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痣を食む少女【第5話】完

    最終話 報いの終焉


    エルカは腰の短剣を引き抜き、一気に間合いを詰めた。躊躇なく振るわれた刃が、クラウスの左腕を切り裂く。赤い血が宙を舞った。

    「きゃああああっ!」

    塔の奥、小部屋から悲鳴が響いた。エルカの瞳が大きく揺れる。小部屋の中にいた子供のひとりの腕が、まるで見えない刃で裂かれたように赤く染まっていた。

    「なんで……」

    クラウスは傷口を押さえることもなく、小さく笑う。
    「私へ向けられた因果は、すべてあの子たちへ流れる」

    絶え間なく流れ続ける痣の本流。黒い霧が彼の背後で脈打つ。
    一本、また一本と黒い糸が伸び、クラウスの身体と子供たちを結んでいる。まるで蜘蛛の巣のように。

    「私を殺せば、子供たちが死ぬ。腕を斬れば腕を失い、心臓を貫けば全員の命が潰れる」クラウスは静かに両手を広げた。
    「どうする?理想を貫くか、子供を救うか」

    地下空間が静まり返る。エルカは黒い糸を見つめた。一本、一本が子供たちを縛る因果。エルカは懐から銀針を取り出した。
    「何をする気だ」クラウスが眉をひそめる。エルカは答えず、自らの左胸へ銀針を突き立てた。鋭い痛みが走る。さらに銀糸を引き出し、黒い因果の線へ絡ませる。一本、また一本。裂けた運命を縫い直すように。

    「やめろ!そんな縫い替え方をすれば、お前自身が因果の器になる!」
    銀針が最後の一線を貫いた。その瞬間。黒い糸が一斉に向きを変えた。クラウスから子供たちへ繋がっていた因果は、強引に引き剥がされ、すべてエルカの身体へ流れ込む。

    「ぐっ……あぁぁぁぁっ!」

    骨が軋み、内臓を握り潰されるような苦痛が駆け巡る。血管は墨を流したように黒く染まり、指先から感覚が失われていく。呼吸がだんだん浅くなる。それでも、銀針だけは決して離さなかった。

    ガシャン。子供たちを拘束していた枷が一斉に砕け散る。黒い糸はすべて消えていた。ニーナはその光景を見て息をのみ、すぐにエルカへ駆け寄ろうとする。しかし、エルカは震える手を上げ、それを制した。

    クラウスは信じられないものを見るようにエルカを見つめる。
    「馬鹿な……子供全員の因果を、ひとりで背負ったというのか」
    エルカは黒く染まった腕を見下ろし、小さく笑った。
    「子供を身代わりにするような綺麗な地獄よりは……」
    血を吐きながらそれでも顔を上げる。
    「ずっとマシだ」

    ニーナは震える両手を胸の前で重ねた。「お願い、エルカを返して……」
    その祈りに答えるように、解放された子供たちも静かに手を重ねる。「負けないで……」小さな声が重なり、ひとつの願いになる。塔を満たしていた黒い霧の中に、淡い光が灯った。エルカの胸に刺さった銀針が輝く。侵食する黒が光に押し返されていく。

    「そんな……」
    クラウスは後ずさった。世界は完成されたも同然だった。その理屈が目の前で音を立てて崩れていく。

    エルカは短剣を握り直す。足は震え、視界はにじむ。それでも、一歩踏み出した。一歩、また一歩。

    「止まれ!」
    黒い霧が牙のように襲いかかる。エルカは避けない。傷はすべて自分が受ける。もう覚悟は決めていた。最後の一歩で地を蹴る。

    「終わりだぁぁぁぁぁっ!」

    渾身の力で振り抜かれた短剣が一直線にクラウスの胸を貫いた。
    時間が止まったかのような静寂。クラウスはゆっくりと自らの胸を見下ろす。血が広がっていく。
    「……なぜ……お前は、死ぬかもしれないのに……」
    エルカは涙を浮かべながら、声をふり絞った。
    「誰かを犠牲にして生きる未来なんて、そんな世界は父も望まない」

    クラウスの瞳から静かに光が失われる。その身体は黒い霧へ溶けるように崩れ、塔を覆っていた闇もまた夜明けの霧のように静かに消えていった。
    エルカはその場へ倒れ込む。
    呼吸するだけで激痛が走る。血が止まらない。視界も霞んでいる。もう立てそうになかった。
    「はぁ、はぁ」
    息をするのが精一杯。体の感覚が薄れていく。
    自分も助からないだろう。だけど後悔はない。
    父が止められなかった怪物を終わらせた。ニーナを守れた。それだけで十分だった。
    遠くで誰かの声が聞こえる。泣いているような、必死に呼んでいる声。
    「ニ……ナ」
    意識は少しずつ遠ざかっていく。
    「父……さん」
    そして崩れゆく塔の中、エルカの意識はゆっくりと闇へ沈んでいった。

    ◇◇◇

    クラウス・ヴァルドの死と共に。
    長年、この国を覆い続けていた巨大な仕組みは崩壊を始めた。
    最初に異変が起きたのは王都だった。まだ薄暗い街角で、一人の男が悲鳴を上げた。
    「な、なんだこれは……!」
    市場を取り仕切る有力商人だった。彼は震える手で自分の腕に触れる。
    そこには黒い痣が浮かび上がっていた。
    皮膚の下を墨が這うように。じわり、じわりと黒い染みが広がっていく。
    周囲の人々も異変に気づく。
    「おい……」
    「お前、その痣……」
    男は慌てて袖を引き下げる。
    しかし、この男だけではなく、次々と人々の身体にも変化が現れ始めていた。
    腕に。額に。首元に。
    今まで見えなかった痣が姿を現していく。そしてその現象は王都だけではなかった。
    地方都市でも。港町でも。農村でも。国中で同じことが起きていた。隠されていたものが本来の持ち主へ帰っていく。
    その日、人々は初めて知ることになる。自分たちが見ていた世界が偽物だったことを。

    王都の中央広場。
    朝日が石畳を照らす中、人々がざわめいていた。
    権力者。軍人。貴族。
    社会を導いてきた者たち。誰もが立派な顔をしていた人々。その顔に次々と痣が浮かび上がっていた。
    醜く。痛々しく。そして、隠しようもなく。
    「嘘だろ……」
    「まさか……」
    今まで清廉潔白だと思われていた人物の身体にも痣がある。
    尊敬されていた人物にも。英雄と呼ばれていた人物にも。そして彼ら自身が一番怯えていた。隠していたものが露わになったからだ。
    まるで仮面が砕けるように、偽りの清らかさが剥がれ落ちていく。
    広場の片隅で、一人の老婆が呟いた。
    「じゃあ……あの子たちは……」
    その言葉を聞いた若者が振り返る。
    「あの子たち?」
    老婆の目には涙が浮かんでいた。
    「施設にいた子たちだよ」
    震える声。
    「体中に痣があった子たち」
    周囲が静まり返る。誰もが思い出していた。
    街の外れの施設。そこにいた子供たちを。そして徐々に真実が広がっていく。
    痣は生まれつきでも、病気でもなかった。
    背負わされていたのだ。誰かの責任を。誰かの過ちを。
    「そんな……」
    市場の女性が口元を押さえる。
    「じゃあ、私たちは……」
    言葉が続かない。
    平和だと思っていた。安全だと思っていた。秩序が保たれていると思っていた。
    だが違った。
    それは、誰かが代わりに苦しんでいたからだった。
    人知れず、誰かが泣いていたから。誰かが壊れていたからだった。その事実はあまりにも重かった。
    しかし、真実が明らかになったからといって、人はすぐに変われるわけではなかった。
    「あいつだ!」
    通りの向こうで怒号が響いた。
    男が一人の老人を指差している。
    「お前があの横領事件の犯人だったのか!」
    老人の顔には濃い痣が浮かんでいた。
    それは何年も前の不正に対応するものだった。
    「ち、違う……」
    「違うわけないだろう!」
    周囲の人々も集まってくる。責め立てるような視線が刺さる。
    「俺の父親はそのせいで仕事を失ったんだ!」
    人々は今まで見えなかった罪を見始めた。
    だからこそ、誰もが他人の痣を見るようになった。
    街の至る所で争いが起きる。
    「裏切り者!」
    「人殺し!」
    「詐欺師!」
    怒号が飛び交い、殴り合いが始まる。隠されていた罪が暴かれるたびに、新たな憎しみが生まれていく。
    街は混乱していた。人々は互いの痣を見ていた。自分の痣ではなく。他人の痣を。誰かを責めるために。誰かを裁くために。
    そして気づけば、また始まっていた。形を変えただけで、罪の押し付け合いが。
    「私は悪くない!」
    「先にやったのは向こうだ!」
    「私だけじゃない!」
    誰もが言い訳を探していた。責任から逃れようとしていた。
    クラウスが死んでも、システムが壊れても、人間の弱さそのものは消えていなかった。
    夕暮れ。赤く染まる街並み。
    人々の怒声が遠くから聞こえてくる。
    今日も誰かが怒っている。誰かが責任を押し付けている。混乱は広がり続けていた。
    確かに真実は暴かれた。だが、平和は訪れていない。
    むしろ今の方が苦しいかもしれない。
    隠されていた現実を直視しなければならないから。
    痛みを。後悔を。罪を。
    抱えたまま生きなければならないから。
    空には重い雲が広がっていた。まるで国全体を覆うように。けれど、その雲の向こうには確かに空がある。
    長い長い嘘が終わった今。
    この国は初めて、本当の意味で選ばなければならなくなった。
    誰かに押し付けるのか。それとも向き合うのか。その答えはまだ出ていない。
    街は怒りと不信が渦巻いていた。
    だが同時に、偽りの平和の時代も終わっていた。

    ◇◇◇

    長い冬が終わりを告げようとしていた。
    王都の外れにある小高い丘。そこから見える街並みは、以前とはまるで違って見えた。
    煙が上がっている場所もある。崩れた建物もある。広場では今日も誰かが言い争っている。
    クラウスが死に、システムが崩壊したからといって、全てが解決したわけではない。
    むしろ人々は今、自分たちの罪と向き合う苦しみの中にいた。
    隠されていたものが見えるようになった。だからこそ傷ついている。だからこそ迷っている。
    それでも、エルカは空を見上げた。どこまでも広がる青空だった。
    「行くの?」
    背後から声がした。ニーナだ。
    柔らかな風に銀色の髪が揺れている。
    彼女が注ぎ込まれていた痣も全て消えた。
    「うん」
    エルカは微笑んだ。
    「そう言うと思った」
    二人の間に穏やかな沈黙が流れる。
    エルカは胸元から銀針を取り出した。
    朝日に照らされた銀色が静かに輝く。
    幼い頃は、その意味など分からなかった。けれど今は違う。この銀針には願いが込められている。後悔が込められている。そして希望が込められている。
    父は最後まで諦めなかった。怪物を止めようとした。間違いを正そうとした。
    だからこそ、この銀針は終わりのための道具ではない。始まりのための道具だった。
    「父さん」
    エルカを包むように柔らかい風が吹く。
    ニーナが空を見上げた。
    「まだたくさんいるんだよね」
    エルカは頷く。
    システムは壊れた。だが全国に散らばっていた器たちが消えたわけではない。
    むしろ問題はそこからだった。
    施設に取り残された子供たち。
    誰にも存在を知られていない隔離区域。
    行き場を失った子供たちは今も各地にいる。
    誰にも気づかれないまま。助けを待ちながら。
    そして世界は優しくない。
    クラウスは死んだ。だが人間の弱さは残っている。
    責任から逃げたい人間。罪を押し付けたい人間。誰かを犠牲にしてでも幸せになりたい人間。
    そういう人間はこれからも現れるだろう。
    もし放置すれば、子供たちはまた利用される。
    形を変えた新しいシステムが生まれるかもしれない。
    だから、終わっていないのだ。
    エルカは荷物を背負う。
    「じゃあ」
    ニーナが一歩前へ出る。
    「行こうか」
    エルカは目を見開いた。
    「え?」
    「何その顔」
    少しだけ頬を膨らませる。
    「私も行くに決まってるでしょ」
    その言葉に思わず吹き出しそうになる。
    「危ないかもしれないよ?」
    「知ってる」
    「失敗もするかもよ?」
    「それも知ってる」
    ニーナは笑った。
    太陽みたいな笑顔だった。
    「でも、一人じゃない方がいい」
    エルカの胸の奥が少し熱くなる。
    「そうだね」
    丘の上で草が揺れる。遠くの街はまだ騒がしい。
    人々は迷って、傷ついて、答えを探している。
    この国がどうなるのか。誰にも分からない。
    罪とどう向き合うのか。責任をどう背負うのか。本当の平和とは何なのか。まだ誰も答えを知らない。
    けれど、少なくとも一つだけ確かなことがあった。
    誰かを犠牲にする世界には戻らない。戻らせない。
    そのために歩き続ける。助けを待つ子供たちのもとへ。
    二人の姿はやがて丘の向こうへ消えていく。
    その背中を照らす朝日は、どこまでも温かく優しかった。

    完


     
     
    脚本家直伝ストーリーテリング| 超人見知り→ 豪ワーホリ→Kindleベストセラー |繊細さんが感じるモヤモヤを言語化|INFJ |ものキャン9期MVP|note600日以上|Kindle本2冊出版|Amazonアソシエイト参加中|犬とお寿司が好き

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