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価値観の病

    少し価値観の話を。


    価値観というと、なんだか
    「人それぞれの好みの違い」
    くらいの大雑把な言葉に聞こえるかもしれない。


    けれど、社会での息苦しさや、SNSに漂うあの冷ややかな空気の正体を紐解いていくと、

    「何を信じ、どう社会と関わるか」

    のヒントが見えてくる。




    ​たとえば、話し合うことを避け、ミュートやブロックで「無関心」を決め込むことがスマートとされる風潮。


    あるいは、最近の公園から遊具が消えたり、あれもこれも「禁止」の看板ばかりになっているのを目にしたことはないだろうか。


    また何をするにも前例やリスクを気にして、「保険」がないと一歩も動けない不安感。




    ​この冷笑と平坦化の時代に、飲み込まれずに、自分の足で社会と向き合っていくための
    「3つの価値観」を出してみた。



    ここでは個人的な世界観ではなく、社会的な価値観に絞って話をしてみたい。





    まずは「道徳観」と「倫理観」


    この2つの違いはなんだろうか。

    私が思うに

    道徳観は思いやりをベースにした曖昧な物事に対するマナーという文化。

    倫理観は調和を目的とした秩序を維持するためのルールや基準。

    そんなふうに捉えている。


    つまり、道徳観と倫理観は
    「主観的な内なる意思」と「客観的な外からの目」だと言い換えてもいい。





    ここに、もう一つの価値観を並べてみたい。


    それが「審美観」


    良いと感じた物の全体を通して、直感的、かつロジカルに捉えられる美学のプロセス。


    平たくいえば、良いものを良いと信じられる
    攻めのリスクヘッジだ。



    肌感覚ではあるが、上の世代にいくにつれて審美観がある人が多いように見える。
    (使いこなしているかは別だが)



    年齢を重ねれば身につくものなのか。



    そこで、ふと道徳と倫理は授業としてあるよなと思ったところから考えてみた。


    これまでの時代は、
    様々な知識を横断的にインプットしていくなかで、教えられる答えの他に、

    「時間をかけて見つけていく答え」

    という知識を落とし込む仕組みが、自然と内包されていたのではないだろうか。



    けれど現代では、知識のあり方がガラリと変化している。

    タイムパフォーマンスを重視した知識の詰め込みと安価な"答え"を返してくれるAIの進歩。それは賢い選択だが、同時にAIの劣化版になっていく側面もあるはずだ。




    つまり、「知識を身につける過程で自然と審美観が育つ」というかつてのルートが機能しづらくなっているのだ。

    「なぜそれが必要なのか」という
    見極め、問い続ける視点がないと、知識をインプットする意味そのものを見出せない時代になっていると感じる。





    ここで一度整理したい。


    この3つの価値観の間では

    倫理を疑うことが審美を養い、
    それが道徳を育て、
    新たな倫理を生むという循環が起きている。



    ・「道徳観」は主観的な内なる意思

    ・「倫理観」は客観的な外からの目

    ・「審美観」は通観的な思考の働き





    ここで始めの 「無関心、禁止、保険」 を思い出して欲しい。

    これらは本来、3つの価値観の最後の切り札だったのではないか。


    しかし現在では安全圏から他者を笑うための、苦い守りのルールやマナー、リスクヘッジのような振る舞いに成り下がっている。




    バカを笑うだけの時代を生きることが恥ずかしい。



    私はこの3つの循環を通して、社会に依存せず、向き合っていくスタンスでありたい。

     
     
    クローゼットの住人 I can (not) assert myself

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