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東京幸福認知論

    東京で生まれ、東京で育った。

    SNSで、こんな一文をひとつ添えた上で何か人生を語ってみる。リプライ・引用欄についてくるコメントは安易に想像がつく。
    日本の人口は減り続け、地方格差は拡大し、貧困が再生産されていく。そんなニュースやポストが溢れる中で、東京という場所は、いっとう輝く、妬みと羨望と混沌が渦巻くメトロポリタンであり続けている。

    *

    わたしは東京で生まれ、東京で育った。
    1000万の花都、東京都の真ん中、多摩地域の都営住宅で、わたしは子ども時代の20年を過ごした。
    主要路線も程近く、新宿へは40分、東京駅へも1時間、スーパーもコンビニも大きな本屋も図書館も美術館も、大きな大学だって自転車圏内。
    そんな場所で健やかに成長したわたしは、高卒で働こうとしていた。

    都営住宅をご存じだろうか。
    都が運営しているアパートで、都から認められた低所得世帯が格安の家賃で住むことができる、いわゆる公助の住まいである。
    都営住宅のお風呂の蓋には、東京都のイチョウのシンボルマークがついている。
    東京都庁の壁面にデカデカと彫られているのを初めて見たとき、声を出して笑った。あのイチョウは、水とカビの溜まり場だったのに!

    さて、そんな都営住宅に住んでいるのは一体どんな人たちなのか。
    まず多いのは、高齢者の1人・2人暮らし。それから母子家庭。兄弟姉妹の多い家。児童相談所の役員がひっきりなしに訪れる家。わたしが家を出る直前ごろには、外国の人も多くなった。

    下の階に、同い年の女の子が住んでいた。母子家庭の長女で、知る限りでは弟が3人いた。年単位で、家にやってくる男の人が変わっていった。その子は17歳で結婚して子どもを産み、離婚してまた子どもを産んだ。いまはどこに誰といるのか知らない。
    自転車のタイヤに画鋲がよく刺さっていた。わたしのものだけでなく、わりと満遍なく色々なひとの自転車に。
    自治体費には不明な支出があった。わたしの親がそれを指摘した次の週、なぜかうちの軽自動車の窓ガラスが割れていた。たまたま石が飛んできたらしかった。

    そんな子どもの頃のわたしは、とてもとても楽しく暮らしていた。
    小学生らしく友人とその辺の公園を遊びまわり、ゲームソフトを取ったとられたと喧嘩して、木から落ちて怪我をして、ムシキングのレアカードを取ったとらないとまた喧嘩した。
    塾に通っている子なんて周りにはいなかった。学年で2人か3人くらい、中学受験をしていなくなった。
    小学校がほぼそのまま持ち上がった中学は荒れていて、授業中に授業を聞いているクラスメートはほぼいなかった。先生に背を向けて、友だちとお喋りに興じていた。「てにをは」をいつも書き間違える友だちに正しい助詞を教える一方で、繰り下がりの引き算はわたしもあやふやだった。先生と言い争い、内申点を下げられた。
    適当な部活に入り、放課後はめいっぱい遊んだ。男女で夜の繁華街を歩いた。
    わたしの青春は、ほぼそれだけだった。

    *

    高校受験を控え、進路の話が持ち上がってくる時期になる。わたしは自転車で行ける高校には行くつもりだった。

    ところで、中学生だったわたしは、とあるタレントにハマっていた。
    彼はとても弁が立ち、ユニークで独創的。
    上京して良い大学に行こうとしたが二浪し、結局地元の大学に進んだのだ、とwikipediaに書いてあった。

    単純にも、わたしは彼のような人間になりたいと願った。
    ではそのような人間になるにはどうしたらよいのか。
    そう、頭が良ければいいのだ。
    その先の将来のことなんて何も考えていない。キャリア教育の授業はクラスメートとのお喋りの時間。
    そんな子どもが、尊敬するタレントに成らんが為に思い至ったのは、至極明快で単純な方法。
    「自転車で行ける1番頭の良い高校に行こう!」

    親は進学を応援してくれたが、家に塾へ行けるようなお金はなかった。
    市だか都だかが、高校に合格すれば返さなくていいとかいうギャンブルみたいな塾用の奨学金を貸してくれて、中3の秋口から塾に通うようになった。

    塾での勉強は面白かった。知らないことをたくさん教えてもらえ、難しい問題が解ければ褒めてくれる。
    もしかしたら「学びの喜び」といったものは、当たり前に身の周りにあったのかもしれない。例えば学校の授業に。家で埃まみれになっているカラー図鑑に。
    でもわたしは、学びがこんなに楽しいものであることを、その時初めて知った。
    塾の先生に「教えてもらうと勉強って分かるんですね!」と言ったときの、彼の困惑した表情を、今でも朧げに覚えている。

    塾や学校、親との話し合いを経て、わたしの第一志望校は自転車で行ける範囲で1番の進学校になった。
    (ちなみに担任から「そんな学校行けるわけないですよ。〇〇高校(志望校から偏差値が20くらい低い)がお似合いです」と言われ、母親が「お似合いですって言葉遣いはなに!?」と面談中にキレる、おもろエピソードも生まれた)

    当時のわたしは、進学校はどういうところなのか、碌に理解していなかった。
    それどころか、高校を卒業した先に大学があるということすら、実はまともに認識していなかった。
    あのタレントが大学に行っていたことを知っていたのに、「自分が大学に行く」というところまで想像が及んでいない。
    そもそも大学が何かのかも分かっていない。
    頭が良くなれば、そのタレントみたいな性格になれると思っていただけだったから。
    周りの住民や親戚に、四年制大学を出た人はいなかった。
    だからみんなと同じように、高校を出たら専門などへ行くか、そのまま働くのだと漠然と思っていた。

    わたしは、たまたま頭と要領と運がよかった。
    季節外れの大雪だった合格発表の日、掲示板にはわたしの番号が載っていた。

    高校生活は、驚きの連続だった。
    「教室で勉強してても誰もバカにしてこない!」とわたしが感動していた話を、親は酒の場でいまだに持ち出す。
    ズルをせず誠実。苗字が変わらない。私服校なのに露出のある服を着ている子がいない。服にシワがなく綺麗。みんなピアノやテニスや何らかの技能を身につけている。博物館や映画やスタバ、色々なものに詳しい。
    わたしはわたしと彼らとの間にある壁の、そのあまりの高さに圧倒され続けることになった。
    有り体に言えば「住む世界が違う」、ただそれだけの話だった。

    高校の大学進学率は、ほとんど100%だった。
    わたしの預かり知らぬところで、大学への道は開かれていた。わたしは周りに流されるがままに、大学へと入学し、大卒資格を得て一般企業に就職した。
    高校入学から就職まであまりにもあっさりと人生が運ばれすぎて、これが本当の「普通」なのだと勘違いしたほどに。

    こうして、わたしは「普通」の人生に触れてしまった。
    大学でも、就職先でも、高い壁は依然としてそこにあり続ける。
    いつまで経っても、大学に行くために借りた無利子の奨学金は返しきれない。
    物価も家賃も高くて、家計は一輪車みたいな操業をしている。貯金はない。実家に頼ろうにも、実家も火の車。
    みんな美味しそうなランチを食べている。わたしは120円の菓子パンだけで夜を迎える。
    隣のデスクの人のジェルネイルは綺麗だ。わたしの指は、生まれた姿のまま。

    こんなのが「普通」であってたまるか、と、東京のビル群を都庁の展望台から見下ろして叫びたくなる。
    この「普通」の人生において、わたしが手のひらから溢してきてしまったものがあまりにも多過ぎやしないか、と愕然とする。

    そして何より、少しSNSを泳ぐだけで、「普通」の東京に呑まれて飢える若者たちが生んだ数多の嘆きと、
    それに対する自己責任論が、大挙として押し寄せてくる。
    わたしはそれにいいねを押し、いつまでも似た呟きが目の前に現れ続ける。

    *

    実際のところ、こんなものは普通ではない。
    東京だろうが地方だろうが、生まれがどうであろうが、本当に普遍である生活なんてものはないのだから。
    一人ひとりの人生は、全て別物、当たり前の話に過ぎない。
    普通とは、属した集団の均一性、エコーチェンバーの賜物、インターネットの作り出す幻想、
    わたしの脳みそが、わたしだけが見ている世界から生み出した「生活」の神格化。

    大学で出会った東京都民に都営住宅の話をしても、特段パッとしない反応だけが返ってくる。なぜなら、そんな環境が東京にあることを知らないから。
    大学の存在を知らなかったと話しても、信じてはもらえない。なぜなら、そんな人間は彼らの周りにいなかったから。
    都営住宅の人間たちは、大学にはいない。それは彼らの普通ではなかったから。
    人間は、普通でないものを認知するのは難しい。
    そして、わたしにとって本来的に「普通」だったのは、都営住宅のはず、だったらしい。

    わたしのLINEの友だちには、中卒のヤンキーも大学院卒の研究者もいる。
    子どもの時に勉強や努力をしたかどうか、ではない。
    環境や親のせい、そんな話でもない。
    勉強に、環境に、その違いが存在していること自体を知らないこと、ただ認知の差がもたらした結果がここにある。

    貧困は再生産する。格差はなくならない。不幸は不幸のまま。
    本当にそうだろうか。だって格差があるということ自体、認識していないことがある。
    そんな小難しいことを知らなくたって、わたしたちは毎日を幸せに生きていた。なんか分かんないけど、世界は勝手に回っていた。

    人生において、幸福を結果とする以上、結果的に学歴だの環境だのというものは些末になるのかもしれない。
    幸福は、認知によってもたらされるものだから。
    自分自身で自分を幸福であると定義できるのであれば、自らの立つ場所がどこであろうと、主観的に「自分は幸福である」とすることができる。
    逆に言えば、幸福を客体に置いてしまった瞬間、ほんとうの幸せ、というものはするりと手から逃げていく。

    自らの認知の及ぶ範囲にある幸福が、自らを幸福たらしめてくれることを、ただ祈りながら生きていく。
    しかしその祈りを超え、いま手の届かない場所に幸福を見出してしまったのなら。知らない「普通」を発見してしまったのなら。
    血の滲む努力を重ねるか、噛んだ唇に血を滲ませるか、そのどちらかにしかならない。
    「身の丈」とはよく言ったものだ。勝者バイアスの真髄のような単語。

    *

    では結局、東京で生まれ育ったわたしの人生とは一体何なのか。

    客観的に見れば、わたしと言う人間は、
    東京の端にしがみつく、インフレと貧困に喘ぐ不幸で傲慢なひとりの若者でしかない。

    それでも東京に住んでいるから、貧困家庭でも大学だのなんだのに手が届くんだ、とSNSは言う。
    わたしはそれを否定しない。東京にいたから、結果的に大学へ行き、会社に勤めている。
    東京に生まれていなければ、高卒でそのまま仕事をして、結婚をして、子育てをしたかもしれない。
    大学を出ない、同世代の50%のひとりだったかもしれない。
    そして己の幸福をそのままに、幸せに暮らしていたのかもしれない。

    友人のInstagramを見つめながら、1Kのアパートで、値段の下がらない萎びたキャベツを煮込んで食べる生活はどうか?
    生まれた場所で花を咲かせるべきだ、その言葉を東京に住むわたしは直視するべきなのか?
    東京という場所で、このSNS時代に生きている、わたしは幸福なのか?

    わたしは東京に生まれた。
    東京は故郷であり、誰でもないわたしの街であり、
    わたしの帰る場所はいつだって東京にしかない。

    *

    本当のところ、自分の人生が幸福かどうか、定義するつもりはない。
    東京を出たって構わないけど、東京を出るつもりも今のところない。
    世界に横たわる認知の壁を、わたしがどうこうしてやる義務も力もない。この文章で世界をひっくり返してやろうという気概もない。
    そう、これ以上人生をどうにかしたい訳ではない。
    なんやかんや、いまの生活はそれなりに楽しいから、このまま東京の片隅でひっそり息ができればそれでいい。

    それでも、なぜこんなものを書いてしまうのか。
    本当は「普通に」幸福になりたかったから。頭がいいと自慢したかったから。東京にいるのに、大学を出たのに、貧困のままである負け惜しみや、矮小なプライドがあるから。
    きっとそれらも多分にある。けれど。

    ただ、知ってほしかっただけなのかもしれない。
    こんなわたしが東京にいるのだということを。
    東京に怨嗟を吐く人間も、東京を謳歌する人間も、わたしのような人間もみな。

    そして、誰かに知ってもらうこと、認知を得ることこそが、
    わたしや、わたしと同じ若者たちが手を伸ばしたかった、
    ほんとうの幸福のなれ果てかもしれない。


    わたしは東京で生まれ、東京で育ち、今日も東京で生きている。


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    実家のベランダで乾燥させていた風呂のフタ
     
     
    3食カレーを食べて生きていけたら嬉しいです。時々はクリームシチューがいいです。

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