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【中編小説|読了35分】『未完のエチュード』

    あらすじ
    休日の雑踏。人生に行き詰まり、自分を「モブ」だと信じて疑わない男は、怪しげなアクセサリーをまとった若い女性に呼び止められる。
    「あなたの周りに、見たことのないオーラが見える」――。
    新手の勧誘か、それとも詐欺か。破天荒な彼女の真っ直ぐな瞳に押し切られた男は、街角での奇妙な霊視に付き合うはめになる。
    これは、人生の脇役でいることに慣れきった男と、役割を演じることに命を懸ける女の、運命を変える出会いの物語。二転三転する現実と虚構のはざまでそれぞれのエチュード(即興劇)が交錯するとき、物語は予想もしない結末に向け加速をはじめる。

    第一幕 俺

    気味が悪いほどの青空。

    彼方では、巨大な積乱雲が不穏な気配を漂わせている。

    陰鬱な梅雨が明けたと思ったら、すぐに灼熱地獄が訪れる理不尽はどうにかならないものか。

    ある休日。俺は、うんざりした気持ちで街を歩いていた。

    外出の目的は、推しの実店舗限定アイテムを入手するためだ。

    もちろんその目的は達成したのだが、ついつい余計なものまで大量に買わされてしまった。

    達成感はある。しかし、どことない空しさだけが俺の心を支配している。

    俺はふと思いついたように、とあるビルの軒下の日陰部分に身を寄せ、紙袋から入手した限定アクスタを取り出す。

    風景に透過させると、見慣れた推しキャラがまるでこの世界に実体化したように見える。

    脳内では、耳に馴染んだ彼女の歌声が響き、俺のすべてを肯定してくれる。

    これは、わざわざ早起きして始発電車に揺られ、苛烈な競争を勝ち抜いた末にようやく手に入れたものだ。

    しかし、いざこうして手の中に納まってみると、自分が意外なほど冷めた感情になっていることに驚く。

    軽い。とにかく軽い。

    それはきっと、重さだけの問題ではない。

    この物体に、俺はなけなしの大枚をはたいたのだ。

    代償として、給料日までの緊縮財政が確定してしまった。
    残りの日々を、カップラーメンと菓子パンのローテーションで乗り切るしかない。

    このアクスタ……材料はアクリル板とインクだけのはずだ。原価はとんでもなく安いんじゃないのか。

    頭の中に原価率の計算式を思い浮かべ、また気が重くなる。

    気を取り直して、駅に向かっての道を歩き始める。いい休憩にはなったが不快感は変わらない。余計に暑くなった気さえする。

    俺は人混みが苦手だ。

    きっとここにいる誰もが皆、素晴らしい人生を歩んでいるのだろう。

    やりがいのある仕事、家、投資、結婚、子育て、趣味……俺には手に入らないものすべてを当たり前のように所有し、積み上げている。

    その現実を、身をもって体感してしまうのだ。

    ああ、こんなところに来るべきじゃなかった。

    一刻も早く、家に帰ろう。


    駅前の通りに出る。

    休日は歩行者天国になっているため、辺りは着飾った若者やカップルで大賑わいだ。

    初夏の日差しのせいなのか、青々とした街路樹の葉が勢いよく繁茂していて暑苦しい。

    おしゃれな飲食店の横を歩いていると、何とも言えないいい香りがしてきて、つい、今日の晩飯はどうしようかなどと、どうでもいいことを考えてしまう。

    散財してしまったからいつもの牛丼屋には行けない。スーパーの閉店間際を狙って、半額シールが貼られた弁当でも買うか。

    俺は本当に大丈夫なのだろうか。

    このまま歳を取り、満足な貯金もできず定年を迎えてしまったら、一体どうなってしまうのか。

    風景にそぐわない陰鬱な面持ちで、駅への道を進む。

    まるで靴の中に鉛が入っているようだ。意識に反して足がなかなか前に進んでいかない。

    これは、駄目だ。コンビニなどで時間をつぶして身体を冷やすべきか?

    足を止め、辺りを見回す。

    そんな俺に、異変が起こった。きれいな女性と目が合ったのだ。

    彼女は俺とは反対側の道の端に立ち、なぜかじっとこちらを見ている。ような気がする。

    年齢は……大学生くらいだろうか。整った小さな顔。漆黒の長い髪。スラリとした長身。手には大きなバッグを抱えている。

    無地のTシャツとジーンズというシンプルな組み合わせだが、色合いやサイズ感が絶妙で、ファッションに興味のない俺から見てもひときわ洗練された印象を受ける。

    暑さのせいだろうか。俺は一瞬頭がぼんやりして、足を止め彼女の方を凝視するという失態をおかした。

    なんとなく、彼女のどこかに推しキャラの面影を見たのかもしれない。

    次の瞬間、あろうことか彼女がこちらの視線に応え、にっこりとほほ笑んで、こちらに手を振るような幻覚が見えた。

    まずい、ついに妄想が現実を侵食し始めた。

    俺は踵を返し、逃げるように歩き出す。

    歩く速度には自信がある。なぜなら幼少期から、嫌な状況からは速やかに逃げることを繰り返してきたからだ。

    いいことも、悪いことも、予定外のものはすべて計画を乱すものであり、俺とは無関係だ。

    俺はこの場所においてはただの通行人、モブなのだ。それ以上でもそれ以下でもない。なってはならない。

    不思議なことに、面白いように足が動く。

    「……あの!……」

    誰かの声が聞こえた。

    ついに侵食が耳にまで達したようだ。このままでは早晩、全身が支配され、俺は帰らぬ身となることだろう。

    さらに速度を上げる。

    「……待って!……」

    しかし、どうしても幻覚を振り払うことができない。

    俺はとうとうオリンピックの競歩選手のように背筋を伸ばし、足を高速回転させて人ごみの中を爆走した。

    どうだ、さすがの幻覚もこの速度にはついてこれまい。

    「あのお! 待ってください!」

    びっくりして振り返ると、あの美しい女性が息も絶え絶えになって追いかけてきているではないか。本当に、俺に向かって。

    俺は訳も分からず、その場で足を止めた。


    逃げる俺を必死で追いかけてきたせいか、彼女は息を切らせ、頬は上気している。

    「はあはあ……ひどいですよ、呼んでるのに、無視して行っちゃうなんて……」

    驚くほど舌足らずな、幼い話し方だ。その額には、玉のような汗が光っている。

    「息が……整うまで……ちょっと……待ってください……はあはあ……」

    俺は状況が呑み込めず、黙って彼女の息が整うのを待つ。

    待っている間、彼女の姿をまじまじと見てしまう。

    近くで見て初めて分かったが、首には粒の大きな数珠のような物と、十字架のネックレスをかけ、耳には五芒星のイヤリング。他にもいろいろな怪しいアクセサリーを全身に身につけている。

    怪しい、と思った。

    「あっ、あの! 怪しいものではありません! 見た目は怪しいんですが、一ミリも怪しくないんで!」

    テレパシーでもあるのか、彼女が一生懸命弁解を始める。あたふたする姿も愛らしい。

    「実はですね、本当に気が進めばでいいんですが……少しだけお時間を……いただくことが……できないかと……思いまして……」

    彼女の言葉は、途中で花がしおれるようにテンションが下がり、言い終わったのかよく分からない状態で、もじもじしている。

    最後の方はあまりよく聞き取れなかったが、しかし、確かに言った。彼女は俺に時間をくれと言っている。

    もちろん、嬉しくないと言ったら嘘になる。

    一方、俺の脳内の別回路は、同時並行的に冷静な分析を行っている。

    間違いない。これは、新興宗教の勧誘だ。

    この怪しいアクセサリーが雄弁に物語っているではないか。

    悪霊が憑いているとか言って、どこかのビルに連れ込まれ、除霊のための高額な壺や印鑑を買わされるという、あれだ。

    しかも……これは相当に厄介な宗教だ。あらゆる神を同時に信仰しているらしい。相当急進的な団体だぞ、これは。

    しかし、それらを差し引いてもこの子は反則だ。

    実際、やり口がわかっているのなら、危険なことはないのではないか。このご時世、犯罪まがいのことまではしないだろう。

    最悪、壺の一つくらいは買わされるだろう。しかし、この子の営業成績になるなら、意外に悪くないのではないか。

    いや待て……俺には先立つものが……

    目の前で葛藤する俺を見て、彼女が急に悪戯っぽい顔になる。

    「あ、もしかして……宗教の勧誘かなんかだと思ってます?」

    内心を言い当てられ、俺は驚愕した。

    「やだなー。宗教の勧誘するんだったら、こんな分かりやすい格好でやってくるわけないじゃないですか。深読みしすぎですよー、もう」

    彼女はそういうと、俺の肩のあたりをぺちぺちと叩く。

    「確かにスピリチュアルな話ではありますが、お金を払えとか、何かを買えなんて言いません。安心してください」

    ようやく落ち着いたのか、核心の話だからか、彼女は真剣な表情になってそう言った。

    完璧すぎる。

    きっとすべてのマニュアルを生成AIに作らせているのだろう。

    オレオレ詐欺とかも、劇場化しているっていう話だしな。

    俺が難しい顔をしていると、

    「やっぱり……こんな怪しい話、ご迷惑ですよね……」

    彼女は俺の気配を悟ったのか、急に落ち込んだ表情となり、寂しそうに言った。

    「こんな街中で、急に声をかけられるなんて、詐欺かなんかだと思われて当然です……あの、ありがとうございました。忘れてください」

    彼女が丁寧にお辞儀をし、立ち去ろうとする。

    「あの、俺、時間あります! 帰って寝るだけですから!」

    俺の口は、決断するよりも先に勝手に動いてしまった。

    「本当ですか?! 嬉しい!」

    彼女の顔がぱあっと明るくなる。もともと整った顔なのだが、笑顔はひときわ輝いて見える。

    こんな素晴らしい笑顔をこの世に生み出したというだけで、これ以上ない善行を果たしたとさえ思えてくる。

    「じゃあ、お話ができる場所に移動しましょうか」

    彼女はそういうと、重そうなバッグを肩にかけ、歩き出す。

    俺は、後悔するような、それとも嬉しいような微妙な気持ちで彼女の後を追った。


    彼女は俺の前をずんずん歩いていく。

    か弱い子という印象だったが、重そうなバッグを持って走った割には疲れていなさそうだし、足取りもしっかりしている。

    それにしてもずいぶん歩いている。

    俺が爆走したからだな。悪いことをした。

    あのバッグ、何が入っているんだろうか。きっと、俺が買わされる除霊のための壺に違いない。

    男気を見せるため、ここはひとつ俺が持ってあげた方が……

    「よかった! 空いてた!」

    彼女が突然足を止め、歓喜の声を上げる。

    「ずいぶん離れちゃったから、別な人が座ってないか心配してました」

    そこは、街頭のとあるオープンスペースに置かれたテーブルセットだった。街路樹の木陰となっていて、見るからに涼し気な雰囲気だ。

    他のテーブルでは、家族連れが休憩したり、休日出勤のサラリーマンがPCを広げて仕事をしたりしている。

    俺は内心意外な気持ちだった。ビルの一室に連れ込まれると思っていたからだ。

    それに、こんなところで話していたら、どこからどう見ても、かわいい女の子に釣られて騙された哀れな男の品評会じゃないか。

    俺が立ちすくんでいると、

    「少しお待ちくださいね」

    と彼女は言い、自分のバッグからウエットティッシュを取り出して、熱心に拭き始める。

    隅から隅まで丁寧に、何枚も交換しながら、しまいにはテーブルや椅子の足まで拭きあげてしまった。

    「よしよし。これでよし。大事なお話は、きれいなところでしたいですもんね」

    俺は、目の前の光景に感動を覚えていた。

    「どうぞ、こちらにお掛けください」

    俺は、はいだとかええだとか、よく分からない返事をした後、言われるがままに椅子に座る。

    戦利品の紙袋は、誰かに盗まれないように、出来るだけテーブルの下の中央のあたりに置いた。

    「ここ、お気に入りの場所なんです」

    彼女はそう言うと、嬉しそうに対面の椅子にぴょこんと座る。

    「そうだ」

    彼女は思い出したように、バッグから何かの袋を取り出し俺に向かって差し出した。

    「塩飴食べましょう。走ってかいたじゃないですか、汗。ミネラル補給しなきゃ」

    俺は一瞬固まってしまった。

    「早く早く、取ってください。手が疲れちゃうじゃないですか」

    「ありがとう……ございます」

    俺はおずおずと手を伸ばし、個包装された一粒を手に取り、開封した飴玉を口の中に入れる。

    何とも言えない優しい塩味がした。

    「わたしも、もちろん食べます」

    彼女もぱくっと塩飴を口の中に放り込む。

    そうか、俺が走ったせいで汗をかかせてしまったんだな。悪いことをした。

    俺が謝罪すると、彼女は笑顔で、

    「いいんですよ、わたしも楽しかったし。逆に燃えました。なかなかないじゃないですか、あんなシチュエーション」

    と言って、飴の形状に膨らんだ頬であははと笑った。

    これが素の彼女なのか、俺に何かを買わせるための策略なのかは全く分からないが、もうそんなことはどうだっていい。

    壺を買おう。

    俺は心からそう思った。


    「日陰でも結構暑いですねえ」

    彼女は手をうちわにしてぱたぱたと仰ぎながら、ハンカチで汗を抑えるように拭いている。

    俺が気まずそうにしていると。

    「今日は、お仕事お休みですか?」

    と、彼女は自然な笑顔で質問を投げかけてくれた。

    俺は緊張で時々つかえながらも、会社員であること。今日は休日で、大事な用事があってここに訪れたことを告げた。

    彼女は俺の変な話し方を嘲笑するようなそぶりは一切見せず。

    むしろ俺のことに興味があって仕方ないという風に、一つ一つの言葉に大げさなくらいの反応を示してくれて、嬉しかった。

    彼女は、俺の話を丁寧に聞き終えると。

    「聞いてばっかりじゃ駄目ですね。わたしの話もしないと」

    と言うと、顔を俺に近づけて、ささやき声で、

    「何と、わたし、霊能力者の卵なんです」

    と言った。

    「え?」

    変な声が出てしまった。

    驚く俺を見て、彼女はにこにこしている。

    予想外だ、この子自身が霊能力者役だったとは……最近の宗教勧誘は、誘い込むところから除霊までが一気通貫になったようだ。

    「実はこう見えて修行中の身でして、毎日こうやって街頭で霊能力の実践をしているんです。辻説法みたいなやつですね。あれ? 言葉あってたかな?」

    「あなたを見かけてびっくりしました。それは、あなたの周りに見たことのないようなオーラが見えたからです」

    俺はなんだか納得してしまった。確かに、負のオーラという意味では誰にも負けない自信がある。

    「それで何かのお役に立てるかと思って、お声がけしたわけです」

    「でも……そんな面倒なことに付き合うのって……本当は……迷惑に思ってますよね……」

    そう言うと、彼女はまた自信なさげな表情になり、しゅんとしてしまう。きっと俺の浮かない顔を見て、自信が失われてしまったのだろう。

    「そ、そんなことないです! 暇だったんで!」

    反射的にした返事に、彼女がまた最高の笑顔になる。今にもぴょんぴょん飛び跳ねそうな勢いだ。

    俺は、もはやパブロフの犬だ。

    「嬉しい! 実は、あと一つだけお願いがあるんです」

    「わたしのやり取りがちゃんとできているか、後から動画で復習したいんです。霊媒とはいえサービス業ですから」

    彼女はそう言うと、自身のスマホを取り出して俺に見せた。

    「このスマホで、こうやって……やり取りを撮影させていただきたくて。あ、もちろんこちらの姿しか映しません。……許してもらえますか?」

    正直、なんて勉強熱心な子だと思い、何となく胸が暖かくなった。断る理由もない。俺は素直に応じた。

    「ありがとうございます!」

    彼女は嬉しそうに返事をすると、テーブル上にスマホを立て、自分自身に向け、タップした。

    「では、気が変わらないうちに、さっさと準備をはじめますね」

    彼女はバッグの中からたくさんの物を出してテーブルの上に並べ始める。


    小さな壺のような陶器の物体だ。十個くらいはあるだろうか。

    配置や向きなどが重要なのか、彼女は頭をひねり、方角を見ながら微調整を繰り返している。

    「うーん……ネパールはあっちで、伊勢神宮はこっちで……あれ? そもそも北はどっちだったっけ……アプリアプリ」

    壺のそれぞれはよく似た形だが、色が微妙に異なっている。

    そうか! 分かった。

    彼女はこれを販売するのが仕事なんだな。一つ一万円か、十万円か。千円くらいだったら嬉しいんだが……

    きっと、あの冴えない色のやつを勧められるんだろうな……

    俺が妄想しているうちに、準備は終わったようだ。

    「……ふう、こんなもんか。まあ、大体でいいや」

    大体でいいのか。

    「では、説明から始めていきますね」

    彼女は少し長いですがルールなのでと予告すると、長々とした口上を始めた。

    ……

    確かに長い。

    要約すると、人には守り神が憑いているが、たまに筋の悪いものが憑いているケースがある。そうすると、その人は終生不運に見舞われるということだ。

    そして、彼女たちは、それをしつけるための仕事をしていると。

    結局、ガチャみたいなものなんだな、人生って。まあ、理解はできなくはないが。

    話は彼女の所属する組織構造や、社会貢献活動にまで脱線しつつあり、俺の集中力も急速に低下していった。

    やがて彼女の発する声は、言葉の意味を消失していき、心地よいピアノの旋律のように耳を柔らかに撫ではじめる。

    うららかな昼下がり。適度な疲労感。天使の子守歌……少しだけ眠く……

    「……」

    「……」

    「……つまり、わたしたちは歴史ある、社会に認められた団体なわけです。ご安心いただけましたね」

    「では、今から、あなたの霊視をさせてもらいます。準備はよろしいでしょうか?」

    「……」

    「……あの、よろしいですか?」

    「……」

    「あの!」

    霊界に行きかけていた白目の俺に、突然の覚醒が迫られる。

    「はっ、はい! 何でしたっけ?」

    垂れかけていたよだれを慌てて吸い込み、何ごともなかった振りをする俺に、真剣な顔で彼女が問いかけてくる。

    「準備ですよ、準備。始めちゃってもよろしいですか?」

    「はい!」

    何のことかはわからないが、俺はとりあえず元気な返事をした。


    ようやく本格的な霊視が始まるようだ。

    対面の彼女は居ずまいを正し、今までにない冷静な表情で目を閉じ、呼吸を整えている。

    「では今から霊視の儀式を執り行います。危険は一切ありませんので、安心して身を任せてくださいね」

    彼女はそう言って俺に一瞥すると、手を合わせて目を瞑る。

    「はっ!」

    頓狂な声で気合いを入れる。

    重い空気がテーブルの上に充満する。

    ……

    「あっ! 大変だ、ストップストップ」

    「あれ出すの忘れてた、あれ」

    彼女はそう言うと、テーブルの下に身をかがめる。

    バッグの中を探していて見つからないのだろうか、なかなか立ち上がってこない。

    「あ! あったあった、よかったー」

    という声が聞こえたかと思うと。

    ーーゴン

    「いて!」

    と彼女が頭をぶつける音と悲鳴が聞こえた。

    頭を押さえながら、彼女が起き上がってくる。

    「いてて……ありましたありました、ごめんなさい」

    起き上がってきた彼女の顔を見て、俺は違和感を感じた。

    彼女の表情が、曇っていたように見えたのだ。

    何となく、痛みのせいという感じではなかったのが、強く印象に残った。今は笑顔に戻っている。まあ、気のせいだったのだろう。

    「これがないと、儀式ができないですからね」

    彼女が手にしていたのは、神社の神主が持つはたきのようなお祓い棒である。

    「では、気を取り直して……」

    彼女はお祓い棒を手に持ち、テーブルの四方と俺の頭の上をざっざっと祓う。

    本気で間違えていたらしい。

    そして、神主の祝詞のような言葉を、ぶつぶつ言ったかと思うと、唐突に神妙な面持ちになる。

    「はっ!」

    気合を入れると、身体の前でお祓い棒を構え、眉間に皺を寄せ渾身の力を込める。

    「むむむ……!」

    まるで地鎮祭だ。

    ますます通行人の笑い者になっている気がするが、じっと我慢する。

    彼女の苦悶の表情のバリエーションが豊かで、見ていて飽きない。

    それにしても長い……

    多少の自覚はあったが、やはり俺は相当な難物なのだろう。

    さすがに心配になり始めたそのとき、彼女が目をカッと見開き、何かに怯えたような表情になる。

    彼女は焦ったように、手元の本をばさばさとめくりながら、しきりに頭をひねっている。

    「これ……どういうこと? ……こんなイメージ、わたし、知らない……」

    彼女の額に、じわりと冷たい汗がにじむ。

    そしてあるページで手が止まり、驚愕の表情となった彼女の身体は小刻みに震え、しまいにはお祓い棒をばさっとテーブルの上に落とす。

    彼女は両手を口に当て、固まっている。一体何が起こったのか。

    そして唐突に、俺の予想を裏切る言葉を告げた。

    「あ、あの……大変申し訳ありませんが、今回の話はなかったことにさせてください……」


    まったく意味が分からない。結局、これは一体どういう状況なんだ?

    「なかったこととは、どういうことですか? 結果を教えていただけるんじゃなかったんですか?」

    俺の問いに、彼女の震える唇がおずおずと開く。

    「あ、あのですね……あなたの状況は分かったんですが……わたしには、もうどうしようも……」

    それだけを言って、また黙り込む。

    思考が追いつかない。確か俺を霊視し、アドバイスをくれるといった話だったはずだ……

    ……彼女にもどうしようもない……

    ……俺の……呪い……

    不意に足元の紙袋を引き寄せ、限定アクスタを取り出し、彼女に見えないように膝の上に乗せて眺める。

    なんだこれは。

    なぜか、アクスタのキャラクターの目が、色のないビー玉のように見えた。

    冷たい、何かを見透かすような、そんな目に。

    そして、貼り付けられたような笑顔の口だけが動き、聞きなれた歌のフレーズを口ずさむ。

    ……

    ーー今の君が大好きだよ。

    ーー辛くても、無理する必要なんかないよ。

    ーーいつまでも、いつまでも。

    ーーそのままの君でいて。

    ……

    俺は、アクスタを慌てて袋にしまい込んだ。

    耳に染みついた、俺を肯定する優しい言葉たち。しかしなぜ今、こんなに意味が違って聞こえるんだ……?

    これは……まさか……

    突然、脳内の全てのピースが嵌った感覚を覚えた。


    これまでの人生。俺はなにをしてもうまくいかなかった。

    受験や就職にことごとく失敗。ようやく滑り込んだ会社は超絶ブラック。給料も上がらず、先の見えない不安にただ足掻き続けている。

    何一つ蓄積されず、心身をすり減らすだけの毎日。

    俺は……これを運命だと思っていた。いや、そう思わなければならなかったのではないのか。

    俺は囚われていたのだ。

    霊能力者の力をもってしても手の打ちようのない、現状維持という言葉の、とてつもない魔力に。

    「あの!」

    「ひゃいっ!」

    突然、勢いよく立ちあがって叫んだ俺の行動に、驚いた彼女が椅子ごと倒れそうになる。

    「この壺! いくらですか?!」

    俺は、テーブルにきれいに並べられた壺の一つを指さして言った。

    「つぼ?……はて?」

    「あ……もしかしてこれのことですか? これは売り物ではなくてですね、霊験あらたかな、とってもありがたい……」

    「俺が聞いてるのは、値段です!」

    「ね、値段?!」

    「ええと、ええと……これは……由緒正しい高級品で、希少なお品で、とってもとっても高くって……ご、ごごご、五万円です!」

    「買います! これ!」

    「……えっ?」

    なぜか彼女は、びっくりしたような顔になった。

    俺は財布の中身を確認する。

    一万円札が五枚、何とかある。これはたまたま財布に入れていた生活費のほぼ全てだ。

    お札を掴む手が震える。これを使えば、俺は正真正銘のすっからかんだ。

    何らかの形で補填できなければ、電気やガスが止まり、アパートを追い出され、飢えて死ぬかもしれない。

    いや、それでいい。

    俺は、救ってもらうために壺を買うんじゃない。

    決意の証を買うんだ。

    俺は五万円を机に置き、代わりに冴えない色の壺を手に取る。

    小さいが、意外なほどずっしりとした重さがある。形は武骨で、色も冴えないが、俺に一番合っている気がした。

    壺を大切に紙袋に入れ、立ち上がる。

    「あの……俺……ありがとうございました。修行頑張ってください。壺、たくさん売れるといいですね!」

    俺は、何かを言おうとする彼女を制し、その場を離れる。周りの視線も、もう気にならない。

    少し歩いて立ち止まり。彼女の方を振り返り、告げる。

    「自分の人生を誰かによくしてもらおうなんて、虫が良すぎますよね!」

    初めて自然に言葉が出た。これは、彼女に向けたものだったのだろうか。

    多分違う。

    俺自身への、戒めの言葉だったんだ。


    第二幕 わたし

    ソフトクリームのような入道雲が、抜けるような青い空と対照的なコントラストを描いている。

    都会のざわめき。熱せられたアスファルトが描く、蜃気楼の揺らぎ。

    オープンスペースのテーブルチェアを優しく照らす、風に揺れる木漏れ日。

    早足で雑踏に消える男と、立ちすくむ女。

    少しの静寂と、興味本位の視線。

    わたしは謝罪したかったのだ。今回のすべての事情を伝えて。

    しかし、去り際の男の言葉の意味を理解することができず、呼び止めるのがほんの少し遅れてしまった。

    男はあっという間に群衆に紛れ、姿が見えなくなってしまったのだ。

    「まいったな……」

    荷物をそのままにできないし、もう追いつくことはできないだろう。わたしは何とも言えない気持ちで、静かに椅子に腰を下ろした。

    いつの間にか、周囲の好奇の視線は何事もなかったかのように消えうせ、街路樹の下の空間はいつもの雰囲気を取り戻している。

    それにしても、修行、頑張って、か。本来の意味とは違うんだろうけど、励みになるな。

    わたしは身につけていた小道具のアクセサリーを外し、足元のバッグに放り込み、ペットボトルの水を一飲みする。

    椅子の背もたれに身体をあずけ、思考を整理しようとする。

    今日のトレーニングは……正直どう評価すればいいのか分からない。

    シナリオを急遽変えたのが、悪い方に作用したのかな。

    キャラ設定は、最後まで破綻なく維持できていたと思うけど、なんだか釈然としないものがあって、気持ち悪く感じる。

    テーブルの上の花瓶に視線を落とす。

    これはフリーマーケット巡りで集めた、わたしの舞台装置コレクションの一つだ。

    もちろん本来は花を生けるためのものだが、この花瓶をこうやって規則的に並べるだけで、あら不思議。まるで占いの館のような怪しげな雰囲気が出来あがる逸品だ。

    そして、それを並べる行為もキャラ作りに一役買うという。これはもう、発明だよね。

    これを霊力のある壺と思うなんて、想像を超えてたな。こんな特売品の花瓶を……

    え……?

    わたしの目が、とんでもない異変に気付いた。

    「あーー!!」

    思わず出てしまった大声に、ふたたび周囲の視線が集まる。

    花瓶が一個欠けていて、その代わりにしわしわの一万円札が複数、無造作に置かれていたのだ。

    「大変だ! あの人、本当に買っていっちゃったんだ!!」

    わたしは咄嗟にお金を掴んで、男が去った方向に駆け出した。

    しかし、別れてからずいぶん時間が経過してしまった今、彼の姿がそこにあるはずもなかった。

    わたしはしばらく右往左往していたが、何も解決しないことに気付き、テーブルの場所に戻る。

    椅子に座り、頭を抱えてテーブルに突っ伏す。

    大変なことをしてしまった……咄嗟に金額を聞かれて思わず答えたけど、迂闊だった。

    びっくりするくらい高い金額を言えば、絶対に買うはずなんてないと思ったのに……

    彼の連絡先を知らないどころか、どこの誰かもわからない。

    警察に届けるべきか。いや、論理的な説明ができない。第三者から見ればこれはただの物品の販売だ。

    彼は自ら買って行った。詐欺は被害者が申し立てるものだ。

    道端で拾ったというのもおかしい。

    駄目だ! 誰かに頼るのは無理だ。別な方向性で考えないと……

    あの人が持ってた紙袋……確かあの店はこの通りの先だ。彼は駅の方向に向かって歩いて行った。

    つまり、彼が電車でここに来ていたとすると、休日にまたこの通りを通る可能性はあり得るわけだ。

    わたしがここに居続ければ、会える確率は低くないはず……

    これだ!

    会えるのが一か月後か半年後かは分からないけど、ここでトレーニングをしながら待ち続ければ、きっといつか会える。

    わたしは決意すると、お札を丁寧に封筒に入れてバッグにしまった。


    わたしは俗にいう、役者の卵だ。オタクと言っていいほどの。

    演技の練習と役作り、生きるためのバイト。それ以外のリソースにエネルギーを割いている暇なんてない。

    このトレーニング方法を始めたのは比較的最近だ。ちょうど一か月くらいになるだろうか。

    自分でキャラクターを創作して、事情を知らない初対面の人と即興でやり取りをするというめちゃくちゃなものだ。

    合意のない即興劇とでも言えばいいのかな。倫理的には限りなくブラックに近いグレーだろう。

    もちろん、最後に心からの謝罪をするし、何かあればすぐに中止する。

    必要なら、知り合いのカウンセラーにつなぐところも準備をしてる。

    それで許されるなんて思ってないけど、やり切った後の成長実感が半端ないから、やめられないんだ。

    最初の頃は全然お話にもならなくて、毎日泣いてた。辛くて辛くて仕方なかった。

    でも最近は度胸がついてきたのか、周りを巻き込んでいくコツみたいなのがつかめてきて、ずいぶんましになってきた。

    それでも想定外の連続だ。破綻なく、臨機応変に対応しなきゃならないから一瞬たりとも気が抜けない。

    友達からは危険だからやめろと言われるけど、人ごみの中だし、子どものころから格闘技をやってたから、心理的な安心感もある。

    わたしは、スマホの録画を止めていなかったことに気付き、画面をタップし、バッグから分厚いノートを取り出す。

    今日の日付の付箋が貼られたページを開くと、そこには大きく、

    『空気が読めず無自覚に予定調和を崩す、ドジで泣き虫だけど憎めない修行中の霊能力者の女』

    と書かれている。

    これが今日のテーマ。漫画やアニメにでも出てきそうな、あまりにもステレオタイプな設定だ。

    適当にやればそれっぽくなりそうなキャラだけど、わたしは、あえてこのキャラを選んだ。

    この嘘くさいキャラを、どれだけ立体的にできるか挑戦したかったんだ。

    そのために、キャラクターの背景の設定や構築を徹底的に行うのはもちろん、土台を作ることにも同じくらいエネルギーを使ってる。

    図書館で宗教書や心理学、カウンセリングなどの本を読みあさったり、教会やお寺、神社とかで実際に話を聞いてみたりもしてる。

    わたしは、塩飴を二つ口の中に一気に放り込むと、

    イヤホンをつけ、ボールペンを片手に今回の振り返りを開始する。

    意外と悪くない。

    イメージしてたキャラクターが、そこに本当に存在するように感じる。

    異物感はあるけど、雑然とした繁華街の環境にはむしろ溶け込んでみえるから面白い。

    キャラクター造形って、こちらから一方的に記号を押し付けるんじゃなくて、受け取った側が自然と構築できるものじゃないと駄目だと思うんだよね。

    だけどわかりやすさも大事で、それはもう、相手や状況に合わせて柔軟に対応していくしかない。

    気になったところをメモし、納得いくまで再生と検討を繰り返していく。

    「あれ?」

    そろそろ終盤のシーンに入ろうかという部分で、なんだか違和感を感じた。

    イヤホンのスピーカーからは、あの人の特徴的な台詞が響いている。

    彼の存在感は正直、すごい。切迫感が半端ない。もちろんプロの声とは違うことはわかってるんだけど。

    でも、どうしてこんな、違和感を感じるんだろう。

    何度も繰り返し戻して、再生を繰り返すが、どうしてもわからない。

    うーん……まあ……わたしの演技は悪くなかったし、及第点にしとくか。

    それにしても、あの人の去り際いいな。声だけだけど、情景が浮かぶ。

    束縛からの解放みたいな。そんな感じ。


    ずいぶん……太陽の角度が変わった気がする。

    イヤホンを外すと、周囲の喧騒が一気に蘇ってくる。ノイズキャンセリング機能のありがたさを実感する。

    スマホを確認したら二時間くらい経過していた。

    空白だらけだったページに目を落とすと、振り返りで書いた文字や記号が、欄外まで埋め尽くされていた。

    見た目で満足しちゃだめなんだけど、文字の密度を眺めているだけで、今回の学びが深かったことが感じられてうれしくなる。

    あの人のおかげだよね。感謝を伝えられなかったのが、残念だったけど。

    わたしは少し悩んだ挙句、そのページの上に、やや控えめに、"完了"と書いた。

    ずっと座り続けて凝り固まった身体を伸ばし、深呼吸する。

    さて、あまり長居すると迷惑だよね。

    わたしは撤収の準備をするために立ち上がる。

    身の回りの物を片付けて、テーブルをきれいに拭き上げ、ゴミをまとめて袋に入れて最後にバッグにしまう。

    最後に、きちんと整っているかチェアテーブルを俯瞰して眺める。

    風景として見ると、動画とはずいぶん違って見えるな。わたしがあそこにいて、あの人がここで、座ったり、立ったり、叫んだり……

    わたしは突然、背筋が凍るような戦慄を覚えた。

    焦って落としそうになりながら、再度スマホを取り出し、動画を再生する。

    そして、疑念が確信に変わる。

    主客が逆転しているんだ。途中から完全にあの人が主人公になっている。

    スマホを持つ手が震え、慌ててもう片方の手で支える。

    どこからだ?

    わたしが回答を断ってから、言葉の雰囲気が別物になって、あの人が、場を完全に支配している……

    ……

    何が悪かったんだろう……わたしが演技を舐めてた? まさか……でも……

    分からない……でもきっと、あれこそが、本当の人生を生き抜いてきた人の、叫びだ。

    画面に水滴がぽとりぽとりと落ちる。

    雨? わたしは思わず空を見上げる。

    そこには、変わらない青空があった。

    わたしは服の袖で、濡れた目をぬぐう。

    あの人は、生きていた。

    だけどわたしは、生きていなかった。

    わたしは震える手でノートを取り出し、テーブルに広げ、目的のページを開く。

    そこに書かれた“完了”の文字を黒く塗り潰し、"完敗"という文字を書いた。


    わたしは、しばらくテーブルに突っ伏していた。

    どれだけの時間が経過したのだろうか。わたしはスマホで時間を確認して我に返り、顔を上げる。

    こんなことをしていたら駄目だ。

    でも……どうしたら……

    演技力の低さが原因だったら、このままトレーニングを繰り返せばいつかは克服できるだろう。

    でも、何かが違う気がする……もっと、本質的な……何かが……

    わたしは、決意したように涙の痕を拭く。

    分からないことを考えていても仕方ない。今はまず、できることから確実にこなしていこう。それしかないんだ。

    もう一度、キャラの構築手順を確認してみよう。結果は変わらないかもしれないけど、無駄にはならないはずだ。

    わたしはノートを手に取り、さっきとは異なる付箋のつけられたページを開く。

    そこには、

    『やたら強気で上から目線だけど共感性が異様に高く、相手に深入りしすぎて最終的に買わないように説得しだす保険勧誘の女』

    と書かれている。

    「……ぷっ!」

    自分で書いた設定だけど、思わず吹き出してしまった。

    本当は笑っちゃだめなんだけど、今は、何となく笑ってもいい気がした。

    気がつくと、何となく暗い気持ちも晴れてしまっていた。

    この設定は次にやろうと思っていたテーマで、事前の準備は終わっているものだ。

    わたしは家で食べるつもりだったサンドイッチをバッグから出し、大口でほおばりながらノートにペンを走らせる。

    朝、ここに来る前に有名なパン屋で買っておいたものだ。

    美味しい! 

    思わずペンの動きを止めてしまう。お腹がすいていたせいかもしれないけど、今まで食べてきたサンドイッチとは別物だ。

    わたしは、すぐにお腹の中に消えてしまった一切れのサンドイッチを残念に思いながら、再びノートに視線を落とす。

    ええと、保険外交員は、契約を取れば取るほど収入が増えるシステムだったよな。

    シングルマザーで、小さい娘がいて……

    強気で上から目線か……きっとこの女性は、弱みを見せることができない完璧主義者で、他の人からはそう見えてしまっているんだろうな。

    サンドイッチに手を伸ばす。うん、これも美味しい。外れがない。

    有名店のサンドイッチはお財布には優しくないけど、美味しいし、役作りの勉強にもなる。一石二鳥だ。いや、一マイナスで一石一鳥か。

    サンドイッチに手を伸ばす……あれ、もうない。あっという間に消えてなくなってしまった。

    全然お腹は満たされていない。こんなことなら、もっとたくさん買ってこればよかった。

    矛盾してるよね、高いのに、量が少ないなんて。

    ……矛盾?

    わたし今、矛盾って言った?

    このサンドイッチは確かに高い。しかし、高いのにも理由がある。立地の事情もあるだろうし、材料にもこだわっているだろう。多ければいいというものでもないだろうし、何より安すぎては高級感が損なわれる。

    これらはすべて因果の帰結だ。矛盾なんかじゃない。

    今までわたしは設定されたキャラクターの属性を組み合わせて演じていた。矛盾してて難しいけど面白いなとしか思っていなかった。

    でも、どうしてわたしは、矛盾だと決めつけてしまったんだろうか。

    計画通りに進む人生なんてない。その苦悩や葛藤の中で、そうならざるを得なかった姿なんじゃないのか。

    きっとこの女性も、誰かに助けてもらいたいけど言えなくて、自分の意思とは無関係に、他者への共感性を高める形でバランスを取ってしまっているんだ!

    これは……今までのような浅い理解ではだめだ。もっと、深く、彼女の人生そのものを体験するプロセスを経ないと、すべてが嘘になる……!

    わたしは目を閉じて集中する。

    ……保険外交員……日曜出勤……雑踏……一体、何が……

    …

    ……

    …………

    今日、私は、早起きして、娘を連れて実家に立ち寄っている。

    娘を預かってもらうのだ。

    両親は気にするなとは言うけど、重荷にならないはずはなく、心苦しい。

    ーーママ、きょうもお仕事なの?

    娘が私を見上げ、不思議そうに問う。

    『そうなの、ごめんね』

    ーー日曜日なのに? 

    『うん。今、ママ、お仕事大変なの』

    『その代わり、来月こそは、ディズニーランド行こうね』

    不安げだった娘の表情が、これ以上ないほどの笑顔に包まれる。

    ーーうん! わかった! わたし、お利口にしてる!

    後ろ髪を引かれる思いで、実家を後にする。

    コンビニのおにぎりを片手に、軽自動車を走らせる。

    おにぎりも、高くなったな。自分で作ればよかった。

    疲れは抜けていない。だけど、やるしかない。

    『ママ、頑張るよ』

    今日は、絶対に相手の心情に深入りしすぎないこと。そうしないと、また同じことになっちゃう。

    取らなきゃ、絶対に。

    何としても後二件、契約が取れれば……

    …………

    ……

    …

    目が開く。日差しの眩しさに、思わず目を細める。

    夢を見ていたわけではなさそうだ。なぜなら、記憶が明晰だから。ふと、自分が歯を食いしばっていたのに気づいて、力を緩める。

    そうだ、わたしは役作りをしていて……

    思わず立ち上がり、興奮を抑えきれないまま、スマホの時計を見る。

    まだ行ける! 振り返りは明日でもいい。

    メイクをしっかりと整え、髪を束ねる。

    靴をスニーカーからパンプスに履き替え、Tシャツの上にジャケットを羽織る。

    クリップボードにアンケート用紙と、保険会社からもらってきたパンフレットを挟み、ペットボトルの水を一飲みしてバッグに突っ込む。

    さあ、行くぞ。

    慢性的な疲労と苦悩。それを覆い隠すための強めのメイク。知的で他者を寄せ付けない凛とした佇まい。

    だけど心の奥底には隠し切れない優しさと、ある種の決意のようなものを抱いた、そんな雰囲気をまとった女性の姿が、そこにはあった。

    気付いたら、わたしの足は雑踏に踏み出されていた。




    いつもの雑踏。

    長かった残暑も終わり、家中の窓を開け放った時のような、すべての空気が入れ替わった爽快感に満ちている。

    うろこ雲の散らばる空、街路樹の葉は色づき始め、気の早い落ち葉が風に舞っている。

    道行く人たち一人一人が、どことなくはっきりと見えるのは、きっと季節のせいだけではないだろう。

    わたしは、トレーニングウェア姿でスポーツバッグを肩にかけ、薄めのメイク。髪を束ね、丸めたヨガマットを小脇に抱え、自分で作ったチラシの束を片手に雑踏に立っている。

    今日のテーマは期待の新作、

    『財産をなげうってヨガスクールを開校したけど生徒が集まらず、人づきあいが苦手で奥手な、異様に身体の硬いヨガスクール講師』

    であり、それに合わせた格好をしているのだ。

    もちろん、ヨガや関連宗教に関する書籍を読みあさり、ヨガスクールにも通っている。本当に興味がある人がいたら、そこに紹介する手はずにもなっている。

    肩にかけたバッグはずっしりと重い。

    中身は演技の小道具もあるけど、メインはたくさんの役作りノート。わたしの宝物だ。

    使い切ったノートは、スキャンしてスマホに取り込めば軽くなるんだろうけど、何となくそのまま持っていたかった。

    わたしは、いつも通り、ごく自然に道行く人の品定めをはじめる。

    ヨガに興味を持ってくれそうな人がいいな、女性二人連れなんて面白いかも。

    あの人か、それともあの人か……それとも……

    ……あ……いた。

    あの人が人混みの中を歩いているのが見えた。

    手にはファストファッション店の袋を持っている。

    服装が何となく垢ぬけて、髪型もすっきりしているように見える。

    何より、雰囲気がずいぶん違う。以前みたいに風景からひどく浮いてる感じがしない。

    わたしは、あの日の答え合わせができた気がして、ほっとした。

    ポケットの中の五万円入りの封筒を手触りで確かめ、丸めたヨガマットを抱えたまま、雑踏に駆け出す。

    人ごみをかき分けて進む。

    きみは相変わらず早足で、走らないと差が縮まらない。

    息が弾む。

    あの日……儀式の途中で偶然目に入ったんだよ、きみの紙袋の中身。

    わたしも知ってるキャラだったから分かったけど、あの限定アイテムはすごい人気だったから、入手するには途方もない苦労があったはずだ。

    だから、きみは推し活のようなものでしか、自分を支えることができない状況なんじゃないかと思ったんだ。

    宗教の構造もまったく同じだ。だから、これ以上進めるのは危険だと思って、急遽シナリオを変えたんだ。

    本当は、すぐに演技をやめて謝ればよかったんだけど。どうしても、できなくて……

    鼓動が高鳴る。

    でも、きみの苦悩はわたしの想像をはるかに超えていた。

    何百回も動画を見た今ならわかるよ。

    最後の言葉……

    あれは、自分の人生の主導権を取り返す、まさにその瞬間の言葉だったんだね。

    そりゃあ、心に響くわけだよ。

    後ろ姿が、眼前に迫る。

    わたしは、意を決して呼びかける。

    「あの!」

    気配を感じたきみは、こちらを振り返ることもなく、びっくりするくらい早足になる。

    全然変わってないじゃん!

    確信した。ヨガの教えは、きみにこそ必要だ。

    わたしは必死に笑いをこらえながら、速度を上げる。

    「ヨガを! ヨガをやってみませんか?!」

    それを聞いたきみが、さらに加速する。

    わたしは爆笑しながら追いすがる。

    ふたりが疾走する。

    秋の乾いた風が、すべてを包む。

    (了)

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    常識やタブーとされがちな抽象概念や、 世間の不条理をいったん更地まで解体し、 アナロジーやメタファーを無駄使いして、 物語やエッセイに組み立て直しています。 軽い文体でさくさく読めるけど、 なんだか、日常の景色が少しだけ変わって見える。 そんな記事を目指しています。

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