メインコンテンツへスキップ
見出し画像

銀の仮面の王子Ⅴ



    ミシュナ国 人物紹介

    アンシアを取り巻く人々

    アンシア
    エルマー国からミシュナ国へ嫁いできた姫。バルモ第三王子の第一夫人。
    勉学よりも、衣装・髪型・菓子作りを好むため、宮廷では「おしゃれと食べ物にしか興味がない姫」と軽く見られている。
    しかし、布や色を見分ける感性は鋭く、異国の宮廷の中で、自分の居場所を探している。
    バルモ第三王子
    アンシアの夫。ミシュナ国の第三王子。
    地質学に関心があり、貴族学院で学んでいる。病弱で、舞踏や社交は得意ではない。
    アンシアに悪意はないが、彼女の孤独や屈辱を十分には見ていない。
    バハリ
    先王の第三夫人。バルモの母。
    アンシアの母パルミとは従姉妹同士で、異国に嫁いできたアンシアを気遣う。
    宮廷で生きるための現実を知っており、アンシアに優しく助言する。


    ミシュナ国王家

    カリモ第二王子
    ミシュナ国の第二王子。銀の仮面をつけ、時には女装して舞踏会に現れる。
    夕刻になると二頭の黒い犬を連れて墓地へ行くため、民からは「死神王」と呼ばれている。
    誰とも親しく交わらず、貴族たちから遠巻きにされているが、アンシアの孤独と言葉にならない屈辱を、最初に見抜く人物。
    カリナ王女
    ミシュナ国の王女。黒い絹糸のような髪と黒い瞳を持つ、美しい王女。
    ナジェリ公爵家のバシア公に嫁ぎ、ナジェリ一世の母となる。
    王家とナジェリ公爵家を結ぶ重要な存在。
    バクス第四王子
    ミシュナ国の第四王子。若く美しい王子で、貴族の公女たちから注目されている。
    人々に愛される華やかな表の顔を持つが、物語が進むにつれ、王家の影を背負う人物として現れる。


    ナジェリ公爵家

    ナジェリ公爵
    ミシュナ国の摂政。王家を支える名目で、国政に強い影響力を持つ。
    孫ナジェリ一世の誕生日の祝宴を盛大に催し、自らの権勢を宮廷中に示す。
    バシア公
    ナジェリ公爵の長男。カリナ王女の夫。
    舞踏会では、妻カリナ王女とともに、来賓たちの祝福を受ける立場にある。
    ナジェリ一世
    カリナ王女とバシア公の子。ナジェリ公爵の孫。
    一歳の誕生日を祝う舞踏会が開かれ、宮廷の注目を集める。


    外国から来た人々・学院関係

    ナリー姫
    ジェンナ国の姫。鮮やかな原色の民族衣装がよく似合う、快活な女性。
    貴族学院でバルモに地質学を教えている。アンシアにも学院への参加を勧めるが、アンシアは自分には学問よりも別の道があると考えている。


    エルマー国にいるアンシアの家族

    ルジン王子
    アンシアの兄。アザンとともに「死者の国」へ旅立ったとされる人物。
    アンシアは、兄が無事に帰ったのかをずっと案じている。
    アザン
    ルジン王子とともに死者の国へ向かった人物。
    アンシアにとっても大切な友人であり、ルジンの旅の同行者。
    アンジリ
    アンシアの妹。陽気で舞踏を好む姫。
    アンシアはミシュナ国の舞踏会で孤独を感じるたび、妹なら一晩中楽しく踊っただろうと思い出す。
    パルミ王妃
    アンシアの母。もとはミシュナ国の王女で、若くしてエルマー国へ嫁いだ。
    異国の言葉も分からないまま嫁ぎ、貴族たちの意地悪に泣いた過去を持つ。アンシアは、自分の孤独の中で母の新婚時代を思い出す。

    ミシュナ国の王宮にいる人々

    ――アンシアが出会う王子、王女、公爵家の人々

    1 ミシュナ国王家

    故ミシュナ国王+故シャルタン妃
    ├─故クレモ第一王子
    ├─ カリモ第二王子 銀の仮面の死神王
    ├─ カリナ王女 ナジェリ公爵家へ嫁ぐ
    ├─ バルモ第三王子 アンシアの夫
    └─ バクス第四王子 美貌の若い王子

    2 ナジェリ公爵家

    ナジェリ公爵 ミシュナ国摂政
    └─ バシア公 ナジェリ公爵の長男
      └─ 妻:カリナ王女
        └─ ナジェリ一世

    3 エルマー国から来た人々

    アンシア バルモ第三王子の第一夫人
    ├─ 兄:ルジン王子
    ├─ 妹:アンジリ
    ├─ 母:パルミ王妃
    └─ 友人:アザン


    五章 カリモとの謁見

     その日の夕食後、アンシアはバルモとの居室で刺繍をしながら、夫の帰りを待っていた。

     バルモは、愛情には不実でも、約束には忠実な男だった。

     やがて、窓の外で馬車の止まる音がした。
     しばらくして、扉が開き、バルモが入って来た。

     その姿を見た瞬間、アンシアは胸が痛んだ。

     まだ、好きなのだ。

     こんなに傷つけられても、こんなに見捨てられたように感じても、バルモの姿を見るだけで、心のどこかが彼を求めてしまう。

     ナリーとの居室が完成すれば、彼はもうこの部屋へ来なくなるかもしれない。

    「元気になってよかった、アンシア」

     バルモは言った。

     見舞いの花ひとつ寄こさなかったくせに。

     そう言いかけて、アンシアは飲み込んだ。

    「もう、あなたのことで悩みたくないの」

     アンシアは刺繍の針を布に刺した。

    「執着して、こだわっていると、心が暗くなるでしょう。私は暗いのが嫌なだけ。まだ充分元気になったわけではないわ」

     バルモは少しだけ目を細めた。

    「そうだね。多分、君はそうやって一生、深く考えることをしない人なのだろうね。努力もせず、自分の好きなことばかりして。君が変わることはない。僕たちは、平行線のままだ」

     アンシアは顔を上げた。

    「あなたは、私のことを深く考えてくれたことがあるの?」

     バルモは黙った。

    「あなたは、自分の欲望に正直なだけではありませんか。あなたとお義母さまとナリーは、ジェンナ国へ行けるかもしれない。でも、私は人質としてこの国に残されるのよ」

     バルモの表情が固くなった。

    「あなたは幼い頃から、死と隣り合わせに生きてきた。いつ死んでも後悔したくない。だから、自分の望みに正直でいようとするのでしょう」

     バルモは何も言わなかった。

     彼は怒ると黙り込む。
     感情が高ぶれば、胸の発作が起こるかもしれない。その危険を避けるために、彼は昔から、黙ってその場を離れる癖があった。

     バルモは立ち上がりかけた。

    「待って、バルモ」

     アンシアは慌てて言った。

    「ごめんなさい。あなたの身体に負担がかかる話はしないわ。今日は、お願いがあって来てもらったの」

     バルモは扉の前で足を止めた。

    「お願い?」

    「私には、目標ができたの」

     アンシアはゆっくりと言った。

    「今の私には、たった一つの希望なの。エルマーの家族からの手紙が読みたい」

     バルモは振り返った。

    「手紙?」

    「私からの手紙が家族に届かないのは、もう諦めているわ。でも、家族から私に届いた手紙まで取り上げられるのは、耐えられない。だから、カリモ様の謁見に行かせてほしいの」

    「カリモ詣でか」

     バルモの声には、少し皮肉が混じっていた。

     カリモ詣で。

     それは月に一度、カリモの誕生日である六日に、バレリがカリモの謁見の間へ行き、ささやかな品を置いて来る習慣だった。

     親しみからではない。
     ミシュナの王宮で生き延びるための挨拶だった。

     ナジェリ公爵家と、死神王カリモ。
     この二つに嫌われなければ、王宮ではひとまず生きていける。

     バルモはアンシアに背を向けたまま言った。

    「いいだろう。僕から母に言っておく。この国では、ナジェリ公の御家族と兄上に気に入られていれば安泰だ」

    「あなたも行ったことがあるの?」

    「あるよ。でも兄上とは話が続かない。母も挨拶だけして、贈り物を置いて、すぐ帰って来る」

     バルモは少し笑った。

    「僕には、兄上は今でも不可解だ。だが、アンシア、君とは気が合うかもしれない」

    「どういう意味?」

    「愚か者同士だ」

     アンシアは目を見開いた。

    「バルモ。それ、冗談で言っているの?」

    「もちろんだよ」

    「皮肉にしか聞こえなかったわ」

     バルモは答えず、部屋を出て行った。

     ナリーとの結婚式がいつになるのか、聞きそびれてしまった。

     けれど、今夜はもう、バルモとは話したくなかった。

     第二宮殿から、ナジェリ公爵やカリモが住む第一宮殿までは、歩いて五分ほどだった。

     決められた午後の時刻に、アンシアはカリモの謁見の間へ向かった。

     従者に案内され、彼女は部屋へ入った。

     正面には大きな鏡がある。
     暖炉、低いテーブル、古い調度品、骨董品。部屋は整っているのに、どこか使われていない場所のように静かだった。

     アンシアは両腕を前で組み、膝を少し曲げて、ミシュナ国風の礼をした。

    「兄上様にあられましては、本日もご機嫌うるわしく、喜ばしく存じ上げます。アンシアでございます」

     返事はなかった。

     長い沈黙が続いた。

     椅子を勧める声もない。
     腕と足が少しずつしびれてくる。

     アンシアはそっと顔を上げ、正面の鏡を見た。

     鏡の向こうに、本当にカリモはいるのだろうか。
     もしかすると、この部屋には誰もいないのではないか。

     勝手に帰るわけにもいかず、アンシアが途方に暮れかけた時だった。

    「ようこそ、アンシア。椅子に座りなさい」

     鏡の奥から、低くよく通る声がした。

     アンシアは息をのんだ。

     カリモ本人の姿は見えない。
     けれど、その声には不思議な力があった。人を近づけるような、同時に近づかせないような響きだった。

     アンシアは鏡に向かい合う椅子に座った。

     そして、テーブルの上に置いた包みを開いた。

    「何をお持ちすればよいか分かりかねたのですが、兄上様が私の婚礼衣装をお褒めくださったと、お義母様から聞きました。この衣装を献上させていただきたく存じます」

    「ありがとう、アンシア」

     鏡の奥で、カリモの声がした。

    「気鬱の病で臥せっていると聞いたが、元気そうだ。あなたには笑顔が似合う」

     アンシアは返事に困った。

     カリモは続けた。

    「その婚礼衣装も素敵だが、披露宴の時の衣装。私は見ていないが、貴族たちの顰蹙を買ったそうだね」

     アンシアはうつむいた。

     失笑を買ったとは聞いていた。
     けれど、顰蹙まで買っていたとは知らなかった。

     おそらく、スカートの丈が短く、膝が見えたことがいけなかったのだろう。
     女が人前で足を見せることに、ミシュナはエルマーよりもずっと厳しい。

    「それに、髪型も話題になったらしい。エルマーとはどんな国なのかと、皆驚いたそうだ」

    「……あれは、お義母様にも諫められまして、処分いたしました。恥ずかしい限りでございます」

    「惜しいことをした」

     アンシアは顔を上げた。

    「え?」

    「私は、その斬新な衣装の方に興味があった。一度見たかった」

     声は柔らかい。
     けれど、皮肉なのか本気なのか分からない。

    「君はおそらく、百年早く生まれた天才デザイナーなのだろう」

     アンシアは困惑した。

     バルモ以上の毒舌家なのか。
     それとも、本当に褒めているのか。

     鏡の向こうのカリモの表情は見えない。

    「献上された婚礼衣装は、この宮殿にある王族衣装のコレクションに加えさせてもらおう。私の義理の妹が、エルマー国から渡って来た記念の品だからね」

    「光栄でございます」

    「バルモは、婚礼衣装を手放すことに反対しなかったのか」

    「夫には何も話しておりません」

     アンシアは少し迷ってから、話題を変えた。

    「ところで、兄上様の舞踏会での衣装、とても鮮やかで素敵でした。緋色と灰色の配色が、印象に残っています」

    「男だって、おしゃれがしたいからね」

     カリモはさらりと言った。

    「男の服は、女の服に比べて種類が少ない。だから女装するのだが、愚か王子という評判を取っている」

     アンシアは返答に詰まった。

     それは事実だった。
     否定すれば嘘になる。けれど、そのまま肯定するわけにもいかない。

     迷っているうちに、ずっと気になっていた疑問が口から出た。

    「なぜ舞踏会に、突然いらっしゃるのですか」

    「その方が、貴族たちの自然な姿が見られて面白い」

     カリモは答えた。

    「それに、儀式ではミシュナの民族衣装が正装と決まっている。つまらない。バルモの婚儀の式典にも出席しない。しかし、彼の誕生祝いの舞踏会には出席するつもりだ」

    「今度は、どんな衣装をお召しになるのですか」

    「今、若いデザイナーたちに競わせている」

     アンシアは思い出した。
     カリモは、無名の若いデザイナーの服しか着ないという噂がある。

    「さて、アンシア」

     カリモの声が少し変わった。

    「君が来た本当の目的を語りなさい。わざわざ来たからには、目的があるのだろう」

     単刀直入だった。

     アンシアは姿勢を正した。

     世間話で機嫌を取っている時間はなさそうだった。

    「カリモ様。先日の舞踏会でのご配慮、真にありがたく思っております。ことに、私の家族の消息を知らせてくださったこと、どれほど嬉しかったか分かりません」

     アンシアは深く息を吸った。

    「それで、お願いがございます」

    「言いなさい」

    「私の手紙がエルマーの家族に届かないのは、仕方がないことだと諦めています。でも、家族から私に届いた手紙は、返していただきたいのです。いいえ、見せていただくだけでも構いません。どうか、お願い申し上げます」

     沈黙が落ちた。

     やがて、カリモは言った。

    「アンシア。君には辛い思いをさせてしまった。遺憾に思う」

     優しい言葉だった。
     けれど、次に続く声は冷静だった。

    「しかし、君もこのミシュナに住む者の一人だ。嫁いで来て二年になる。まだ里心が離れないのか」

    「この国の王子バルモの妻としての立場を、充分理解していなかった点は、私の配慮が足りませんでした」

     アンシアは必死に言った。

    「ですが、エルマーの家族とて、自国の政情を書くようなことはありません。手紙は家族間の個人的なことが書かれたものだと思います。見せていただくわけには参りませんか」

    「確かに、この二年間、君に届いた手紙には、政治的に大したことは書かれていない」

     アンシアは息を止めた。

     手紙は存在している。

    「閲覧させてあげてもいい」

     心臓が跳ねた。

    「ナジェリ公には、私から話しておこう。ただし、私が君を信用できたら、だ」

    「どうすれば、信用していただけるのですか」

    「そうだな」

     カリモは少し考えるように間を置いた。

    「アンシア、君はデザイン画を描いていると聞いた。バルモの誕生日の舞踏会の衣装を、君に任せる。仕事ぶりを見れば、信用できるかどうか分かる」

     アンシアの身体が震えた。

     怖さではない。
     久しぶりに、自分の中に力が戻ってくるような震えだった。

    「恐れ多くも、光栄に存じます。ぜひ、私に」

     バルモの誕生日までは、あと半年あった。

    「どのような服をお望みでしょうか」

    「君に任せる。デザイン画ができたら、いつでも持って来なさい」

    「ありがたく存じます」

    「今日はもう時間がない」

     カリモの声は、また少し遠ざかった。

    「アンシア。興味があれば、ミシュナの王と王妃たちの衣装コレクションを見て行くといい。従者が案内する」

    「ありがとうございます」

    「では、今日はこれまで。ご苦労であった」

     アンシアは従者に案内され、広い別室へ入った。

     そこには、無数の衣装が並んでいた。

     王の礼服。
     王妃の婚礼衣装。
     戴冠式のための衣。
     葬送の白。
     戦勝を祝う赤。
     代々の王族が式典でまとった、豪奢な衣装たち。

     服が大好きなアンシアは、一瞬で心を奪われた。

     柔らかい光が窓から入っていた。衣装が色褪せないよう、強い光は避けられている。
     その静かな光の中を歩いていると、アンシアは一着だけ、他とは違う衣装を見つけた。

     襟元を前合わせにして着る、不思議な形。
     落ち着いた赤を基調とした布。
     織り込まれた文様は複雑で、機織りを知るアンシアには、それがどれほど手間をかけたものか分かった。

    「これは、どこの国の衣装ですか」

     アンシアは従者に尋ねた。

    「ワノ国のものでございます。カリモ王子の母君が、婚儀の式典でお召しになった衣装でございます」

     カリモの母。

     アンシアはその衣装を見つめた。

     赤も美しい。
     けれど、同じ文様を紫を基調にして織ればどうだろう。

     カリモの黒髪には、紫がきっと映える。
     金の刺繍を入れてもいい。
     鏡の向こうにしか姿を見せない王子に、闇の中でも沈まない色をまとわせたい。

     第二宮殿への帰り道、アンシアは久しぶりに夕日を見た。

     空は燃えるような金色で、宮殿の尖塔の影が長く伸びていた。

     何かを美しいと思う心が、自分の中へ戻ってくる。

     寝込んでいるうちに季節は変わり、初夏になっていた。

     その夜、アンシアは部屋に夕食を運ばせた。

     バルモとバレリには、それぞれカードを書いた。
     今日の謁見の結果を短く記し、従者から渡してもらうよう頼んだ。

     彼女は食事を終えると、すぐにデザイン帳を開いた。

     カリモがなぜ仮面をつけているのか。
     なぜほとんど人前に現れないのか。

     バルモやバレリに聞いたことはある。
     けれど、二人とも答えは同じだった。

    「色々な憶測はあるけれど、分からない」

     まるで判で押したような返事。

     何か知っている。
     だが、触れてはいけない。

     そんな空気だった。

     どんな事情があろうと、今の目的は一つだ。

     家族からの手紙を見ること。

     そのためには、カリモに認められる衣装を作らなければならない。

     翌日、アンシアは庭で集めた切り花を侍女に持たせ、第一宮殿へ伝言に行かせた。

     今日伺ってもよいか。

     返事はすぐに来た。

     午後から夕暮れまでの間なら構わない。

     アンシアは緊張しながら謁見の間へ向かった。

     従者にデザイン帳を渡し、鏡の前で返答を待つ。

     しばらくして、鏡の奥から声がした。

    「懐かしいな。母上の婚礼衣装に似ている」

     アンシアは顔を上げた。

    「しかし、アンシア。この文様の布地は、今は手に入らないぞ」

    「大丈夫です」

     アンシアはすぐに答えた。

    「私が糸から染めて、布を織ります。私の故国エルマーの一番の輸出品は織物です。エルマーでは、仕事を持たない女たちは、身分に関係なく、最低でも一日に三時間は機織りに向かう慣わしなのです」

    「王妃自ら機を織るというのは、本当なのか」

    「はい。私も妹も、侍女たちと一緒に機織りをしてきました」

     鏡の向こうで、カリモが小さく息をついたような気がした。

    「ミシュナに機織り機があるかどうか、探させる。後ほど知らせる」

    「ありがとうございます」

    「本日はこれで失礼する。ご苦労であった、アンシア」

     あっけなかった。

     アンシアは急いでミシュナ風の礼をし、謁見の間を出た。

     カリモは、あのデザインで本当に構わないのだろうか。
     それとも、舞踏会の衣装など、彼にとってはただの遊びなのだろうか。

     三日後、第一宮殿から使者が来た。

     機織り機の準備が整ったので、本日午後、参上するように。

     アンシアは自分で草木染めをした経糸を抱え、暖かな日差しの中、宮殿の庭を抜けて第一宮殿へ向かった。

     謁見の間に入ると、窓際に懐かしい機織り機が置かれていた。

     アンシアは驚いて、案内の従者に尋ねた。

    「ここで作業をするのですか」

    「はい。ここに置くようにとの、ナジェリ公爵夫人の命でございます。カリモ王子様からのご指示は伺っておりません」

    「そうですか」

    「それから、アンシア様。公爵夫人が、どうぞご自由にここをお使いくださいとのことです」

     アンシアは思わず、正面の鏡を見た。

    「兄上様、いらっしゃいますか。私がここで機織りをしても、お邪魔ではありませんか」

     返事はなかった。

     従者が下がると、部屋は静まり返った。

     鏡の向こうに、カリモはいるのだろうか。
     それとも、ただの空室なのだろうか。

     少し不気味だった。
     けれど、気にしていても仕方がない。

     アンシアは袖を整え、機織りの準備を始めた。

     経糸を張り、染めた糸を確かめる。
     手を動かしているうちに、胸のざわめきが少しずつ収まっていった。

     今日は珍しく、バレリとバルモが夕食を共にすると聞いている。
     おそらく二人とも、カリモの様子を聞き出したいのだ。

     置時計が五時を指すまで、アンシアは機織りに取り組んだ。

     立ち上がる時、彼女は鏡の方へ向いた。

    「兄上様。うるさくして申し訳ありませんでした。今日はこれで退出いたします。明日は、何時から伺ってもよろしいでしょうか」

     返事はなかった。

     アンシアは一礼し、部屋を出た。

     回廊を抜け、城門へ向かう途中、甲冑をつけた門番が声をかけてきた。

    「アンシア姫でいらっしゃいますね。ナジェリ公爵夫人が、お帰りになる前に少しご挨拶をしたいとのことです。こちらへどうぞ」

     門番は重い甲冑のまま、先に立って歩き出した。

     カリモの謁見の間とは、違う方向だった。

     やがて、噴水のある庭と白亜の建物が見えて来た。
     門番は庭師に声をかけ、そこからは庭師がアンシアを案内した。

     建物へ入り、侍女に従って階段を上る。
     長い廊下の先で、一つの扉の前に立ち止まった。

     奥の部屋から、若い女の声が聞こえた。

    「ナジェリ公爵様から、兄上にもっと注意していただかないと困りますわ。せめて夜に墓場をうろつくのは、やめさせてくださらないと。死神王などと言われているのですよ。ミシュナ国の恥ではありませんか」

     カリナ王女の声だった。

     続いて、別の女性の穏やかな声がした。

    「カリモ王子は、死者たちと話をされているのです。それで王子のお気が安まるのなら」

    「公爵夫人もナジェリ公も、そのように甘いから」

     侍女が扉を叩いた。

    「失礼いたします。公爵夫人、アンシア様がおいでです」

     中の声が止んだ。

    「入りなさい」

     扉が開かれた。

     部屋の中にいたのは、夜会用の艶やかなドレスをまとったカリナ王女と、ナジェリ公爵夫人だった。

     ナジェリ公爵夫人は、優雅な物腰の女性だった。
     そして、カリナ王女は息をのむほど美しかった。

     黒い髪。
     白い肌。
     宝石のような目。

     けれど、その目にはまだ怒りが残っていた。

    「お元気、アンシア」

     カリナは白い歯を見せて笑った。

    「兄上の衣装を担当されるとか。私など、まともに兄上と話したことがないのよ。兄上でも、女性と話ができるのねと、公爵夫人と驚いていたところです」

     笑顔なのに、言葉には棘があった。

     アンシアは膝を折り、頭を下げた。

    「カリモ様は、私に合わせてくださっているご様子です。お優しい方で、とてもありがたく思っております」

     ナジェリ公爵夫人が静かに言った。

    「カリモ王子は、繊細でお優しいのです。アンシア姫、王子がご自分の衣装をあなたに任されたのは、あなたへの信頼あってのことでしょう」

     アンシアは戸惑った。

     信頼ではない。
     信用できるかどうか試されているのだ。

     そう言おうとしたが、公爵夫人の言葉が続いた。

    「ですから、わたくしは機織り機をあえて謁見の間に置かせました。王子に、少しでも人に慣れていただきたいのです」

     公爵夫人はアンシアを見つめた。

    「アンシア姫。どうか、王子を傷つけるようなことはなさらないでくださいませね」

     その言葉に、アンシアは胸がひやりとした。

     カリモを傷つける。

     自分にそんな力があるとは思えなかった。

     カリナ王女が小さく笑った。

    「まあ、公爵夫人。そんな言い方では、アンシア様に誤解を与えるではありませんか。まるで兄上様がアンシア様を慕っているかのように」

     カリナの唇は笑っていた。
     けれど、その目は悲しげで、悔しげだった。

    「兄上が、女性を、人を、愛せるのでしょうか。兄上は、まともに人と向かい合って話すこともできないのよ」

     部屋の空気が冷えた。

     アンシアは、床に片膝をついたまま言った。

    「謁見の間を使わせていただき、ありがたく存じます。お邪魔にならないか、心配しておりました」

    「貴人と会う公式の部屋は他にもあります。大丈夫ですよ」

     ナジェリ公爵夫人が答えた。

    「いつでも、ご自由にお使いください。何かあれば従者を呼んでくださいませ」

     カリナ王女が扇を閉じた。

    「急ぎましょう、公爵夫人。遅れますわ」

    「では、わたくしたちはこれで失礼いたします、アンシア姫」

     二人は部屋を出て行った。

     あとには、アンシアと侍女だけが残された。

     アンシアはしばらく動けなかった。

     カリナ王女は、カリモを恥だと言った。
     けれど、ただ嫌っているだけではなかった。

     怒りの下に、悲しみがあった。

     公爵夫人は、カリモを繊細で優しいと言った。
     けれど、その優しさに触れることは危険だとも告げた。

     カリモとは何者なのだろう。

     死者と話す王子。
     鏡の向こうから声だけを聞かせる王子。
     男の服に飽きたから女装するという王子。
     母の婚礼衣装を、懐かしいと言った王子。

     アンシアは、窓の外を見た。

     夕方の光が白亜の建物を染めていた。

     彼女は思った。

     手紙を取り戻すために近づいた相手は、ただの奇妙な王子ではない。
     この王宮の奥で、誰も触れたがらない傷そのものなのかもしれない。

     
     
    歴史を調べ、旅先を歩き、科学と人間のあいだを考えています。 昔の人は本当にそう考えたのか。土地に残る話はどこまで事実なのか。AIは人間に似ているのか。そんな疑問から、歴史小説、旅の記録、科学と人間をめぐる物語を書いています。 事実と創作はなるべく分けます。

    あなたへのおすすめ