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メイク・マネーこそ正義!―アメリカ的価値観のルーツを宗教から探る

    視点のちがいは文化のちがい

     合理的だけどいい加減。そして、メイク・マネーこそ正義!

     そんな雑なステレオタイプをアメリカ人に対して抱いてきた。なぜそう考えるのか、ということに対しては特段、疑問に思うこともなく。

     先日、俺は映画『マイケル』の感想をシカゴ出身の友人と語り合った。良い映画だった。しかしマイケル・ジャクソンという個人を「ポップの王様」という偶像に変えて表象するのは、一種暴力的ではないかというのが俺の考えだ。彼は言った。「そんなこと、アメリカ人は誰も気にかけないよ」

     マイケルの身に降りかかった現象は、ジャン・ボードリヤールが『シミュラクールとシミュレーション』のなかで論じた《死物》の概念に通ずる。

     資本主義と消費社会は、物から生を奪い取り、記号の墓場に閉じ込めるという性質をもつ。この作用は当然、偶像化される個人にも及ぶ。演出・デザインされた個人は、英雄の元型に則り、大衆が求める存在へと変容していく。日本の女性アイドルが生身の恋愛や感情を禁じられ、徹底して処女性という記号のなかに幽閉されるマネジメントはその好例だろう。

     だからここでいう《死物》とは肉体的な死や存在の消滅を意味するのではなく、マイケルという個人がアイコンとして無限に複製され続けることでその人間性が簒奪され、本来の彼自身を何ら表さなくなった状態を示す。

     日本において、個人は全体の向上のために社会のなかで消費されてきた。一方、アメリカでは、個人こそが「アメリカ人」であることの最も重要な要素であり、彼らの偶像とは、その自由を体現する存在である。

     視点の違いは、文化の違い。そういうものに触れることはやはり面白い。有名人という「機能」が社会においてどのように扱われるかという客観的なシステムの視点が、アメリカ的な物の見方なのだ。マクロの視点。しかし、それは結局、冷徹な正当化に過ぎない。

     多くの人々が気付いていないのは、全体を代表する存在が偶像化していく過程において、個人としての自由が犠牲になっているという事実である。そして、彼らはそれをそもそも犠牲とは認識していない。それは俺たち日本人だってそうだ。華やかな世界のもたらす「夢」という幻視が、一体どれだけの人生を食い物にしてきたか。

     他人の言葉がどこまで突き刺さるかは、その当事者になってみないと分からないはずだ。タフな人間ばかりじゃない。徹底した合理主義は、周囲による記号化という銃弾が生身の肉体を貫く可能性を見落としている。マイケルを初めとする偶像化された個人が抱えていたかもしれない孤独という可能性の芽を摘んでしまう考え方を、俺はあまり好きになれない。

     しかし、好き嫌いで相互理解を放棄する行為が、人類史において失敗以外の結果を生まなかったことは自明だ。俺は調べた。なぜここまで考え方が違うのか。それは、思考の前提となるOSにインストールされているものが異なるからだ。今回は日米間における価値観の相違について宗教社会学の観点から理解を試みる。

    アメリカ建国神話

     時を溯り17世紀初頭。イギリスからの入植者によってアメリカ大陸に13の植民地が形成されようとしていた時期。イングランド国王・ジェームズ1世による宗教的弾圧から逃れるため、オランダへの亡命を経由し、北米大陸まで逃れてきた者たちがいた。彼らは後の世において、ピルグリム=ファーザーズと呼ばれる。流れ着いた新天地、マサチューセッツ州プリマスで、現在のアメリカ合衆国の礎のひとつを築いた者たちである。

     上陸に先立ち、彼らは船の名前を取って互いに「メイフラワー契約」を結ぶ。新天地に移住するにあたり、本契約を根拠として政治団体をつくり、「共同の秩序と安全とを保ち進める」ことを誓約したものである。政治的・宗教に自立した民主主義的共同体としての思想、その骨子となる考え方がここには表れている。清教徒はプロテスタントのなかでも、特に教会に権力が集中することを嫌った(だから国教会が作られたイギリスを脱出したのだ)。建国の基礎たる集団概念は、こうしたキリスト教的思考の枠組みが援用されているのである。

     建国の歴史は、はじまりの入植地・プリマスで興ったとして現在では神話化されている。連邦の祝日であるサンクスギビングは、彼らが先住民とともに最初の収穫を祝った日であり、これが制定されていることからも国家としての誇りが窺えよう。

    秘匿されしヴァージニア

     ただし、これは作られた神話である。貴堂嘉之『移民国家アメリカの歴史』によると、ピルグリム=ファーザーズのアメリカ大陸移住は1620年。最初の植民地化であるヴァージニアへの入植があったのは1607年である。この入植は当初貧困を極めていたが、企業が先導しタバコ等の産業作物がもたらす利益によって繁栄していった。

     プリマスの神話化は、イギリスからの独立を勝ち取った18世紀頃から始まる。ヴァージニアを建国の祖にしてしまうと、アメリカはビジネスのために拓かれた土地という側面ばかりが強くなる。国家としての精神性が信仰の純粋性を希求するための自由で民主的な共同体から始まったという名分が、独立にあたって彼らにはなんとしても必要だったのだろう。

     だから思考の基盤として「キリスト教」をそのOSに置いたのには、“必要に駆られて”という側面があったことは否定できない。しかし、それが完全な欺瞞ではなく、純然たる信仰的祈りのもとに生み出されたこともまた事実である。ピルグリム=ファーザーズは、上陸後すぐに大学(後のハーバード大学)を創った。清教徒にとり、大学とは後進の有能な神学者を育成するための宗教的インフラにほかならない。宗教的結束のもとに成立した共同体にとって、共通する思考のOSが「神学」であることになんら不思議はない。しかし、思想を実践に移すことができるかどうかというのは、またステージが別である。物質的豊かさが達成される以前に、教育に投資したという事実には驚かされる。

    論理の逆転―アメリカ化するキリスト教

     ところで、宗教には必ず土着化という変容が生じる。キリスト教もアメリカという土壌に根付いていく過程で、西洋のそれと大元の精神は共通しても、独自の現象形態が生じるようになっていく。端的にいえば、神と人間の契約関係に独自の解釈が加えられるようになっていくのである。

     元来、キリスト教世界において中心的なモチーフは「片務契約」であった。これは、「神は人間の不服従にも関わらず、一方的に恵みを与える存在である」という理解である。これがアメリカでは「双務契約」に変化していく。つまるところ、神と人間は互いに契約履行の義務を負うという考え方である。そうなると、神の恩恵は無償に施される恵みではなく、報酬という性質を帯びるようになる。神と人間の関係性は、雇用主と労働者のようなビジネスライクなものに変化していくのである。

     正しい者には祝福を、悪しき者には天罰を。こうした因果応報の論理は我々日本人にも馴染みがあるが、我々の場合、人間が正しい義務を果たしたとき今度は神が義務を果たす番になるという発想に至らない。だがこの思想こそが、アメリカ人的な成功する者が正しいというロジックに直結していくのである。神の祝福は、正しい者だけが享受できるからだ。

     どういうことか。マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、このアナロジーを端的に説明している。プロテスタンティズム(ここではカルヴァン主義)において、救われる者は神によって予め決定されている。“予定説”とよばれるものだ。だからこそ、信徒は“正しい行い”によって、自らが神に選ばれているという証拠を現世において追求せねばならない。神から与えられた世俗の仕事に対し、真摯に励んだ結果として、富が蓄積されること。これこそが、神の祝福を受けている最大の証明になるのである。これが「プロテスタンティズムの倫理」が「資本主義の精神」を生むに至る過程である。富と成功は、神の祝福であり福音なのだ。

     さらに言えば、キリスト教の伝統における善行の定義そのものにも、この富の肯定は内包されている。たとえば聖書において、現世の財産を貧しい者に分け与える物語や寓話はかなりの数が見受けられる。

     イエスは「富める者が神の国に入るのはラクダが針の穴を通るよりも難しい」と述べており、富そのものは警戒対象として語られる。ルカの福音書に登場するザアカイは教えに目覚め、自らの財産を貧しい人々に分け与えようとするが、彼は元々徴税人の頭目である。

     当然だが、与えることは富める者にしかできない。キリスト教の本来の意図は脇に置くとして、現代アメリカを席巻する繁栄の神学というフィルターを通せば、富めることが善性の前提に立つのである。だから、富が必ずしも明示的に成功の結果と見做されてはいなくとも、彼らの信仰のなかで暗にそれは成功の証として示されるのである。

     日本において、一代で富を築いた“成り上がり”を見る目は、時として冷ややかだ。しかし、アメリカでは違う。「清貧」「無私」「足るを知る」という感性の仏教・儒教世界において、蓄財は強欲の象徴であるが、アメリカにおいて成功は神に選ばれた者にしか成し得ないのである。

     俺は冒頭でマイケルの描き方を内面の孤独を無視する冷酷な記号化であると評した。だが、アメリカ人の割り切りは生の実績に対する最大級の敬意でもあるのだろうと今は思う。

     むしろ、外面的な個人の成功を妬むかのように血統や内面の本音を詮索しようとする東洋の陰湿さの方が彼らからすればよほど無作法なのだろう。他者の内面を土足で踏み込まないためには、外面に表れる結果しか信じないという前提に立つこともまたフェアな姿勢なのかもしれない。

    反知性主義―”アメリカの”自由と平等

     ここでひとつ注意しておきたい。それはアメリカにおける「自由」の物語は、必ずしも万人の平等を意味するものではないということである。そもそも「富と成功」は格差に繋がるのだから、キリスト教の主張する「神の前の平等」から真っ向から反するはずである。

     しかし、両者は矛盾しない。この二つは次に述べるもう一つのアメリカの伝統、反知性主義に結びついている。これは字面の通り知性そのものに対する反発ではなく、知性と権力の結びつきが固定化され流動性が失われることに対する反発である。

     例えば、前述した通りハーバード大学は神学に深い伝統をもっている。そのため卒業した牧師はそのなかでもエリートであると見做されるようになる。しかし、ハーバードは誰にでも開かれた場所ではなく、子どもを高等教育へと進ませる経済力を有した人々に限定されていた。

     システムが固定化されると、今度はそこからエリートが生まれてしまう。彼らの反発はハーバード大学そのものではなく、限定的なハーバード主義なのである。すなわち、アメリカ人の憎しみは知性を盾に既得権益の椅子に座り続け、階級を固定化しようとする権力の動きに向けられているのである。

     では、知性が権力と結束し固定化することを嫌う反知性主義が、なぜ自力で這い上がった金持ちと格差を肯定できるのか。彼らにとって、血統や学歴という固定化された既得権益で威張るインテリよりも、自らの腕一本で現世の結果、つまり富を掴み取った者のほうが、遥かに誠実で正しい存在だからだ。

     もう一つ決定的なのは、資本主義がもたらす富の不平等が、彼らにとっては流動的なものとして映る点である。権力はいくら行使しようとなくならない(むしろ強まる)が、金は使えばなくなる。富は神の祝福という個人の実力がもたらした結果であり、血統や学歴など無くとも誰もが明日、大富豪になれるチャンスがある。人間は神のもとに平等であり、機会的な平等さえ担保されていれば、結果の上に生じた不平等に問題はない。むしろ、個人が自由な戦いのなかで勝ち取った結果として賞賛されるべきことなのだ。

     この既得権益を疑い、機会の平等を重んじるというマインドセットの原型こそが、彼らの持っていた組織論、すなわち次のセクションにて触れる「セクト」という集団概念である。

    チャーチとセクト―2つの集団概念

     イギリス国教会の権威を嫌ってアメリカという国家を打ち立てた彼らにとって、そしてこの反知性主義に大きくかかわるものに「チャーチ型」と「セクト型」という2つの集団概念がある。「チャーチ」は教会を意味する、社会全体を覆うグループ、入れ物である。では、「セクト」とは?

     森本あんり『宗教国家アメリカのふしぎな論理』の比喩がわかりやすい。例えば大学の中にテニス部があるとする。この組織は寛容で、誰でも入ることができる。すると素人ばかりが集まって試合には全く勝てない。そんな状況下から、このテニス部に嫌気が差し、厳しいトレーニングを積み試合に勝ちたいと思う部員が現れる。彼は経験者であることは勿論、一定の実績を上げている者だけが入会を許され、厳しい練習のもとに活動していく新しいテニス部を立ち上げる。これが「セクト」である。

     変革が内部から生じるのは近代知性の特徴である。宗教改革も構造主義も、同じプロセスを経て生まれた。セクトはその性質が非常に強い。理想主義的で、宗教的確信と不可分な高い規範意識をもつ。アメリカという国はその出発点において、ヨーロッパ世界を超克し新国家を建てんというセクトの精神があったから、権力構造に対する疑念と反発が殊更に強いのである。

     そして、そのエネルギーはそのまま反知性主義に注がれる。権力は放っておくと教養ある知識人に集中するからである。セクトの権力への猜疑心は、南部のチャーチ型社会とはどうしても相容れなかった。この対立がそのまま南北戦争へ繋がっていく。

    そして南北戦争へ

     アメリカという国家を一言で表すなら、チャーチ/セクトの対立が構造の内部で絶えず継続している国家といえよう。彼らは理想と現実の狭間で権力を必要悪と見做しながら、妥協案として社会を建設している。だから割り切れるものに対しては合理的なのだろう。この対立関係が限界まで高まり、そして爆発した出来事が南北戦争である。

     この内戦について俺は奴隷解放のための戦争という程度の理解しかなかったが、これはそんな単純なものではなく、相容れない二つのOSが以降のアメリカにおけるデファクトスタンダード(標準仕様)になるかどうかを決定する戦争に他ならなかったのである。

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     南北戦争における勢力図を見ながら、構造を整理しよう。ピューリタンによって形成されたプリマス型植民地において労働は神聖な義務であり、労働者は自由な個人でなければならなかった。各人の自立と自律はセクトの基本理念のひとつである。ところが、南部ではヴァージニアのタバコ栽培に始まり、綿花・砂糖といった広大なプランテーションによる農園ビジネスが主流であったため、地主をピラミッドの頂点に置き、奴隷をその最底辺に配置したチャーチ型の身分秩序社会が形成されたのである。

     産業ビジネスとしての農園事業は、純粋に生きるために行われる食糧確保のそれと大きく性質が異なる。人手は多ければ多いほど良しとされ、奴隷制の論理はこれと相性がよかった。しかし、セクトはこの矛盾を看過することができない。だから、南北戦争は前述したそれぞれの理念に同調/反発する勢力同士の戦争であったと理解できる。

     北部セクトが勝利した結果として、現代のアメリカは今日まで共和党と民主党の二大政党制を前提とした政治体制を敷いているが、それぞれの政党に党首はいない。国家には政府が必要で、政治には政党が必要であることは渋々認めるが、権力は最小限でなければならない。だから彼らは権力に対する監視の目を怠らない。

     日本において政治の話は宗教と同様、タブーとして扱われるが、それは「お上」に従うという社会構造の内面化に他ならない。一方でアメリカ人は個人が当事者として政治を監視・議論しなければならないというプロテスタント的義務感があるからこそ、休憩時間にコーヒーを飲みながら政治の話ができるのだ。アメリカ社会においてセクトの精神が生み出される環境は、キリスト教をその思考基盤に置くことによって、アプリオリに備わっているのである。

     そして、この戦争に北部のセクト資本主義が勝利したからこそ、アメリカは外面の結果がすべて!メイク・マネーこそ正義!という超合理主義国家として世界に君臨することになり、それが巡って俺の友人の「そんなこと、アメリカ人は誰も気にかけないよ」に繋がっているのである。

    反転する南部

     以上が宗教行為として蓄財の正しさが保障され、チャーチ/セクトの闘争が合理主義の精神を構築していったプロセスである。アメリカ内部においてこの闘争は今もなお続いており、その視点から見ると銃規制問題や出生地主義が彼らのアイデンティティと不可分の関係にあることがわかる。

     これを経て今のアメリカを見た時に面白いのは、かつてチャーチ型で形成されていた南部が敗戦を経て、現在のアメリカにおいてもゴリゴリの保守派、反知性主義の牙城へと転じている点である。その気風の始まりは、南部の人々にとり新たな北部権力がチャーチそのものであり、また封建社会においては支配者よりも被支配者層のほうが単純に数で上回っていたからだ。

     プランターである支配者層は洗練された教養人であったが、被支配者階級である彼らには小難しい神学よりも、大声で賛美歌を歌い、涙を流して救済を祈るエモーショナルなキリスト教のほうが肌に合った。現在でもサウス・バプテスト派は教会に集まった信者同士で歌い、踊ることで神と繋がるのだという。

     俺は特定の宗教をもたないが、人生は実感を通して豊かになるという考え方には共感できるなと思った。

    俺たちは外面的結果でしか他者を評価できないのか

     他者の内面の真実を問題にしないことは、他者という聖域を侵さないための優しさであり、歴史が選び取った生存戦略としての知恵なのだろう。そのシステムの潔さを、今は理解できる。

     しかし、それでも俺は思うのだ。システムから零れ落ちる個人の痛みを切り捨ててしまいたくはないと。そう思うのは、なんらかの論理に裏打ちされているのでは決してなくて、俺のわがままである。

     世界のシステムは書き換えることはできないかもしれない。でも、せめて俺の目の前にいる個人に対してだけは、外面の結果だけじゃなくて、内面の孤独にまで手を伸ばしたい。アジカンの曲が脳内でリフレインする。

    出来れば世界を僕は塗り変えたい
    戦争をなくすような大逸れたことじゃない
    だけどちょっとそれもあるよな

    ASIAN KUNG-FU GENERATION『転がる岩、君に朝が降る』

     そういうことなのかもしれない。

     
     
    ものをよく かきちらかす

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