
芝全交
芝 全交(しば ぜんこう、1750年7月22日(寛延3年6月19日)- 1793年7月5日(寛政5年5月27日))は、江戸時代中期から後期に活躍した戯作者である。本姓は山本。名は藤太郎。司馬全交、司馬交とも表記される。
経歴・人物
商人の一族であった吉川氏の子として江戸に生まれる。幼年期に水戸藩に仕えた狂言師の山本藤七の養子となったため、山本と改姓する。
後に芝西久保町(現在の東京都港区虎ノ門)神谷町に移り、商業を営んだ。その傍らに歌舞伎や遊里等の芝居をよくし、性格も明るかったため多くの江戸の庶民に慕われた。特に黄表紙をよくし、これらの戯作物は当時の江戸の庶民の日常生活を滑稽に描いたものであったため、一躍有名となった。当時活躍していた戯作者恋川春町、朋誠堂喜三二、山東京伝と並び、天明・寛政期を代表する黄表紙作家と位置づけられる。
1780年(安永9年)から没後の1794年(寛政6年)まで、毎年一定数の作品が刊行されたが、決して多作だったわけではない。
晩年は参禅したという。死後、藍庭林信(晋米斎玉粒)が2代目芝全交と名乗った。主な弟子に芝甘交、芝晋交がいる。
■『日本小説作家人名辞書』
芝 全交
山本藤十郎、江戸の人。芝神谷町に住む。大蔵流の狂言師、赤羽観世音座に出勤してゐた。司馬全交、月池交友と号す。寛政5年6月18日歿。
■『近世物之本江戸作者部類』
芝全交
全交は、在世の日、よみ本の作印行の物なし。嘗て云。我臭草紙を作ること既に久しくなりたれとも、いまだよみ本の作を乞ふ者なし。臭草紙は其年のみにて摺せし事なし。いかて部したる讀本を刊行して、後に貽さは、文墨に遊ふ甲斐あるへしとて、宿望胸に在りながら、當時の流行、其處にあらねは、黙止して年頃を經たり。かくて寛政中に至て、全交が世を去りし頃、遺稿のよみ本五卷あり。題して全交禪學の噺(一名全交通鑑)といふ。こは手嶋やうの物にして、教訓の中に滑稽をまじへたり。全交の妻子其遺稿の事を、書賈仙鶴堂に告て、亡父の宿望を、はたさんと欲するに、仙鶴堂も亦年來全交が作の臭草紙を印行して、贏餘すくなからざれは、報恩の爲にとて、即ち其書を刊布しけるに、道學冊子なとも、既に衰へたる頃なれは、禪學の噺も行はれす。發販の折、入銀とかいふ義を以て(書林板元其書を發行已前に、其書を一部夥計/ナカマ/の書賈に見せて、おのかしゝ買取らんと思ふ部高を、帳面に記させて、賣出す前日、其數の如く夥計へ配るを入銀といふ。素人作者の板元へ金を送りて、彫刻を資/タスク/るを入銀と云におなじからず。混すへからす)賣らまくせしに、思ふにも似す、買ふ者稀にて纔に五十部許賣る事を得たりとそ。此故に當時といへども、彼書の事を言ふもの稀也。まいて後に至りては、知るものもあらすなりにけり。只板元の不利のみならす、作者の不幸也。