短編:夏から帰る
「そろそろ帰ろうか」
そう言われて、私は聞こえないふりをした。波打ち際にしゃがみ込み、意味もなく指先で砂を掘っている。
八月の終わり。午後六時を過ぎても砂浜にはまだ昼間の熱が残っていた。素足を埋めれば、生ぬるい砂が指の隙間からこぼれていく。
海だって青い。蝉だって鳴いている。さっきまで泳いでいたし、売店ではまだかき氷を売っている。
なのに、どうして帰らなくちゃいけないんだろう。
「ねえ、まだ夏だよ」
「うん」
「じゃあ、帰らなくていいじゃん」
笑われた。そういう意味じゃないことくらい、私にだってわかっている。でも今日は、夏休み最後の日曜日だった。
明日から急に秋になるわけじゃない。九月になったって暑い日は続くし、海だって消えはしない。
だからこそ嫌だった。夏は、ある日突然いなくなるんじゃなくて、気づかないうちに、少しずつ帰っていくんだもの。
洞窟のほうまで歩いてみると、昼間は潮に隠れていた岩肌がむき出しになっている。隅っこに、どこから飛ばされてきたのか枯れ葉が何枚か溜まっていた。
風が吹く。枯れ葉がカサカサと音を立て、くるりと舞った。こんなところにもう秋が来ている。
「見なかったことにしよう」
「何を?」
「枯れ葉」
「なんで?」
「夏に失礼だから」
また笑われた。私は枯れ葉を蹴飛ばした。風に乗った一枚が砂浜を転がっていく。追い払ったはずなのに、なんだか秋の背中を押してしまったみたいだった。
海へ戻り、干していたTシャツに触れると、もうほとんど乾いていた。
「乾いちゃった……」
「よかったじゃん」
「よくない」
これが乾いたら帰る約束だった。私はTシャツを睨んだ。だったら、もう一度何かを濡らせばいいと、サンダルのまま波の中へ入った。
「ちょっと!」
足首まで海水に浸かる。一歩。もう一歩。波が来る。白い泡が足元を包み、サンダルの中に砂が入り込んだ。
「これで帰れない」
「Tシャツは乾いてるけど?」
「うるさい」
振り返ると、呆れた顔をされた。自分でも子どもみたいだと思う。それでも私は、少し嬉しかった。帰れない理由ができたから。
太陽は水平線の近くまで下りている。海の上に長いオレンジ色の道ができていた。
昼間とは違う海だ。綺麗だった。綺麗すぎて、嫌だった。夕焼けなんてなければいいのに。ずっと真昼ならいい。
時計もなくなればいい。午後三時くらいで世界中の時間が止まってしまえばいい。そんな魔法が使えたら、私はきっと迷わず使う。
海から上がると、濡れたサンダルを引きずりながら歩いた。波の音は昼間と何も変わっていない。
ざあっ。
ざあっ。
同じ音。
海だけは、夏が終わることなんて知らないみたいだった。でも風は違っていた。濡れた腕を撫でていく風に、ほんの少し冷たさが混じっている。
「あ……」
「どうした?」
「風が秋になってる」
立ち止まると、風だけが先に行ってしまう。海も私もまだここにいるのに、風だけが知らない季節へ走っていくようだ。
「待ってよ、まだ行かないでよ」
そう言いたくなった。
また風が吹いた。今度は背中から。まるで「もう帰りなさい」と言われたような気がした。
「やだ」
小さく呟いた。聞こえていたかもしれないけど、何も言われなかった。
太陽が海へ近づいていく。私は砂浜に座った。帰りたくない。まだ帰りたくない。
ここから帰りたくないというより、夏から帰りたくなかった。
蝉の声。日焼けした肩。冷たいラムネ。指の間に残る砂。夜になっても熱を持っている道路。遠くで聞こえる花火。蚊取り線香の匂い。全部、ずっとそこにあるような気がしていた。
だけど毎年、なくなってから気づく。もっと遊んでおけばよかった。もっと見ておけばよかった。もっと夏を好きだと言っておけばよかった。
太陽の端が水平線に触れた。オレンジ色だった海が、少しずつ暗くなる。
「止まって」
心の中で言ってみる。もちろん止まらない。もう一度言う。
「止まって」
それでも太陽は沈んでいく。私ひとりが駄々をこねたくらいで、季節は待ってくれない。やがて太陽が海の向こうへ消えた。それでもしばらく、空にはオレンジ色が残っていた。
私は立ち上がって砂を払った。濡れたサンダルを履き直し、乾いたTシャツを抱えた。そして最後に海を振り返った。波は相変わらずだった。
ざあっ。
ざあっ。
また来ればいいじゃないか。そう言っているみたいだった。
「……わかったよ」
自分でも驚くほど素直な声が出た。
「よく遊んだよ」
夏に向かって言う。海で泳いだ。花火もした。蝉の声をうるさいと思った。暑い暑いと何度も文句を言った。
アイスを落として泣きそうになった日もあった。夕立の中を笑いながら走ったこともあった。考えてみれば、ずいぶん遊んだ。だからもう帰ろう。
砂浜を歩き始めると、背中からまた風が吹いた。さっきより少し冷たい。
今度は振り返らなかった。夏が追い出しているんじゃない。きっと、送り出してくれている。
駐車場へ向かう途中、私は海に小さく手を振った。誰に見せるでもなく。
「じゃあ、またね」
来年まで忘れないように。海の色も。砂の熱も。風の匂いも。今日、どうしても帰りたくなかったことも。全部、心の奥に刻んでおく。
遠ざかる波の音だけが、最後まで夏のままだった。
こちらの記事は、ハルさんの記事『夏から帰る。』に掲載されている曲の歌詞を、筆者が独自の解釈で脚色して膨らませたものです。
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