
【エッセイ】ストレスに大人もこどももない。
「ハンカチをわすれてしまったけど、◯◯ちゃんかしてくれて、ありがとう。」
三女の部屋の片付けを手伝っていたら、小2のころのファイルが見つかって、一緒に見ながら笑っていた。よくあるおともだちの良いところを見つけよう、みたいな一言メッセージの小さな紙が7枚。そのうちの4枚に「ハンカチかしてくれてありがとう」があった三女。
「どんだけハンカチ貸してたんっ!」
と、かわいくて笑っていたけれど、そうなんだよな。
困った人を放っておけない、とか。
周りをしっかり見て動く、とか。
そんな気質を彼女は、三女にうまれ育ったからか、持ちあわせている。
三者懇談会でも必ず言われること。
「クラス全体を見て動いてくれています」
そんな彼女だから、なんだと思う。
これといった理由もないのに泣けてくる。謎にイライラがこみあげてくる。好きだったことが楽しくない。寝ても寝ても、眠い。人に会いたくない。何に対してもやる気がおきない。
そういう症状を、泣きながらうったえた夜、私は彼女の背中をマッサージしながら思っていた。
「無意識につもったストレス」
そんなストレスは、なくとなく、社会人になった大人のもの、な気がしていたけれど。今どき、いや、もともと、年代なんて関係ないのだ。
今や中高生も授業でMBTI診断も取り入れ自己分析をする時代だ。何が得意で、何が苦手なのか、苦を感じず出来ることも、どんなことにストレスを感じやすいのかも、自覚していく彼らなのだ。
彼女が朝起きられず、「休みたい」と言うにはそれなりのものがあるのだけれど、その本人にはとうていまだ客観的な分析などできず、とかくこれ以上ストレスを溜めたくない、という安全確保だ。
うん、休んだらいいよ。
むしろ「休みたい」って言えてよかったよ。
起きてきても、ぼぉーー。。っと放心状態みたいな三女は、朝ごはんも「あんまお腹すいてない」とか言うけれど、最近の彼女は海苔を欲してるみたいな感じ(彼女が自由に食べる朝ごはんの傾向を観察していたりする)だし、ツナマヨおにぎりを二つ作って差し出す。
「一個でも食べたらいいやん。お味噌汁も、残していいからちょっと飲んだらいいよ。」
私自身が、まさに高二のころ、そんな経験をしていたのだ。彼女は、当時の私によく似ている。
誰に何を言われたわけでもないのに、自分自身に「こうあらねば」という型がしっかりとあった。愛想も良くて、教科ごとに「ここまではしなくちゃいけないでしょ」というレベルを感じていた。満たすために、こなすために頑張りながら、友達関係や、部活でもうまく立ち居振る舞って、気がついたら自分がすり減ってしまっていた。
自分を犠牲にした覚えはない。
頑張っていた自覚もない。
それでもいつの間にか、周りの空気を読んだり、相手の望む姿勢を保っているうち(そんな立ち居振る舞いは昔から染み付いているだけに)、人に会うだけのことが、億劫に思ってしまうようになっていた。
気がついたら、そうだったのだ。
そんなかつての私を見ているようで、今日の三女は心配で、仕事を家でする手配をして、そばにいたのだ。
春休みから、片付けが終わっていない彼女の部屋を、天気を味方に一緒に片付けた。
床に積み上げられた、洗濯済みの衣類。
学年が変わって入れ替えるべき教科書やプリントの山。
埃をかぶって色褪せたぬいぐるみたちと、着ずにかかりっぱなしのアウターたち。
彼女の部屋は、まさに、姉たちのおさがりが溜まり、「いる、いらない」を判断できずに放置された物たちで埋まり、自分の部屋なのに、自分の好きなものが何もないような、そんな部屋だった。
窓とカーテンを全開にして、
布団を干して、シーツを洗う。
昼ごはんを食べ終わった彼女に、
「布団干したよ。部屋も、あれ、教科書とか縛って出しておこうか?」
と聞くと、
「ありがと。部屋、教科書くらい、いらないもの捨てないと。」
と言った。
いらないもの、捨てないと。
一緒に部屋を片付けた。ぬいぐるみは、もうここに居なくていいし、体操服はその引き出しにしまうほどではない。姉たちが使っていた辞書は、もう自分のがあるならいらない。絵の具道具も、習字道具も(筆だけは私がもらって)処分する。
「これ、いる?」
「いらない。」
彼女の「いらない」を一緒に見届ける。
ゴミ袋2袋いっぱいにして、ビニール紐で括った本の束も何束にもなった。
そうして彼女の「いる」ものは、ごくごくシンプルに、友達との思い出や、旅の思い出ばかりになった。
他人軸から自分軸にシフトしていく作業。
他の人がどうであれ、自分が「疲れた」と自覚したのなら、とことん自分の、自分一人の時間を持たないとならない。
周りを見て動けることは、とても素敵な長所だと思うけれど、ちゃーんとその分疲れる自分がいることも、ちゃんとわかっててあげてほしい。
あなたはちゃんと、ロボットじゃない。