メインコンテンツへスキップ
見出し画像

再誕の赤き勇者ー少女の願いを継ぐ者ー(プロローグ~第五話)

    プロローグ 再生の時



    かつて、百年にわたる戦があった。

    魔の国と人の国が刃を交え、
    大地は荒れ、空は曇り、
    幾つもの国が地図から消えた。

    その終わりに、一人の勇者が現れた。

    奇跡を起こし、剣を振るい、
    ついに魔王を討ち果たしたという。

    勇者は魔王と相打ちになり、
    世界はようやく静寂を取り戻した。

    それから三十年。

    戦は終わったはずだった。
    だが、人々の祈りは消えていない。

    争いは小さく形を変え、
    信仰は国を縛り、
    救われぬ者は今もなお存在する。

    だから今日も、誰かが祈る。

    奇跡を。

    ――そして、少女は目を閉じた。

    朝の礼拝堂は、静かに光に満ちていた。
    木の床板が朝の冷えを残したまま、素足にひんやりと触れる。
    精霊教の教会は、いつも通り穏やかだ。
    木の壁に精霊の彫刻が並び、古い木の香りと、焚いたばかりの香草の甘い煙が混じり合っている。
    窓から差し込む陽光が、埃の粒子を優しく舞わせる。
    この世界では、精霊は万物に宿る。
    育てた野菜、日用の雑貨、朝に梳いたばかりの髪の毛の一本一本にさえ。
    だから私たちは、感謝を言葉にし、物を大事にする。

    「大精霊の皆よ、我が願いを叶えたまえ。
    太平の世は今や、悪しき魔王の手により悲劇が訪れようとしている。
    精霊よ、我が想いを受け止めたまえ。
    我が魂を代償に、
    大戦の勇者の御霊を我が身に宿らせよ。」
    彼女の声が礼拝堂の静寂に溶けていく。
    その瞬間、胸元に留めた小さなブローチが淡い青白い光を放ち始めた。
    光は祈りの言葉に呼応するように激しく輝き、
    パリンという乾いた音とともに、無数の光の欠片となって砕け散った。
    光の粒が赤毛の上を優しく舞い、彼女の体を一瞬だけ包み込む。

    少女の声が、遠くから俺を呼んでいる。
    目を開けると、朝霧を切り裂く陽光が目をくらませた。
    瞼の裏に残る熱と、胸の奥に小さくざわめくなにか。
    体が軽い。いや、軽すぎる。
    かつての自分の肉体とは明らかに違う、細く華奢な感覚が全身を包んでいた。

    ◇◆◇◆

    朝日が差し込む食堂で、私は小さな悩みを思い浮かべる。
    最近、勇者の物語を耳にする機会がやけに多い。

    西の山脈からまた魔族が現れたって話が広まって以来だ。

    「また魔族が押し寄せて大戦が始まるんじゃないか」ってみんながヒソヒソとざわついてる。
    
だから当然のように、前の大戦で活躍した勇者の話が繰り返される。

    「もういい加減聞き飽きたのに……」
    周りを見渡すと、黒いヴェールと黒のチュニックに包まれた修道女や見習いたちが、長テーブルに並んで朝食を摂っている。
    皆が興奮気味に勇者の武勇伝を語る声が、食堂に響いている。
    もっと女の子らしい話題で話したいのに。
    
なんで毎日勇者様、勇者様なんだろう。
    食堂の木の長椅子に座って運んできたばかりの温かなスープをぼんやり眺めているとふっと思い出す。

    そう言えば今朝からアリアの姿が見えない。
    
赤毛のアリア。

    彼女はいつも大声を上げて笑うから、どこにいてもすぐ見つかるのに。
    耳を澄ませて、彼女の声を探るも、
    アリアの響きは感じられない。

    まさかおしとやかに礼拝堂で祈りを捧げてるとか?
    最近のアリアの様子を思い出す。
    勇者の物語が広まるにつれ、彼女が思い悩むように静かな表情を浮かべる姿を何度か見た。
    「アリアったら本当どうかしちゃったんだわ」
    
ぼんやりと眺めていたスープが底を尽きた頃になっても彼女は現れない。

    いつものなら、お腹空いて我先にやってくるのに。

    私は疑念を持ちつつ、礼拝堂に足を向かわせる。
    彼女が思い悩む時はいつも礼拝堂の片隅で座り込んでいるからだ。
    礼拝堂の木の扉を押し開くと、重い蝶番の軋む音が静かに響き、朝の光が差し込み、埃の舞う空気が優しく香った。
    古い木の香りと、焚いたばかりの香草の甘い匂いが、微かに鼻をくすぐる。
    
「おーい、アリアいるんでしょ?」

    私の声が静かな堂内に響く。

    扉を開けた先の光景に、綺麗な赤毛が目を奪った。

    目線の先には、凛とした立ち姿の少女がいた。
    彼女の赤毛が光に輝き、いつものアリアとは違う静けさが漂う。
    「綺麗な髪…」

    見惚れていると、彼女は口を開いた。
    「君は、ミラか?」

    見慣れない様子の見慣れた風貌の彼女が、そう問いかけた。
    
「そうよ…貴女、アリアよね?」

    本来ならあり得ない問いかけを口にしたことを、自分でも驚いた。

    信じられない。あのアリアなんて。
    ――二人の間に静かな時が流れた。

    彼女を連れて食堂に戻ってきた。
    食堂は朝食の残り香が漂い、木のテーブルが春の陽光に温かく照らされている。
    朝食を口に運ぶ彼女の姿を目にするたび、あの活発で問題児のアリアだとは思えない。
    ゆっくりとした彼女の動きに目を奪われて私は軽く口を開いた。
    「アリア、貴女ってアリアよね?」
    そんな言葉が自然と溢れ出てしまった。
    彼女はその問いに耳を傾けて、一瞬目を合わせたと思ったら、
    考えるようにスープの皿に移した。
    「自分の名前、分かんなくなっちゃったの?」
    その問いに、彼女は軽く頭を横に振り答える。
    「いや、私はアリアだよ。そう、アリアなんだ。」
    彼女は自分の言葉にまるで違和感があるように目を細めて答えた。
    空気が少しだけ別の色を感じさせる。
    いつも大笑いして、男子を追い回すアリアが、こんなに静かで凛としてるなんて。
    彼女の赤毛が光に輝くのを見て、ふと胸がざわついた。
    「アリア…本当は、何があったの?」

    ◆◆◆◆

    鎖が少しずつ解ける感覚がする…
    彼女の言葉を耳にしてから、思考が巡り始めた。
    自分は何者なのか、と。
    アリア。その名と共に、何か古い記憶がよぎる。
    私俺は…何故、ここにいる?
    食堂のテーブルに座り、スープを口に運ぶ。
    この赤い髪が揺れる感覚、この修道服の重み。
    すべてがアリアのものだ。
    なのに、俺の記憶が溢れ出そうになる。
    「そうだ、願いを聞いた気がする。」
    少女の願い。
    魔王を倒し、世界を救って。っと。
    その願いを、昔にも聞いた覚えがある…。
    古い記憶の自分《勇者》が、ぼんやりと浮かび上がってくる。
    剣を握った姿、血に染まった手……それが、今のこの細い手に重なっていく。
    鮮明になる意識と共にこちらを覗き込む彼女の瞳が映り込む。
    「ミラ、私はやることがあるんだ。」
    「ちょ、ちょっと、どうしちゃったの?」
    そそくさと朝食を片付ける私に、ミラは追いつこうと声をかける。
    修道院長の元に足を向かわせる。
    この地を旅立つために。

    修道院長の部屋の扉をノックした。
    中から穏やかな声が「入りなさい」と返ってき、それに応えるように扉を開けた。
    部屋の中は質素だった。
    壁際に置かれた古い木の棚には、数冊の教典と干しハーブの束が丁寧に並べられ、埃一つ落ちていない。
    院長は老いた女性で、皺の深い目元が優しく細められ、穏やかな目で私を迎えた。
    「アリアか。何か用かい?」
    私は直立して、淡々と告げた。
    「院長、私は旅に出ます。
    魔王を倒し、世界を救うために。」
    院長の目が一瞬細くなった。
    彼女は私の立ち振る舞いを見つめ、ゆっくり立ち上がった。
    「…アリア、君のその凛とした姿。
    いつものお騒がせアリアじゃないみたいだね。」
    院長は微笑みながら、私の変化を察したようだった。
    あの活発で問題児だったアリアが、こんなに静かで決意に満ちてるなんて。
    「教祖様からのお告げを思い出すよ。
    『新しい勇者の実現を』って。
    あの時預かった剣は、君のためだったんだね。」
    院長は棚から古い布に包まれた剣を取り出し、私に渡した。
    剣の柄を握ると、懐かしい魔力の響きが体に伝わる。
    「この剣は、精霊の加護を受けた特別なものだ。
    君の旅を支えてくれるはずさ。」
    私は両手で受け取り頭を下げた。
    「院長の教え、ありがとうございます。
    でも…これは、私《アリア》の願いです。」
    院長はため息をつき、私の赤毛を優しく撫でた。
    「精霊たちは、みんなに優しく、物を大事に、感謝を言葉にしろと教えてくれる。
    君はいつもそれを守ってるじゃないか。
    無理はしちゃいけないよ。」
    彼女は私の肩に手を置いて、微笑んだ。
    「でも、君の目がそんなに決めているなら。
    精霊たちが守ってくれるさ。
    これを持って行きなさい。
    精霊の加護を受けたお守りと、少しのお金。
    旅の支えに。」
    「はい、院長。ありがとうございます。」
    部屋を出る時、私《俺》は思った。
    この体で、この願いを果たす。
    扉をそっと閉じると差し込む陽光の中にミラの姿が現れる。
    「今の話、本当?」
    部屋の入り口の横で佇むミラが、不安気な顔で囁く。
    「うん、もう決めたことだから。」
    彼女の不安とは裏腹に、私は微笑んで見せた。
    「勇者の話聞いたから?」
    「違うよ、これは私《アリア》の願いなの。」
    そっと目を閉じて、静かに否定した。
    ミラは抱きつき、少し震えていた。
    私は少し低い彼女の頭にそっと手を回して。
    「大丈夫、ちゃんと帰ってくるから。」
    この言葉は誓いだ。
    全てが終わった後、アリアとして戻ると。
    私《俺》は、そう思いながら彼女を抱き締めた。
    ゆっくりとした動きで彼女から離れると。
    そのまま歩みを始める。
    右手に持った古い布を解き、剣を腰に差した。
    修道服の布が重みでずれて、腰に冷たい金属が食い込む。

    修道院の門をくぐった時、風が優しく頬を撫でた。
    まるで門出を祝福するように。
    振り返ると、ミラのすすり泣く様子が目に入る。
    勇者に相応しい静かな出立。
    穏やかな風景の中、足を進める。
    後ろからミラの声が、風に紛れて遠くなる。

    画像

    第一話 歩くような速さで


    修道院の門をくぐった瞬間、風が優しく頰を撫でた。
    まるで門出を祝福するように。
    私はゆっくりと歩き出す。
    修道服の裾が草を擦る音が、妙に大きく耳に残る。
    この体は軽い。歩幅も狭い。剣を腰に差しただけで、ずっしりと重心が下がるのを感じた。
    「さてと、何から始めようか?」
    始まりはこんなんだったか?
    昔《勇者》の記憶に思いを馳せる。
    もっと騒がしかったような…。
    師匠が先を歩き、振り向いては笑いながら「遅いぞ」と手を差し伸べてくれたあの旅路。
    今は誰もいない。ただ自分の足音だけが、静かに響いている。
    二歩先にかつての師匠の影を、ふと幻のように見ながらそう思った。
    そんなことを考えているうちに、最初の街に着いた。
    静かだが、確実に活気がある街並。
    朝の陽光が石畳を明るく照らし、焼きたてのパンや干し草の匂いが風に乗って漂ってくる。
    「おや、シスターさん。ってアリアじゃないか!」
    「なんだ、サボりか?それともお使いか?」
    アリアの記憶で見覚えのある農夫がニコニコしながら声をかけてきた。
    私は足を止め、軽く会釈を返す。
    「農夫のおじさん……これから、西の魔王を倒しに旅に出るところです。」
    一瞬の沈黙の後、農夫は腹を抱えて大声で笑い出した。
    「魔王退治かい? そりゃいい!頑張れよ、アリアちゃん!」
    本気にしてない様子が、痛いほど伝わってくる。
    このあたりはまだ平穏そのものだ。
    農夫の笑い声や通りを往く人々の穏やかな表情を見ていると、 旅《勇者》の記憶が静かに囁く。
    ――この街では、旅の準備を整えてからにしよう。
    私は小さく頷き、街の中心へと足を向けた。

    街の中央広場は、朝の喧騒に満ちていた。
    商人たちの威勢の良い声が飛び交い、色とりどりの野菜や布地、雑貨が所狭しと並ぶ。
    新鮮な土の匂いと、パンや香辛料の甘い香りが混じり合って鼻をくすぐる。
    私は修道服の裾を軽く持ち上げて歩き、赤毛がヴェールからこぼれないよう気をつけながら、できるだけ穏やかで、少女らしい笑みを浮かべる。
    この体で女性《アリア》として振る舞うことを意識しなければならない。
    修道服に剣を腰に差した姿は、明らかに街の人々の視線を集めていた。
    好奇の目、訝しむ目、時には笑いを堪えているような目——。
    その視線の一つ一つが、肌にちくりと刺さる。
    まずは道具屋へ。
    「シスターさん、何をお求めで?」
    店主のおじさんが、胡散臭げに笑いながら声をかけてきた。
    「旅の支えになるものを幾つか。丈夫なブーツと、水筒、地図をお願いします。」
    院長から渡されたお金は少ないけど、十分のはずだ。
    おじさんはブーツを差し出しながら、腰の剣に目を留めてニヤニヤと笑った。
    「よく見りゃ物騒なもん腰につけてるが……まさかあんたも勇者さんの真似事か?
    最近の若いのは馬鹿でいかんね。」
    淡々と商品を受け取りながら静かに答えた。
    「ありがとうございます。精霊の祝福があらんことを。」
    軽く握った拳を包むように左手を添え、会釈する。
    この動作はもう、この体《アリア》に染みついた習慣だった。
    おじさんは一瞬キョトンとした顔になり、すぐに肩をすくめた。
    「…ああ、精霊教のシスターさんか。気を付けてな。」
    次に足を運んだのは食料屋だった。
    店先には干し肉や硬いパン、色づいた干し果物が籠いっぱいに積まれ、甘酸っぱい果実の香りが漂っている。
    おばさんが私の姿を見るなり、にこっと笑顔を浮かべた。
    「アリアじゃないか。今日はお使い?」
    「旅です。遠くまで。」
    私はできるだけ柔らかい声で答えた。
    おばさんは一瞬目を丸くした後、くすくすと笑い出す。
    「魔王退治かい? 最近そんな話が多いねえ。まあ、頑張ってらっしゃい。」
    本気にしてない様子だけど、
    私はただ小さく頷き、「はい」とだけ答えて金を払った。
    精霊教の教え通り、買った物を大事に一つ一つ丁寧に袋にしまう。
    干し肉の硬さ、パンの重み、干し果物の甘い香り……
    すべてを大事に扱うこの動作は、もうアリアの体に染みついていた。
    感謝を言葉に。「……ありがとう。」
    街の端まで歩くと、商人組合の建物が見えてきた。
    ここで情報が欲しい。
    中に入ると、商人たちが取引の声を上げている。
    一人の商人に近づき、静かに声をかけた。
    「西の情報をお願いします。魔族の動きがあったって聞いて。」
    商人は私の修道服と腰の剣を交互に見て、目を細めた。
    「シスターさん、珍しいな。
    西は山脈越えが危ないよ。魔族が出たんだってな。
    まぁ旧大戦の残党だと思うがね……また戦争が始まるってんでみんな騒がしくて困るよ。
    あっちに行くなら討伐組を訪ねるといい、また残党狩りを組むらしいからな。」
    私は淡々とメモを取りながら、「ありがとうございます。」と頭を下げた。
    商人はふっと笑って、からかうように言った。
    「おいおい、今のは冗談だろ。
    その様子…まさか本気で行くつもりじゃねぇよな?」
    私は静かに、けれどはっきり答えた。
    「勿論です、私は勇者ですから。」
    商人の顔が一瞬凍りついた。
    ブーツの音を響かせながら建物を出ると、陽がすでに傾き始めていた。
    オレンジ色の光が石畳を長く伸ばしている。
    旅は、始まったばかりだ。
    少女アリアの願いを胸に、私は静かに足を進めた。
    街の外れで、ふと風が頬を撫でた。
    精霊の祝福のように、優しく、どこか冷たい風だった。
    この先、何が待ってるのか。
    淡々と、けれど確かに、私は歩き続ける。

    地図を頼りに、商人が教えてくれた討伐組の詰め所へと向かった。
    山の麓にひっそりと佇む古びた山小屋だった。
    木の壁は風雨に晒されて黒ずみ、屋根の藁はところどころ傷んでいる。
    中からは若者たちの興奮した声と、年配の傭兵たちの低い話し声が漏れ聞こえてきた。
    軽く中を覗くと、ほとんどが十代後半から二十歳前後の若者たちだ。
    奥の方では、数人の経験豊富そうな傭兵が、不安そうに雑談を交わしている。
    「勇者に感化された馬鹿共がこうも集まるとなあ。」
    「いないよりはマシだろ。残党狩りはいつも手こずる。」
    「いや、どうせほとんどが逃げ出すに違いない。」
    クスクスと笑う傭兵たちとは対照的に、若者たちは目を輝かせていた。
    「これから俺の冒険譚が始まるぜ!」
    「勇者様みたいに魔族をぶっ倒してやる!」
    私は修道服の裾を軽く押さえ、静かに中へと進んだ。
    視線が一斉に集まるのを感じる。
    シスターが剣を差して討伐組に来るなど、明らかに場違いだ。
    辺りを見回していると、ふと一人の少女が目に入った。
    長く青いローブに身を包み、術を安定させるための杖を手に持っている。
    (こんなところに、魔法使いが?)
    興味を惹かれて近づいていくと、彼女が小さく、けれどはっきりとした声で呟いた。
    「お前らなんか勇者様に似つかわしくないっての。」
    どうやら彼女は周りの浮かれた若者たちに強い不満を抱いているらしい。
    私は小さく息を吸って、彼女に声をかけた。
    「ねぇ、君。」
    すると、こちらに気づいた彼女は目を大きく見開き、驚いた顔で振り向いた。
    「貴方! シスターよね!? まさか精霊教のシスターまで魔族討伐もするようになったの? 資金が足りないとか? 何で!?」
    言葉が次から次へと飛び出してくる。
    質問の嵐が、こちらの声を完全に飲み込んでしまった。
    「ちょっと待って、落ち着いて——」
    彼女が顔を近づけ、押し迫ってくる。
    「私はシスターだけど、勇者として旅を——」
    「勇者!? シスターが!? 何で!?」
    彼女はこちらが言い終わるより早く、顔をぐいっと近づけてくる。
    まるで頭突きでもしそうな勢いだ。
    青いローブの裾が揺れ、杖の先が私の修道服に軽く触れそうになる。
    なだめる隙もない。
    本当に……困った。
    確かに修道服を着たまま旅に出てしまった。
    アリアにとってこの服は「自分の居場所」の象徴だったから、着替える発想自体が浮かばなかった。
    今、初めてその違和感が胸に刺さる。
    この体と意識が、どこかでアリアに引っ張られている感覚。
    でも彼女は、そんな私の内面などお構いなしだ。
    「ねぇ! どうしてシスターが勇者なの!?」
    私は思い出した、魔法使いと関わるということがどうなのかを。
    彼女の大きな声が山小屋中に響き渡った。
    途端、周りの視線と声が一斉に集まる。
    「シスターが勇者? 冗談だろ?」
    「女ってだけで闘いの邪魔なのに? ありえねーての。」
    「守ってやるからシスターさんは大人しく薬草でも摘んでなよ。」
    「じゃなきゃ祈っててくれよな!」
    一瞬で嘲るような笑いが広がった。
    無理もない。
    彼らが思う勇者像とは、あまりにもからかけ離れている。
    華奢な体躯に修道服、腰に差した剣。
    まるで子供がおままごとをしているように見えるのだろう。
    周りの笑い声を横目に、私は静かに息を吐いた。
    ……少し、胸の奥がざわついた。
    (この体で、女として見られるというのは、こういうことか)
    「あっちに行こう。」
    正気を取り戻した様子の彼女が、私の腕をぐいっと掴んで反対側へ引っ張った。
    私は周りの嘲笑の声より、彼女が冷静になってくれたことに内心ホッと息を吐いた。
    山小屋の脇にある古びたベンチに、互いに腰を下ろす。
    木の表面は少し湿っていて、修道服越しに冷たさが伝わってきた。
    「さっきはごめんね、いっぱい質問しちゃって。」
    彼女は少し照れたように笑い、片手をこちらに差し出した。
    「私はエミリアウィー・ウィンストン、魔術師をやってるの、まだ見習いだけど。
    良かったらエミリーって呼んで。」
    差し出された手をそっと握り返しながら、私は穏やかに答えた。
    「私はシスターアリアよ。勇者として旅に出たの。
    よろしくお願いします、エミリーさん。」
    アリアの記憶を辿っても、魔術師に会うのはこれが初めてだった。
    昔《勇者》の頃には、魔術師を名乗るほどの使い手はそういなかったが、何となく師匠《魔法使い》の面影を思い出す。
    彼女に質問しようと顔を向けると、先ほどの勢いが嘘のように、顔をこわばらせながらこちらの言葉を待っている様子だった。
    「エミリーさん、貴方はなぜ討伐組に参加したの?」
    見る限り、彼女は一人でここに来たようだった。
    「実は……魔術学校の単位が足りなくて、追い出されそうなんです。
    他の子は勉強の合間に任務とかこなしてて、私ったら読書ばかりに熱中しちゃって……!
    実績も全然足りなくて……。
    ここならお金も実績も一石二鳥かなって……。」
    エミリーは恥ずかしそうに両手で顔を覆いながら、早口でまくしたてた。
    耳の先まで赤くなっているのが、はっきりと分かった。
    どうやら魔術は、今ではかなり一般的な学問になっているらしい。
    私は自分の右の手の平をそっと眺め、静かに息を吐いた。
    師匠《魔法使い》から教わった技術が脈々と受け継がれているのだと思うと、胸の奥が不思議と温かくなった。
    「貴方は勇者として旅してるって言ってだけど。他の人と一緒なの?」
    エミリーの質問に、私は一瞬言葉に詰まった。
    自分の真意を疑う訳ではない。
    けれど、この場合、真実をそのまま話しても、俄かに信じてもらえるとは思えなかった。
    「……私は精霊教の教えを信じているから。」
    私は穏やかに、けれどはっきり答えた。
    「争いで苦しむ人々を助けたいとそう思ったの。勇者を名乗ったのは……その信念の表れよ。」
    本当はアリアの純粋な願いを、ちゃんと叶えてあげたいから。
    そう心の中で付け加えながら、私はアリアとして微笑んだ。
    エミリーは少し目を丸くした後、ふっと柔らかい笑みを浮かべた。
    「へえ……なんか、かっこいいね。」
    しばらくの間、二人の談話は続た。
    お互いの顔を見て自然と笑い合うようになり、ベンチの上の空気が少しだけ温かくなった。
    すると、山小屋の方から傭兵の一人が大きな声で号令をかけた。
    「よし、みんな集まれ!」
    若者たちが慌ただしく小屋の中に戻っていく。
    私たちも立ち上がり、後に続いた。
    「ここにいる奴らは知っていると思うが、魔族による略奪が確認されている。」
    傭兵の声が響く。
    「情報からみるに、西の果ての荒野の新しい魔王軍とは別な連中……いわゆる旧魔王軍残党だ。敵の数もそう多くない。」
    若者たちの一人がすぐに野次を飛ばした。
    「じゃあ簡単じゃん」「一瞬で片付けようぜ。」
    「お前ら静かにしろ!」
    傭兵が苛立った声で一喝した。
    「 旧大戦から30年も生き残ってきた奴らだぞ! 甘くみると痛い目に遭う。分かってるな?」
    「もう日暮れだ。明朝になったらこちらから仕掛ける。奇襲作戦だ。
    それまでに気を引き締めておけ! 」
    傭兵の言葉とは裏腹に、若者たちの間からは不満の声が漏れた。
    「奇襲って……勇者らしくないよな。」
    「もっと堂々と正面から戦いたいぜ……」
    どうやら彼らにとって、奇襲は「勇者らしさ」に欠けるらしい。
    そんな様子を他所に、私は皆んなから少し離れた場所で軽く準備を整え始めた。
    「明朝か……丁度いい。まだ身体の調子も見れてなかったからな。」
    戦い方も分かっている。その覚悟も。
    だが今の私は、身長も体重も筋力、魔力量さえも。
    ——すべてがかつての自分《勇者》とは全く違う。
    正直、目覚めてからここまで大きな違和感を感じなかった。
    だから流れで討伐組に紛れ込み、こうして剣を握っている。
    しかし実戦になれば、そう甘くはないだろう。
    私は皆と少し離れた木陰で、ゆっくりと剣を抜いた。
    刀身に比べて軽やかな片刃の剣は、鉄ではなくミスリル製だと一目で分かった。
    本当に、勇者のために拵えられた一品らしい。
    軽く振り下ろしてみる。
    空気が刃で切り裂かれる感覚は確かにあったが、以前の自分に比べると明らかに力の伝わり方が違う。
    腕の振り、腰の回転、踏み込みの重心——すべてが微妙にズレている。
    (……この体に、戦いの感覚を染み込ませなければ)
    修道院で掃除も畑仕事もこなしていたおかげか、基礎的なポテンシャル自体は悪くない。
    それでも、補助魔術で強化した方が無難だろう。
    もし、この残党が村を襲ったら——
    誰も守れない。
    私《俺》が、やるしかない。
    その思いが胸に熱を灯した瞬間、剣を握る手に魔力をゆっくりと充填し始めた。
    「それって、魔術? 貴方は魔術も使えるの?」
    「本当に勇者様みたい……!」
    こちらを覗いていたであろうエミリーが、目を輝かせて駆け寄ってきた。
    彼女のローブの裾が大きく揺れ、杖が軽く地面を叩く音がする。
    「少し使える程度だけどね。」
    私は穏やかに微笑みながら答えた。
    「魔術のことは、エミリーさんに頼りにしてます。
    現代の魔術というものも、興味があるんです。」
    きっと、私《勇者》の魔術とは違うものに発展しているのだろう。
    近くでじっくり観察できたらいいのだが……。
    エミリーは少し驚いた顔をした後、照れくさそうに笑った。
    「提案なんだけど、私と組むのはどうかな?」
    彼女は一瞬、目をぱちくりさせてから、戸惑った様子で視線を泳がせた。
    「でも……私、実戦経験ないし、実技だって評価が高い訳じゃないし……」
    口ごもりながら、指先でローブの端をいじっている。
    その様子は、まるで学校で先生に当てられた生徒のようだった。
    この場にいる者たちのほとんどが、傭兵以外は戦いの経験などないはずた。
    彼女の反応は、むしろ自然なものに思えた。
    私は静かに、けれどはっきりと言った。
    「大丈夫、エミリーは私が守るから。
    相棒として、ね?」
    その言葉を聞いた瞬間、エミリーの顔がぱっと明るくなった。
    「……うん!」
    彼女は小さく、けれど力強く頷いた。
    作戦が始まるまでの間、私たちはベンチに並んで話し合い、軽い休憩を済ませた。
    エミリーの興奮した声と、時折見せる照れた笑顔が、夜の山小屋の空気を少しだけ柔らかくしていた。

    日が上がり始めた頃、朝靄がまだ森に残る中、討伐組の一行は静かに進んでいた。
    木々の間を縫うように歩くたび、湿った空気を重く肺にまとわりつく。
    ブーツの底がぬかるんだ泥を吸い込み、べちゃりと音を立てる。
    その音すら、妙に大きく感じられた。
    ある程度進んだところで、先頭を歩いていた傭兵が片手を上げた。
    「止まれ。」
    一行に、ぴりっと緊張が走る。
    傭兵が指差した先——木々の隙間に、簡素な野営地の跡が見えた。
    焚き火の残り火が弱々しく揺れ、地面には白い骨と引き裂かれた布切れが散らばっている。
    まだ新しい。つい最近まで、何かがここにいたことを物語っていた。
    敵は、すぐそこだ。
    私はエミリーに目で合図を送り、少し後ろに下がるように指示を出した。
    周囲の空気に神経を集中させる。
    ……おかしい。
    静かすぎる。
    顔に触れる風の感触に、全身の感覚を尖らせる。風向きは向かい風——匂いでこちらの存在がバレる心配はないはずだ。
    だが、森のざわめきが不自然に途絶えていた。
    鳥の声も、葉ずれの音も、虫の羽音すら聞こえない。
    まるで、森全体が息を殺しているようだった。
    (まさか、もう気づかれたか……?)
    傭兵たちの背中がわずかに強張るのを感じる。
    経験のある彼らは、明らかに危険を察知していた。
    一方、周りの若者たちはそんな空気などお構いなしだ。
    まだかまだかと殺気立った目で前方を睨み、興奮を隠しきれずにいる。
    私はゆっくりと息を整え、腰の剣に手を添えた。
    朝靄の中で、静かに戦いの予感が膨らんでいく。

    スッと弓を引く。静かに、強く、確実に。
    鋭い視線は獲物を捉えていた。
    矢尻を掴む指が緩む。
    ——放った。
    その瞬間、ドンッ! と乾いた爆音が朝靄を切り裂いた。
    左前方30メートル先の木が炎を上げ、一塊の黒い影がぼとっと地面に落ちる。
    驚いた傭兵たちが身を屈め、若者たちが悲鳴のような声を上げた。
    戦いが、始まった。
    周囲が騒然とする中、
    私《勇者》は残る三体に意識を集中させた。
    (人真似のゴブリン……いや、戦士か!)
    残る三体が一斉に突撃してくる。
    鎧を纏い、槍や斧を振りかざした姿は、ただの魔物とは明らかに違っていた。
    私は魔術を放った左手で剣を抜いた。
    まずは右!
    右足に魔力を一気に流し込み、地面を強く蹴る。
    体が浮く。
    風が耳元を切り裂き、地面が急速に遠ざかった。
    一瞬で一番近いゴブリンの懐に飛び込み、身に着けた粗末な鎧ごと、斜めに斬り上げる。
    血飛沫が弧を描いて飛び、袈裟斬りにされたゴブリンが崩れ落ちる。
    次の瞬間、私はすでに次の標的に移っていた。
    近くのゴブリンが慌てて周りを見回してたその刹那——
    剣が閃き、頭部が音もなく宙を舞った。
    三体目がこちらに向かって斧を振り下ろす。
    稲妻のような速さで迫る一撃に、私は剣を合わせた。
    斧と剣が激突し、火花が舞う。
    斧の刃を剣の切っ先がスルッと斬り裂き通り抜ける。
    ゴブリンの目が、一瞬だけ大きく見開かれた。
    まるで、かつて見た勇者の姿を思い出したかのように——。
    その考えは、虚しく途切れた。
    三体目の体が、ゆっくりと地面に倒れ込む。
    奇襲を企てていた傭兵たちも、興奮していた若者たちも、
    ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
    森に、再び静寂が戻ってきた。
    血の生臭い匂いが、朝靄にゆっくりと混ざっていく。
    残党たちの残骸が、地面に無惨に転がっていた。

    画像

    第二話 最初の弟子


    辺り一面に、敵だったものの残骸が無惨に伏せていた。
    静寂が、ようやく森に戻ってくる。
    戦闘が終わった瞬間、私はスッと息を吐いた。
    左手の剣を軽く振り、血を払う。
    そのまま鞘に納め、気を緩めた。

    「おぇええっ……!」
    口から今朝食べた干し果物が勢いよく飛び出した。
    頭が割れるように痛い。
    内臓がぐるぐると回り、胃がひっくり返りそうになる。
    (……なんだこれは!……)
    昔の俺なら、こんなことで吐くことなどなかった。
    なのに今は、ただの魔力切れで膝が笑っている。
    思考が定まらない。
    昔《アリア》の記憶が、波のように蘇ってきた。
    小さい頃、近所の男の子たちと喧嘩をして、相手をボコボコにしたあと、修道院長に怒られて一夜吊りの刑にあった時の感覚——
    「苦しい……ミラ、助けて……」
    気がつくと、あの頃のアリアと同じ言葉を、自分の口から零していた。
    体が小さい。
    腕が細い。魔力量も、明らかに足りない。
    全てが、かつての自分とは違う。
    それでも——この体で戦わなければならないというのに……。
    「……アリアさん!?」
    駆け寄ってきたエミリーが、私の体を慌てて抱き寄せた。
    彼女のローブ越しに、温かい体温が伝わってくる。
    「どうしたの? だ、大丈夫ですか……?」
    エミリーの声は動揺で震えていた。
    状況が読めていない様子で、必死に私の背中をさすっている。
    私は彼女の肩に体重を預けながら、なんとか息を整えた。
    「じょ、冗談だろ…? 今ので終わったのか?」
    伏せていた傭兵の一人が、震えた声で立ち上がった。
    一瞬の出来事だった。
    戦いが始まったと思ったら、もう終わっている。
    皆、言葉を失い、ただ呆然とこちらを見つめていた。
    「嘘だろ…? 本当に勇者なのか?」
    若者の一人が、ゲボを吐いて座り込む私の元に近づいてきた。
    その声には、驚きと畏怖が混じっていた。
    私はゆっくりと体を起こした。
    頭が重い。
    内臓がぐるぐると捩れ、吐き気が再び込み上げてくる。
    魔力切れの症状が、少女の体を容赦なく蝕んでいた。
    (……この体では、こんなにも持たないのか?)
    補助魔術で肉体を強化したはずなのに、魔力量が微々たるものでは一瞬で底を尽くす。
    今までの戦法では、この体は到底持たない。
    その事実が、身に染みて突き刺さってきた。
    頭の痛みは霧のように脳を覆い、内臓の不快感は波のように何度も押し寄せる。
    私は唇を強く噛み、なんとかその場に留まろうと足に力を入れた。
    周りの視線が刺さるように感じる。
    傭兵たちは呆然とし、若者たちは興奮と疑いの混じった目で私を見つめていた。
    「シスターが…あんな戦い方をするなんて」
    「勇者様みたいだったぞ、あれ!」
    彼らのざわめきが、朝靄の残る森に静かに響き渡る。
    この残党は、旧魔王軍の生き残り。
    30年も前の大戦から生き延びてきた連中だ。
    ゴブリンのような小物が、戦士並みに進化している。
    こちらの奇襲に気づくなんて、人間の戦法を学習したのか?
    疑問が頭をよぎるが、今は体が言うことを聞かない。
    私はエミリーの肩に体重を預け、荒い息を整えた。
    エミリーが心配そうに顔を覗き込み、手を差し伸べてきた。
    「アリアさん、大丈夫ですか? 魔力切れですよね?
    私、回復魔術は苦手だけど……少し楽になるかも……」
    彼女の声は震えていた。
    魔術学校で学んだ知識が、こんな形で役立つとは思ってもみなかったのだろう。
    力の入らない体を、若者の一人がおぶってくれた。
    背中から伝わる温もりと、息を弾ませる声が聞こえる。
    「シスター、すごかったぜ……俺たちは、役立たずだったな……」
    その声には、照れくさと敬意の混じっていた。
    私は小さく息を吐き、淡々と答えた。
    「ありがとう。みんな、無事でよかった。」
    村までの道中、エミリーが私はの耳元でそっと囁いた。
    「アリアさん……本当に勇者なんですね。本に書いてある勇者様みたい……」
    彼女の目が、朝の光の中で輝いていた。
    この出会いが、
    私の旅の始まりを、少し変えてしまった気がした。

    村の宿に運ばれてから、私は三日間、ほとんど意識が朦朧としていた。
    「……アリアさん! しっかりしてください!」
    エミリーの慌てた声が遠くから聞こえる。
    彼女は私の額に冷たい布を何度も替え、回復魔術をかけようとしては失敗し、
    結局はただ私の手を握って「大丈夫です……絶対に大丈夫ですから」と何度も繰り返していた。
    夜中になると、彼女はほとんど眠らずに看病を続けていたようだ。
    時折、嗚咽を堪えるような小さな息遣いが聞こえた。
    (……この子は、ただの見習い魔術師なのに……)
    意識が薄れながらも、そんな思いが頭をよぎる。

    ◆◆◆◆

    「……イア……起きろ、ライア!」
    呼び声に応えるように目を開いた。
    頭が重い。また魔力切れを起こしていたようだ。
    声の主の方を俺は見上げる。
    「やっと起きたか。君はすぐに魔力が切れるな……
    若いのに何でこれくらいの事でゲボなんて吐いて倒れる?」
    そこにいたのはハーフエルフの魔法使い——俺の師匠、イリアン・マーツ・レニリアだった。
    「魔法は一朝一夕で何とかなるものではないとは言ったが、火の粉すら出せずにこのザマとは、我が弟子ながら恥を知れ!」
    そうだ。俺は彼女に魔法の使い方を教わっていたところだった。
    俺のような元宮廷庭師にも扱いやすい簡易的な魔法と言っていたが、俺はその一つも扱えない。
    「……師匠、これは無理なやつでは?」
    「師匠と呼ぶな!私にはイリアン・マーツ・レニリアという立派な名前がある!
    イリアン様でもマーツさんでもレニリアちゃんとでも呼べと何回言ったらよいのだ!」
    師匠はいつも体面より自分の拘りを優先する人だった。
    「でも師しょ……イリアンさんは本気で普通の人間に魔法が使えると思っているのですか?」
    魔法が使えるのはエルフ族だけだ。
    百年も続いたこの戦争の中で精霊界から下ったエルフのみが使える奇跡——それが魔法だ。
    「甘いな少年、だからこそお前は体得しないといけない。これから勇者となるお前にはな!」
    勇者なんて師匠が勝手に作ったよく分からないもの……。
    それになれと言われて、こうして旅をしている。
    平凡な日常を憂いたこともあったが、まさかここまでとは……
    羽のない人間に空を飛べと言っているようなものだ。
    魔法使いならそれができるから間違いじゃないけど……
    「しかしここまで簡易化した魔法すら発動できないとは……考えを改めるべきか?
    お前には魔法使いにまでなれといっているのではないのだがな……。」
    師匠は頭を抱えて考え始めた。
    こうしている師匠は見た目も相まって、子供のようだ。
    およそ五十年前から宮廷魔法使いとして仕えていたとは思えない。
    簡易魔法の体得……これが勇者になる絶対条件だとしたら、何とかしないといけない。
    簡易魔法をさらに自分なりに改良しないと身がもたない。
    師匠は天才肌だから人間の脆さを理解していないだろう、だから自分で何とかするしか方法はない。
    旅の道中である程度の魔法の理屈は学んだ、ならその構造から更に噛み砕いたやり方で師匠の期待に応えるしかない。
    魔法が奇跡なら、道具のように簡単に扱える代物に……!
    それからは魔法特訓の合間に研究を重ねた。
    魔法は体内の魔力《オド》を使って、環境に満ちる魔素《マナ》を自在に操り、変化させるという。
    魔法の行使にはオドで空間に術式を示して、マナに方向性を伝える必要がある。
    俺は術式を伝える時にマナに引っ張れて、全てのオドを失っている。
    それなら——予め、限られたオドに簡単な術式を書き込んだ後にマナに触れればいいはずだ。
    魔法のように大容量の情報は無理だけど、もっと簡単に扱えるようになる。
    俺は日々の鍛錬でようやく、身につけた。
    魔法ではない、新しい術を。

    ◇◆◇◆

    長い夢を見ていた。

    二日目の朝。
    ようやく体が少し軽くなった頃、私はゆっくりと目を開けた。
    ベッドの横で、エミリーがうつらうつらとしながらも私の手を離さないでいる。
    目が合うと、彼女は飛び起きて顔を近づけてきた。
    「アリアさん! 目が覚めたんですね……!」
    その顔はくたびれていたが、目だけは嬉しそうに輝いていた。
    「……エミリーさん、ずっと看病してくれていたの?」
    「当たり前です! アリアさんが倒れた瞬間から……ずっと……」
    彼女はそこで言葉を詰まらせ、少し恥ずかしそうに視線を落とした。
    「私……魔術学校ではいつも失敗ばかりで、
    実戦なんて一度もしたことなかったのに……
    アリアさんがあんなに強くて、かっこよくて……
    私も、こんな風に誰かを守れるようになりたいって、思ったんです。」
    エミリーの声は少し震えていた。
    私は静かに彼女の手を握り返した。
    その温もりが、妙に懐かしく感じられた。
    麓の村の宿で、結局三日も過ごすことになってしまった。
    ベッドからやっと起き上がれるまで回復したものの、魔力切れの症状に魘されるのも随分久しぶりだった。
    今回は師匠の出鱈目な料理を味わらずに済んだ分だけ、まだマシな方だったかもしれない。
    「アリアさん、お加減はどうでしょうか?」
    隣のベッドで寝ていたエミリーが、心配そうにこちらを覗き込んできた。
    「もう随分良くなったよ。これもエミリーさんが献身的に介抱してくれたおかげだね。」
    エミリーは褒めらたのが嬉しかったのか、頬を真っ赤に染めてニヤついていた。
    しかし、その表情は次第に真剣なものへと変えていく。
    「アリアさん、もし私の勘違いでなければ……
    貴方はとても高い魔術の腕をお持ちなのですね。
    あの戦いの中、行使された魔術は初級のものばかりでしたが、どれも一級の精度でした。」
    彼女の言う通りだ。
    私《勇者》の魔術は師匠《魔法使い》から直接教わったものから実戦の中で発展させたもの。
    現代魔術を学ぶ彼女から見れば、古風で奇妙なものに映ったかもしれない。
    「アリアさんとはお友達になれた気がしましたが……考えを改めてないといけないようです。」
    確かに、得体の知れない私に関わるのは危険だ。
    そう思った瞬間、エミリーはベッドから身を乗り出して、勢いよく言った。
    「アリアさん!私を弟子にしてください!」
    予想とは全く違う言葉に、私は一瞬固まった。
    「……何だって?」
    思わず聞き返してしまった。
    エミリーは真っ赤な顔のまま、けれど目は真剣そのものだった。
    彼女の瞳には、強い決意と、どこか幼い興奮が混じっているように見えた。
    彼女もこの三日間、ずっと悩んでいたようだった。
    自分の未熟さに悲観し、どうやったら戦えるようになるか——。
    それは私も同じ気持ちだった。
    少女《アリア》の肉体という枷が、今後の旅路で大きな危機をもたらすかも知れない。
    エミリーが着いて来てくれるのは、願ってもないことだ。
    しかし、アリアの知識では前大戦からすでに三十年が経っている。
    私《勇者》の魔術は、現代から見れば古いものに過ぎない。
    彼女が求めるほどの価値が、本当にあるのだろうか。
    私が押し黙って考え込んでいると、エミリーはもう我慢できないという様子で、ベッドから身を乗り出した。
    「わ、私、何でもしますから!
    アリアさ……お師匠様の言う通りにしますから!この通り!」
    彼女は勢いよく頭を下げ、私の膝の上に額を押し付けるように何度も何度も頭を下げ続けた。
    その必死さが痛々しくて、思わず苦笑が漏れた。彼女の意思を尊重したい気持ちもあったので、私は条件を交えて答えた。
    「……いいでしょう。弟子になることを許可します。
    ただし、私のことは『アリア』と呼んでください。いいですか?エミリー。」
    エミリーは顔を上げた瞬間、目に涙を浮かべて飛び跳ねるように明るくなった。
    「はい! ありがとうございます、お師匠様……じゃなくて、アリア!」
    彼女の声は喜びに震えていた。

    旅の準備を始めた。
    三日ぶりの外の空気は冷たく澄んでいて、麓を吹き通す朝の風が頰を優しく撫でる。
    私は大きく膨らんだ背中のリュックを、ゆっくりと担ぎ上げた。
    結局、討伐組の若者たちは旅を諦めてしまった。
    この重く膨らんだ荷物と、たっぷりの路銀は、彼らが置いていった「置き土産」だ。
    二人分にしては少し大きすぎる気もする。
    それでも、彼らの思いを背負うつもりで、大事に使わせてもらおう。
    「アリア、これからどちらに向かいますか?」
    隣で同じように荷物を背負ったエミリーが、少し緊張した声で聞いてきた。
    「西の方へ。村々を渡りながら進もうと思う。
    まだこの辺りに潜伏している残党がいるかもしれないからね。」
    今は旅を焦る時ではない。
    エミリーと共に、これからの戦いのために鍛えながら、少しずつ進もう。
    朝の風が、私たちの修道服とローブを軽く揺らした。
    エミリーが小さく深呼吸をするのが、横目で分かった。
    「じゃあ……行きましょうか、アリア。」
    彼女の声には、わずかな不安と、それ以上の期待が混じっていた。
    私は静かに頷き、最初の一步を踏み出した。

    画像

    第三話 勇者の魔術


    山脈から花々の甘い香りと共に、春の風が吹き抜けていく。
    私は木漏れ日が差し込む道の途中で足を止め、遠くに輝く嶺を眺めながら、今後のことを考えていた。
    聖堂教国家との国境は、この山脈で分けられている。
    前大戦でも東の端の被害が少なかったのは、この山脈が魔族の侵攻を自然に抑えてくれたからだ。
    今は皮肉なことに、旧魔王軍残党の潜伏地点になっていると聞く。
    私たちはその道中で、魔族被害に遭っているかもしれない村々をできる限り助けることした。
    今は山道を西南へ。標高の低い場所から山越えを目指している。
    「エミリー、君の魔術を見せてもらえないか?」
    背中のリュックを木陰に下ろしながら、私はエミリーに尋ねた。
    彼女は少し自信なさげに杖を握り直した。
    「……私の実力を見たい、ということですね。分かりました。」
    私は慌てて首を横に振った。
    「誤解しないでほしい。
    君の使う現代魔術を知らなければ、師匠として教える手立てがないんだ。
    だから、直接見ておきたい。」
    エミリーは少し驚いた顔をした後、こくりと頷いた。
    「では……行きますよ。」
    彼女の杖を起点に、術式が魔法陣のように広がっていく。
    周囲のマナが一塊に集まり、束ねられた瞬間——火の柱が勢いよく立ち上った。
    燃え上がる業火は、エミリーの合図と共に綺麗に姿を消した。
    その後、エミリーに現代魔術の基礎を教えてもらった。
    初級、中級、上級、と段階が細かく分けられていて、学びやすい構造になっている。
    彼女はまだ上級は上手く扱えないと言っていたが、その到達点が「魔法の再現」であることは明白だった。
    より複雑に。より強力に。より大規模に。
    魔術師とはそれを専門的に扱う者たちの総称らしい。
    私《勇者》の魔術は——その逆だった。
    より単純に。より安定して。より扱いやすく。
    剣術との併用を前提に、持久戦に耐えられるように作られている。
    苛烈な環境下でも行使できる技術の延長線上にあった。
    魔法は環境に満ちる魔素《マナ》に大きく依存する。
    マナが少ない場所では出力も比例して落ちる。
    現代魔術も同じ弱点を抱えているはずだ。
    大規模な戦場で多くの魔術師が集まれば、その弱点は顕著に現るだろう。
    エミリーには悪いが……彼女にも勇者になってもらうしかない。

    山道を抜けていくと、のどかな村が見えてきた。
    荒れた様子もなく長閑な風情が広がっている。
    遠くの山の斜面を、白い羊の群れがゆっくりと歩いていた。
    吹き通る風の中に、微かに鉄の匂いが混ざっていることに気づく。
    村長を尋ね、近隣の情報を集めた。
    村長の話では、羊飼いの羊が何頭か行方不明になっているという。
    柵が壊れた形跡もなく、獣の侵入の気配もないことから、知性がある魔族の仕業の可能性が高いらしい。
    「情報の提供、ありがとうございます。どうか、精霊の加護があらんことを。」
    軽く握った拳を包むように左手を添え、会釈する。
    村長宅を後にして、私はエミリーに声をかけた。
    「エミリー、早速鍛冶屋を探そう。」
    エミリーは少し戸惑ったように首を傾けた。
    「……分かりました。」
    村に入った瞬間、直感した。
    ここには腕の良い加治職人がいる。
    微かに漂う金属の匂いと、金物を叩く規則的な音をたどって、村の端にある鍛冶屋に辿り着いた。
    店内に入ると、さまざまな武具や農具、日用雑貨が並んでいる。
    私は感心しながら頷いた。
    「ほう……これは素晴らしい出来だ。」
    エミリーが背負ったリュックの重さに顔をしかめながら、こちらを覗き込んだ。
    「アリア、これから山脈を越えるのに、鎧でも新調するんですか?」
    「いや、エミリー。君のためだよ。」
    彼女はきょとんとした表情を浮かべた。
    私は店主に挨拶を済ませると、エミリーに手を差し出した。
    「エミリー、ちょと君の杖を貸してくれないかな?」
    エミリーは状況が読めず、少し不安げに杖を差し出した。
    私はそれを受け取り、軽く息を吸った。
    「精霊の皆よ、暫し目を瞑りください。——そい!」
    バキッ!
    乾いた音が響き、エミリーの杖が真っ二つにへし折れた。
    「アリアァァ!何をするんだー!」
    エミリーが悲鳴のような声を上げた。
    いつもの丁寧な口調が完全に崩れている。
    「これさえあれば、他はいらないよね。」
    私は折れた杖から、術式を安定させるための特殊な英石を取り出した。
    エミリーは打ち捨てられた杖の残骸を前に、涙目で立ち尽くした。
    「何と……酷いことを……」
    そんな彼女を尻目に私は店主に声をかけた。
    「店主さん、こちらの槍にこの英石を埋め込むのは可能でしょうか?」
    私は店内で最も扱いやすい、シンプルな形の槍を手に取ってに交渉した。
    店主は目を細めて笑った。
    「おお、嬢ちゃん、いい目利きだね。そいつは俺の自信作だ。
    加工には一晩はかかるが、いいかい?」
    「勿論です。ではお願いします。」
    先払いで会計を済ませ、私は萎れたエミリーを背負うようにして店を後にした。

    萎れたエミリーを村の小さな宿に置いて、私は一人で牧草地帯を回り始めた。
    村の被害状況から予想するに、この魔族には大した勢力はない。
    討伐組を恐れて、ちまちまと羊を狙っているのだろう。
    夕暮れの日が山脈に沈みかける頃、私はようやく小さな痕跡を見つけた。
    草を踏み荒らした跡と、枝でわざとらしく掻き消したような小さな足跡。
    知能はあるが、やり方が露骨すぎる。
    私は息を潜め、左手で剣の柄を軽く握った。
    補助魔術で感覚を鋭敏にして、周囲に意識を巡らせる。
    血の匂いと、獣の臭い。
    そして、金属が擦れる微か音。
    (一体……右後方から、少しずつ回り込んでいるな)
    全身の力を抜き、動かずに相手が仕掛けるのを待つ。
    日差しが完全に山脈に隠れ、影が牧草地を覆い始めたその瞬間——
    影の中から小さな影が飛び上がった。
    短剣を片手に、暗闇に溶け込むような素早さでこちらに襲いかかってくる。
    私は腰を軸に体を大きく捻り、勢いよく剣を抜いた。
    シュンッ!
    空を切る鋭い音とともに、剣閃が一閃した。
    二つに分かれた小さな残骸が、地面に落ちる。
    どうやら、犯人はコボルトだったようだ。
    人間の戦い方を真似て、奇襲を仕掛けてきたらしい。
    私は軽く息を吐き、剣を鞘に納めた。
    この体でも、十分に戦える。
    ただし——まだ、完全に自分のものにはなっていない。
    残骸を麻袋に詰め、村長の元へと持ち帰ることにした。

    村長に報告を済ませた後、私は宿へと戻った。
    すっかり夜になり、空一面に星が輝いていた。
    (そろそろエミリーも落ち着いた頃だろう。一緒に羊肉のシチューをご馳走になろう。)
    ゆっくりと扉を開ける。
    中は明かりも灯さず、窓から差し込む月明かりだけが部屋を淡く照らしていた。
    ……シクシク……シクシク。
    小さな啜り泣く音が、静かな部屋に響いている。
    「エミリー。夕食の時間だよー。」
    ……
    返事はない。
    ただ、嗚咽だけが途切れなく続いている。
    「……エミリー。どこにいるの?」
    音を頼りに部屋の中を探ると、ベッドと壁の間に小さく丸まっている影が見えた。
    「……シクシク……シクシク。」
    「エミリー。お腹すいたでしょ。
    ご飯食べてスッキリしなって。」
    「……勇者様は、あんなごどじないもん……」
    声が震えていた。
    思ったより、相当へこんでいるようだ。
    精霊教の教えでは道具を大切にするのが基本だ。
    杖をいきなりへし折るなんて、彼女からすればかなり強引で、ショックだったのだろう。
    私は小さく息を吐いた。
    (……説得しても、未練を残すだけだと思ったから、あの手段を取ったんだけどな)
    正直、後悔はない。
    ただ、彼女をここまで落ち込ませてしまったことは、少し胸が痛んだ。
    「エミリー、ちょっとこっちに来て。」
    私は補助魔術で体を軽くし、ベッドと壁の隙間に手を伸ばした。
    エミリーの細い体を抱き上げ、宿の外へ連れ出す。
    「ほら、温かいシチューが待ってるよ。村長宅でご馳走になろう。」
    エミリーは私の胸に顔を埋めたまま、くすん、と小さく鼻を鳴らした。
    「……アリアのバカ……」
    その声は、もう少しだけ柔らかくなっていた。

    村長宅では私たちを出迎える準備をしていたようだった。
    扉を開けると同時に、村長と羊飼いの夫婦が声を合わせて明るく言った。
    「ようこそ我が家へ!」
    エミリーを抱えたままの、私は軽く会釈を返す。
    「今回は招待いただき、ありがとうございます。」
    泣き腫らした顔のエミリーを椅子に座らせ、私は隣に腰を下ろす。
    テーブルの上で目を引くのは、湯気を立てる羊肉のシチューだった。
    野菜の甘い香りとスパイスの香りが、部屋いっぱいに広がっている。
    心なしか、エミリーの瞳にも少し精気が戻ってきたように見えた。
    「何と素晴らしいご馳走でしょう……感激いたします。」
    私は精霊教の作法通り、軽く握った拳を左の手のひらで包むようにして会釈した。
    「精霊の皆に感謝を。私たちにこの食事をお恵みになった全てを愛します。
    この食事を、私たちの生きる糧とし、循環する魂に精霊の祝福を。」
    村長がにこやかに頷いた。
    「さぁ、いただきましょう。」
    スプーンを入れると、柔らかく煮込まれた羊肉がほろりと崩れた。
    口に含むと、羊肉の深い旨みと脂の甘みがじんわり広がる。
    臭みはほとんどなく、にんじんやじゃがいもにもしっかり味が染み込んでいて、噛むたびにほっとする優しい味わいだった。
    「幸せ……」
    隣でエミリーが、思わず小さな声をもらした。
    先ほどまでの泣き腫らした顔が嘘のように、彼女の頰が緩んでいる。
    私は小さく微笑みながら、スプーンを動かした。
    干し肉と硬いパンばかりの日々が続いていただけに、この温かいシチューは体だけでなく心まで満たしてくれるようだった。
    満腹になった頃、エミリーがそっと私の袖を引いた。
    「……アリア。さっきは……ごめんなさい。」
    その声は、まだ少し鼻声だったが、さっきよりずっと柔らかくなっていた。

    翌朝、泣き疲れて深い眠りの中のエミリーを、私は一瞬起こすか迷ったが、彼女のためと思い、優しく肩を揺らした。
    「エミリー、朝だよー。朝ごはんだぞー。」
    ボサボサ頭のエミリーが、目覚めが悪そうな顔でゆっくりと瞳を開けた。
    朝の日差しが窓から部屋全体を、柔らかく煌びやかに染ていた。
    私はエミリーのために朝食の準備を始めた。
    水に浸した硬いパンを細かくちぎり、オリーブオイルと刻んだ干し肉を入れてフライパンで炒める、その上に羊チーズを乗せる。
    昨日、羊飼いの夫人に教わった「ミガス」という簡単な料理だ。
    髪を丁寧に梳かしたエミリーが、ちょうど階段を降りてきた。
    「精霊の皆に感謝を……以下略。」
    私は本来のアリアらしい大雑把な作法で、短く祈りを済ませ食事を始めた。
    「今日はエミリーの槍が完成する日だよ。楽しみだね。」
    「……そうですね。」
    エミリーは少し視線を落とし、何もない床を見つめながら小さく答えた。
    まだ杖のことを引きずっているようだ。
    食事を終えると、すぐに鍛冶屋へ向かった。
    「店主さん、昨日お願いしていた槍の加工は終わってますか?」
    奥から活気のある声が返ってきた。
    「おおよ!完璧に仕上げてあるぜ!
    なんたって、武具を買うお客さんは一年ぶりだからな!」
    店主は胸を張って自慢げに笑いながら、出来上がった槍を差し出してきた。
    私は両手でそれを受け取り、エミリーの手にそっと握らせた。
    柄の先端で、埋め込まれた英石が朝の光を受けて緋色に輝いていた。
    「エミリー、似合ってるよ。」
    エミリーは槍を握ったまま、しばらく無言でそれを見つめていた。
    やがて、彼女の目が少し潤んだ。
    「……本当に、私のために……?」
    その声はまだ少し震えていたが、昨日までの落ち込みとは明らかに違っていた。

    これは私なりの、苦肉の策でもあった。
    自身の鍛錬も並行して行うにしても、前衛としての能力が落ちた時に、エミリーには確かな自衛の手段が必要だ。
    後衛専門の魔術師ではなく、中近距離もこなせる万能型の新しい魔術師へ。
    これなら私勇者が培った魔術が、彼女の中で生きるはずだ。
    「エミリー、その槍を杖だと思って魔術を使ってみて。」
    「……やってみます。」
    エミリーは不安げな表情を浮かべながらも、覚悟を決めて魔力を込めた。
    師匠《魔法使い》がいうには、本来なら肉体の延長として有機物の杖を使うのが原則だという。
    しかし私《勇者》の経験上、武具も「体の一部」として強くイメージできれば、魔力の媒介として成立する。
    エミリーの想像力なら、きっと可能だ。
    「エミリー!頑張って!
    槍を杖と同じだと、強くイメージして!」
    エミリーの周りにマナが集まり始めた。
    槍の石突部分に、不安定ながら術式の陣が浮かび上がる。
    「……っ!」
    彼女の額から汗が滴り落ち、表情が苦悶に歪んだ。
    槍を握る手が小刻みに震え始め、マナの収束が危うくなる。
    あと一歩……。
    次の瞬間——
    ドゥンッ!
    槍の先から、勢いのある火の柱が立ち上った。
    成功だ。
    「アリア……! やりました! 私、やったんです……!」
    歓喜のあまり涙を流すエミリーを、私はそっと抱きしめた。
    「エミリーならできると、信じていたよ。」
    こうして、また新たな魔術体系が一つ、生まれた。

    画像

    第四話 村の霧と二人の絆


    西の山脈に、陽がゆっくりと沈もうとしていた。
    エミリーの魔術を完成させた後、私たちは村を旅立ったが、次の村はまだ見えない。
    暗闇に沈む森で、野営の準備を始めた。
    「アリア……この森にも、魔族はいるんでしょうか?」
    エミリーの声が少し不安げに震えた。
    「そうだね。寝込みを襲われる可能性はあるよ。」
    エミリーの顔が、みるみる血の気を失って青ざめていく。
    「でも大丈夫。その対策はあるんだよ。」
    私は腰のポーチから、いくつかの小さな石を取り出した。
    「それは……ただの石ですか?」
    エミリーは期待していた分だけ肩を落とし、少し落ち込んだ表情になった。
    私は小さく笑って、一つを彼女に渡した。
    「これは『鳴子石』と言って、私が魔術で作った警告装置だよ。
    魔族が近づいたら、自動で音を鳴らしてくれる。」
    エミリーの目が少し丸くなった。
    「この手の魔力を物質の中に安定させる技術は、かなりの特訓になるんだ。
    体に魔力を常に巡回させることで魔力量を効率よく上げられるし、放出量の調整も容易になる。」
    エミリーは少しむすっと頰を膨らませた。
    「私には初耳の特訓法ですね……一人で抜け駆けですか?」
    私は慌てて首を横に振った。
    「誤解しないで。
    今の君は、まずその槍に魔力を定着させる方が先だよ。
    いつでも戦えるようにしないとね。」
    私は石に軽く魔力を込め、柔らかい明かりを灯してみせた。
    「これも魔術の応用だよ。」
    エミリーは石の明かりを見つめながら、ゆっくりと頷いた。
    その瞳には、さっきまでの不安が少しずつ、好奇心に変わり始めていた。
    野営地周辺に、等間隔で鳴子石を設置した。
    師匠《魔法使い》の結界魔法にはほど遠い簡易的なものだが、
    これまで何度も実戦で役立ってきた方法だ。
    「これから火の番を交互にしよう。
    魔族に反応するけど、ただの獣には効果がないからね。」
    星が降るような夜空の下で、私たちは静かに夜を迎えた。
    焚き火の炎がパチパチと音を立て、
    エミリーの横顔を柔らかく照らしている。
    彼女は膝を抱えるようにして座り、時折、設置した鳴子石の方へ視線を向けていた。
    「……アリア、本当にこれで大丈夫ですか?」
    その声はまだ少し不安げだったが、
    さっきよりは、頼りになる存在を信じようとしているように聞こえた。
    私は焚き火に細い枝をくべながら、穏やかに答えた。
    「大丈夫だよ。
    今夜は私が先に番をするから、エミリーは少し休んでおきなさい。」
    エミリーは小さく頷き、
    毛布にくるまりながらも、私の横に少しだけ体を寄せてきた。
    星明かりと焚き火の光が、
    私たち二人の影を長く、静かに森の地面に落としていた。

    明朝、私はエミリーの肩をそっと揺らして、朝の訪れを告げた。
    「ふはぁ……もう朝ですか?」
    濃い朝霧が森を覆い、朝日が歪んでぼんやりと見える。
    視界が悪く、まるで夜よりも危険な雰囲気が漂っていた。
    「エミリー、早めに準備して。警戒態勢だよ。」
    まだ寝ぼけ眼の彼女に、少し強く声をかけた。
    この濃霧では、魔術による感覚強化も長くは続けられない。
    動けば遭難の危険すらある。
    晴れるまで待つしかない—— そう判断した瞬間だった。
    ぴりりぃぃぃい!
    鳴子石の鋭い警告音が、森の静寂を切り裂いた。
    敵が近い!
    私は即座に左手で剣を抜き、戦闘態勢に入った。
    補助魔術で聴覚と嗅覚を最大限に鋭敏にし、視覚以外の感覚をフルに使う。
    周辺には腐った卵のような強烈な臭が充満していて、嗅覚だけでは追えない。
    頼れるのは聴覚だけだった。
    「……少なくとも五体。
    周りを囲むように、じりじりと近づいてきている。」
    金属が擦れる微かな音と、荒い息遣いが、霧の向こうから聞こえてくる。
    警告音に警戒してか、すぐに飛び出してはこない。
    槍を構えたエミリーは、矛先をどこに向ければいいか分からず、明らかに戸惑っていた。
    その肩が、小刻みに震えている。
    圧倒的に不利な状況だ。
    私は一瞬で判断した。
    感覚強化の補助魔術を切り、突発的な戦闘に備える。
    今は、渾身の魔術で突破口を開いて逃げるしかない——。
    「エミリー!集中して前方に全力の魔術攻撃!」
    エミリーは一瞬戸惑いを見せたが、こちらの意図を察して即座に槍を構えた。
    「アリア!行きますよ!」
    槍の先端にマナが急激に収縮され、一瞬で炎の柱へと変わる。
    エミリーの前方にあった濃い霧を切り裂くように、業火がまっすぐ放出された。
    「エミリー!そのまま真っ直ぐ行くよ!」
    私はエミリーの腰に片手を回し、魔力を両足に集中——一気に放出した。
    体が浮き上がるような加速とともに、エミリーを抱えたまま炎の道を突き進む。
    炎に巻かれた魔族の一体が飛び出してきたのを、私はすかさず剣で両断した。
    血飛沫が霧の中に飛び散る中、私は勢いのまま全力で前方へ駆け抜けた。
    20メートルほど突き進んだところで、濃霧が嘘のように晴れ始めた。
    息が上がる。
    魔力の限界が近い。
    私はエミリーを抱えたまま、さらに500メートルほど走り続け、ようやく岩陰を見つけて二人で身を隠した。
    「はあ……はあ……」
    エミリーが荒い息を吐きながら、私の胸にしがみついたまま震える声で言った。
    「どうしましょう……食料も路銀も、全て置き去りにしてしまいました……」
    私は少し息を整えながら、静かに答えた。
    「あの場合は仕方なかった。
    敵の勢力も完全に把握できなかったし……無事に逃げられただけでも、運が良かったよ。」
    軽く目を閉じ、感謝の意を込めて精霊に短い祈りを捧げた。
    まずは状況の確認だ。
    太陽の位置と山脈の頂上から方向を判断する。
    さっきいた地点より、さらに西南に進んでいるようだ。
    私は腰のポーチから地図を取り出し、場所を確認した。
    「このあたりのはず……西に1キロほど進めば、村に辿り着くかもしれないね。」
    私はエミリーの手を取り、目的地へと歩みを始めた。
    不安を抑えきれない彼女の指は小刻みに震えていた。
    私はその小さな手を、包み込むように静かに握り締めた。

    森の木々の切れ目から、村の様子を静かに眺める。
    ……ひどい有様だった。
    建物は崩れ、壁に黒い焦げ跡が残り、争った後のような荒廃が広がっている。
    村の入り口には、一人の男が剣を突き立てて仁王立ちしていた。
    何かを守るように、決死の形相で。
    「私たちは敵ではない! どうか剣を納めてくれないだろうか?」
    私は姿を晒し、剣を鞘に納め、両手を上げながらゆっくりと近づいた。
    「お前らも討伐組の生き残りか?
    こっちも戦う気はない。」
    男は剣をゆっくりと下ろし、後ろに合図を送った。
    村の奥から、数人が手に持った弓を下ろしながら姿を見せる。
    どうやらこの村は、外敵に対して強く警戒しているようだ。
    「私はシスターのアリア。こちらは魔術師のエミリーです。
    この村で何が起きているのか、話を聞かせてもらえないだろうか?」
    男は私たちの姿を一通り見つめ、ようやく口を開いた。
    「俺はガイン・マルクスだ。
    お前たちも森で奴らに襲われたんだろ。
    詳しい話は教会でしよう。ついて来てくれ。」
    ガインの誘導で、村の中央に建つ教会へと向かった。
    光が正面のバラ窓を透かして、足元の石畳に色鮮やかな影を落としている。
    白漆喰の壁は長い年月を経て柔らかい乳白色に変わっていた。
    正門の紋章と、剣を逆さにした形の十字架から、ここが聖堂教の教会だと分かる。
    中に入ると、身廊や長椅子に村人らしき人々が集まっていた。
    皆、疲れ果てた顔で私たちを見つめている。
    ガインは苦々しい表情で言った。
    「ここ最近、朝方になるとどっからともなく霧が現れて、その中に紛れた奴らに村が襲われている。
    こうやって教会にみんな避難して生活しているが……いつまで持つか……」
    彼は拳を強く握り、憤りを抑えるように息を吐いた。
    「武装していた連中は村の駐屯兵ですか?」
    「駐屯兵ならとっくに逃げ出した。
    村の連中と、このあたりで奴らに襲われた討伐組の生き残りさ。」
    ガインの声には、抑えきれない怒りが滲んでいた。
    「親父! このままじゃ埒が明かねぇ!
    こっちから仕掛けねぇと、やられるだけだ!」
    武装した若い男が割り込み、ガインに食ってかかった。
    「カイル! お前、持ち場はどうした!?」
    「みんな疲弊してそれどころじゃねぇって言ってるんだよ!
    黙って奴らが来るのを待つ必要はねぇだろ!?
    どうして防戦一方でいられるんだ!」
    どうやら二人は親子のようで、突然の口論が始まってしまった。
    「二人とも、落ち着いてください。
    敵が襲ってくるのはおそらく明朝になるでしょうから、その時に仕掛けるのが妥当です。」
    私は彼らの苛立ちを汲み取りながら、できるだけ穏やかに代案を出した。
    「シスターさん、あんたには具体的な考えがあるって言いたいのか?」
    カイルは苛立ちを隠さず、こちらに突っかかってきた。
    「やめんか、カイル! 仲間内の争いは不毛だぞ!」
    「誰が仲間だ! こんな小娘の意見が何の役に立つってんだ!」
    険悪な空気が一気に教会全体を包み込んだ。
    事態を収めたいが、彼らの疲弊と積もり積もった不満が、簡単に爆発しそうだった。
    「アリアは小娘じゃありません!
    彼女は経験のある勇者なのですから、この状況を打破する考えがあります。
    貴方は黙って聞いてください!」
    エミリーも触発されたように、強い口調で言葉を返した。
    ……あまりにも良くない流れだ。
    ガインは深くため息をつき、拳を握りしめたまま私を見つめた。
    「シスター……いや、アリアさん。
    お前が本当に勇者なら、教えてくれ。
    この霧の中で、どうやって奴らを倒せばいい?」
    教会に集まった村人たちの視線が、一斉に私に集中した。
    重く、疲れきった目。
    希望と疑いが混じった視線。
    私は静かに息を吸い、ゆっくりと口を開いた。
    「霧の正体は、おそらく魔族の能力でしょう。
    私たちがあの霧から逃れた時、霧は半径20メートルほどの限られた範囲で展開していました。
    それに、腐乱したような特有の臭いが漂っていました。自然に発生したものとは思えません。」
    「つまり、発生源が必ずあるってことだな?
    そこを叩けば、奴らを一網打尽にできる!」
    ガインは拳を軽く叩きながら、目を鋭く光らせた。
    私は地図を広げ、周辺の情報とこれまでの襲撃パターンを共有した。
    ガインによると、襲撃はいつも同じ方向——村の入り口、ガインが立っていた場所から来るという。
    「私とエミリーで森に潜伏し、襲撃が始まったと同時に奇襲をかけます。
    霧の発生源を叩くのが目的です。」
    「お前らに作戦の要を任せろってことか!?
    ふざけるな! 霧の中でどうやって敵の位置を掴むって言うんだ!」
    カイルが即座に食ってかかった。
    「カイル! 黙って聞け! 彼女たちにとっては最も危険な作戦なんだぞ!」
    二人の衝突が、またもや瞬く間に始まった。
    周りの知り合いらしき人々が、呆れた様子で止めに入る——どうやらこれは日常茶飯事のようだった。
    「私たちに作戦の是非が掛かっているのは分かります。
    ですが、今回は私たちに任せてもらえませんか?」
    私は真剣な表情で、覚悟を込めて伝えた。
    村人たちの視線が、迷いと疲労を帯びて揺れた。
    「俺は彼女たちに任せてみようと思う。」
    ガインが静かに、しかしはっきりと言った。
    「親父! 何で女どもに任せるんだ! 俺だってやれるぞ!」
    「カイル! またお前は……!
    彼女たちは覚悟を持って挑むつもりだ。
    俺たちに代わりの考えがないなら、頼るしかないんだよ!」
    カイルを除いて、皆がゆっくりと頷いた。
    どうやら、私たちに一任してくれるようだった。
    エミリーはカイルに向かって、胸を張って言い返した。
    「アリアさんなら必ず成功させますから、ご心配にならなくてもいいんですよ?」
    私は「エミリー、やめなさい」と小声で制しつつ、カイルの顔をそっと見た。
    苛立ちと悔しさが混じったその表情は、
    まるで未熟だった頃の自分を重ねるようで、胸に少し痛みを覚えた。
    作戦会議を終える頃、太陽の日差しがステンドグラスを透かして、教会内を色鮮やかに染め上げていた。
    しかしその美しい光は、村人たちの心境とは真逆に、ただ重くのしかかっていた。
    不安と疲弊が、教会の空気全体に渦巻いている。
    どれだけの日々、彼らがこの霧と魔族に苦しめられてきたのか——その重さが、肌で感じ取れた。
    (……何故、魔族はこんな小さな村を、痛ぶるように攻めてくるのだろう)
    旧大戦の頃は、人間を生け捕りにして奴隷や物資に変える動きが目立っていた。
    それが今は、霧を使ってじわじわと村を追い詰めるような、回りくどいやり方になっている。
    霧の発生源には、特定の魔獣や儀式のようなものが関係しているのか……?
    考えが堂々巡りする私の様子を見かねて、エミリーがそっと声をかけてきた。
    「アリアさん……大丈夫ですか?
    今朝からまともに休めていらっしゃらない様子ですが……」
    「すまない、エミリー。少し考えすぎてしまったかも。」
    彼女の言う通りだ。
    明日の作戦のために、少しでも万全の状態にしておかなければならない。
    私は短く息を吐き、目を閉じた。
    教会の片隅で、ほんの少しだけ眠りに落ちることにした。

    画像

    第五話 霧の守護剣士


    日差しが傾き、教会の長い影が村を横断する頃。
    私は村の外周に鳴子石の設置を急いでいた。
    明朝になれば、また村が襲われる。
    その前に、全ての準備を整えなければいけない。
    エミリーが反対側から設置を終え、手を振ってこちらに合図を送ってきた。
    彼女の表情は緊張で少し強張っている。
    (……エミリーにも、防衛に回ってもらった方が危険は少ないかもしれない)
    しかし、今の私では索敵と身体強化だけで手一杯になる。
    攻撃魔術を使う余裕はほとんどないだろう。
    経験の少ない彼女に、多数の敵と戦わせることになる。
    だからこそ、少しでも完璧な作戦に近づけなければならない。
    私は最後の鳴子石を地面に埋め込みながら、静かに息を吐いた。
    夕陽が山脈に沈み、村全体が橙色に染まっていく。
    その美しい光景とは裏腹に、胸の奥には重い緊張が広がっていた。

    翌日、東の空から一筋の光が差した頃。
    私とエミリーは森の茂みの中で息を殺し、作戦開始の合図を待っていた。
    朝日が昇り始めると同時に、霧がゆっくりと流れ込んできた。
    辺りに神経を張り巡らせるが、奴らの気配はまだない。
    ……しかし、殺意のない気配が一つ、こちらに近づいてくる。
    「……カイル!? 何で来たの!?」
    「お前らだけに任せるわけにはいかねぇだろ!」
    カイルは小さく、しかし芯の通った声で答えた。
    エミリーは呆れたように目を見開き、声も出せずにいる。
    「こっちの策を説明している暇はないよ! 合わせられる?」
    カイルは当たり前だと言わんばかりに、こちらを鋭く睨みつけた。
    エミリーはむすっと頰を膨らませ、不満げに唇を尖らせた。
    予想外の参入だったが……作戦そのものに変わりはない。
    私は小さく息を吐き、エミリーに静かに言った。
    「今は彼を信じて、全力を出すことに集中しよう。」
    エミリーはまだ不満そうな顔をしていたが、結局小さく頷いた。
    霧が深くなるにつれて、辺りに不気味な気配がどんどん増えていく。
    情報通りの方向から、魔族たちが村の方に向かっているようだ。
    狙うは霧の発生源。
    今は息を殺し、ただ通り過ぎるのを待つ。
    ぴりりぃぃぃい!
    村の方から、鳴子石の鋭い警告音が響き渡った。
    作戦開始の合図だ!
    飛び出そうとするカイルの肩を、私は素早く掴んで抑えた。
    右腰に下げていた、かつて修道院長から貰った精霊の加護を受けたお守りを手に取る。
    魔力を込めると、中から羽虫のような小さな紙細工が淡い光を放って飛び立った。
    「私の読みが正しければ、この『迷わずの虫』が霧の発生源に導いてくれるはずだ。」
    昔、魔法使いが使っていた伝書鳩の小型版、お守りとして渡されたのがこれで助かった。
    今は魔力の質量が高い場所に強く引きつけられるように調整してある。
    私は補助魔術で感覚を最大限に強化し、索敵を続けながら、迷わずの虫を頼りに霧の中を突き進んだ。
    後ろの二人は、私を先頭にした三角の隊形でぴったりと付いてきていた。
    「濃霧のせいで迷わずの虫と距離が近い。接敵したら即戦闘だよ。」
    後ろの二人は静かに頷いた。
    20メートルほど進んだ頃、前方に複数の敵の気配がはっきりと感じ取れた。
    「村から離れた場所に四体……間違いない! 霧の発生源だ!」
    それを聞いた瞬間、カイルが一気に速度を上げて駆け出した。
    「勝手にッ!」
    私は即座に鳴子石を投げ、敵の位置を伝える。
    ぴりりぃぃぃい!
    鋭い警告音が霧の中で響いたのと同時に、敵がカイルに襲いかかった。
    音に驚いたカイルが咄嗟に剣を構え、かろうじて最初の攻撃を受け止めた。
    私はその隙を逃さず、カイルを攻撃した敵の横をすれ違い様に斬り裂いた。
    「エミリー!」
    敵の方向に向かって光石を投げる。
    エミリーが即座に反応し、槍を構えた。
    「行きます!」
    炎の柱が光石を追うように霧を切り裂き、敵を飲み込んだ。
    一瞬、霧が晴れた。
    その中心に、発生源が姿を現した。
    それは魔族と呼ぶには、あまりにも人間的だった。
    またら模様の腐敗した少女。
    白い長い髪が乱れ、エルフを思わせる透き通った瞳が虚ろに揺れている。
    ただれた額には、赤い結晶のようなものが埋め込まれていた。
    少女は周りを飛ぶ「迷わずの虫」を、手でぱたぱたと掴もうとしている。
    それを守るように、二体のゴブリンが前に立ち、こちらに剣を向けていた。
    ……予想外の光景に、私は足を止めた。
    「アリア……あれは、人間なんですか?」
    エミリーの震える声が、背後から聞こえた。
    私は即座に答えることができなかった。
    魔族には亜人種もいる。
    しかし、あの少女の姿は——あまりにも人間そのものに見えた。
    (……生きたまま、腐っているのか?)
    胸の奥に、冷たいざわめきが広がった。
    「こなくそぉぉお!」
    私たちの間から割って入るように、カイルが激しく飛び出した。
    片方のゴブリンがカイルの剣を受け、もう片方が少女を庇うように立ちはだかる。
    少女は遠ざかろうとしていた。
    「エミリー、やって!」
    私は冷徹に指示を出した。
    しかし、エミリーは明らかに躊躇していた。
    術式に魔力が込められず、槍の先が小さく震えている。
    彼女の顔は困惑と恐怖、そして哀れみが入り混じった濁った色を浮かべていた。
    (……少女を人間と認識してしまっている。私がやるしかない)
    私は両足に魔力を一気に込め、大きく跳躍した。
    少女に向かって剣を振り下ろすと、ゴブリンが盾になるように飛び出してきた。
    構わず振り抜く。
    私の片刃の剣が、ゴブリンの鈍い剣をスウッと斬り込み、そのまま体を両断した。
    背後の少女は、その場を離れようとしなかった。
    ただ、斬り裂かれるゴブリンを虚ろな瞳で眺めている。
    その瞳から、一筋の血の涙がゆっくりと流れ落ちるのを見逃さなかった。
    私は迷わず、少女の胸に刃を突き立てた。
    剣が体を貫く感触が、手に重く伝わってくる。
    少女の体が小さく痙攣した。
    私は剣を抜かず、そのまま彼女の背を抱き寄せ、耳元で静かに祈りを囁いた。
    「どうか、貴方の魂に……精霊の祝福を。」
    ゆっくりと霧が晴れていく。
    遮られていた朝の日差しが、森全体を包み込むように広がった。
    村の方から、ガインの唸り声が響いてくる。
    戦いはまだ終わっていない。すぐに向かわなければ。
    だが、私の腕からすり抜ける少女の重みが、一瞬だけ足を止めた。
    「シスター! 早く応援に行くぞ!」
    カイルの鋭い声が、私の意識を呼び起こした。
    私たちは村側と森側から挟み込むように、残存戦力を刈り取る形を取った。
    私はエミリーの肩を軽く掴んだ。
    「エミリー、まだやれる?」
    「……はい! やれます!」
    今度はカイルが先頭を切って駆け出した。
    私は索敵のために魔術で感覚を鋭敏にし、周囲を警戒しながら後を追う。
    村の方角に複数の気配、そして森から撤退を図る個体が三体——方向は西に向かっている。
    「カイル! 西の方に敵がいる! 追い込むよ!」
    私は身体強化の魔術に魔力を回して加速し、光石を投げた。
    エミリーの炎がそれを追うように横を掠め、敵の退路を塞ぐ。
    炎の熱を肌で感じながらも前進を止めない。
    炎に退路を塞がれた一体を、私は体を捻りながら急制動をかけ、剣で斬り伏せた。
    残る敵が私に気を取られた隙に——
    遅れてやって来たカイルが縦に斬り崩し、後方の一体をエミリーの魔術が焼き尽くした。
    森に、再び静寂が降りてきた。
    耳を澄ますと、村の方から歓声が上がるのが聞こえてきた。
    村に戻ると、その歓声が私たちを包み込むように出迎えてくれた。
    「シスター! よく作戦を成功させてくれた!
    君たちのおかげで村は救われたんだ!」
    ガインが私の手を強く握りしめ、感謝の言葉を繰り返した。
    周囲の村人たちも、疲れきった顔に笑みを浮かべて近づいてくる。
    苦行からようやく解放された、温かく明るい雰囲気だった。
    しかし、私の胸の奥には、冷たいシコリが一つ残っていた。
    (……少女を、ちゃんと弔わなくては)
    剣に貫かれたあの小さな体と、血の涙を流した瞳が、頭から離れない。
    私はガインの手を静かに握り返しながら、穏やかな笑みを浮かべた。
    表向きは勝利の喜びを共有するふりをしながら、心の中では静かに祈りを捧げていた。

    村の教会の墓地に、小さな墓を建てた。
    二体のゴブリンが持っていた剣を十字に立て、簡素な墓標とした。
    ここに、あの少女が眠る。
    彼女の体を軽く調べたが、やはり人間の少女で間違いなかった。
    腐敗が激しく詳しくは分からなかったが、魔術儀式によって後天的に力を埋め込まれていた痕跡があった。
    額に埋め込まれていた赤い結晶は、エルフ由来のもののように思える。
    (魔族ではなく、人間がこれをやったのか……?)
    魔法使い《エルフ》がやるにしては、作りが雑すぎる。
    しかし、目的が分からない以上、考察する術はもうない。
    私は少女と、この村の犠牲者たちのために、精霊教のシスターとして静かに祈りを捧げた。
    墓の前で膝をつき、軽く握った拳を包むように左手を添える。
    指の間から、淡い光がこぼれ落ちるように。
    「どうか、貴方の魂に……精霊の祝福を。
    苦しみから解放され、安らかな眠りにつけますように。」
    風が墓地の木々を優しく揺らし、遠くから村人の話し声が聞こえてくる。
    喜びに満ちた声とは裏腹に、私の胸の奥には、重く冷たいものが残っていた。

    私たちは村を後にした。
    残り少ない物資から村の分け前を貰うのを躊躇い、来た道を引き返している。
    「私たちの荷物が無事だといいですが……アリア。」
    エミリーは不安を隠せない様子で、時折後ろを振り返っていた。
    「あの物資は託されたものだから、確かめるまでは諦めてはダメだよ。」
    私は冷静に答えながら、後ろから続く気配に意識を払っていた。
    どうやら、カイルが私たちに近づいたり離れたりしながら、ずっと追いかけてきている。
    (何のつもりだろう?)
    エミリーはまだ気づいていないようだったが、魔術を使わなくとも、あの足音では下手な狩りも成功しないだろう。
    「カイル! 何のつもりか、説明してもらっていいかな?」
    その声に応じるように、カイルはゆっくりと木陰から姿を現した。
    「さっきの戦いで、妙な違和感を覚えたから……
    着いて来た。」
    「それなら、村で聞けばわかったことじゃないか?」
    「……シスター。あんたは親父よりも強いし、魔術も使える。
    だが、勇者だかなんだかわからないが、あんたは明らかに強い。
    まだ子供のくせして。」
    彼の視線は真剣で、私の出自に関する疑問をはっきりと言っていた。
    過去の勇者の成り変わりだと言って、理解できる話ではない。
    しかし、このことをはぐらかすには、彼の目があまりにもまっすぐだった。
    エミリーの意識も、今はこちらに向いている。
    「私は争いの苦しみから人々を守るために勇者を名乗っている。
    けど……君が知りたいのはそんなことじゃないんだろ。
    その秘密を知らしめるつもりはないよ。」
    私ははっきりと、自分の思いを伝えた。
    「はっきりしない言葉だな。」
    カイルは剣を抜いた。
    「なら力尽くで確かめるだけだ!」
    彼は猪突猛進で向かってくる。
    私は全身の力を抜き、両手を軽く前に構えた。
    振り下ろされる剣を見て、一歩踏み込み、彼の持ち手を掴んで体を捻る。
    そのまま相手の力を利用して、地面に投げ飛ばした。
    ドンッ!
    カイルの体が地面に叩きつけられる。
    私は素早くその剣を踏みつけ、自分の剣を抜いて喉元に突きつけた。
    「君の負けだ。
    これで秘密を語る必要はないだろ。」
    彼は苦虫を噛み潰したような悔しさを、顔に滲ませていた。
    私は彼をその場に残し、本来の目的地へと足を進めた。
    「待ってくれ!
    俺はあんたの行く末が知りたい!
    俺を連れて行ってくれ!」
    カイルの叫び声が、私を追い抜くように森に響き渡った。
    私は足を止め、ゆっくりと振り返った。
    「……いいでしょう。
    まずは道案内を頼めますか?」
    カイルは一瞬驚いた顔をした後、勢いよく頷いた。
    こうして、私たちの小さな旅に、新しい仲間が増えたのであった。

    画像
     
     
    はじめまして。 小説の執筆は、創作活動の一環として始めました。 まだ知識も技術も未熟な初心者ですが、 読んでくださる皆さんに少しでも楽しんでいただけるよう、 一つ一つ丁寧に書き続けていきたいと思います。 どうぞ温かく見守っていただけると嬉しいです。 よろしくお願いいたします!

    あなたへのおすすめ