
花不足と梅雨らしさ
庭を見渡すと、紫陽花は時期が過ぎてしまって、ある涼しい夕方に父によって刈り取られた。
つい先日植えたばかりのサンパチェンスが唯一、我が家の玄関先を明るくしている。父によって「サンパチ」と名付けられたその花は、特に父によって愛でられて、幸せそうに次々に新しい花を咲かせる。
「ばあちゃんの部屋(だった部屋)」と呼ばれる私の部屋はここ数ヶ月、沢山の花々や緑で鮮やかに彩られ続けていた。だけど、この前の厳しい暑さでその命を全うした。今にも透き通りそうな紫も、夏だけの彩度を放つ黄色も、少し色褪せたピンクの乾ききった質感の可愛さも、この暑さの中で生き続けることはできないみたいだ。これからしばらくは、私の「ばあちゃんの部屋」も花不足だな。
昨日、母が言った。「今年の梅雨は、梅雨らしくないね」と。
季節を表す言葉の後につく「らしさ」という嫌味っぽい言葉がある。「冬らしい寒さ」「夏らしい暑さ」。そんな「らしさ」という曖昧さの中に誰かが想像する季節は、きっと実際のそれよりもずっと過ごしやすい季節だろう。冬らしい寒さも、夏らしい暑さも、「こんなもんか」と許せる程度の温度感に思える。そんな風に都合よく思い描かれてしまうが、実際のそれは心地の良い気候ではきっとない。そのギャップのせいで、その異常な気候にもっと嫌気がするのは私だけではない気がする。
昨日母が言った「梅雨らしさ」はちょっとだけ違った。母も私も、天日干しの後の太陽の匂いとパリッと乾いた布地の表面の固さがたまらなく好きだ。だからこそ、梅雨の時期の洗濯関連のストレスには耐えられない。鬱陶しいはずの梅雨は、今年はどこかあっさりとした快適さを含んでいる。その「梅雨らしさ」に含まれる梅雨にふさわしいイメージは決して良くないけれど、今回は良い意味で裏切られた。
お風呂上りに窓から吹き抜ける風が、私の肌にぶつかる。そして、新しい風がまた、私の肌の上で静かに流れを変えて、私の体温を静かに奪っていく。「梅雨らしい」と聞いて、こんな風やこんな心地の良い風呂上がりの一場面を思い描いけたらいいのにな。そして、実際の梅雨もそうならいいのにな。