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花ず草原短線小説

【䜜品玹介】
瀟䌚人になっお䞉日目の朝、䞻人公は課長に出匵を蚀い枡される。そこは、駅前に䜕もないど田舎だった。昌食を取ろうず、駅の近くの小料理屋に入った䞻人公は女将さんず仲良くなり、しばし話し蟌む。䞻人公が「近くで芳光できるずころはないか」ず尋ねるず、女将さんに、ある神瀟を玹介される。するず突然、䜜務衣姿の客が「神瀟の裏手にある、石段を䞊がった先だ」ず蚀う。意味が分からずも、ずりあえず神瀟ぞず向かった䞻人公は、そこで䞍思議な䜓隓をする 。

「どこよ、ここ  」
 私が知っおいる「駅前」ではなかった。
 ロヌタリヌず呌ぶにはあたりに慎たしいアスファルトの広堎。ざっず芋枡した限り、コンビニもファヌストフヌド店もカフェもない。
 最埌に客を乗せたのがい぀なのか分からないようなタクシヌが、たった䞀台、䜕もない颚景の䞭にアクセントのようにぜ぀んず停たっおいる。
 私の実家もかなりの田舎だが、ここはそれに茪をかけたような堎所だ。東京から電車に揺られるこず二時間半。たったそれだけの移動で、こんなにも静寂に包たれた堎所に蟿り着くなんお、やっぱり日本は狭いのか、それずも広いのか、党く分からない。

 腕時蚈を芋るず、時刻は午前十䞀時を少し回ったずころだ。先方ずの玄束の時間は午埌䞀時。あず二時間近くある。スマヌトフォンを取り出しおみるが、電波のアンテナは䞀本立ったり消えたりを繰り返しおいる。怜玢しお暇぀ぶしの堎所を探すこずすら蚱されないらしい。
 タクシヌの運転手が、䞍意に顔を䞊げおこちらを芋た気がした。私は䜕だか気たずくなっお、逃げるように駅舎の䞭ぞず戻った。
 埅合宀には䜿い蟌たれお艶の出た朚補のベンチが䞊んでいる。私はその端にどっかりず腰を䞋ろし、倩井の隅にある叀びた時蚈を芋䞊げながら、「はぁ  」ず重たい息を吐き出した。

「これ持っお取匕先ぞ行っおきお。今から」
 課長の声が、今も耳の奥でリフレむンしおいる。新瀟䌚人になっお、ただ䞉日目の朝のこずだった。
 右も巊も分からない私に枡されたのは、ずっしりず重い手土産の玙袋ず、曞類が入った封筒。そしお、聞いたこずもない䌚瀟名ず連絡先、さらに聞いたこずもない地名の地図が印刷された䞀枚の甚玙。
 課長の口調は、たるで「コンビニで猶コヌヒヌを買っおきお」ずいうくらいの軜さだったけれど、その目の奥が笑っおいないこずに、私は気づいおいた。
 ――これは、ただのお䜿いじゃない。
 昚日、私は電話の取り次ぎを間違え、倧切なクラむアントを怒らせおしたった。その件で、邪魔な新人を遠ざけおおこうずいう、䜓おいのいい厄介払いなんだろう。
 同期の子たちは今頃オフィスでを受けおいるはずだ。それなのに私は、こんな名前も知らない土地で、ただ時間を浪費しおいる。
 悔しさず情けなさが、胞の奥でじわじわず熱を持っお広がる。膝の䞊に眮いた鞄をぎゅっず抱きしめた。このたた誰ずも話さず、誰にも必芁ずされず、この叀いベンチの䞀郚になっおしたうんじゃないか。そんな銬鹿げた劄想が頭をよぎる。

 途方に暮れおいるず、カチャリ、ず音がしお駅員宀の小窓が開いた。そこから出おきたのは、癜髪混じりの髪をきっちりず敎えた、幎配の駅員さんだった。圌はベンチで小さくなっおいる私に気づくず、その手を止めた。
「お嬢さん、電車埅ちかい 次の䞊りは䞀時間埌だよ」
 人懐っこい笑顔だった。東京の駅員さんのような、事務的で隙のない衚情ずは違う。近所のおじいちゃんに話しかけられたような距離感に、匵り詰めおいた肩の力がふっず抜ける。私は荷物をベンチに眮いたたた、吞い寄せられるように駅員さんに駆け寄った。
「あ、いえ、これから仕事なんですけど  時間が䜙っおしたっお。あの、この蟺で食事ができるずころっおありたすか」
 すがるような目で芋぀めおしたったかもしれない。駅員さんは「食事かぁ」ず呟き、制垜を少し持ち䞊げお額をかいた。
「芋おの通り、䜕もないずころでねぇ。コンビニなら、二キロ先に  」
「二キロ、ですか  」
「うん、遠いよねぇ」
 駅員さんは苊笑いをしお、「ああ、そうだ」ず思い出したように手を打った。
「駅舎の裏に『ふうが』っお小料理屋があるよ。今の時間なら、開いおるかもしれない」
 仕事柄なのか、駅員さんは指先たでピンず䌞ばしお、駅の裏手、線路沿いの道を指し瀺した。
「小料理屋  ですか」
 瀟䌚人䞀幎目の財垃には、重く響きそうな単語だ。私の衚情が曇ったのを察したのか、駅員さんは笑いながら付け足した。
「小料理屋っお蚀っおも、倀段も良心的だし、䜕より矎味しいから。お昌の定食なら千円もしないよ」
 私の懐事情たで芋透かしたような远加情報だった。
 ここで二時間をただ座っお過ごすのは、粟神衛生䞊良くない。たずは䜕かお腹に入れお、ささくれ立った心を萜ち着かせよう。私は深く頭を䞋げた。
「ありがずうございたす。行っおみたす」
「いっおらっしゃい。ずにかく、分かりやすい堎所だから」
 柔和な笑顔ず優しい口調に、「ずんでもないずころに来おしたった」ずいう絶望感が、少しだけ和らいだ気がした。

 教えられた通りに螏切を枡り、線路沿いの砂利道を少し歩くず、ちょうど駅舎ず背䞭合わせになるような䜍眮に、その建物はあった。
 叀い民家を改装したような䜇たい。黒い板壁に、栌子戞。そしお入口には、鮮やかな緑の垃地に黒で「颚雅ふうが」ず刺繍が入ったのれんが掛かっおいる。颚に揺れるのれんは、店名通りどこか雅やかで、同時に敷居の高さを感じさせた。
 小料理屋なんお、䞊叞に連れられお行く堎所だず思っおいた。䞀人で、しかもこんな田舎で入るこずになるなんお。
 地元の垞連さんが昌からお酒を飲んで隒いでいたらどうしよう。新参者の私が癜い目で芋られたらどうしよう。匕き戞に手をかけたたた、数秒だけ躊躇する。でも、他に遞択肢はない。
 私は意を決しお呌吞を敎え、匕き戞を暪に滑らせた。
「いらっしゃいたせ。お奜きな垭ぞどうぞ」
 店内に入るず同時に、涌やかな声が迎えおくれた。倖の熱気が嘘のようにひんやりずしおいる。カりンタヌ垭が五぀ず、四人掛けのテヌブル垭が二぀だけの、こじんたりずした空間。
 声の䞻は、カりンタヌの䞭にいた。のれんず同じ、深い緑色の着物を着こなした女性。栗色の髪を埌ろで緩く結い、癜いうなじが少し芗いおいる。幎霢は䞉十代䞭盀くらいだろうか。女将さんず呌ぶにはただ若く、どこか少女のような透明感を残した人だった。
「お荷物は隣の垭ぞ眮いおくださいね。今の時間、他にお客さんは来たせんから」
 そう蚀われお店内を芋枡すず、カりンタヌの䞀番奥、私の芖線から芋お右端の垭に、䞀人の男が座っおいるのが芋えた。客  なのだろうか。茶色の䜜務衣を着お、背筋を䌞ばしお座っおいる。手元には湯呑みが䞀぀。食事をしおいるわけでもなく、ただじっず、壁の䞀点を芋぀めおいるようだった。
 少し異様な雰囲気を感じたが、女将さんの屈蚗のない笑顔に促され、私はカりンタヌの真ん䞭の垭に腰を䞋ろした。隣の怅子に重たい玙袋ず鞄を眮く。
 店内は明るく、枅朔で、埮かに甘蟛い煮物の銙りず、お酢の爜やかな匂いが挂っおいた。磚き蟌たれたカりンタヌの朚目を芋おいるず、心が萜ち着いおいくのが分かる。
 ――奜きだなぁ、こういう雰囲気。
 東京の喧隒ずは察極にある時間だ。
「もしかしお、駅長さんに聞いお来たした」
 お冷ずお絞りを出しながら、女将さんが埮笑んだ。
「え あ、はい。駅で  駅員さんに教えおいただいお」
「ふふ、やっぱり。あの方、駅長さんなんですよ。この時間に来る䞀芋さんは、倧抵あの方に聞いおここに来おくださるの」
 ぞぇ、あの人、駅長さんだったんだ。垰りにちゃんずお瀌を蚀わなきゃ。
「お食事ですよね。今日はサバの塩焌きか、カレむの煮付けができたすけど」
「あ、じゃあサバの塩焌き定食をお願いしたす」
「かしこたりたした。少しお埅ちくださいね」
 女将さんは軜やかな足取りで奥の厚房ぞず消えおいった。
 残されたのは、私ず、奥に座る䜜務衣の男。
 静寂が戻っおくる。ただ、それは気たずい沈黙ではなく、叀時蚈の振り子が時を刻む音が心地よく響く、質の良い静寂だった。
 私はスマヌトフォンを取り出しかけお、やめた。せっかくのこの空間で、たた仕事のメヌルやのタむムラむンを気にするのは無粋な気がしたのだ。
 代わりに、店の䞭を芳察する。壁には手曞きのメニュヌがずらりず䞊んでいた。䞭には、達筆すぎお読めないものもある。「出汁巻き卵」、「季節の倩ぷら」、「おでん」。どれも矎味しそうだ。
 ふず、奥の男に芖線を走らせる。盞倉わらず、圌は動かない。湯呑みから立ち䞊る湯気すら消えおいるのに、お茶を啜すするわけでもなく、腕を組んで目を閉じおいる。瞑想でもしおいるのだろうか。
 女将さんず同じくらいの歳に芋える。旊那さんかな。いや、倫婊にしおは䌚話がなさすぎるし、醞し出す空気が他人行儀だ。垞連客にしおは、むしろ店に銎染みすぎおいる。䞍思議な人だ。
「お埅たせしたした。サバの塩焌き定食です」
 お盆に乗せられお運ばれおきた料理を芋お、私は思わず「わぁ」ず声を挏らした。
 メむンのサバは皮がパリッず焌かれ、脂がじゅわっず滲み出おいる。その暪には、倧根おろしずスダチ。小鉢にはほうれん草の胡麻和えず、ひじきの煮物。挬物に、湯気が立぀お味噌汁、そしお艶々の癜米。
 完璧だ。これぞ「日本の正しいお昌ご飯」ずいう䜇たい。
「いただきたす」
 手を合わせ、たずは味噌汁を䞀口啜る。
 ――矎味しい。
 出汁の銙りが錻腔を抜け、優しい塩気が䜓に染み枡っおいく。むンスタントやコンビニ匁圓の味に慣れきっおいた舌が、驚いお喜んでいるのが分かる。
 サバに箞を入れるず、パリッずいう音ず共に身がほぐれる。口に運ぶず、凝瞮された魚の旚味が広がった。ご飯が進む。止たらない。
 倢䞭になっお食べおいるず、䞍意に涙が出そうになった。
 昚日、仕事でミスをしお怒られた埌、䜕も喉を通らなくお、倜䞭にカップスヌプしか飲んでいなかったこずを思い出した。誰かが、自分のために䞁寧に䜜っおくれた料理。それがこんなにも心に沁みるなんお。
「矎味しい」
「はい  すごく、矎味しいです」
 私の反応を芋お、女将さんが嬉しそうに目を现める。
「よかった。氷出しの烏韍茶もあるから、食埌にどうぞ」
 私は頷きながら、箞を進めた。
 完食し、出された琥珀色の烏韍茶を䞀口飲む。雑味がなく、銙りが華やかで、今たで飲んだどの烏韍茶よりも透き通った味がした。
 たたたた出匵で来た町で出䌚った、小さな奇跡のような店。自宅や䌚瀟の近くにあったら、間違いなく毎日通うのに。そうしたら、あの冷たい東京砂挠でも、もう少し頑匵れる気がするのに。
「あの、『颚雅ふうが』っお玠敵な名前ですね」
 沈黙に耐えかねたずいうよりは、この心地よい空間ぞの感謝を䌝えたくお、私はそう口にした。女将さんは掗い物の手を止め、ふわりず笑った。
「ふふ、ありがずう」
 そう蚀っお、圌女はチラリず䞀番奥に座っおいる男を芋た。男も䞀瞬、閉じおいた目を開け、女将さんを芋た気がした。芖線だけで亀わされる䌚話。やっぱり、ただならぬ関係なのだろうか。
「あの、この蟺で少し時間を぀ぶせる、芳光できる堎所っおないですか」
 時蚈を芋るず、ただ十二時前。あず䞀時間は䜙裕がある。ここでお茶を飲み続けるのも迷惑だろうし、腹ごなしに歩きたかった。
「芳光っおほど倧げさなものじゃないけど、ここから囜道を出お海の方に行くず、『癜愁はくしゅう倩満宮』っおいう叀い神瀟があっおね」
 女将さんは垃巟で手を拭きながら、店の倖の方角を指さした。
「りバメガシっおいう朚がトンネルみたいになっおお、珍しいんですよ。それに囲たれおるず、䜕かこう  独特な感じがしお。倩気もいいし、お散歩するにはいいかも」
 神瀟。悪くない。今の私には、神頌みが必芁かもしれない。「もうミスをしたせんように」、「この仕事がうたくいきたすように」。いや、もっず切実に「明日から䌚瀟に行けたすように」ず。

「癜愁倩満宮の本殿の裏手にある、石段を䞊がった先だ」

 突然、䜎い声が響いた。驚いお顔を䞊げるず、奥の䜜務衣の男が口を開いおいた。圌が発した蚀葉なのか䞀瞬分からなかったほど、その声は空間に溶け蟌んでいた。
「え  石段を䞊がった先、ですか」
 私は恐る恐る聞き返す。男は私の方を芋ようずもせず、宙を芋぀めたたた続けた。
「そこから芋える景色ず眺めだ。今のあんたに必芁なのは」
「私の  」
 独り蚀のようでいお、確信めいた響き。意味が理解できず、私は助けを求めるように女将さんを芋た。女将さんは笑顔で、「ですっお」ず蚀っお、私の空になった茶碗を䞋げた。
 男を芋るず、再び腕を組み、䜕事もなかったかのように目を閉じおしたっおいた。
 䞀䜓䜕なのだろう、あの人は。占い垫か䜕かなのか。
「ご銳走様でした」
 お代を払い、垭を立぀。
 店を出ようずした時、玄関口の暪、䞋駄箱の䞊に食られおいる䞀枚の絵が目に留たった。キャンバスの右半分が鮮やかな黄色の菜の花畑。巊半分が颚にうねる緑の草原。そしお䞊䞉分の䞀が抜けるような青空。
 色鉛筆画のようにも、油絵のようにも芋える䞍思議なタッチ。人物は描かれおいない、ただの颚景画だ。なぜか目が離せなかった。どこかで芋たこずがあるような懐かしさ。胞の奥がキュッず締め付けられるような、切なさ。殺颚景なのに、枩かい。
「行っおきたす」
 私はその絵から無理やり芖線を匕き剥がし、店を出た。

 女将さんに教えられた通り、囜道を暪切り、海ぞ向かっお歩く。次第に、颚に乗っお朮の銙りが濃くなっおきた。遠くで波の音が聞こえる。
 仕事のこず、倱敗したこず、同期ぞの劣等感、䞊叞の冷たい芖線。東京に眮いおきたはずの重荷が、䞀歩歩くごずに背䞭にのしかかっおくる。
 ――私、このたた瀟䌚人ずしおやっおいけるのかな。
 ふず、匱音が挏れそうになる。実家の䞡芪には「仕事、楜しいよ」ず嘘を぀いたばかりだ。心配かけたくない。期埅を裏切りたくない。でも、本圓はもう、逃げ出したい。
 十分ほど歩くず、こんもりずした森のような堎所に行き圓たった。
 癜愁倩満宮の入口だ。
 そこには女将さんの蚀っおいた通り、りバメガシの朚々が頭䞊を芆うように密生し、昌間なのに薄暗いトンネルを䜜っおいた。ぜっかりず口を開けた暗闇。その奥ぞず、䞀本の现い道が真っ盎ぐに䌞びおいる。たるで、別の䞖界ぞの入口みたいだ。
 ごくり、ず唟を飲み蟌む。匕き返そうかずいう迷いを振り切り、私は䞀歩を螏み出した。ひんやりずした空気が肌を撫でる。静かだ。自分の足音ず、遠くで鳎く鳥の声、そしお波の音だけが響く。
 朚の隙間から差し蟌む朚挏れ日が、地面に斑点暡様を描いおいる。時折、その隙間からキラキラず光る海が芋えた。
 癟メヌトルほど歩いただろうか。䞍意に芖界が開け、叀びた本殿が珟れた。誰の姿もない。手入れはされおいるが、長い歳月を感じさせる神瀟だ。私は賜銭箱に小銭を投げ入れ、手を合わせた。
 願い事は、うたく蚀葉にならなかった。ただ「助けお」ず心の䞭で呟いただけだった。
 ――えヌず、本殿の埌ろの石段  だっけ。
 䜜務衣の男の蚀葉を思い出し、私は本殿の裏ぞず回った。そこには、人が䞀人やっず通れる幅の、急な石段があった。苔むした石段は、空に向かっお続いおいるように芋える。
 息を切らしながら、䞀段䞀段、螏みしめるように䞊る。革靎が悲鳎を䞊げおいるが、構わなかった。
 そしお、最埌の䞀段を登り切った時。
「  あっ」
 声にならない声が挏れた。
 颚が吹き抜ける。
 私の目の前には、䞀面の黄色が広がっおいた。菜の花だ。芖界を埋め尜くすほどの、菜の花畑。
 ここは海沿いの高台なのだろうか。菜の花の向こうには、どこたでも続く青い空ず、海が溶け合っおいる。
 ――石段を䞊がった先の眺め。
 ――今の私に必芁な景色。
 あの男は、この景色のこずを蚀っおいたのか。
 あたりの矎しさに、私は立ち尜くした。颚が吹くたびに、菜の花がさわさわず音を立おお揺れる。甘い銙りが錻をくすぐる。
 ――綺麗  。
 ふず、埌ろを振り返る。そこは、緑の草原だった。膝䞈ほどの草が、颚を受けお波のようにうねっおいる。右手に菜の花、巊手に草原。私はその境界線に立っおいた。
「あれ  石段は 本殿は」
 さっきたで自分で芋おいた䞖界ずは違う。私を咄嗟に目を閉じた。
 そしお、気づいた。
 ――あの絵の䞭だ
 「颚雅」の玄関口の暪に食っおあった絵。私は今たさに、あの絵の䞭にいる。䞀䜓䜕がどうしおあの絵の䞭に迷い蟌んでしたったのかは分からない。
 目を開けお、もう䞀床、菜の花畑の方を向いた。するず、黄色い海の真ん䞭に人圱が芋えた。男の人だ。青いシャツに、色あせたゞヌンズ姿。
 さっきたでは誰もいなかったはずなのに。
 男の人は、私の方を芋おいた。逆光で顔はよく芋えない。でも、なぜだか胞が隒めいた。
 圌は、私に向かっお倧きく手を振った。
 ――え 私
 他に誰もいない。知り合いだろうか。いや、こんなずころに知り合いがいるはずがない。でも、その動䜜にはなぜか芋芚えがあった。
 倧きく、ゆっくりず、安心させるように振られる手。私の䜓は、思考よりも先に反応しおいた。右手が勝手に䞊がり、手を振ろうずする。
「パパ―」
 私の口から出た声ではなかった。
 突然、私のすぐ暪を、小さな圱が駆け抜けおいった。赀いスカヌトをひらひらさせた、五、六歳くらいの女の子。二぀に結った髪が匟んでいる。
 ――え  どこから出おきたの
 女の子は迷うこずなく、菜の花畑の䞭にいる男の人ぞ向かっお走っおいく。
 私の意思ずは関係なく、足が勝手に動き出した。二人を远いかけるように、菜の花畑の䞭ぞ入っおいく。
 靎の裏に土の感觊が䌝わる。菜の花の匂いが匷くなる。女の子が男の人に飛び぀く。男の人は軜々ず女の子を抱き䞊げた。
 二人の笑い声が、青空に吞い蟌たれおいく。私はそれを、数メヌトル埌ろから芋぀めおいた。
 そうだ。あれは私が小孊生になる前の春䌑み。家族で旅行に来たんだ。お母さんは颚邪をひいお、宿で寝おいお。お父さんず二人で散歩に出たんだっけ。
 お父さんの背䞭は、ずお぀もなく倧きかった。肩車をしおもらうず、䞖界が自分のものになったような気がした。
 䜕の䞍安もなかった。明日の心配なんおなかった。ただ、お父さんがいれば無敵だった。
 それなのに、今の私はどうだ。
 東京に出お、䞀人暮らしを始めお、仕事に远われお。実家に電話をするのも億劫で、「忙しい」を蚀い蚳にしお、もう半幎も声を聞いおいない。お盆に垰るず玄束しおいたのに、それもドタキャンした。
 小さくなっおいく父の背䞭を、私はい぀から盎芖しなくなったんだろう。
 い぀から、守られるこずの枩かさを忘れお、䞀人で匷がっお生きるようになったんだろう。
 突然、めたいがした。頭がくらくらしお、立っおいられなくなる。
 そんな私を眮いお、若い父ず幌い私は、草原の方ぞず歩いおいく。
 ――埅っお、行かないで。
 私は手を䌞ばした。
「あ そっちに行ったらダメ いたっ」
 巊腕に、鋭い痛みが走った。同時に、女の子の泣き声が響き枡る。
 蜂だ。蜂に刺されたんだ。
 蚘憶が鮮明に蘇る。あの日、私は草原で蜂に刺された。痛くお、怖くお、泣き叫んだ。
 お父さんは慌おお私を抱き寄せ、背負っお走っおくれた。
『倧䞈倫だ、倧䞈倫だ。パパが぀いおいるからな』
 汗だくになりながら、必死に私を励たしおくれた声。あの背䞭の枩もり。
 私は草原の䞭を走った。父ず私を远いかけお。いや、あの日の枩もりを求めお。
 振り返らずにひたすら走った。振り返っおはいけない気がした。
 涙が溢れお止たらなかった。痛い。腕が痛いんじゃない。心が痛い。
 䌚いたい。お父さんに䌚いたい。
「ごめんなさい  ごめんなさい」
 誰に察する謝眪なのか分からなかった。疎遠にしおいる父ぞ、あるいは䞍甲斐ない今の自分ぞ。
 どんなに走っおも、草原ず青い空しかなかった。
 息が切れお、私はその堎にうずくたった。草の匂いに包たれお目を閉じる。倧きく深呌吞をする。おそらく、このたた走り続けおも絵の䞭から出られない気がした。
『倧䞈倫、心配いらない』
 どこからか、父の声が聞こえた気がした。それずも、あの䜜務衣の男の声だろうか。
 私は必死に思い出す。
 自分の狭いアパヌトの郚屋。
 殺颚景なオフィス。
 ガタンゎトンず揺れる満員電車。
 今日の海。
 朮の銙り。
「颚雅」の出汁の味。
 透き通った烏韍茶。
 女将さんの笑顔。
 䜜務衣の男の静かな䜇たい。
 私が生きおいる䞖界を、珟実を、䞀぀䞀぀拟い集めお、自分の䞭に匕き戻す。
 私はもう、子䟛じゃない。
 守られるだけじゃなく、自分の足で歩かなきゃいけないんだ。
 ――垰りたす  。
 そう念じお、ゆっくりず目を開けた。
 草原も、菜の花畑も、消えおいた。そこにあるのは、叀びた神瀟の裏手ず、ただの雑朚林だけだった。
 倢だったのか。幻芚だったのか。でも、巊腕の二の腕あたりが、埮かにズキズキず痛む気がした。たるで、遠い日の痛みが共鳎しおいるように。
 目尻を拭うず、指先が濡れおいた。
 私は小走りに石段を䞋りた。りバメガシのトンネルを朜り抜け、光の䞭ぞず戻る。錯芚だず分かっおいおも、胞の動悞は収たらない。
 父に電話をしよう。東京に戻ったら、すぐに。ただ「元気」っお聞くだけでいいから。

 取匕先ぞの甚事はわずか十分で終わり、私は「颚雅」の前に戻っおきおいた。
 䜕かお瀌を蚀わなければいけない気がした。䞀䜓誰に  分からないけれど。
 店の䞭に入ろうず手を䌞ばした瞬間、ガラッず玄関のドアが開いた。䜜務衣の男だった。圌は私を芋お、少し驚いたような顔をした。
「どうした 蜂にでも刺されたような顔をしお」
 心臓が飛び跳ねた。
 男は私ずすれ違いざたに、ふっず目を现め、固たる私を暪目に、そのたたどこかぞ去っおいった。
「お垰りなさい」
 店の䞭から、女将さんの声がした。私は小さく「ただいた」ず蚀うのが粟䞀杯だった。䜕より、その「お垰りなさい」ずいう響きが、実家に垰った時の母の声ず重なっお、たた涙腺が緩みそうになった。
「癜愁倩満宮には行きたした」
「はい。  䞍思議なずころでした」
 石段を䞊がった埌の出来事は、話せなかった。過去の自分ず父に出䌚ったなんお蚀っおも、きっず信じおもらえない。それに、あの蚘憶は私だけのものにしおおきたかった。
「あの男の人は  䜕者なんですか」
 私は震える声で尋ねた。
「䜕者だず思いたす」
「うヌん、人里離れた山の䞭で、陶噚ずか焌いおそうな  」
「あヌ、雰囲気だけはそんな感じがしたすけど、普通のサラリヌマンですよ」
「なヌんだ」
 女将さんの仕事の邪魔をしおはマズいず思い、荷物を持っお垰ろうずするず、女将さんがカりンタヌの向こうから小さな包みを差し出した。唐草暡様の颚呂敷に包たれた、お匁圓箱のようなもの。
「これ、垰りの電車の䞭で食べお」
「え  良いんですか」
「あの人からよ」
 女将さんは、さっきたで男が座っおいた右端の垭に芖線をやった。
「なんで  」
「前に『颚雅っお玠敵な名前ですね』っお蚀ったでしょう 名付け芪はあの人なの。『颚に吹かれお、雅やかに生きる』。そういう願いを蟌めおね」
「ああ、そうだったんですか」
「それに、あなたが随分ず疲れた顔をしおいたから。さっき『䜕か䜜っおやっおくれ』っお頌たれお。もちろん、ちゃんずお代も頂きたしたよ」
 無愛想に芋えお、なんお優しい人なんだろう。
 私は包みを䞡手で受け取った。枩かい。䜜りたおの枩もりが、手のひらから䌝わっおくる。
「ありがずうございたす、ず  必ずお䌝えください」
「ええ、䌝えおおくわ」
 店を出る時、私はもう䞀床、あの絵を芋た。
 ――あれ
 さっきたでは颚景だけだった絵。その右偎、菜の花畑の䞭に、小さく人圱が描き足されおいた。
 青いシャツの男の人ず、赀いスカヌトの女の子。二人はしっかりず手を繋いでいる。
「あの  この絵っお  」
「ああ、あの人が趣味で描いおる絵なんだけど。さっき、ふらっず筆を取っお描き足しおたわよ。『やっず絵が完成した』っお」
 ――やっぱり只者じゃないんだ、あの人。
 圌は知っおいたのだ。私があそこで䜕を芋お、䜕を思い出すかを。あるいは、圌が描いた絵の䞖界に、私が招かれただけなのかもしれない。
 私は思い切っお聞いおみた。
「女将さんずあの人っお  」
「ただの垞連さんよ」
「ですよねヌ」
 二人で倧声で笑った。笑っおいるず、さっきの出来事も「たぁいいかな」っお思えおきお、少し心が軜くなった気がした。
 私は深く䞀瀌をしお、「颚雅」を埌にした。
 駅に戻るず、駅長さんが改札口で埅っおいたかのように立っおいた。
「お疲れ様。『颚雅』には行った」
「ええ、お料理もずおも矎味しくお、女将さんが良い人で  」
「それは良かった」
「埗䜓の知れない垞連さんがいお、過去にタむムスリップしたした」ずいう蚀葉は飲み蟌んだ。
 駅長さんは私の顔を芋お、安心したように頷いた。
「来た時より、ずいぶん良い顔になったね」
 その蚀葉に、私は照れくさくお笑った。
 やっおきた䞊り電車に乗り蟌む。
 車窓から、倕日で赀く染たる海が芋えた。䞖界が、党お茜色に包たれおいる。菜の花の黄色も、草原の緑も、海の青も、党おが倕焌けに溶けおいく。
 私は膝の䞊に眮いたお匁圓の包みを解いた。䞭には、倧きなおにぎりが二぀ず、卵焌き、そしおタコさんりむンナヌが入っおいた。
 子䟛の頃、遠足で食べたようなお匁圓。
 添えられたメッセヌゞカヌドには、達筆な文字でこう曞かれおいた。

 ――東京に垰っおも、時々思い出しおください。菜の花ず、草原を。

「  女将さん、ずるいなぁ」
 芖界が滲んで、文字が読めなくなる。頬を䌝う涙を、私は拭おうずもしなかった。
 ――倧䞈倫。
 私はきっず、明日からも戊える気がした。
 電車がガタン、ず倧きく揺れる。
 私はおにぎりを䞀぀手に取り、倧きく口を開けお頬匵った。塩味が、涙の味ず混じっお、少しだけしょっぱかった。
 もちろん、思い出すよ。
 菜の花ず草原ず海ず  颚雅ず女将さんず、䞍噚甚で優しいあの人を。

了


「花ず草原」ずいうタむトルは、䜜曲家でピアニストのゞョヌゞ・りィンストンのアルバム「Winter Into Spring」の「Blossom/Meadow」から頂きたした。

具䜓的な地名は出しおいたせんが、あくたでもむメヌゞずしおは愛知県知倚半島の先端、南知倚町にある矜豆はず神瀟。そしお菜の花は北海道䜐呂間町で私が実際に芋た菜の花畑をモチヌフにしおいたす。
バナヌ写真は北海道䜐呂間町で撮圱した菜の花畑

絵は私の倧奜きな葉祥明氏のものを意識し、絵の䞭に入っおしたったずいう蚭定は1984幎4月から5月頃にNHKの「みんなのうた」でよく攟送されおいた「メトロポリタン矎術通ミュヌゞアム」の最埌「倧奜きな絵の䞭に閉じ蟌められた」の歌詞からヒントを埗たものです。

「颚雅」ず蚀う名前はバッハの「フヌガ」を挢字にしたものですが、「颚雅高尚で雅な趣のあるこず」ずいう意味らしいです。


4月4日の「今日の泚目蚘事」倕刊に遞んで頂きたした。
ありがずうございたす。

note公匏゚ックスより

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