「自由にやっていいよ」が、難しい。|Re: Trader Log.138
「自由にやっていいよ」
と言われた場所ほど、逆に疲れることがあります。
ルールが少ない。
上下関係も弱い。
好きに発言していい。
一見すると、とても自由です。
でも実際には、
「どこまで踏み込んでいいのか」
「誰が実際に決めているのか」
「この空気で今それを言って大丈夫か」
を、ずっと読み続ける必要がある。
だから人間は時々、自由さそのものに疲れてしまうことがあるのかもしれません。
「自由に話してください」が、意外と難しい
例えば会議でも、
「自由に意見を出してください」
と言われることがあります。
もちろん、その言葉自体はとても良いことです。
でも実際には、完全に自由な場ほど、
声の大きい人
反応が速い人
圧を出せる人
空気を握れる人
が中心になりやすいことがあります。
逆に、
「順番に話しましょう」
「まずは最後まで聞きましょう」
「一回は全員発言しましょう」
みたいな小さなルールがあるだけで、普段あまり話さない人の声が出てくることもある。
これは少し面白い構造です。
一見すると、ルールの方が不自由に見える。
でも実際には、その小さな枠組みがあることで、安心して話せる人もいる。
つまりルールというのは、自由を奪うものというより、
「安心して自由を出せる土台」
として機能することもあるのかもしれません。
本当の「フラット」って、何も決まっていない状態なんだろうか
現代では、「フラットな組織」が理想として語られることがあります。
上下関係を減らす。
自由に発言できる。
誰でも意見を出せる。
それ自体は、とても自然な方向にも感じます。
ただ一方で、「役割」や「最低限のルール」が曖昧になると、今度は別のゲームが始まることがあります。
例えば、
誰と誰が近いのか
誰の空気が強いのか
誰に嫌われるとまずいのか
誰が実質的な決定者なのか
を、みんなが探り始める。
すると今度は、
「空気を読む力」
が強い人ほど有利になる。
これはある意味、ブログで書いた「見えない属人ゲーム」にも少し近い話です。
役割をなくすと、「権力」が消えるというより、逆に見えにくくなるだけなのかもしれません。
人間は、「完全自由」だけでは少し疲れてしまうのかもしれない
もちろん、だから厳しい上下関係が正しい、という話ではありません。
ただ人間って、
「何も決まっていない状態」
が長く続くと、意外と疲れてしまう生き物なのかもしれません。
誰が決めるのか。
どこまでが自分の役割なのか。
何を言ってよくて、どこから踏み込みすぎなのか。
全部をその場の空気から推測し続けるのは、かなりエネルギーを使う。
だから人類は長い時間をかけて、
役割
ルール
手順
順番
みたいなものを作ってきたのかもしれません。
それは支配のためだけではなく、
「安心して群れに参加するための土台」
でもあったように見えてきます。
本当の自由というのは、
「何も決まっていない状態」
ではなく、
「最低限のルールや役割が共有されているからこそ、安心して意見を出せる状態」
なのかもしれません。
この視点をもう少し大きめの視点で整理したのが、今回のブログ記事です。
「役割」は、単なる上下関係ではなく、毎回ゼロから空気を読んで疲弊しないための知恵だったのかもしれない。
そんな切り口で書いています。
