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まともな私たちの共同幻想

    物語のあらすじ
    波風を立てず「そつない事務員」を演じて生きる富田リコは、空間のピントを手前に合わせることで、粒子を目視できる眼を持っていた。
    ある雨の夜、通り魔の男に対し、リコは無意識に鉄の破片を生成し、危機を脱する。情報工学者のナユは、リコが「無から有を生み出せる体質」であること、そして世界が「調律集団」と呼ばれる、国家や経済すら裏から支配する組織によって都合よく書き換えられた「共同幻想」であることを告げる。
    大衆の労働、認知すらも情報重力によって管理する調律師たち。最初は拒絶し日常への執着を見せるリコだったが、再び迫る組織の脅威を前に、ナユと共に決起。システムの心臓部である「中央塔」のメインサーバーへと乗り込む。
    リコは自身のエネルギーを焼き切りながらも、組織の本尊である巨像と対峙する。
    リコは人間を縛り付ける「数字」と「秩序」を完全に破壊。社会のすべての共通認識を瓦解させ、世界がただの巨大な共同幻想であったことを証明する。


     第一章
     私は、自分が「まとも」な人間だと信じている。だが同時にひどく深く、それを疑ってもいる。
     平日は中規模なIT系の会社で、それなりに可もなく不可もないデスクワークをこなしている。職種はシステムエンジニア。といっても、最先端のAIを開発したり世界を揺るがすようなコードを書いたりするわけではない。IT企業に事務職員として常駐し、基幹システムを使用して毎日のように受発注処理をし、見積書や請求書を作成し、定時になればパソコンを閉じる。そんな、どこにでもある風景のひとつだ。
     三十四歳。独身。この社会で波風を立てずに泳ぎ切るためのポイントは、社内に必ず一人はいる「そつない同僚」をお手本にして立ち振る舞うこと。それだけに尽きる。
     私の席の斜め向かいには、まさにその手本となる、佐藤さんという女性の先輩が座っている。彼女は実に完璧だ。上司からの面倒な無茶振りには「分かりました、少し調整してみますね」と、決して嫌な顔をせず、かといって安請け合いもしない絶妙なトーンで返す。同僚の的外れな質問には、相手のプライドを傷つけない程度の噛み砕いた言葉で丁寧に教える。噂話や愚痴の類には、肯定も否定もしないが絶妙に共感欲求を満たすという、まるで上質な無色透明のガラスのような相槌でその場を乗り切る。
     私は、彼女の一挙手一投足を、ディスプレイの隅から徹底的に観察した。そしてそれを、自分の社内での行動様式として採用している。
     目立たないように、波風が立たないように。
     自分の意見や感情は、社内では一切必要ない。なかなか有能を併せ持つ佐藤さんのようにはいかないが、誰かと話すときは、常に心の水面を一定に保ち、低めのトーンで、静かに、ゆっくりと話すように心がけている。何かトラブルが起きても、過剰に慌てず、かといって冷淡に見えないよう「困りましたね。原因と対処法を確認します」と、佐藤さんからコピーした音声データを再生するように口にする。
     おかげで、私の社内での評価は「取り立てて頼りになるわけではないが、大人しくて真面目、仕事も最低限はこなす、無害な人」という、狙い通りの位置に落ち着いていた。誰からも頼りにされない代わりに、誰からも無駄な仕事を投げられない。能力が賃金に反映されるわけではないポジションにおいてそれこそが、私の求める究極の安全圏だった。
     省エネ体質だからこそ、週末に一人で部屋にこもり、誰の声も聞かずに過ごす時間は、他の何よりも好きだった。
     私の部屋は、築十年の賃貸ワンルームだ。
     いつ引っ越ししても困らない生活を送るために、インテリアも極力シンプルにしてある。使い古して表面に食器の熱跡がいくつもある折り畳み机とキャンプ用の折り畳み椅子、部屋干しの洗濯物が万能物干し竿からぶら下がり、その横には大きな除湿機が吸い込み音を立てている。あとは寝具のハンモックと100均の踏み台椅子とスタンドライトだけ。
     土曜日の午後、誰にも会う約束のない二日間の始まりに、自分で淹れたちょっと良い珈琲をすすりながら、私は椅子に深く腰掛ける。
     そして、たまに、本当に気が向いたときにだけ目から数センチほどの、すぐ近くの空間に焦点を合わせてみる。
     ――すると、世界のピントが手前にボヤける。
     その瞬間、細かい粒子が空間を忙しなく飛び交い始め、今まで見えていた景色は一瞬にして背景へと退き、曇りガラスのようなモザイクに変わる。
     使い古したカーテンも、部屋干しの洗濯物も、エアコンの白いプラスチックの筐体も、すべてが鮮明な輪郭を失って、荒すぎる画像のようにぼやけていく。代わりに視界を圧倒的な密度で埋め尽くすのは、極小の粒子の群れだった。
     透明ともつかないような、既存のどんな言語でも表現できない色ともつかない色を帯びた粒が、信じられないほどの超高速で、文字通り「猛吹雪」のように空間を飛び交い、のたうち回っている。それはまるで、空気という目に見えない透明な水の中に、何億、何兆もの光る砂金がぶちまけられ、それが意思を持っているかのように激しく渦巻いている光景だった。
    「……相変わらず、せわしない」
     誰もいない1Kの部屋で、私はぽつりと、頭の中で言葉をこぼした。
     声に出すと、その振動で粒子の軌道がわずかに歪むのが分かるから、口は動かさない。
     焦点を目から数センチ手前に固定している限り、世界は鮮明な物質の体をなさない。ただの「ぼやけた背景」だ。そこには、きらめく粒子の往来があるだけだ。テレビも、スマホも、机も、すべてはその吹雪の向こう側に透けて見え、テレビ画面の向こうの非現実的な空間のようなものに成り下がる。
     けれど、少しでも視線を泳がせ、遠くの壁やテレビの画面にピントを戻せば、世界は何事もなかったかのように「いつもの退屈な部屋」にカチリと収まる。カーテンはカーテンの形を取り、エアコンはプラスチックの硬さを取り戻す。
     それは自分だけのちょっとした遊びでもあるし、視界をぼやかすことは目の休息にもなる行為だった。よって人間として変わった行動だとも思わなかったから、人と感覚を共有したこともないし、その必要も感じなかった。もし他人に言って「変な癖」だとか「何かの病」だとか、そんな言葉や憶測を突きつけられたら、私の自尊心を無駄に傷つけることになってしまう。誰にも共感されなくても、自分の見える世界をただ受け入れるだけだ。
     きっと、私と同じように、これが見えている人が世の中には案外たくさんいるんじゃないか、と私は思っている。
     ただ、みんな私と同じように、口に出さないだけだろう。
     下手に「ねえ、目の前の空間にピントを合わせると、小さいつぶが吹雪みたいに見えない?」なんて誰かにに切り出したら、その瞬間に周囲から「変わった人」「なんか話の話題が意味わからなくて面倒な人」のラベルを貼られてしまうかもしれない。共感してもらえる確率は極めて低いし、万が一「ああ、見える見える!」と共感してもらえたとしても、「だからなんだ」と話題が続かないだろう。粒子が見えたからといって、目の錯覚でそう見えているだけかもしれないし、日常生活でなんの役にも立たない。


     しかし、私は時折、テレビやネットのニュースを眺めながら、ふらふらと思考の旅に出ることがあった。
     番組の特集などで、スピリチュアル的な「オーラが見える」と主張する霊能者や、「音を聞くと色を感じる」という共感覚の持ち主が出演しているのを見かけるたび、私は彼らの見ている世界に対して、深い面白さを抱いていた。
     人によって、見えている世界はまるで違う。その事実は、信じられないけれど信じる以外の道はない。
     霊能者の脳が見せているスピリチュアルなフィルターと、共感覚者の脳が作り出す芸術的なフィルター。そして、空間の粒を見ようと思えば見える気がする私のフィルター。これらはすべて、本質的に同じものなのだろうか。
     人間なんて、誰一人として「ありのままの正確な世界」なんて見ていないのだ。そもそも誰を軸にしても正確ではないのだから「ありのままの正確な世界」など存在しない。
     人間の眼球や脳という器官は、宇宙に存在する膨大な情報のほんの一部、ほんの数パーセントのさらに一部分を都合よく間引き、脳という精度の低い解像度で繋ぎ合わせ翻訳しているにすぎない。自分の脳が都合よく解釈するフィルターを通して、私たちは世界という名前の映画を眺めている。
     ある人にはそれが「必死に生きる泥臭いストーリー」であり、ある人には「コミカルなストーリー」であり、またある人には「奇想天外なストーリー」に見える。私たちは、それぞれが異なる認知の檻に閉じこもった、ひどく不完全なものの集まりなのだ。
     そんなことを考えていると、自分が少しだけ世界のシステムの外側に立てたような気がして、平日のデスクワークで摩耗した心がほんの少しだけ軽くなるのだった。
     その日の夜、時計の針はすでに二十三時を回っていた。
     週末の夜更かしの特権として、少し遅めの時間に、私は夜食を買いに近くのスーパーへ出かけることにした。小雨が静かに降っていた。外に出ると、冷たい空気が頬を刺し、街灯の鈍い光が濡れたアスファルトに反射して、夜の街をそれなりに美しく飾っている。
     傘を差し、いつもと違ってゆったりめの足取りで歩く。スーパーの自動ドアをくぐると、昼間の喧騒が嘘のように静まり返った店内には、数人の客と、疲れ切った顔でレジを打つ店員がいるだけだった。私は惣菜コーナーで半額のシールが貼られた寿司と、明日のための低脂肪乳をカゴに入れ、セルフレジで会計を済ませた。
     買い物を終え、ガサガサと音を立てるスーパーの白いビニール袋を下げて、私は帰路についた。
     早く部屋に戻って、温かいお茶でも飲みながら、さっきの寿司を食べよう。
     そんな週末にありふれた市民の思考で頭を満たしながら、私はいつもの裏路地の近道へと足を踏み入れた。街灯がまばらで、昼間でも人通りが少ない、住宅街の隙間を縫うような細い一本道だ。
     その時だった。
     背後の闇から、湿ったコンクリートを擦るような、奇妙な足音が聞こえた。
     私は歩幅を変えずに、頭の防犯意識をフル回転させてどうするのが1番安全かを考えた。こういう時は、過剰に怯えて振り返るよりも、自然にスマホを取り出すフリをして早足で大通りへ進路を変えるのが正解だ。
     しかし、背後から迫る気配の違和感は、私のその「安全第一の防犯シミュレーション」を強制的に叩き壊した。
     空気が、妙に重い。
     まるで、こちらの動きを観察しているかような、言葉にできない不快な圧迫感。夜道の心細さも手伝って、私の背中に冷たい汗がどっと噴き出した。
     耐えかねて振り返ると、そこに一人の男が立っていた。
     年齢は不詳。ボロ布のような雨具のコートを羽織り、フードで顔はよく見えない。ただ、その男の輪郭の周りだけ、空間がまるで違う世界かのように激しく歪んでいるのが分かった。男が纏う空気が不自然にうねり、言葉にできない威圧感が路地裏の湿った空気を支配していく。
     男がコートのポケットから、黒い金属製の短い棒のようなものを取り出した。それをこちらに向けた瞬間、生物としての恐怖が、限界に達した。


     その瞬間、私は極限状態の中で、願うように金属片が男を直撃するイメージを描いた。
     ――世界が、曇りガラスのモザイクへと反転する。
     路地裏の景色が背景へと退き、透明な粒子の猛吹雪が、私の視界を爆発的な密度で埋め尽くした。
     ごっそりと、自分の命の根源にあるエネルギーが削り取られていくような激しい目眩がする。
     次の瞬間、私の目の前の空間で、激しく渦巻いていた粒子の吹雪が一箇所に猛烈な速度で凝縮し、カァン! という鼓膜を震わせる凄まじい金属音を立てた。
     どこからともなく、鋭く尖った鉄のような破片が突如として空間に出現し、凄まじい勢いで弾け飛んだのだ。
     その破片は、そのまままっすぐ飛んでいって、男の身体を正確に直撃した。
    男が短い悲鳴を上げ、その場にうずくまった。
    (今だ!)
     私は考えるよりも先に、とっさに足が動いた方向へ全速力で走り出していた。
    「ガサガサガサ!」と、右手に持ったスーパーのビニール袋が夜の闇に信じられないほど大きな音を立てて響く。追いかけられたらと思うとそれが猛烈に煩わしく、同時に恐怖を煽るノイズに思えて、私は走りながらそのビニール袋を思いきり地面へ投げ捨てた。半額の寿司も、低脂肪乳も、もうどうでもよかった。とにかく、通り魔であろうあの異常な男から離れたかった。
     心臓が破裂しそうなほど激しく脈打ち、酸素を求めて喉の奥が渇きうまく機能しない。
     なんだかわからないが、たぶん私は、無から有を生み出した。そんな確信が、走る私の脳裏に焼き付いて離れなかった。世界を構成する粒子を、私の意識が選び取り、物質として生成したのだ。神仏を熱心に信じているわけではない私だけれど、そうでなければ、あの路地裏で起きた奇跡を説明する言葉を、何一つ持ち合わせていなかった。
     私は自宅のマンションがある方向とは全く逆の大通りを目指して、遮二無二に足を動かした。人の目が欲しかった。まともな人間たちがたくさんいる、光のある場所へ行きたかった。
     一直線に走ると、すぐにまばゆい街灯と車のヘッドライトが飛び交う大通りに出た。
     私は駅前に足を進め、二十四時間営業の明るいコンビニへと滑り込むように駆け込んだ。自動ドアが静かに閉まると、店内に流れる気の抜けたポップス調の有線放送が耳に飛び込んできた。
     私は激しい息を整えながら、雑誌コーナーの前に立ち、本を読むフリをして外の様子を窺った。心臓の音がうるさすぎて、本の文字は一文字も頭に入らない。たっぷり三十分以上、私はそのコンビニに滞在した。店員に怪しまれないよう、全く必要のない百円の緑茶のペットボトルを一本買い、店を出た。
     まだあの男が近くにいるかもしれない。そう思うと、一本道の暗い夜道を歩く気にはなれなかった。
     私は警戒を怠らないまま、駅を突っ切った反対側にある、黄色い看板のチェーンの牛丼屋めがけて再び全力疾走した。ここで牛丼の一杯でもゆっくり食べて、時間を稼ぎ、心を落ち着かせるころには、さすがにもうあの男に出会わず帰れるだろう。本当は電車に乗って数駅離れないと不安だが、もう電車は走ってない。家を特定されないために、どのみちすぐには帰れない。
     深夜の牛丼屋の店内は、パーテーションで区切られたカウンター席に、夜勤明けとおぼしきサラリーマンや、スマホを眺める若い男が数人いるだけだった。私は一番奥の席に座り、タッチパネルで牛丼セットを注文した。
     運ばれてきた温かい牛丼を、一時間はかけることを目標にして、極限までゆっくりと平らげた。冷え切った身体に、温かい汁物が染み渡っていく。お茶をたっぷり三杯はおかわりした。店内の時計が午前一時を回るのを確認する。
     そろそろ、帰ろう。
     ただ、まだ一人で歩くのは怖い。私は店内を見回し、タイミングを計った。ちょうど、店を出ようとしている男性二人組がいた。会話から、作業着を着た彼らは、車ではなく徒歩で来ているようだ。
     帰る方向が一緒の人がいればラッキー。一か八かで、私はその男性二人組が退店するのと同時に席を立ち、彼らの少し後ろを歩くようにして店を出た。
     目論見通り、彼らは私が帰るべき交差点を渡って、右に曲がる大通りまでずっと一緒だった。二人のたわいもない笑い声が、これほど愛おしく、頼もしく思えたことはない。心の中で、彼らの運の良さに小さく拳を握った。
     だが、最後は一人にならなければならない。大通りから垂直に入る、街灯の薄暗い一本道。ここから私のマンションまでは約百メートル。
     私は意を決して、二人組の背中から離れ、その一本道を残りの体力をすべて振り絞って全力で駆け抜けた。
     マンションのエントランスを抜け、今までにない早業で鍵を開け、自分の部屋に飛び込む。
     玄関の鍵を三重に閉めて、ドアチェーンをカチリとかけたときには、脇腹がちぎれるほど痛かった。翌日、猛烈な筋肉痛になったのは言うまでもない。もともと足が遅く運動不足の身体を、緊張感相まって限界を超える速さで動かし続け、完全に酷使していた。
     フローリングに倒れ込み、天井を見つめる。
     投げ捨ててしまったスーパーのビニール袋のことが、数日間は悔やまれた。私のささやかな週末の楽しみだった半額の寿司。けれど、あのままあの路地裏で、あの歪んだ男に殺されるよりずっと安い授業料だったと思うことにした。
     あれは一体、何だったのだろう。
     その答えは、それからちょうど一週間後に、向こうから歩いてくることになった。


     あの夜から一週間が経った、平日の昼休みだった。
     私はいつものように、会社のオフィスが入るビルの九階にある、広々としたオープンスペースの片隅に席を取っていた。周囲では、別の部署の社員たちが会社の愚痴や家族の世間話を繰り広げている。私はそれを心地よいBGM代わりにしながら、コンビニで買ってきたミラノサンドを静かに噛み締めていた。
     いつも通りの、目立たず、波風の立たない、まともな日常。
     そこへ、彼女が当然のような足取りで歩いてきて、私の真向かいの席にすとんと腰掛けた。
     彼女は、アイスコーヒーのストローを咥えたまま、ちょっとからかうような、悪戯っぽい瞳で私を見た。
     私はミラノサンドを口に加えたまま、完全にフリ-ズしていた。
     誰だ。この人は誰だ。
     脳内の記憶を高速でスキャンする。会社の人間ではなさそうだ。友人にいただろうか。いや、ここは会社だ。
     艶のあるきれいな黒髪のセミロングを、上品なハーフアップにまとめている。キリッとした完璧なメイクは、若干自己主張が強めで隙がない。仕立ての良さそうなブラウスを着こなしており、一目で私のような地味な事務員とは違う、別業界の洗練された人間だと感じさせる風体だった。
     私の脳がエラーを起こしていると、彼女はストローから唇を離し、小さく微笑んだ。
    「一週間前の夜道の一部始終、見てたの」
     その一言で、私の頭の中でバラバラに散らばっていたピースが、凄まじい速度でカチカチと音を立てて繋がった。
     あの雨の路地裏。私を襲った、空間を歪める男。恐怖の限界。出現した鉄の破片。
    「……あ」
     私は喉の奥で声を漏らした。周囲に聞こえないよう、「冷静な大人のトーン」を無理やり起動させる。
    「……もしかして、あのとき、あなたが私を助けてくれたんですか? ありがとうございます」
     とっさにお礼の言葉が出たのは、私の社会人としての条件反射だった。あの鉄の破片は、この完璧なメイクをした女性が、私を救うために投げつけてくれた武器だったのだ。私は超能力者ではない。それは、何より安心できる結論のはずだった。
     けれど、ナユと名乗ったその女性は、私の言葉に呆れたような笑みを浮かべ、首を横に振った。
    「私が助けたわけじゃないよ。私はたまたまあそこに居合わせただけだし、あの鉄はリコ自身が作り出したものだから。」
     ナユは時計を見て、短い昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る前に、そっと一枚のメモ帳を私に差し出した。そこには、ここから数駅離れた場所にある雑居ビルの住所が書かれていた。
    「今日の終業後、少し時間をくれないかな。リコのその能力の本当の価値を、教えてあげるから」
     断るべきだ、怪しい人かもしれない。
     けれど、チャイムが鳴り、ナユが席を立って去っていく後ろ姿を見つめながら、私はあの夜の不思議についてナユと話したいと強く思った。あの感覚の正体を知りたいという、三十四年間の人生で初めて味わう強烈な好奇心が、私のブレーキを簡単に踏み外させた。

    第二章
     終業後、指定された住所を頼りに私が訪れたのは、古い雑居ビルの三階だった。
     重い鉄の扉を開けた瞬間、私は自分の場違い感に一瞬気後れした。
     そこに広がっていたのは、無機質なオフィスでも、怪しげな研究室でもなく、まるで都心の高級美容サロンのような、お洒落で洗練された空間だった。
     淡いピンクと白を基調としたインテリア。中央にはメルヘンなデザインの木製の机と椅子のセットが置かれ、部屋の隅には、包み込まれるような卵形の、大きな揺籠のようなハンギングチェアが吊るされている。空間には、柑橘系の上品で高価そうなアロマの香りが漂っており、棚にはキラキラと光る、香水瓶や宝石のようなクリスタルがいくつも並んでいた。
     だが、よく見ると床の隅には配線カバーが遠慮がちに、けれど大量に収納されており、壁際の一角には、真っ白な巨大なモニターがいくつも設置されていた。その画面にはソースコードのようなデータが、凄まじい速度で上から下へと吐き出し続けられている。
    「よく来てくれたね」
     ブラウスを脱ぎ、ラフな部屋着姿になったナユが、卵形の椅子から顔を出して微笑んだ。彼女は私をメルヘンな椅子へと促すと、ガラスのカップに入った、あたたかいゆず茶を淹れてくれた。
     甘酸っぱい香りが鼻腔をくすぐる。私はゆず茶の温かさを手のひらで感じながら、緊張をほぐすように一口すすった。
    「私は情報工学者。まあ、この世界の『調律集団』なんて大層な名前の組織を、最近クビになったはぐれ者だけどね」
    「調律集団……って、何ですか?」
     私が尋ねると、ナユは巨大なモニターの文字列を指差しながら、淡々と語り始めた。
    「表向きは存在しない、国家や中央銀行すらも裏から支配する、超法規的なエンジニア集団のことだよ。上層部はさ、民衆のことを『管理すべきもの 』だと思ってる。高密度の情報を使って、彼らの意識を一つの方向へ縛り付け、都合の良い社会を維持するのが彼らの仕事。……でも私にはさ、人間の自由をとても管理すべきものだとは思えなかったんだよね。だから、組織の思想についていけなくなって、データを盗んで逃げ出してきたの。いつか世界に暴露してやろうと思ってね。」
     ナユはゆず茶のカップを机に置き、私の目をまっすぐに見つめた。
    「さっきも言ったけど、一週間前、あの路地裏で男を撃退した鉄の破片。あれは私が投げたんじゃない。リコ、あんたが作り出したんだよ」
    「そんなわけ……」
    「リコはもしかして粒子を扱えるんじゃないかな。この世界は『素粒子』でできている。世界はね、確固たる物質でできているように見えて、その根本はただの曖昧な粒子の集まりでしかない。リコはあの夜、恐怖という強い感情をトリガーにして、その粒子の中から『鉄の破片』という状態を無意識に選択し、この現実に固定したの。無から、有を生み出したんだよ」
     私はふわふわした非現実的な気持ちで聞いていた。
    「私が……作り出してた。でも、今までそんなことができたことなんて、一度もなくて。今回が初めてです。なんとなく、自分がやったっていう確信のようなものはあったけど……。本当に、何もない空間から鉄を作り出すなんてことができたら、それはもう、超能力になっちゃいます」
    「超能力だよ」
     ナユは悪びれもせず、ケラケラと楽しそうに笑った。
    「あの夜の極限状態が、君の能力の開花のトリガーになったのかもね。でもさ、自分の才能の正体、知りたくない? 君のその眼、ただ物質を作るだけじゃなくて、もっと面白いことができるんだよ」
     彼女が提案したのは、能力の『応用』だった。
     ナユの説明によると、何もない確率の雲から物質を生成するのは、精神的エネルギーの消耗が激しすぎる。けれど、物質を作るのではなく、すでにそこに漂っているものを「利用する」だけなら、もっと簡単に、ノーリスクでできるらしい。
    「いい? 目の焦点を飛び交っている粒子に合わせて、他人の意識を引き寄せるイメージを持ってみて。やってごらん」
     ナユに言われるがまま、私はパイプ椅子の上で姿勢を正し、空間にピントを合わせた。
     ――世界が曇りガラスのモザイクに変わる。
     お洒落なサロンのインテリアが背景へと退き、透明ともつかない粒子の猛吹雪が、視界を圧倒的な速度で埋め尽くしていく。
     いつもなら、一人の部屋でただ眺めているだけの、せわしないノイズ。
     そこに、私はおそるおそる、意識の触手をそっと伸ばしてみた。空間を満たす、無数の揺らぎに、自分の精神を同調させるイメージ。
     その瞬間。
     私の頭の中に、決壊したダムの濁流のような、膨大な「音」がダイレクトに流れ込んできた。
    『あー、仕事だるい。早く帰りたい。帰ってビール飲みたい』
    『どうなってんの、この会社』
    『宝くじ当たんねえかなあ。何もしないで、一生遊んで暮らしたい』
    『ネットの動画、一発逆転狙えるネタないかな……』
    「っ……!」
     あまりの圧倒的な情報量と、脳髄を直接揺さぶられるような感覚に耐えかねて、私は思わずピントを遠くの壁へと戻した。
     ハッと激しい息を吐くと、目の前には、ナユが面白そうにこちらを覗き込んでいる綺麗な顔があった。
    「今のが、この街の連中の『声』だよ。意識を合わせて選び取ることができれば、周囲の人間の思考の残滓や、言葉にならない叫びを集めることができるの」
     こめかみが、ズキズキと熱を持ったように痛む。相当に精神への負荷が高い。
     けれど、恐怖はなかった。私の頭の中に流れ込んできたのは、世界を滅ぼすような恐ろしい呪いでも、高尚な哲学でもなかった。
     そこにあったのは、「今日のご飯は何にしよう」「あの人と一緒に仕事したくないな」「毎日毎日同じことの繰り返し、いつまで続くんだろう、この人生」といった、ひどく泥臭くて、だけどどうしようもなく人間らしい、生々しい本音の断片ばかりだった。
     人間なんて、誰もが社会の中でまともなフリをして、そつのない大人の仮面を貼り付けて生きているけれど、その頭の中では、こんなにもどうでもいい、他愛のないお喋りを延々と続けているのだ。みんな、私と同じように、自分だけの歪んだ脳のフィルターの中で右往左往している、不完全な生き物なのだ。
     そう思うと、張り詰めていた心が不思議と緩み、妙な愛おしささえ込み上げてくるのを感じていた。
     しかし、同時に、冷徹な現実主義者である私の脳が、すぐに別のリスクを弾き出した。
    「……でも、これって、他人の感情が読めるってことですよね」
     私はゆず茶のカップを握りしめながら、ナユに言った。
    「もし、この力をコントロールできなくなったら、私は関わったすべての人たちが、私のことをどう思っているか、その評価を容赦なく知ることになる。お手本にしている佐藤さんや、他の同僚たちが、裏で私のことを『使えない奴』って嘲笑っている本音まで聞こえてしまったら……私は、確実に人間不信になります。明日から会社に行けなくなります」
    「そうだね。他人の本音なんて、基本的には劇薬だから」
     ナユは同調するように頷いた。
    「でも、安心して。その眼の使い方が分かれば、ノイズキャンセルみたいに特定の声を遮断することも簡単にできるようになるから。それに――」
     ナユはそこで言葉を区切り、窓の外を顎で示した。
    「人が何を思うかは自由だけど。リコ、さっき電子の海に触れたとき、何かに気づかなかった?」
     ナユに言われて、私はさっきの濁流のような無意識の感覚を思い返した。
     何万、何十万という人々の、バラバラで個人的な無意識。働くのが嫌だとか、お金が欲しいとか、誰かを羨むとか、その無数の思考のベクトルが、一つの方向へ、「重く」引っ張られている感覚があった。
     まるで、目に見えない巨大な精神の重力源が社会の中心にあって、全員の思考の残滓が、そこにじわじわと吸い寄せられ、固定されているかのような不自由さ。
    「そう。みんな、無数にある巨大な『共同幻想』に支配されているんだよ」
     私はふと、窓の外を眺めた。お洒落な雑居ビルの窓枠の向こう、電線の上に、一羽の真っ黒なカラスが止まって、こちらをじっと見つめていた。
     私は吸い込まれるように、そのカラスに向かって、ほんの少しだけ焦点を手前に合わせ、想いを読み取ろうとしてみた。
     けれど、何も読めなかった。
     カラスの世界には、人間たちが血眼になって一喜一憂している、あの「重力」は一ミリも存在していないようだった。彼らにとって、人間が命を削って奪い合っている物質や数字なんて、ただの歩行の障害物か、巣の材料にするための「光るゴミ」にすぎないのだ。完全に別の価値観で生きている。
     物質の存在も、その価値も、本来はすべて人間が勝手に便宜上定義した、曖昧なものでしかないはずなのに。
     私たちはなぜ、そんなに強く引っ張られているのだろう。
     哲学に溺れる私の前で、ナユは壁際に並んだ真っ白な巨大モニターのいくつかを、指先でタップした。
     文字列が消え、そこに映し出されたのは、めまぐるしく、一秒以下の単位で変動し続ける、世界の「株価」と「通貨レート」の数字の羅列だった。

    第三章:
     巨大なモニターに映し出された、無数の数字の羅列。赤と緑の光が、一秒間に何十回という速度で点滅し、世界の富の移動をリアルタイムで記録している。
     ニューヨーク、ロンドン、東京、上海――世界中の市場が、目に見えないインターネットの網を通じて、膨大な欲望と恐怖のデータをやり取りしている。
    「これがさ、人間たちが作り出した『共同幻想』のうちのひとつだよ」
     ナユは、カップに残ったゆず茶の底をスプーンでつっつきながら言った。
    「株価、通貨レート。お金はすべて、ただの数字。紙切れやデータにすぎない。だけど、世界中の人間が『これには価値がある』と盲目的に信じている。この信仰心が、さっきリコが電子の海で感じた、あの強烈な『重力』の正体なんだよ」
     私はモニターに映る、目まぐるしく変化する数字を見つめた。
     確かに、先ほど空間の粒子に意識を同調させたとき、あの泥臭い人々の本音の底に、ずっしりと横たわる巨大な地殻変動のような流れを感じた。それは「もっと金が欲しい」「損をしたくない」「明日生きていくための糧が必要だ」という、生存本能と直結した欲望の指向性だった。
    「調律集団はね、この重力を意図的にコントロールしているの」
     ナユは椅子から立ち上がり、壁際のモニターの一角を指差した。
    「彼らは高度なアルゴリズムと、メディアを使った情報操作、そして人間心理の脆弱性を突いたトレンドの創出によって、大衆の意識のベクトルを一定の方向へ誘導する。人々が『魅力がない』と思えば、本当に物価が下がる。人々が『この企業は素晴らしい』と信じれば、実体のない株価が跳ね上がる。世界はね、物質でできているんじゃない。人間の『認知』によって作られ、維持されている。そして調律集団は、その認知のルールを書き換える特権を持っているんだ」
    「なるほど……あの路地裏にいた男とは関係あるの?」
     私の問いに、ナユは表情を曇らせた。
    「おそらくは。でも、良くも悪くも能力を開花できたのはあの夜のおかげだね。正確に言うと、彼らは集団の『末端の掃除屋』、あるいは『モデレーター』と呼ばれる存在。私の組織からの離反、そして私が持ち出した機密データの回収を追っている。だけど……あの夜、彼らが狙ったのは私だけじゃなかった。彼らは、まだ覚醒していない『リコのような存在』を探知するセンサーを持っているの」
    「私のような存在……」
    「そう。世界の均一な調律に逆らい、無意識のうちに粒子を歪めてしまうイレギュラー。社会のシステムにとって、リコのように『物質をバグらせる人間』は、ただの危険因子でしかないからね。放っておけば、彼らが必死に維持している『まともな現実』も崩壊してしまう」
     ナユの言葉は、私の頭の中で静かに腑に落ちていった。
    「リコのその眼は、世界がどれほど嘘に満ちているかを見抜くためのものだ。私と一緒に、この歪んだ調律を壊してみない?」
     彼女の美しい瞳には、強烈な意志の光が宿っていた。
     しかし、私の内なる現実主義者が、即座に冷や水を浴びせる。
    「……お断りします」
     私は静かに、しかし明確に、ナユの手を振り払った。
    「闇深い世界を変えようとすることは必要だとおもう。けど、それには自分の命をかける覚悟が必要です。調律集団と戦うなんて御免です。私はただ、明日も会社に行って、週末に自分の部屋で静かに珈琲を飲む暮らしをしたいだけです。あの夜の男から逃げられたのは奇跡です。これ以上、危険なことに巻き込まれるのはお断りです」
     ナユは驚いたように目を見開いたが、すぐにクスクスと、先ほどよりもさらに楽しそうに笑い出した。
    「普通、こんな話をされたら特別な力に酔いしれるものなのに。」
    「命を危険に晒す能力はなくて結構。」
     私はゆず茶を飲み干し、バッグを肩にかけた。
    「お話は分かりました。自分が何者なのか、あの夜何が起きたのかをなんとなく知ることができただけで充分です。ナユさん、色々教えていただいたことには感謝します。でも、私は私の日常に戻ります」
    「いいよ、無理強いはしない」
     ナユは立ち上がり、私をドアまで見送ってくれた。
    「でもね、リコ。一度開いてしまった眼は、二度と閉じられない。それに、他人の『声』を遮断する方法、まだ教えてないでしょ?」
     私はドアノブを掴んだまま、足を止めた。確かに、明日からの会社で、周囲の同僚たちの生々しい本音の濁流が、コントロールできずに流れ込んできたら、私の「究極の安全圏」は一瞬で崩壊する。
    「……どうすればいいんですか」
    「簡単だよ。空間の粒子にピントを合わせたとき、自分の周りに透明な『ガラスの壁』をイメージするの。他人の意識という波を、そのガラスで反射させるように。やってみて」
     私は重い鉄の扉の前で、再び焦点を手前に合わせた。瞬時に現れる粒子の吹雪。私はその吹雪の中に、自分を取り囲む強固な、無色透明のガラス球を思い描いた。
     すると、先ほどまで雑居ビルの外から微かに漏れ聞こえていた、通行人たちの思考の残滓が、ピツリと途絶えた。静寂が、私の脳内に戻ってくる。
    「……できました」
    「物覚えが良くて助かるよ。」
     ナユはウインクをした。
    「じゃあね、リコ。連絡先だけはブロックしないでね」
     私は彼女の言葉を背中で受け止めながら、今度こそ古い雑居ビルを後にした。


     月曜日。
     私はいつも通り、朝の通勤電車に揺られ、定時の十分前にオフィスのデスクに就いた。
     パソコンを起動し、パスワードを入力する。チャットとメールを確認して今日のタスクに優先順位をつける。
     何一つ変わらない、いつもの月曜日だ。
     斜め向かいの席には、今日も完璧な佐藤さんが座っている。
     彼女は、出社してきた上司に向かって「おはようございます、田中さん。先週の進捗報告書、机の上に置いておきました」と、非の打ち所のない笑顔で挨拶を交わしている。上司は嬉しそうに頷き、彼女の有能さを褒め称えた。
     私はディスプレイの隅からその光景を眺めながら、心の中で安堵していた。
     よかった。私は私の日常を守り切れた。あの雑居ビルでの出来事は、ただの奇妙な週末の出来事として、脳の奥底に仕舞い込んでおけばいい。
    「ねえ、富田さん」
     不意に、佐藤さんが私に声をかけてきた。私は過剰に慌てず、しかし冷淡に見えないよう、いつものトーンで振り向いた。
    「はい、何かありましたか?」
    「ちょっとこのデータなんだけど、富田さんの分だけ残ってて。お時間あるときに、見てもらえる?」
    「分かりました。今見ますね。」
     彼女から提示された画面を覗き込んだ。
     その時、私の脳裏に、ナユの言葉が不意に蘇った。
    『一度開いてしまった眼は、二度と閉じられない』
     ――ほんの少しだけ。ほんの少しだけなら、大丈夫だろうか。
     私は画面を見るふりをして、極秘裏に空間に焦点を合わせてみた。
     世界が曇りガラスのモザイクへと反転する。オフィスのデスクも、ディスプレイも、すべてがぼやけた背景へと退き、透明な粒子の猛吹雪が視界を埋め尽くした。
     私はナユに教わった通り、自分の周囲にガラスの壁をイメージしつつ、その壁に「佐藤さんの方向だけ、小さな穴を開ける」イメージを持った。
     次の瞬間、佐藤さんの「声」が、私の脳内に直接流れ込んできた。
    『……はぁ、本当に使えない。何回教えたら、この入力処理を覚えるわけ? あー、面倒くさい。機嫌損ねないように、優しく言わなきゃいけないこっちの身にもなってほしいわ』
     ドクン、と心臓が大きく跳ね上がった。
     それは、いつも私に対して優しく、丁寧に接してくれている佐藤さんの、剥き出しの、濁った本音だった。
     私の社内での評価――「大人しくて真面目、無害な人」という狙い通りの位置は、彼女の目から見れば、単に「進歩のない奴」にすぎなかったのだ。
    「富田さん? どうかした?」
     佐藤さんの現実の声が、私の耳に届く。
     私は慌ててピントを元に戻した。世界がカチリと音を立てて「いつものオフィス」に収まる。目の前には、心配そうな美しい先輩の顔があった。
    「あ……いえ、なんでもありません」
     私の声は、いつも通りの「一定の水面」を保てていなかった。わずかに震え、トーンが上ずっていた。
    「データ、すぐに確認します」
    「そう? 無理しないでね」
     佐藤さんはそう言って、自分の席へと戻っていった。
     私は自分の席に座り直し、キーボードを叩く振りをしながら、激しい動悸を抑えようとした。
     冷や汗が背中を伝う。
     分かっていたはずだ。他人の本音なんて、劇薬以外の何物でもない。それを自ら進んで覗きに行き、勝手に傷ついている。私はなんて愚かなのだろう。
     しかし、激しいショックの後に訪れたのは、奇妙な「軽やかさ」だった。
     私はもう一度、佐藤さんの後ろ姿を見た。彼女は今、別の同僚からの的外れな質問に、笑顔で答えている。
     彼女もまた、必死なのだ。頭の中でどれほどドス黒い毒を吐いていようとも、それを一切表に出さず、完璧な「佐藤さん」というキャラクターを演じ続け、社会の調律に適合しようとしている。
     彼女自身もまた、仮面の裏で息を潜めている不完全な人間にすぎない。
     人間なんて、誰一人としてまともじゃない。
     その事実が、私の心を摩耗させるどころか、逆に、彼女に対する奇妙な親近感へと変えていくのを感じた。
     その時、私のスマートフォンの画面が、デスクの上で短く振動した。
     画面を見ると、登録のない番号からのメッセージが表示されていた。
    『本音の味はどうだった? 結構、癖になるでしょ。――ナユ』
     私は小さくため息をつき、ディスプレイに向き直った。
     日常の皮膜は、思ったよりも簡単に、そして音を立てずに剥がれ始めていた。


     それからの一週間、私は奇妙な二重生活を送ることになった。
     平日は「事務員」を演じ続けながら、時折、ナユに教わったノイズキャンセルを応用し、オフィスの「空気」を読み取る練習をした。
     誰が誰を嫌っているか、誰がどの仕事に不満を持っているか。それらの本音のベクトルが、どのように絡み合い、結果として会社の「業務」というひとつの現実を形作っているのか。
     それは、案件処理よりも遥かに面倒な世界だった。
     そして金曜日の終業後、私は再び、あの古い雑居ビルの三階を訪れていた。
     断るつもりだったはずなのに、気がつけば、私の足はあの柑橘系のアロマが漂う空間へと向かっていた。
    「おかえり、リコ」
     ナユは今日も、卵形のハンギングチェアに揺られながら、タブレット端末を操作していた。
    「今日はね、君のその眼を使った、もう一つの『応用』の実験をしようと思って」
     彼女はメルヘンな木製の机の上に、ひとつの小さな木製のサイコロを置いた。
    「リコ、このサイコロを振って、連続で『6』の目を出してみて」
    「そんなの、ただの確率ですよ。私に超能力があるからって、サイコロの目を操るなんて……」
    「いいから、やってごらん。ただし、ただ振るんじゃない。空間の粒子にピントを合わせて、サイコロが手から離れる瞬間、そのサイコロの周囲にある粒子の吹雪を『6の面が上を向く』という確率の塊として、ぎゅっと凝縮させるイメージを持つの」
     私はため息をつき、サイコロを手に取った。
     木の乾いた感触。
     私は焦点を手前に合わせ、世界を曇りガラスのモザイクへと反転させた。目の前を、透明な粒子の猛吹雪が凄まじい速度で飛び交う。
     サイコロを机の上に転がす。
     その瞬間、私はサイコロを包み込む粒子の流れの中に、明確な「意図」を突き刺した。
     ――6だ。6の目が上になる。
     カチャカチャ、と音がして、サイコロが静止する。
     ピントを戻すと、そこには「6」の赤いドットが、上を向いて静止していた。
    「……偶然です」
    「もう一回」
     ナユはニヤニヤしながら言った。
     二回目。同じように粒子を凝縮させる。結果は「6」。
     三回目、四回目、五回目。
     すべて、サイコロの目は「6」を示した。
     私は背中に冷たいものが走るのを感じた。
     ただの確率の波が、私の意識によって、明確なひとつの現実へと固定されている。あの路地裏で鉄の破片を作り出したときと同じ、いや、それよりももっと静かで、洗練された「世界の改変」が、今、私の手元で行われていた。
    「これが『調律』のミクロな形だよ」
     ナユはサイコロを拾い上げ、手のひらで転がした。
    「世界はね、常に可能性の雲として存在している。どの目がでるか、どの未来が選択されるかは、本来は自由だ。だけど、強い観測者の意志や、システムによる調律が入ると、確率は固定され、ひとつの硬い現実になる。ネガティブな感情を他に向ければその対象を本当に苦しめてしまう劇薬でもある。リコ、君のその眼は、システムの調律を上書きして、自分だけの現実を選択する力を持っているんだよ」
    「こんなことができても使い道がありません」
     私はわざと冷淡に言ったが、自分の指先が微かに震えているのを隠せなかった。
    「本当にそう思う?」
     ナユは壁際の巨大なモニターを指し示した。そこには相変わらず、世界の株価の数字が点滅している。
    「もし、このサイコロの目を操る力を、この巨大な数字の羅列に応用したらどうなると思う? 株価の変動も、元を正せば人間たちの不確実な売買の集積、つまり確率の雲だ。調律集団は、その雲を独自のシステムでコントロールしている。だけど、リコ。君がその眼で、市場の背後にある電子の粒子を直接書き換えたら……彼らの作った完璧な市場の調律は、一瞬で狂う」
    「そんなこと、したら……」
    「世界中の経済が大混乱に陥るね。彼らが民衆を管理するために作り上げた、あの巨大な『重力源』に、修復不可能な亀裂が入る」
     ナユの言葉は、まるで世界の裏側を暴く悪魔の囁きのようだった。
     私は、自分が日常という薄い氷の上を歩いており、その下には、世界のシステムを根底から揺るがすような深淵が広がっていることを、嫌というほど理解させられた。

     実験を終え、雑居ビルを出たときには、夜の二十一時を過ぎていた。
     金曜日の夜の街は、解放感に満ちたサラリーマンや若者たちで溢れ返っていた。居酒屋から漏れ出る笑い声、車のクラクション、ネオンサインの明滅。
     私はナユに教わったノイズキャンセルを完全に起動させ、周囲の「声」をシャットアウトしていた。私の頭の中は、静寂そのものだった。
     駅へ向かう大通りを歩いていると、ふと、奇妙な違和感が肌を刺した。
     ノイズキャンセルをしているはずなのに、頭の奥底で、かすかな「ハウリング音」のような、不快な電子音が鳴り響いている。
     ―フォンフォンフォン……。
     私は足を止め、周囲を見回した。
     街の風景は何一つ変わらない。楽しそうに歩く人々、行き交う車。
     耳鳴りだろうか。しかし、何かがおかしい。
     私は目の前の空間に焦点を合わせた。
     世界が曇りガラスのモザイクへと反転する。
     いつもなら、透明な粒子が「猛吹雪」のように、自由奔放に、せわしなく空間をのたうち回っているはずだった。
     しかし、今の視界に広がる粒子の吹雪は、いつか見たことのある違和感を纏っていた。
    「……いる?」
     私はぽつりと呟いた。
     その時向こうから、一人の人影がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
     ボロ布のようなコート。フードで隠された顔。
     一週間前、あの路地裏で会った男だった。
     男の周囲から機械的な粒子のグリッドが不自然に歪んでいるのが分かる。男はポケットから、あの黒い金属製の短い棒を取り出し、私に照準を合わせた。
    男の持つ黒い器具の先端から、空間の粒子を強引に吸い込み、一直線に整列させるような、異様な「秩序」が発生していた。本来なら不規則に、自由奔放に飛び交うはずの素粒子たちが、まるで目に見えない磁場に縛られた鉄粉のように、冷酷なベクトルのもとに整列していく。
     それは、空間そのものを「物質が存在できない空白」へと書き換える、圧倒的な情報の弾丸だった。
     大通りの雑踏の中、ピントを失った背景の中で、男と私だけが明確な対峙の軸を形成していた。
     周囲の一般人たちは、この異常な空間の変容に誰も気づいていない。
     私のスマートフォンが、ポケットの中で激しく振動した。
     私は視線を戻さず、手探りで通話ボタンを押し、耳に当てた。
    『リコ! その男はリコの能力もろとも消そうとしてる。逃げて!』
     ナユの、今までにない切迫した声がスピーカーから弾けた。
    『集団が、君の存在を完全に捕捉したのよ! その場にいたら、君の認知ごと、システムに「修正」される!』
     男が金属の棒を構える。
     私の心臓が、あの夜と同じように激しく脈打ち始めた。
     しかし、今回は一週間前とは違っていた。私はもう、ただ怯えて逃げ回るだけの、無知な事務員ではなかった。
     私は右足を一歩前に踏み出し、歪んだ空間から私自身の「意志」へと引き戻すイメージを、強烈に描き始めた。
     曇りガラスの世界の中で、私の周囲の粒子が、凄まじい速度で逆流を始め、新たな嵐を
    巻き起こそうとしていた。


    第4章

    第四章:
    私は突き出した右手を強く握り締めると、凍えるような夜の空気の中を、新宿駅の地下階段めがけて全力で走り出した。
     階段を駆け下りると、湿気と人間の熱気が混ざり合った、独特な地下街の空気が私を包み込んだ。
     金曜日の夜の新宿駅地下は、地上以上の混雑を極めていた。仕事帰りのサラリーマン、酔っ払った大学生の集団、大きなスーツケースを引いた外国人観光客。四方八方から、無数の足音がコンクリートの床に反響し、巨大な地鳴りのように響いている。
     私は走りながら、ナユに教わったノイズキャンセル機能を最大出力で起動した。
     自分の周囲に、全方位を覆う強固な「ガラスの壁」をイメージする。
     ――ピツリ、と周囲の雑音(ノイズ)が消える。
     物理的な音は聞こえているが、彼らの頭の中から漏れ出していた「だるい」「眠い」「あの店美味しかったな」という無意識の声の濁流は、私の脳の手前できれいに弾かれ、一滴も侵入してこなくなった。
    どれくらい歩いたろうか。人通りが極端に少なくなり、古いタイル張りの壁が続く、丸ノ内線の西側の地下連絡通路に出た。天井の蛍光灯が、一本だけ寿命が近いのか、チカチカと不快な音を立てて明滅している。
     その時、前方の薄暗闇から、一つの人影が静かに現れた。
     私の身体が、条件反射で凍りつく。
    「リコ。ビルに戻るよ。あこそは鉱物の電磁波や吸収、反射を使って奴らの探知を遮断してる」
     フードを深く被ったその人影が、聞き覚えのある、鈴の鳴るような声で囁いた。
     ハーフアップにまとめられた艶のある黒髪が、フードの隙間から覗く。ナユだった。

     外は、すべてを押し流そうとするかのような大雨が、錆びついたトタン屋根を激しく叩いている。
    「ナユ、これを見て」
     私は、大型モニターの端に表示された「政府広報:経済困窮者への特別支援措置と税制改正に関する有識者会議報告」というニュース画面を指差した。
     画面の向こうでは、いかにも「まとも」で知的な風貌をした経済学者や政治家たちが、フリップを掲げて解説を行っている。国民の可処分所得は向上している、税負担の適正化により社会保障は安定へ向かっている、といった美辞麗句が並び、番組が独自に行ったという『国民アンケート:62%が今回の税制改正を支持』という円グラフが、これ以上ないほど鮮やかに画面に映し出されていた。
    「これ、全部『調律』されたデータよ」
     ナユはメインシステムの前に座り、キーボードを叩きながら冷徹な声で言った。
    「私がいた『情報統治委員会』――通称、調律師たちの組織の常套手段。彼らはね、あらゆるニュースへの公開情報を、意図的に偏ったパイ(母集団)から抽出したデータや、著しく不完全な実験環境での研究結果、そして誘導尋問に近いアンケートを使って都合よく偽造しているの」
     ナユは手を止め、自嘲気味に笑った。彼女の綺麗な黒髪が、モニターの青白い光に照らされて微かに揺れる。
    「私が委員会にいた頃、最初に関わったプロジェクトがそれだった。ある特定の化粧品成分が『人体に無害であり、むしろ肌の再生を促す』という世論を作るために、わざと免疫力の極めて高い、二十代前半の健康な女性十数人だけを集めた、一週間という極めて不完全な超短期の実験データを作成したわ。そのデータをベースに、御用学者の論文を何本も捏造し、メディアに一斉にリークした。民衆はそれを『科学的な事実』だと信じ込み、その化粧品は爆発的に売れたわ。……裏で、その成分によって重いアレルギーを発症した何千人もの被害者の声は、委員会の情報検閲によってすべてネットの藻屑として消去されたけれどね。世界なんて、その程度の『歪んだ認知の継ぎはぎ』でできているのよ」
     ナユの言葉を聞きながら、私は自分の三十四年の人生を振り返っていた。
     毎日、朝の満員電車に揺られ、定時の十分前にはオフィスのデスクに就く。平日は毎日八時間から九時間、残業を含めれば十時間以上を会社のために費やす。それが平均的な労働時間であり、この国で「真っ当な大人」として生きるための最低条件だと信じ込んでいた。
     しかし、その結果、私たちに残されるものは何だ?
     へとへとになって帰宅し、自分の時間を満足に取ることもできず、ただ翌日の労働のために泥のように眠るだけの毎日。そして、その過酷な労働の対価として支払われる雀の涙ほどの賃金からは、信じられないほど重い税金が自動的に、そして容赦なく毟り取られていく。
    「所得税、住民税、健康保険料、厚生年金、それに消費税、ほかにも携帯料金一つとっても新エネルギー税なんてものがある。計算式は○○を参照だとか、○○に基づくだとか、一目見て簡単に数値を弾き出せない。ものによっては前年度の基準数値が間違っていればその先ずっと正当な数値にならない税金もある。役所も正しい答えが導き出せる方が稀で、ほとんどの税金は間違った額が徴収されている。なぜこの国の税金の計算方法や仕組みが、ここまで複雑化されているか、なぜこんなにも適当なのか、リコは考えたことがある?」
     ナユがモニターの画面を別のデータへと切り替えた。そこには、日本の複雑怪奇な税制のフローチャートが、まるでわざと人間を拒絶するように入り組んだ迷路のように表示されていた。
    「これもすべて、調律師たちによって操作されたシナリオよ。控除の計算、段階的な税率、特別徴収の仕組み……これらをわざと複雑にすることで、民衆から『自分で計算し、考える労力』や『税制度の歪みに疑問を持つ意思』を完全に喪失させているの。税務署を含めた行政機関すらも、その巨大なシステムの歯車にすぎないわ。民衆に考える時間を与えず、とにかく働かせ、日々の生活を維持することだけで精一杯にさせる。無駄な計算と労働で彼らの時間を徹底的に搾取し、支払われる賃金には課税という名の『自動徴収のパイプ』を突き刺す。そうして集められた莫大な富は、国を豊かにするためではなく、システムの頂点に君臨する『誰か』の懐へと自動的に、そして合法的に還流し、彼らがさらに民衆を支配するための資金源になっているのよ」
     私の脳内の現実主義プロセッサが、ナユの言葉を冷酷に肯定していく。
     システムに逆らえば、その複雑な迷宮の壁に叩きつけられて圧殺されるだけだからだ。
    「……でも、それももう終わりよ」
     私は、ナユから渡された特製のヘッドホンを見つめた。
    「その調律の元締めが、この街の中心にあるのね」
    「そう。情報重力の源泉、調律師たちのメインサーバーが存在する『中央塔』。あそこに直接乗り込んで、システムの本尊を叩き潰す」
     ナユは立ち上がり、私に向かって強く頷いた。
    「リコ、君のその眼の力がなければ、タワーのセキュリティの物理障壁すら突破できない。行きましょう、私たちの本当の日常を取り戻すために」
     私は無言でヘッドホンを装着し、ナユと共に、激しい雨の降りしきる雑居ビル群を後にした。パーキングから古い灰色のコンパクトカーが、水しぶきを上げながら、闇に包まれた都心へと走り出した。


     車が目指したのは、都心の中心部にそびえ立つ、ガラスと鉄骨でできた超高層ビル――通称「中央塔」だった。
     表向きは大手通信キャリアや金融グループの本社ビルとして登記されているが、その地下深くには、日本中の、いや、ものによっては世界中の人間の認知を縛り付けるための「情報重力」のメインサーバーが隠されているという。
     タワーに近づくにつれ、車内のフロントガラス越しに見える景色が、明らかに異様な変容を見せ始めていた。
     ワイパーが雨粒を弾くたびに、外の街灯の光が、怪しく揺れる。
     ナユはハンドルを握る手に力を込め、歯を食いしばっていた。
    「日本中の人間の意識が、このタワーを中心に猛烈な勢いで混線しているわ。テレビのニュース、ネットのSNS、街頭の広告……それらを通じて流される『操作された現実』に、民衆の脳が過剰に同期させられている。」
     車のタイヤがアスファルトを捉える感覚が、徐々にフワフワとした、まるで雲の上を走っているかのような非現実的なものへと変わっていく。
     私は、助手席の窓から外を眺めた。
     ビルの壁面に設置された巨大なデジタルサイネージには、どこかの政治家が「我が国の再生」と演説している映像が流れていた。しかし、その政治家の顔の半分は、ドロドロとした黒いノイズに塗れ、その瞳には何の生気もなかった。
    「……あの政治家も、昔は違ったのかもね」
     私は、ぽつりと言った。
    「最初は、この国を良くしたいとか、民衆を救いたいとか、そういう本物の志を持った善人だったのかもしれない。なのに、あの地位(政治家)に就いたとたん、命を狙われる圧倒的な恐怖や、システムの頂点から提示される莫大な金(欲)に塗れて、気づけば委員会の思想に取り込まれる。自分の意志を失い、ただ上から指示された台本を読み上げるだけの、哀れな操り人形に成り下がっていく……」
    「それが『情報重力』の本当の恐ろしさよ、リコ」
     ナユが車のブレーキを強く踏み込んだ。車は中央塔の地下駐車場へと滑り込む。
    「どんなに強い個人の意志も、数百万、数千万という他人の無意識の引力(重力)に晒され続ければ、いつかは必ず磨耗し、システムの形状へと変形させられてしまう。世間の汚職も、毎日ニュースで流れる凄まじい猟奇事件も、すべてはシステムがその安定を維持するために、わざと生み出している『必要悪のノイズ』にすぎないわ」
     ナユはエンジンを切り、私の目をまっすぐに見つめた。
    「すべての物事は矛盾を孕む表裏一体。この世界に、絶対的な善も絶対的な悪もないのよ。私たちが毎日、何を見て、何を聞いて、何を食べて、何を脳に吸収するかによって、私たちの人生という名のフィルター(解像度)は、いくらでも書き換わってしまう。調律師たちは、その『吸収させるもの』を完璧にコントロールすることで、人間を家畜として飼育してきた。……リコ、今からその檻の鍵を、私たちが物理的に破壊するのよ」
     地下駐車場のコンクリートの壁が、私たちの会話の振動に合わせて、水面のように大きく波打っていた。物質の境界線は、すでに崩壊の一歩手前まで擦り切れていた。

     エレベーターに乗って一階、二階、三階――階を重ねるごとに、私のノイズキャンセル機能のガラスの壁が、完全に粉砕される音が脳内で響いた。
    『あいつ、本当にムカつく』
    『今月の支払いが足りない、どうしよう、どうしよう』
    『死にたい、死にたい、死にたい』
    『美味しいものが食べたいな、でもお金がないな』
    『誰か私を認めて、誰か私を見て――』
    「う、あ……っ!」
     私は頭を抱えて、その場に膝をついた。
     世界中の、この東京という巨大な都市にひしめき合う何千万という人間の、剥き出しの、濁った本音の残滓が、決壊した濁流となって私の脳髄に直接流れ込んできたのだ。それは凄まじい精神の泥濘(ぬかるみ)だった。汚職、裏切り、嫉妬、性欲、生存本能。それらすべての醜悪で、一つの巨大な「重力の渦」となって、私たちを中央塔の底へと引きずり込もうとする。
    「リコ! 意識を保って! !」
     前を歩いていたナユが、私の肩を強く掴み、引きずり上げようとした。
     しかし、そのナユの身体の輪郭が、激しくブレ始めていた。彼女の衣服が、肌が、綺麗な黒髪が、一瞬にして、無数の「0」と「1」のバイナリデータへと変換され、空間の粒子の吹雪の中に溶け出していく。
    「ナユ……!? 身体が……!」
    「私は……もともと、このシステムの一部だったから……」
     ナユの声が、デジタルエフェクトをかけたように、不自然に歪み、途切れ途切れになる。
    「情報重力の波が、強すぎる……。私の自我が、委員会のメインサーバーに再吸収されていく……。リコ、私は、エネルギーが物質化しただけの……ただの『情報』だから……。消されてもおかしくない。」
     ナユの手が、私の肩をすり抜けて、透明な砂金のように崩れ去っていく。
     彼女が、世界の調律という名の巨大な共同幻想の一部へと、完全に還ろうとしていた。
     消えゆくナユへの拒絶に私は叫んだ。声に出した振動が、空間の素粒子の軌道を爆発的に歪める。
     ――世界が、完全に曇りガラスのモザイクへと反転する。
     中央塔の階段も、壁も、すべてが背景へと退き、視界を圧倒的な密度で埋め尽くしたのは、既存の宇宙の全質量を超えるかのような、きらめく粒子の「超・猛吹雪」だった。
     私は、自分の意識の触手を、限界を超えて拡張した。
     この中央塔を取り囲む、すべての空間、すべての電子、すべての素粒子。インターネットを流れる光ファイバーの光、ビルを流れる高圧電流、空気中のすべての分子の運動。そのすべてを、破壊するイメージを強烈に描いた。
     こめかみから、熱い血が流れ落ちるのが分かった。脳細胞が数百万単位で焼き切れていくような、凄まじい激痛。
     だが、私は引かなかった。
     目の前の空間を飛び交う、何億、何兆もの透明な粒子を、私の意志の力で強引に整列させ、崩れ去りかけていたナユのバイナリデータを強引にかき集め、彼女の身体の輪郭を、その肉体を、その綺麗な黒髪を、再びこの現実にカチリとピン留めした。
    「……はっ、あ……っ!」
     ナユが激しく息を吐きながら、その場に倒れ込んだ。彼女の身体は、完全に物質としての硬さを取り戻していた。
    「リコ……今、空間のすべてを……」
     ナユが驚愕の目で私を見上げる。
     私は、こめかみの汗を手の甲で乱暴に拭い、不敵に笑ってみせた。
    「行こう、ナユ。この理不尽な世界のシステムのトップに、特大の落とし前をつけさせに」
     私たちは立ち上がり、世界の境界線が完全に消失した中央塔の最深部、最後の扉へと向かって、力強く足を踏み入れた。


    第五章
     最後の扉――それは鉄でもガラスでもなく、ただ「そこから先は一切の光が吹き払われている」ような、漆黒の虚無の境界線だった。
     私とナユがその境界を跨いだ瞬間、背後の世界は完全に消失した。
     足元にあるはずの床の感覚が消える。私たちは、無数の数字と幾何学模様がネオンサインのように発光し、全方位へと流動していく奇妙な三次元空間に浮遊していた。
     空間の至る所に、無数の「四角い窓(スクリーン)」が浮かんでは消えている。
     ある窓には、汗水を流して深夜までエクセルの数字を打ち込み続けるサラリーマンの姿。別の窓には、複雑すぎる確定申告の書類を前に頭を抱える個人事業主の姿。また別の窓には、テレビが流す不完全なアンケート結果を鵜呑みにして、画面に向かって憤る老人の姿。
     この世界の縮図、システムが調律し、思考を奪い、搾取し続けている「まともな現実」の濁流が、そこには剥き出しのまま展示されていた。
    「ようこそ、イレギュラーたち」
     空間の全方位から、個人のものとは思えない、地鳴りのような「声」が響いた。
     音波としての振動ではなく、超音波として脳に直接語りかけられる。
     流動する数字の光が集積し、私たちの目の前に一つの巨大な「人の形」を形成していく。それは絶えずノイズを発し、男のようでもあり、女のようでもあり、老人のようでもあり、子供のようでもある、実体のない光の巨像だった。
    「あなたが……調律師たちの本尊。この世界のシステムそのものね」
     私は、その光の巨像を睨みつけた。
    『いかにも。我々はシステムであり、同時に全人類の無意識の総体。ナユよ、かつて我が組織に籍を置きながら、この完璧なマトリクスを破壊しようとするか。民衆から非生産的な時間を無くし、労働を強化し、自動徴収のシステムで富を還流させる……これのどこに不都合がある?』
     巨像の腕が動くと、一つの大きな窓が私たちの前に引き出された。そこには、複雑怪奇な税制のフローチャートと、そこから吸い上げられた富が、システムの頂点にいるごく一部の人間たちへ自動的に流れ込む「還流のパイプ」の構造線が、視覚化されて浮かび上がっていた。
    『人間という不完全な生物は、考える時間を与えられれば必ず争い、自滅する。低層な人間に富を与えたところでこの国の繁栄にはならない。だからこそ、一日八時間から九時間の労働で肉体を摩耗させ、税を計算する労力もないほどシステムを複雑化させ、生きることで精一杯にさせる。考える意思を喪失させてこそ、この社会の秩序は保たれるのだ。世間の汚職も、凄惨な事件も、民衆の目を逸らすための必要なノイズ。すべては、この世界を「まとも」に維持するための最適解なのだよ』
    「それが、あなたたちの言う『まとも』の正体か」
     ナユが私の前に一歩踏み出し、巨像に向かって言い放った。綺麗な黒髪が、電子の嵐に煽られて激しく揺れる。
    「偏ったパイのデータで民衆を騙し、無駄な労働と複雑な税金で時間を搾取し、自動で儲け続けるシステム。そんなものは秩序じゃない。ただの、合法的な家畜の飼育小屋よ!」
    『では、この檻を壊せばどうなるか、理解しているのか?』
     巨像のノイズが一段と激しくなり、空間全体が真っ赤な警告色(エラーコード)で染まっていく。
    『情報重力が破壊されれば、世界を維持していた「共通の認識」が瓦解する。民衆を縛る重力が消えれば、秩序そのものが消失するのだぞ!』
    「……知っているわよ」
     私は静かに一歩前へ出た。
     脳内は、かつてないほど冷徹で、現実主義的な計算を完了させていた。
     毎日、佐藤さんをお手本にして、波風を立てないように生きてきた。けれど、その「波風の立たない平穏」すらも、この巨大なシステムが私から考える時間を奪い、そつのない家畜として飼い慣らすために与えていた偽物の檻だったのだ。
    「だけど、私の人生の時間を搾取し続けたあんたたちには――特大の落とし前をつけさせてもらうわ」


     ――世界が、完全に昙りガラスのモザイクへと反転する。
     空間を埋め尽くすのは、中央塔の比ではない、宇宙の始まりと終わりを同時に見るかのような、きらめく粒子の「猛吹雪」だった。
     巨像の姿も、流動する数字も、すべてが圧倒的な粒子の奔流の中に飲み込まれていく。
    『愚かな……! 秩序を、現実をバグらせる気か!』
     巨像が手を伸ばし、私の存在確率を直接消去しようと、強烈な情報重力の圧力をかけてくる。ヘッドホンが圧力から守ってくれているが、それでも脳髄が沸騰しそうなほどの激痛が私を襲う。
    「リコ!!」
     ナユが私の背中を支えた。彼女の身体から、エネルギーが私の身体へと流れ込んでくる。
     私は焦点と意識を限界まで見開いた眼の前に掲げた。
     標的は、目の前の巨像ではない。この空間の背後にある、世界中の人間の脳を同期させている「情報重力の源泉(メインサーバー)」そのものだ。
     私は、空間を満たす透明な粒子の吹雪を、意志の力で強引に掴み取った。
     人間たちが頭の中で勝手に信じ込んでいるだけの、すべての「数字」を、力任せにサーバーの核心部へ向けて「破壊」の念を打ち込んだ瞬間。
     周囲の音も何もかもが消えて無重力になったかのような身軽さと寂しさが残った。
     世界を維持していた「共通の認識」が、完全に瓦解した。
     世界とは、確固たる物質でできた地球などではなかった。
     これまで私たちが本物だと信じ込んでいた社会も、国境も、経済も、すべては――全人類の意識が、電子と素粒子の海の中で互いを見合っていた、ただの巨大な共同幻想(シミュレーション)にすぎなかったのだ。
     すべての重力が消失し、すべてが白い光の中に溶けていった。


     ――何もなくなった、真っ白な確率の空間。
     そこには、地平線もなければ、空もない。ただ、あらゆる可能性の粒子が、何のバイアスもかからずに、静かに、優しく漂っているだけの、無限に広がる真っ白な世界だった。
     私は、ハンモックに揺られているかのような不思議な浮遊感の中で、ゆっくり漂った。
     隣を見ると、ナユがいつものように、ちょっと悪戯っぽくて隙のない笑顔を浮かべて、私のことを見つめていた。ハーフアップの黒髪が、何の重力にも縛られずに、ふわりと広がっている。
    「……全部、消えちゃったね」
     ナユが、静かな声で言った。
    「そうね。毎日八時間労働も、複雑すぎて意味のわからない税金の計算も、佐藤さんの完璧な相槌も、全部なくなった」
     私は自分の手のひらを見つめた。私の身体も、ナユの身体も、ここでは確固たる「物質」ではなく、ただの光のエネルギーとして存在している。
     しかし、私たちの心に、絶望は一ミリもなかった。
     世界がただの共同幻想であり、不確実な確率の雲でしかなかったというのなら。
    「これからは――」
     ナユが、私の手をそっと握りしめた。
    「ええ。これからは、誰かに用意された調律(シナリオ)に踊らされる必要なんてない。自分たちの意識で、新しい世界をいくらでも選び取り、創り出せばいいのよ」
     吹雪の向こうに、私は私たちがこれから創り出す、自由で、泥臭くて、愛おしい日常のビジョンを明確に描き始めた。
     ――さあ、次はどんな世界を創り、生きてみようか。

    #創作大賞2026  #ファンタジー小説部門

     
     

    きの

     
     
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