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大菩薩峠紀行 27 上野原 月見寺

     清澄の弁信と茂太郎の二人は、弁信の琵琶の老師を高尾山薬王院に訪ねるつもりで甲州街道を西へ歩いてきたのだが、生憎師匠は西国へ旅立った後であてが外れてしまった。さらに西へ小仏峠を越えて上野原の報福寺、通称月見寺に留まっている。実は机龍之助も高尾の蛇滝から夢に誘われるようにこの寺に逗留していたのであった。ここに新たにお雪という主人公が加わることとなる。お雪は月見寺の居候たちの世話と寺の諸事を取り仕切る娘であるが、このあと机龍之助と長く関わっていくのだった。
     小説大菩薩峠の冒頭のみを読んだ人、あるいは映画で本作を知った人は、机龍之助こそが主人公だと思われているであろう。本稿で筆者はこれまでも「新たな主人公」といった表現を繰り返してきた。物語の端緒から七兵衛、お松、宇津木兵馬、お絹、神尾主膳…といった面々がそれぞれの人生を生きてきて、全編にわたり活躍をする、その各々がみな主人公だということが本作の特色だと思う。ある研究によると最も多く筆を割かれているのは宇治山田の米友なのだという。確かに、伊勢間の山での登場以来、江戸への下向、印度の槍遣い、甲州街道鶴川の渡し、甲府でのでえだらぼっち、塩山袖切坂…米友の活躍場面は数多ある。辻斬り以外は寝ているだけの龍之助などと比べるまでもなく実に芝居回しが巧みなのだ。
     さて上野原である。作者介山はこう記す。「上野原の土地そのものは、盆地ともいえないし、高原ともいいにくい山間の迫ったところに、おのずから小規模のハイランドを形づくっているだけに、そこではまた何ともいえない荒涼たる月の光を見ることがあるのであります。」幼少期の記憶に囚われていた筆者は、“ハイランド”との形容には大いに違和感を抱いた。中央本線の車窓からは上野原の駅は川を間近に見る谷の底と感じられるのである。
     月見寺を訪ねて納得した、駅は谷底だが街並みは段丘の上にあった。駅から崖沿いにハイランドへ登りつくとそこに酒饅頭を名物とする街道沿いの家並がつづくのであった。月見寺は正しくは保福寺というらしい。門前に介山真筆を彫刻したという大きな「月見寺」の石碑がある。碑裏には先に引用した“ハイランド”前後の本文が彫られてある。茂太郎は三重塔のてっぺんで陽気に歌っているのだが今は塔は見当たらない。「今宵寺の縁側へ出て見ると、周囲をめぐる山巒(さんらん)、全面を圧する道志脈の右へ寄ったところに、富士が半身をあらわしている。」筆者も同じく富士を見た、寺を背に歩く道から、しかしお世辞にも“半身”とは言い難し、道志山塊の向こうにわずかに山頂が覗くばかり。隣接する小学校の校庭には樹齢800年を越えるという大ケヤキがそびえ立つ。街道沿いにも「大けやきの町うえのはら」とプリントされた小旗が目についた。商店街で買い物をするとかつては「大けやきシール」が配布されていたらしい。酒饅頭と大けやき、上野原の誇りなのであろう。中央高速を運転していて目に入ってくる横断幕に「東京に一番近い山梨はここ上野原」との自負も感ずる。
     さて悲しいことだが主人公のひとりが身罷った、米友の唯一の幼馴染み間の山のお玉、お君が落命してしまった。甲府の勤番支配であった駒井能登守に見染められお部屋様になったお君、駒井の失脚とともに心に病を得たがかろうじて命を永らえ駒井の子を孕みながら本所相生町の屋敷に身を寄せていた。お松の世話を受けながら赤子を出産はしたものの産後の肥立ち覚束なく力尽きてしまった。後日お松に案内され、両国回向院のお君の墓所を駒井甚三郎が訪れるのだが、軽業一座の親方、お角さんが目ざとく見つけ声をかける、親方は西洋大奇術の公演を両国橋東詰で始めたのだった。
     この小説、しばしば実在の人物の名が登場する。かつて新選組の面々もそうであったが、西洋大奇術には柳川一蝶斎という手品師の名が紹介される。この人は幕末から明治にかけて活躍した手品師だそうだ。紙でこしらえた蝶をあたかも命が宿ったかのように舞わせたとか。慶応二年のパリ万博の他、いくつもの国々で手品を披露したらしい。
     また西洋大奇術の興行のパトロンは実は有野村の馬大尽藤原伊太夫で彼の宿所が馬喰町の大城屋良助、この人は旅行組合「東講」の発起人なのだと。東国を旅する人へのガイドブックを発行し、かつ各所の宿屋と連携し旅の安全をアッピールする仕組みだったそうだ。
     さらに駒井甚三郎の造船事業に上田寅吉という船大工が登場する。西伊豆戸田出身のこの人は、ロシア使節プチャーチンの船が津波等で修復不能となった後、西洋式帆船ヘダ号造船に関わる。その後長崎海軍伝習所、横須賀造船所等々、海運日本を支える活躍をした人なのだと。
     江戸期に関する教養無くして本作を味わい尽くすは難しい。

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