何かを考えて発した言葉ではないだろう。純粋に思ったことをそのまま口に出しただけだと思う。
だが、その場にいた医師や看護師さんは皆、大笑いしたという。そりゃ笑うだろう。管が抜けたとき、普通なら「やっと抜けた」とか、あるいは何も言わないものだ。
でも兄は「ふぅ〜解放〜♪」といった。
あの状況で、その言葉のチョイスをする人はなかなかいないだろう。
確実にしんどかったはずなのに、それでもいつも明るさを忘れない兄に、私たち家族はいつも救われていた。
ひょうきんで、素直で、どこか人とは違うものの見方をする。あれほど苦しい状況にいながらも全てを深刻に捉えず、小さな喜びや嬉しさを見つけて表現する。
ほんの少しでもいいから、どんなときもユーモアを忘れるな。
それをいつも教えてくれていた気がする。
最後の季節
そんな兄は、私が高校二年生になった春、今までにないほどの大発作を起こした。
忘れもしない、4月22日のこと。
なんとなく嫌な予感がしたのを覚えている。
今までの発作とは何かが違う。
何かが変わってしまう気がする。
その予感は絶対当たってほしくなかった。
それでも残念なことに、その願いは届かなかった。
いつもなら長くても1、2週間の入院で帰ってこられたところが、この時退院できたのは8月21日。
家に帰るまで、実に4ヶ月かかった。
その入院中、兄の状況は一変。
まず、気管切開をしたので今までのように話すことができなくなった。起き上がることもできなくなったので、食事もトイレもお風呂も全部ベッド上。自分ではできなくなったし、文字通り寝たきりの生活になってしまったのだ。
どんなにゆっくりでも、それまでは何とか自分でできていたのに、それが一気にできなくなり、とうとう家族総出の力を借りないと生きていけなくなってしまったのだ。
それまでどんなに辛いことがあっても涙も流ささないどころか、辛い表情すらも見せなかった兄だったが、気づけばツーッと涙を流すようになった。
怒るときは、言葉の代わりに拳をぎゅっと握って「ふん」と鼻を鳴らして、「やめろ」と言わんばかりの表情をしていた。
声がでなくても、気持ちは痛いほど伝わってきた。今まで本当によく頑張ってきたなという気持ちと同時に、いつか奇跡が起きて病気が良くならないだろうかという希望とは裏腹に、どんどん悪くなっていって悔しさと悲しさが込み上げた。
だからその姿を見ていると余計に苦しかった。
でも、まだ当時高校生の私にできることはそんなに多くはない。日中は学校にいって勉強しなければいけないので、一緒にいられる時間というのはせいぜい家に帰ってから寝るまでの時間くらいだ。
正直学校に行ってる暇があるなら少しでも家族の役に立ちたかったが、まだ未成年の私には父のようにお金を稼ぐことも、母の代わりに看病をすることもできない。兄の辛さを肩代わりすることもできない。
両親自身もできるだけ私に負担をかけまいという気持ちでいたので、そこまで手を出させてもらえなかったのもあるが、本当に何もできなかった。
それでも私に何かできることはないか考えて出た唯一の結論が、これまで以上に兄の、そして両親の気持ちをとにかく明るくして、精神的に安心できる空気を作ること。
だから努めて明るく振る舞った。
そうすれば涙を流していた兄も、私が何かをすればニコッと笑ってくれたし、両親もその姿を見て少しはホッとするかなと思ったから。何よりもその笑顔が見たかったから、全力でいろいろやった。
嫌がったかもしれないが、あえてベッタリとくっついてみたり、兄の頭上からじーっと顔を覗き込んでみたり、大好きだった漫画を一緒に読んでみせたり。母が買い物に出かけたいといえば、兄との留守番も進んで引き受けた。
それが自分の役目だと思った。
というよりそれが役目だと思い込んでないと、自分はただそこにいるだけの役立たずな人間だと自覚することになり辛かったから。そう思わないと、うまく立っていられなかったのだと思う。
それに一切口には出さなかったが、「今日こうしてくっついられるのも最後かも」と思いながら接していた。不謹慎だし絶対そんなことあってはならないが、どこかで覚悟を決めてないと自分の心が保たなかったし、悔いが残りそうだったから。
毎日寝る前には、「今日お別れしても大丈夫なくらいやり切ったか?」といつも自分に問いながら生きていた。
よく親は「子が苦しんでいるなら、代わってあげたい」と言う。
私は親になったことがないから、その気持ちを理解することはできない。
でも、妹の私ですら兄と代わってあげたいと思っていた。
学校も人間関係もうまく行っていなかった行き場のない気持ちからの、逃げのような思いもあったかもしれない。
それでも兄を目の前にすると、いつも心からそう思っていた。
だがその年の冬、兄は亡くなった。
いつか特効薬ができて病気が良くなった、という奇跡が起きたらいいのにという願いも虚しく逝ってしまった。
本当に、あっという間だった。
よく「未来が見えていたらいいのに」とか「先が見えてたらこんな選択しなかったのに」と言う人がいる。
でも私は未来なんて見えなくてよかったと思っている。今でこそもう苦しまずに済むからこの終わり方でよかったとすんなりと受け入れられているものの、当時はやっぱり辛かったしもう少し一緒にいたかったから、すぐには受け入れられなかった。
だからもしこの未来を知っていたら、耐えられなかったと思う。
いつもギリギリの、明日どうなるかわからない毎日を送っていたから、「この先何があっても悔いのないように」という生き方ができたのも、明日がわからなかったからこそだと思う。
先を知っていたら、あんなにも必死になれなかったと思うし、あの時の同じくらい私は頑張れなかったと思う。踏ん張ることもできなかった。それだけは断言できる。
先が見えないということ、未来が見えないということは、今を精一杯頑張ることに繋がり、結果私にとっては救いになっていたのだ。
生きるとは
兄からは「生きる」とはどういうことなのか、本当にたくさんのことを教えてもらった。
教わったというより、生き様を見せてもらったという方が近いだろうが。
・どんな苦しい状況でも、心に明るさと笑顔を忘れないこと。
・できない理由を並べる前に、まずはできるように努力をすること。
・どんな結果になってもいいので、最後まで力を尽くすこと。
・できれば好きなこと、楽しいと思えることを持つこと。
・できることはできるうちに、伝えられることは今のうちに伝えておくこと。
・感謝を忘れないこと。
挙げようとすると、キリがない。
人生はいつどうなるかわからない。
長いように見えるけど、実はとっても短いと思う。しかも思うようにいかないことばかりだから、しんどいことの方が多い。
うまくいかないことだらけで、私は何のために生きているのか、道に迷いわからなくなることもあるだろう。
でもそれを味わい切ること、そしてその中でも今あるものに感謝を忘れないことが『生きる』ことなのだと思う。
今でも、しんどいことがあると兄の顔を思い浮かべる。そうすると「いやいや、あのときの方がずっと大変だったでしょ。今はまだ逃げられるし、大丈夫」と自然と思える。
大失敗をして大恥を晒しても、生きていればなんとかなる。私のちっぽけなプライドなんぞどうだっていい。状況も環境もいつかは必ず変わっていくから、今この瞬間をがめつく生きてやろう。
そう強く思えるのは、兄がその背中で見せてくれたからだ。
自分なんて頑張っていない、価値がない。
そう感じている人は、きっとたくさんいると思う。兄自身も、もしかしたら自分の毎日を、ただ苦しいだけの、何の価値もないものだと思っていたかもしれない。
でも、隣で見ていた私には決してそんなふうには見えなかった。
あの生き様をこの目に焼き付けさせてもらったから、今の私は何があっても最期まで頑張ろうと思えるのだ。
兄の生き方は私の生きる指針になっているし、そういう生き方を今度は私自身が見せることで、誰かの生きる活力になってくれたら、こんなに幸せなことはないだろう。
要は、自分にとって無価値に見えるものでも誰かにとっては価値のあるものにしか見えない、ということがあるのだ。
自分の何気ない言葉や振る舞いが、どこかの誰かをそっと支えていることがあるのだ。
時には自分に厳しくすることも大切。
でも、厳しすぎて自分の首を絞めすぎていないだろうか。もう少しだけ自分に優しくしても良いのではないか。一日の終わりに、今日の自分をちょっと褒めてあげてもいいのではないか。今日は何にもできていなかったと思っても、よーく探してみたら実はちゃんとあるはずだ。
うまくいかなくたって、それの何がダメなのだろう。社会は結果を求めるけれど、人生は、結果よりも過程のほうがよっぽど大事だと思う。思いどおりの結果にならなくても、全力で立ち向かったことそのものに意味があるのだ。結局あとになって思い出すのは、結果よりも過程のほうだから。
兄は、思いどおりにいかないことばかりの人生だった。できるはずのことが、病気のせいでどんどんできなくなっていく。同世代の友達が普通にできることができなくなった。それでも最期まで全力で立ち向かっていった。
だから私は、兄の人生を何ひとつ無駄だったなんて思わないし、もちろん私の人生も皆さん一人ひとりの人生も無駄なことは一つもないと思っている。
きっとこれからも様々な試練が待ち受けているだろう。
そんな時は「よーし、きたきた〜!」と思って、苦しさだけに飲まれず、なるべく視野を広げて、全力で立ち向かっていきたい。
そして自分を磨いていき、最後は自分で「よく頑張ったね!」と自分を褒めてあげられるような、そんな人生にできたらなと思う。
それが私にできる兄への恩返しだと思うから。
《最後に》
兄へ。
一緒に過ごした日々は今でも私の宝です。どこまでも泣き虫でよわっちい私だけど、あなたに恥じない生き方をこれからもしていくつもりなので、しっかりみててね!またどこかで会える日を楽しみにしています。
妹より。