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迷ったって、誰かに言えばよかった。【第1〜3話】

    とまり木 第一話「最初の迷い人」

    雪の夜に死んだ、という自覚はあった。

    八坂湊(やさか みなと)、三十五歳。中堅商社営業部。十四年間、始発と終電のあいだだけで生きてきた。最後の記憶は、終電を逃した帰り道だ。頭の中で明日の段取りを組みながら歩いていたら、見慣れた住宅街のはずが、いつのまにか知らない道になっていた。雪がやけに静かで、視界が白くて、そこで足元がふっと消えた。

    だから、目を開けたときに一番驚いたのは、生きていることでも死んでいることでもなく——あたたかかったことだ。

    囲炉裏の火が、ぱち、と鳴った。

    湊は板の間に寝かされていた。天井は太い梁がむき出しで、飴色に磨かれている。どこかで湯の沸く音がする。障子の向こうはまだ雪らしく、青白い明かりがぼんやり透けていた。

    「起きた」

    声のした方を見ると、少女がひとり、囲炉裏の縁に膝を抱えて座っていた。十二、三に見える。藍色の作務衣に、帳場の番頭みたいな前掛け。こちらを覗き込む目だけが、年齢と釣り合わないほど古かった。

    「ここは」と湊は言いかけて、喉がからからなことに気づいた。少女は黙って湯呑みを差し出した。白湯だった。しみた。内臓に、というより、もっと奥にしみた。白湯がうまいと思ったのは人生で初めてだった。

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    「辻宿とまり木。世界と世界の境の辻に立ってる宿。道に迷った者だけが、うちの提灯を見つけられる」

    少女は暗唱みたいにすらすら言って、それから湊をじっと見た。

    「あんた、死んだ自覚ある?」

    「……ある。たぶん、雪の道で」

    「上出来。それ、認められない客の方が多いんだよね」

    少女はスイと名乗った。この宿の番頭だという。番頭がいるなら主人がいるはずで、湊がそう訊くと、スイの手が一瞬だけ止まった。囲炉裏に薪をくべる、その手つきの途中で。

    「いない。半年前から」

    「いない、って」

    「いないもんはいない」スイは薪を突っ込んだ。火の粉が立った。「だからあんたが来た。ここは宿だから、迷った者が来るとまず客として泊める。でも半年ぶりに灯が呼んだのが、よりにもよって死にたての勤め人とはね」

    言っている意味の半分もわからなかった。ただ、囲炉裏の火はあたたかく、白湯はうまく、そして湊は猛烈に腹が減っていた。考えてみれば、倒れた日は朝から何も食べていなかった。その前の日も、たぶん、ゼリー飲料をひとつ。

    腹の音が、盛大に鳴った。

    スイは呆れた顔をして、それから顎で台所の方を指した。

    「米はある。味噌もある。夜も遅いから、あたしは作らないよ」

    「……借りていいか、台所」

    「客が自分で作るって言うなら止めないけど」

    湊は立ち上がった。ふらつくかと思ったが、体は妙に軽かった。死んだからか、それとも十四年ぶんの疲労を向こう側に置いてきたのか。台所は古いが手入れがよく、鍋も包丁もあるべき場所に納まっていた。誰かが長いこと、ここを大事に使っていたのがわかる配置だった。

    湊は雑炊を作った。胃の弱い人生だったから、深夜に食べても胃がびっくりしない飯だけは、体が覚えている。土鍋に米と水、味噌を少し、卵をひとつ。棚の隅に干した葱があったので、それも刻んだ。

    土鍋を囲炉裏に運ぶと、スイがちらっと見た。見ただけで、そっぽを向いた。

    「……椀、ふたつ持ってきた」と湊は言った。

    「あたしは宿の者だから、客の飯は」

    「作ったのは客じゃなくて、迷い人だ。迷い人の飯なら、番頭が味見しないとまずいだろ」

    我ながら屁理屈だと思った。スイはしばらく黙って、それから椀を取った。

    ふたりで雑炊を食べた。囲炉裏の火が、ぱち、と鳴った。スイは何も言わなかったが、椀は空になり、そして二杯目も空になった。食べ終わる頃、障子の向こうの雪明かりが、少しだけ薄青くなっていた。夜が明けかけている。

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    「宿代」とスイが言った。「うちは金は取らない。宿代は、話をひとつ。それがここの掟」

    「話……何のだ」

    「何でも。嘘でもいい。ただし、あんたが『話し終えた』と思うまでが、ひとつ」

    湊は椀の底を見た。話すことなんて何もない、と思った。十四年間、数字と納期の話しかしてこなかった。だが口を開いたら、出てきたのは倒れた夜のことだった。終電を逃したこと。頭の中が明日の段取りでいっぱいだったこと。知らない道に入り込んだのに、迷ったと認める時間すら惜しくて、歩き続けたこと。

    「……迷ったって、誰かに言えばよかった。それだけの話だ」

    言い終えて、自分で驚いた。ひとつも泣くような話じゃないのに、声が少し揺れていた。スイは笑わなかった。茶化しもしなかった。番頭の顔で、ただ最後まで聞いて、それから帳場から古い帳面を持ってきた。宿帳だった。頁を繰ると、最後の一枚が破り取られた跡がある。スイはその次の、まっさらな頁を開いた。

    「宿代、確かに。——で、だ」

    スイは筆を湊に突き出した。

    「道が見えた客は朝に発つ。それが掟。でもあんた、道、見えてないだろ」

    湊は障子を開けた。雪はやんでいた。宿の前には辻があり、提灯がひとつ、まだ灯っている。道は四方に延びているはずなのに、どの道も数歩先が朝靄に溶けて、たしかに、どこにも続いて見えなかった。

    「見えてない」

    「なら客はもう終わり。今日から働き手。飯が作れる迷い人なんて、うちには上等すぎる」

    スイは初めて、ほんの少しだけ笑った。

    湊は筆を受け取り、まっさらな頁に名前を書いた。八坂湊。書きながら、変なことを思った。十四年間で一番まともに働いた朝が、死んだ翌朝だなんて。

    囲炉裏の火が、ぱち、と鳴った。

    辻の提灯は、まだ灯っている。誰かが今夜も、道に迷うかもしれないから。

    (第一話 了)


    とまり木 第二話「勇者の帰り道」

    最初の客は、夕暮れに来た。

    辻の提灯に火を入れるのは湊の仕事になっていた。梯子の上から見下ろすと、東の道の靄の中に人影がひとつ、現れたり消えたりしながら近づいてくる。まっすぐ歩いているつもりで、少しずつ斜めにずれていく歩き方。スイいわく、迷い人は皆ああなるらしい。

    客は若い男だった。歳は二十歳そこそこ。上等な旅装は泥だらけで、背中の大剣だけが場違いに立派だった。剣の柄には見たこともない紋章と、七つの宝玉。男は宿の看板を三度読み直してから、恐る恐る言った。

    「……宿、ですか。こんな所に」

    「こんな所だから宿なんです」と湊は言った。営業時代の口が勝手に動いた。「お疲れでしょう。風呂が沸いてます」

    男はアルドと名乗った。食事の席で、スイが遠慮なく訊いた。

    「その剣、魔王殺しの聖剣だろ。ってことはあんた、勇者だ」

    アルドは味噌汁の椀を取り落としそうになった。湊も内心では椀を取り落としそうになった。魔王。勇者。死んで三日目の元会社員には、まだ言葉の重さの見当がつかない。だがアルドの顔を見て、見当はついた。ああ、これは、大仕事を終えた直後の顔だ。納会で一番大きな案件を締めた奴が、乾杯の後にふっと見せる、空っぽの顔。

    「……魔王は、倒しました。三月前に」

    「三月前?」スイが眉を上げた。「魔王城からあんたの国まで、歩いて二十日だけど」

    アルドは黙った。湊は黙って、味噌汁のお代わりをよそった。

    その夜、アルドは風呂に入り、飯を三杯食べ、泥のように眠った。翌朝も道は見えなかった。次の朝も。三日目の夜、囲炉裏の前で、アルドはようやく宿代の話を始めた。

    「帰れないんです」

    故郷の村は、国境の小さな村だという。旅立ちの日、村中が総出で見送ってくれた。畑を継ぐはずだった幼馴染は自分の剣を研いでくれて、母は三日ぶんの弁当を持たせてくれて、村長は「英雄になって帰ってこい」と言った。

    「なりましたよ、英雄に。王都では祭りが十日続いた。銅像が建つそうです。それで——気づいたら、王都を抜け出して、村と反対の方に歩いてました」

    「なんで」とスイ。番頭は聞き役のくせに、合いの手だけは容赦がない。

    「英雄が帰るんですよ? 村の皆が待ってるのは、魔王を倒した勇者アルドだ。でも僕は」アルドは自分の手を見た。剣だこだらけの、それでもまだ若い手を。「僕はずっと、怖かった。魔王の前でも足が震えてた。仲間が倒れた夜は、隠れて吐いた。最後の一撃だって、勇気じゃない。無我夢中で、目をつぶって振っただけだ。……そんな奴が、英雄の顔をして、あの村の門をくぐるんですか」

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    囲炉裏の火が、ぱち、と鳴った。

    湊は雑炊をよそいながら、考えていた。励ましの言葉ならいくらでも知っている。営業は励ましの言葉の商売でもあったから。頑張った、すごい、誇っていい。どれも正しくて、どれも軽い。だから代わりに、自分の話をした。

    「俺は、死ぬ朝まで会社員でした。十四年勤めて、一度だけ、大きな賞をもらったことがある。社長賞。全社で年にひとりの」

    アルドが顔を上げた。

    「授賞式の壇上で、俺はずっと考えてました。この数字のからくりを、この人たちは知らない。取引先の担当が良い人だっただけ。前任者の仕込みが実っただけ。俺はただ、運の通り道に立ってただけだって。……で、式の後、それを先輩にこぼしたんです。そしたら先輩、笑いもせずに言いました」

    湊は椀をアルドの前に置いた。

    「『運の通り道に立ち続けるってのが、どれだけ足にくるか、お前だけは知ってるだろ』って」

    アルドは長いこと黙っていた。それから、椀を持ったまま、少しだけ笑った。泣くのと同じ形の笑い方だった。

    「……足に、きました。ずっと」

    「でしょうね。三月ぶん、余計に歩くくらいには」

    その夜、アルドは初めて、旅の話を最初からした。怖かった夜の数だけ話は長く、スイが二度も薪を足した。話し終えたとき、アルドは「話し終えた」という顔をしていた。宿代は、確かに満額だった。

    翌朝、アルドが草鞋を履くと、東の道の靄が晴れていた。まっすぐな一本道が、朝日の方へ延びていた。

    「不思議だな。あんなに、どこにも道がなかったのに」

    「道はずっとあったらしいですよ」と湊は言った。「見えなかっただけで。……うちの番頭の受け売りですが」

    アルドは荷を背負い、それから振り返った。

    「主人さん。僕、村に着いたら、本当のことを話そうと思います。怖かったって。全部」

    「英雄の株が下がりますよ」

    「下がった残りが、たぶん本当の僕なんで」

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    アルドは笑って、頭を下げて、歩き出した。まっすぐ歩いているつもりで少しずつ斜めにずれる、あの歩き方はもうしていなかった。人ひとりぶんの背中が朝日に溶けるまで、湊は辻に立って見送った。

    「見送りすぎ」と、後ろからスイの声がした。「客はまだ来るよ。いくらでも」

    「見送るのが仕事だろ、宿は」

    「……ふぅん」

    スイは何か言いかけて、やめて、宿に戻っていった。その背中がほんの一瞬、先代を思い出す番頭の背中に見えたことは、湊はまだ、口にしないでおいた。

    辻の提灯に、湊は今夜も火を入れる。

    (第二話 了)


    とまり木 第三話「地図職人は迷う」

    雨の日に来た客は、ずぶ濡れのくせに、荷物だけは一滴も濡らしていなかった。

    油紙で三重にくるんだ大きな筒を、赤子みたいに抱えている。中身は地図だという。客はテオドラと名乗った。五十がらみの女で、王立地図院の職人だと言った。国じゅうの街道を測って歩いて三十年、彼女の引いた地図は「テオドラ図」と呼ばれ、それを持てば行商人は夜道でも迷わない——というのが本人の弁だった。

    「その地図職人が」と、スイが盆を置きながら言った。「なんでうちに居るのさ。ここ、迷った者しか来られない宿だけど」

    テオドラの眉間に、深い皺が寄った。

    「測量の誤差だ」

    「へえ」

    「街道の分岐を確かめに出て、霧が出た。それだけだ。私は迷っていない。現在地の確定が遅れているだけだ」

    「迷ってるって言うんだよ、それを」

    湊は台所で生姜を刻みながら、噴き出しそうになるのをこらえた。雨と霧の夜だったから、汁は生姜の入った葛湯仕立てにした。体の芯から温まる、胃にやさしいやつ。テオドラは「迷っていない」と言いながら三杯飲んだ。

    雨は三日降り続き、テオドラは三日、迷っていないと言い続けた。帳場の隅に机を借りて、濡れなかった地図を広げ、コンパスを当て、現在地を計算しては紙を睨む。その横顔を、スイは呆れ顔で見ていたが、湊には少し覚えがあった。数字が合わないとき、資料のせいにして何度も同じ表を開き直す、あの手つき。数字は合っている。認めたくないものが、別にあるだけだ。

    四日目の夜、雨が上がった。テオドラは帳場に来て、財布を出した。

    「金は取らないんだったな。……では、話をひとつ、だったか」

    「掟なので」と湊は言った。「嘘でもいいそうです」

    「嘘はつかん。地図に嘘を引いたら人が死ぬ」

    テオドラは筒から一枚の古い地図を出した。羊皮紙は端がすり切れ、何度も畳んだ折り目が白く残っている。国の東部の山地。等高線も街道も、素人目にも見事な線で引かれていた。ただ、山あいの一箇所だけ、道が途中でぷつりと切れている。

    「三十年前、私はまだ見習いで、師匠と二人でこの山を測っていた。この、線が切れている所で」テオドラの指が、その場所に触れた。触れ慣れた触れ方だった。「崖が崩れた。師匠は私を突き飛ばして、自分が落ちた」

    囲炉裏の火が、ぱち、と鳴った。

    「遺体は出なかった。私は麓に下りて、報告して、それから今日まで地図を引き続けた。国じゅうの道を、誰も迷わないように、誰も——落ちないように。テオドラ図に空白はない、が私の看板だ。だが」

    指は、切れた線の先を、なぞった。何もない余白を。

    「ここだけは、引けなかった。三十年、何度もこの山に入ろうとした。装備を揃え、道程を組み、麓の宿まで行く。そして毎回、麓から引き返す。私はな、宿の主人。国でただ一人、この山の道を知らない地図職人なんだ」

    「……霧の日に確かめに出た分岐って」とスイが静かに言った。

    「その山の入り口だ」テオドラは笑った。ひどく疲れた笑い方だった。「三十年目の挑戦も、入り口の霧で迷子だ。笑え。迷わない地図を引き続けた女の、これが中身だ」

    誰も笑わなかった。湊は葛湯のお代わりを黙ってよそった。それから、ずっと考えていたことを、ゆっくり口にした。

    「テオドラさん。あなたの地図で、この三十年、あの山の切れた道に入った人は何人います」

    「……いない。道が引かれていない場所に、行商人は入らん」

    「なら、誰も落ちてない。三十年、ひとりも」

    テオドラの手が止まった。

    「あなたが引けなかった空白が、人を守ってたことになりませんか。それは——師匠が最後にやったことと、同じじゃないのかな」

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    長い沈黙があった。囲炉裏の薪が崩れて、火の粉が立った。テオドラは地図を見下ろしたまま動かず、やがて、切れた線の端をもう一度だけ指でなぞって、静かに筒に納めた。

    「……宿代の話は、これで終いだ。話し終えた」

    翌朝、テオドラの前に道は二本見えていた。東へ帰る街道と、あの山へ向かう道だ。宿の前でテオドラは長いことその二本を見比べて、それから東の道を選んだ。

    「山は、行かないんですか」と湊は訊いた。

    「行くとも。だが今回は帰って、装備と、それから若いのを一人連れてくる。空白を埋める日が来たら、あの線の続きは二人で引く。師匠がそうしたようにな。……道は逃げんのだろう?」

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    「ええ。見えなくなるだけで、逃げないそうです」

    テオドラは頷いて、歩き出した。測るように正確な、けれど昨日までよりずっと軽い歩幅だった。

    見送ったあと、スイがぽつりと言った。

    「あんたのあれ、番頭より聞き上手じゃん。腹立つ」

    「営業ってのは、話す仕事に見えて聞く仕事なんだ」

    「ふぅん。……先代もね、そういうこと言ってた」

    言ってから、スイはしまったという顔をして、それきり夕方まで口をきかなかった。湊は何も訊かなかった。訊かない代わりに、夕飯をひと品増やした。

    辻の提灯に、今夜も火が入る。

    (第三話 了)


    制作:SYZYGY [Layer-3] Studios ─ 星乃宇宙と星天の五重奏


    本作は、人とAIの共作――いわば、ひとつの協奏曲です。
    わたしたちの作品への思いは、SYZYGY [Layer-3] Studios『エピソード零』に書いておりますので、下記URLよりお進みください。


     
     
    物語から、音が生まれる。 音から、景色が生まれる。 景色から、また新しい物語が始まる。 SYZYGY [Layer-3] Studiosは、人とAIの五つの音が響き合い、小説・漫画・音楽・映像へと世界を育てる物語開発スタジオです。

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