
【エッセイ】季節のおしごと、梅だけもてはやされててちょっとずるい
「季節のおしごと」と呼ばれる営みは、四季それぞれに。
春の筍や山菜に始まり、夏の梅、青柚子。秋の栗に干し柿、冬の沢庵や味噌仕込み。
5月の「季節のおしごと」は緑のダイヤ、山椒だろうか

小枝を除くだけで1〜2時間はかかる
さらに我が家には
ずり這いを覚えて、自力で移動できるようになってしまった7ヶ月のスピードスターが高速移動をしており目が離せない
作業に没頭できるはずもなく
お昼に始めた小枝取りは
日が暮れても終わらず
夜をまたぐ

地味な作業をしながら「次は青梅の季節かしら」と思いを馳せたとき、疑問が首をもたげた。
梅だけなんか、もてはやされてない?
「梅しごと」なんて名前までついて
季節になればSNSには小綺麗なガラス瓶
もはや「丁寧な暮らし」を象徴するアイテムだ
山椒のほうがよほど指先に神経を使うし、栗の皮剥きのほうが圧倒的に腕の力を要する。
からすみなんてどうだ。
針で丁寧に血抜きをして
酒につけて
塩をすりこみ
毎日ひっくり返して干し上げる
数か月間、生活習慣が変わるほどの一大プロジェクトなのに、だれも「ボラしごと」とは言わない

育児に置き換えてみよう
私と息子の一日は長い
腹を空かせていないか、眠たくはないか、暑くないか、安全であろうか
寂しくないだろうか
私と息子の日々に名前はない
夫と息子の週末はどうだろう
「お風呂に入れる」
「離乳食を食べさせる」
「出かける準備をする」
指示を受けて一つでも遂行すればそれは「育児」と名前がついているように思う。
スポットライトの当たりやすい一部のタスクだけが記号化され、特権化されていく構造。
それを見つめていると、やはり世間から妙に甘やかされている「梅」の存在が気になってくる。
梅だけなんかずるいじゃないか。


私が梅に敵意を向けているのには理由がある
昨年の梅酒を失敗した
いつものリカーではなく
ウィスキーや黒糖焼酎でつけた
待てど暮らせどおいしくならなかった
照明を落として
ゆったりと椅子に腰かけ
お気に入りの作家の本をよみながら
コックリとした梅酒をストレートで飲む
すごく楽しみにしてたのに
待てど暮らせどおいしくならなかった
山椒の枝を取ることも
息子との名前のない日々も
夫の危うい育児を見守ることも
私にとっては幸せなのだ
さぁ、今年の梅のために瓶を開ける必要がある
昨年の梅酒を炭酸水と氷で薄めて
ぐびぐびと流し込み
来る決戦の時を虎視眈々と待っている
これが私の静かな名前のない日々だ