
春に出会い、熱い野球の季節に告白を!③
第7話「もしもし?」
第8話「九回裏」
第9話「熱い夏がやってくる」
第10話「私を見て」
エピローグ「春が過ぎれば、夏が来て、やがて秋になる。」
第七話 もしもし?
「スンジ、二人で電話したことある?」
ジンが聞いた。
連絡先を交換してからというもの、
やり取りはずっとLINEだけ。
電話をかけたことは、一度もなかった。
「実はね……
出てもらえなかったらって思うと怖くて。」
「大丈夫だよ。
セイルさんなら、きっと出てくれるって。」
連絡先は、
自分から聞いた。
だからこそ。
一度くらいは、
向こうから電話が来たらいいのに。
偶然でも。
間違い電話でも。
そんなことまで考えた。
でも一方で、
自分から電話をかけたら、
重いと思われるんじゃないか。
そういう不安もあった。
セイルは、
嫌なことは嫌だとはっきり言う人だ。
だからこそ。
「電話はちょっと。」
そう言われるのが怖かった。
「今回だけは、
目をつぶって押しちゃいな!」
「無理だよ、ジン……。」
「LINEしながらかければいいじゃん!」
ジンとやり取りしながら、
通話ボタンの上で、
指が乗っては離れ、
また乗っては離れる。
出てくれるかな。
出なかったらどうしよう。
もう一回かける?
頭の中は、
質問ばかり増えていく。
「出なかったらどうしよう……。」
「大丈夫。
わざと無視する人じゃないよ。」
「……ちょっと待って。」
喉が渇いた。
まだ電話もしていないのに。
スンジは冷蔵庫から
アイスコーヒーを取り出した。
そして。
自分の気持ちみたいに
凍って、
溶けて、
また凍っていたアイスも持って部屋へ入る。
コーヒーを一気に飲む。
苦さが喉を突き抜ける。
今度はアイスをひと口。
甘さが少しだけ緊張を溶かしてくれた。
あとは。
押すだけ。
指先に心臓がついているみたいだった。
……
ぽち。
「あ。」
押し間違えた。
深呼吸。
もう一口。
もう一匙。
そして。
「もう知らない!」
通話ボタンを押した。
プルル……
プルル……
長い呼び出し音。
アイスのカップを握る手に、
少し汗がにじむ。
息をすることすら忘れるくらい、
長い沈黙だった。
「もしもし?」
その声が聞こえた瞬間、
スンジの時間が止まった。
「も、もしもし。
スンジです。」
「ああ。
どうした?」
(どうしたって……。)
(特に用事なんてない。)
(なんて言えばいいの。)
頭の中が真っ白になる。
そして。
気づけば口が動いていた。
「……ただ、
声が聞きたくて。」
言ってしまった。
「今、何してたんですか?」
その一言から、
会話は思っていたより自然に続いた。
「ジン!
私、今電話してる!」
「よかったじゃん!
こっちは気にしなくていいから!」
「ありがとう……!」
スマホの向こうで笑うジン。
そして。
その向こうには、
セイルの声。
何を話したのかは、
実はあまり覚えていない。
仕事のこと。
子どもの頃のこと。
将来のこと。
悩み。
たわいもない話。
声に乗って、
ゆっくり夜へ溶けていった。
でも。
一つだけ覚えている。
あの日の私は、
ずっと笑っていた。
今まで見たどのセイルよりも、
電話の向こうの彼が一番優しかった。
ちゃんと話を聞いてくれて。
時々笑わせてくれて。
細かい内容は思い出せない。
それでも。
五十分という時間が、
胸いっぱいに残った。
もっと。
この声を聞いていたい。
そう思った。
それからというもの。
帰り道。
寝る前。
気づけばいつも、
通話ボタンを押していた。
出なければ、
「あ、今日は忙しいんだ。」
そう思うだけ。
LINEも。
電話も。
いつも私からだった。
それでも、
不思議と嫌じゃなかった。
少し寂しくなる日もある。
でも。
声を聞けば、
その寂しさは、
すぐ消えてしまうから。
「もう家着いた?」
「まだです。
もう少しかかります。」
本当は。
もう着いていた。
でも。
「じゃあ切るね。」
その一言を聞きたくなくて。
家の近所を、
一時間も歩き回りながら電話を続けた。
セイルの昔。
セイルの悩み。
セイルの今。
声になって届くその全部が、
夜空に隠れていた星みたいに、
少しずつ姿を見せてくれる。
一つ。
また一つ。
消えてしまわないように。
忘れてしまわないように。
スンジは、
心の中の小さなガラス瓶を開ける。
そこへ、
彼の夜を、
そっと集めていった。
第八話 九回裏
夢に、彼が出てきた。
セイルは笑っていた。
私の頭をぽん、と撫でて。
そして、
手をつないでいた。
何を話したのかは覚えていない。
でも。
手をつないでいたことだけは、
不思議なくらい鮮明だった。
目が覚めても、
その温もりだけは残っている気がした。
忘れたくなくて、
スンジは机に向かい、
夢の内容をノートへ書き留めた。
何度も。
何度も読み返した。
「みんなで野球観に行こう!」
羊肉料理店で
セイルが何気なく言った一言。
それが本当に実現した。
ジン夫婦がチケットを取ってくれて、
セイル。
スンジ。
そしてセイルの友達まで一緒に、
仁川の球場へ行くことになった。
会社へ行くのは嫌だった。
仕事も嫌だった。
でも。
「今日は会える。」
その一つだけで、
足取りは軽かった。
上司に何を言われても平気だった。
いつも重たかった帰り道まで、
今日は少し浮かんでいるみたいだった。
気づけば、
一人で笑っていた。
待ち続けた土曜日。
いつもより早起きして、
珍しく朝ごはんまで食べた。
眠くない。
仕事が終わると、
急いで家へ帰り、
服を着替え、
化粧も最初からやり直した。
渋滞さえ、
今日は楽しかった。
球場で待っていたセイルは、
いつもの服ではなく、
ユニフォーム姿だった。
(かわいい。)
そんなことを思った自分に、
少し笑ってしまう。
友達に挨拶をして、
席へ向かう。
事情を知っているジン夫婦のおかげで、
私は自然と、
セイルの隣へ座ることができた。
「これって何ですか?」
「今のは?」
本当は、
知らないことなんて
「へえ。」
で終わらせるタイプだった。
でも今日は違う。
少しでも、
一回でも、
彼と話したかった。
応援歌も、
実は全部予習してきた。
勉強も、
これくらい頑張ればよかったのに。
そんなことまで思った。
試合は、
思ったより接戦だった。
勝っていた試合は、
いつの間にか同点になっていた。
その瞬間。
隣で、
セイルが静かにうつむいた。
(負けそうだから?)
(そんなに好きなんだ。)
スンジは、
ぎゅっと手を合わせた。
(お願い。)
(勝って。)
(今日だけは。)
(この人が笑って帰れますように。)
試合は延長戦へ。
歓声が遠く感じる。
球場中が息を止めたようだった。
その時。
カキーン!
一瞬の静寂。
そして。
「わあああああーー!!」
満塁ホームラン。
劇的な逆転。
野球なんて詳しくないスンジまで、
気づけば立ち上がって叫んでいた。
隣では、
さっきまでうつむいていたセイルが、
子どもみたいな笑顔で立ち上がっている。
その顔を見た瞬間、
スンジは、
そっと胸をなで下ろした。
試合のあと。
夜空に花火が咲いた。
赤。
青。
黄色。
次々に開く光が、
まるで自分の心の中でも
弾けているみたいだった。
夕飯を食べたあと、
四人はビリヤードへ向かった。
「真剣だね。」
セイルは、
真剣なスンジを見るたび笑った。
からかっているのか、
面白いのか。
本人も、
負けないくらい真剣だったけれど。
ずっと別チームだった。
でも一度だけ、
同じチームになれた。
それだけで、
スンジは嬉しくて、
足元で小さく飛び跳ねそうになる。
「これは"二刀流"。」
手が届かない球を打つため、
補助キューを持ちながら
セイルが言った。
「ナイス!」
偶然、
何球も入った。
その流れで、
自然にハイタッチをした。
パチン。
手が触れた。
その温度。
その感触。
ずっと残っていてほしかった。
このまま、
何日も手を洗いたくない。
時間ごと、
保存できたらいいのに。
誰かが打つ番になり、
スンジが道を譲ると、
セイルは肩にそっと手を添え、
元の位置へ戻してくれた。
目が合う回数も、
前よりずっと増えた。
そのたびに、
スンジは笑ってしまう。
少しだけ。
本当に少しだけ。
距離が近づいた気がした。
前に買っておいた
クレヨンしんちゃんのボールペンを渡すと、
セイルは受け取るなり、
しんちゃんの歌を口ずさみ始めた。
思わず笑ってしまう。
満塁ホームランのおかげだろうか。
逆転したのは、
試合だけじゃなかった。
私の恋も。
ほんの少しだけ。
流れが変わり始めていた。
第九話 熱い夏が来る
セイルと電話することにも、
少しずつ慣れてきた頃だった。
通話の途中、
彼がふいに言った。
「スンジって、
声が姪っ子みたい。」
……
姪っ子?
スンジは曖昧に笑うしかなかった。
(それって……。)
(可愛いって意味?)
(子どもっぽいってこと?)
どっちなんだろう。
「ジン、起きてる?」
「どうしたの?」
「これ、どういう意味だと思う?」
セイルとの会話をそのまま伝える。
「んー……
可愛いってことじゃない?」
「そうかな……。」
答えが欲しくて、
また検索した。
でも、
欲しかった答えは
どこにもなかった。
その夜は、
なかなか眠れなかった。
「今週の土曜日、
遊びに行ってもいい?」
「ごめんね。
今週は旦那と旅行なの。」
「そっか……。」
「でも、
セイルさんが大丈夫なら
四人で旅行でもいいけど?」
優しいジンは、
そんな提案までしてくれた。
その話をセイルへ伝えると、
少し考えてから言った。
「その日、
ちょうど近くで野球あるんだよね。」
「え?」
「一回、
ビジター応援してみたかったんだ。」
その瞬間。
スンジの中で何かが弾けた。
(今しかない。)
「じゃあ……
一緒に行きませんか?」
思い切って投げた一球。
胸が苦しいくらい高鳴る。
少しの沈黙。
そして。
「いいよ。」
その一言だけだった。
(やったーーー!!)
心の中で、
思いきりガッツポーズをした。
「楽しみです!
私、一度も行ったことなくて。」
「いや……
大丈夫かな。」
少し歯切れの悪い返事だった。
それでも。
「一緒に行く。」
そう言ってくれたことが、
何より嬉しかった。
電話を切ったあと、
セイルは期待とは正反対のスタンプばかり送ってきた。
でも、
そんなことはどうでもよかった。
スンジは最後に一言だけ送る。
『楽しみです!!』
きっと、
神様がくれたチャンスだった。
そう思った。
突然好きになったわけじゃない。
毎朝八時五十分。
「おはようございます。」
そう送り続けたことも。
いつも自分から連絡していたことも。
夜になると、
気づけば電話をかけていたことも。
彼を好きになってから、
もう三か月が経っていた。
「私、
あの日、告白する。」
スンジはジンへ宣言した。
「どうやって?」
「言葉だと……
ちゃんと言える自信がない。」
「だったら、
手紙は?」
その一言で、
ずっと胸の奥にしまっていた想いを
取り出すことにした。
ペンを持つ。
伝えたいことは、
たくさんある。
でも。
一番伝えたい言葉ほど、
紙の上に出てきてくれない。
深呼吸して、
ゆっくり書き始めた。
最初は、
ただ面白い人だと思っていました。
でも、
一緒に遊ぶたび、
気づけばあなたのことを考えていました。
もっと話したくて、
もっと会いたくて、
気づいたら好きになっていました。
声が好きです。
優しいところも。
面白いところも。
話をちゃんと聞いてくれるところも。
一緒にいると、
一日があっという間で、
すごく幸せです。
好きです。
だから、
私のことをどう思っているのか知りたいです。
もう一歩だけ、
あなたに近づきたいです。
(お断りは、お断りします。)
小学生の頃、
好きな子へ渡す手紙みたいに、
何度も折り直して、
丁寧に畳んだ。
その手紙を書いたのは、
旅行の前夜だった。
私たちは
"ピュア旅行"
と呼んでいた。
ジン夫婦は旅行へ。
私とセイルは、
ビジター応援の小さな旅へ。
仕事を終えて、
急いで待ち合わせ場所へ向かう。
足取りが軽い。
遠い場所なのに、
心は近かった。
ジンのおかげで、
車では自然とセイルの隣に座ることができた。
旅行の前、
セイルは眠りに敏感だと聞いていた。
だから。
少しでも眠れるようにと、
耳栓とアイマスクを買った。
「この前、
眠れないって言ってましたよね?」
「うん。」
「こういうの、
使わないんですか?」
「寝る時に何か付けるの苦手なんだ。」
「あ……
そうなんですね。」
結局、
せっかく用意したプレゼントは、
バッグから出せなかった。
夕食を終え、
ゲストハウスへ。
それぞれ寝る準備を始める。
私は全然眠れない。
胸だけがどんどん騒がしくなる。
同じ部屋にいるジンと、
LINEでやり取りする。
同じ部屋なのに。
スマホ越しに笑い合う。
二段ベッドの上と下から、
笑い声だけが漏れた。
まだ信じられなかった。
セイルが、
こんなふうに旅行へ来てくれるなんて。
楽しそうにしている姿を見るだけで、
安心した。
明日は、
もっと楽しい一日になりますように。
野球も勝って。
そして。
この想いも、
ちゃんと届きますように。
そう願いながら、
スンジは静かに目を閉じた。
翌朝。
近くを観光していた時だった。
よりによって黒いTシャツ。
洗濯のせいなのか、
細かいホコリがびっしり付いている。
あの日の、
赤いニット事件が頭をよぎる。
(お願い。
気づかないで。)
そう願いながら歩いていると。
「またホコリ付いてるね。」
……
また、
言った。
スンジの顔は、
夏の日差しより先に熱くなった。
「ほ、ホコリくらい付きますよ……。」
小さく抗議してみる。
でも。
どこで間違えたんだろう。
どうして今日、
この黒いTシャツを選んだんだろう。
何度も、
何度も後悔した。
ホコリだらけの服。
ポケットの中には、
何度も折り直した手紙。
手のひらには、
冷たい汗。
そして。
熱い夏が、
始まる。
第十話 ねえ、私を見て
ドン、ドン。
太鼓の音が、
スンジの胸の奥まで響いていた。
球場いっぱいの歓声。
応援歌。
それぞれが自分のチームを応援しているはずなのに、
今日だけは、
みんなが私を応援してくれているような気がした。
そう。
今日だ。
旅行の前の夜、
言えなかったことを全部、手紙に込めた。
今、
ポケットの中には、
彼への気持ちが入っている。
球場に着くと、
スンジはセイルの後ろをついて歩き、
席に座った。
セイルが貸してくれたユニフォームを着て、
彼の隣に座った瞬間。
カウントダウンが始まった。
目の前に広がるグラウンドに、
胸が高鳴る。
この瞬間を残したくて、
スマホを取り出した。
「セイルさん、一緒に写真撮りませんか?」
「あ、いや。」
「あ……はい。」
気まずくなったスンジは、
一人でスマホを構えた。
せめて背景に少しでもセイルが入ればいいのに。
でも角度が合わない。
さっきの、
短い「いや」が頭に残っていた。
何度か角度を変えて、
結局、自分だけが写るようにスマホを向けた。
カシャ。
(……全然かわいくない。)
告白する前に、
こんな顔。
少しだけ、
気持ちが沈んだ。
試合が始まった。
二人は試合前に買ったお菓子を食べながら応援した。
片方の手は、
一生懸命メガホンを握っている。
もう片方の手は、
ポケットの中の手紙を握っていた。
いつ渡そう。
いつ読んでもらおう。
いつ、
私の気持ちを伝えよう。
いつ。
回が進むほど、
焦りだけが大きくなっていく。
一回、二回は早すぎる。
でも八回、九回は、
試合が終わりに近づいて落ち着かない気がする。
スンジは深く息を吸った。
ふう。
はあ。
うまく息ができない。
胸が暴れている。
ヒットが出るたびに響く拍手で、
心拍数まで上がっていった。
【ジン、いつ渡せばいいかわからない。】
すぐに返事が来た。
【五回裏は? ちょうど休憩もあるし。】
ジンの言葉で、
少しだけ勇気が出た。
五回裏。
あとアウトひとつで、
スンジの番が来る。
手汗で、
手紙の端が少しよれていた。
スンジはポケットから、
自分の気持ちを取り出した。
チアリーダーの音楽。
立ち上がる人たち。
通路を行き交う足音。
セイルは鞄の中を探っていた。
スンジは手紙をぎゅっと握り、
もう一度息を吸う。
ふう。
はあ。
お願い。
ねえ、
私を見て。
「セイルさん……」
「これ。」
手紙を差し出した。
「え? ああ。」
連絡先を聞いた時と同じように、
少し戸惑った顔で受け取る。
でも。
彼はその場では読まなかった。
そのまま、
ポケットに入れた。
そのあと。
セイルが応援していたチームは、
点差を大きく広げられていった。
まるで、
彼と私の気持ちの距離みたいだった。
チームが負けているからだろうか。
空気まで、
少しずつ重くなっていく。
空も曇っていた。
今にも雨が降り出しそうだった。
結局、
二人は試合の途中で球場を出た。
遠くから、
相手チームの歓声だけが聞こえていた。
最後まで見なかったのは、
むしろよかったのかもしれない。
もう逆転は難しそうだったから。
でも。
このまま帰るのは、
少し寂しかった。
どうしよう。
時間はある。
でも、
何をすればいいかわからない。
その時だった。
「キャッチボールでもする?」
突然、
彼がそう言った。
スンジはすぐにうなずいた。
電話で、
キャッチボールしてみたいと話したことがあった。
それが、
まさか今日になるなんて。
セイルが持ってきたグローブとボールで、
二人は向かい合った。
投げる。
受ける。
また投げる。
スンジは夢中になっていた。
靴底にガムを踏んでしまったことに気づいても、
それすらどうでもよかった。
言葉は少なかった。
でも。
ボールが空気を切る音。
グローブに収まる音。
それだけで、
会話しているみたいだった。
楽しくなってきた頃だった。
ぽつ。
ぽつぽつ。
自転車置き場の屋根に、
雨粒が当たる音がした。
二人は慌てて屋根の下へ逃げ込む。
湿った空気。
濡れた匂い。
そこでようやく、
靴底のガムのべたつきに気づいた。
二人はしばらく、
黙って雨を見ていた。
ピロン。
ジンからだった。
【雨だから、そっちまで迎えに行くね。】
続けて、
【でも大通りまで出てきてくれる?】
「セイルさん、
あっちまで行かないといけないみたいです。」
さっきより雨は強くなっていた。
走るしかないのかな。
そう思った、その時。
ぽん。
セイルが、
自分の帽子をスンジの頭にかぶせた。
一瞬、
息が止まる。
帽子から、
セイルの匂いがする気がした。
雨はさらに強くなる。
傘はない。
彼が貸してくれたユニフォームを着たまま、
二人は走った。
横断歩道を渡る数秒が、
不思議なくらい長く感じた。
視界は雨でぼやけているのに、
その瞬間だけは、
妙に明るかった。
走っていく人たちが、
白黒の映像みたいに遠く見える。
世界の中に、
私とセイルだけが
取り残されたみたいだった。
車を待つあいだの、
幸せで、
恥ずかしい沈黙。
胸が破裂しそうだった。
どうか。
どうか、
私の気持ちに気づいてほしい。
帰りの車の中。
スンジは、
渡した手紙のことを思い出した。
「セイルさん、
手紙、読みましたか?」
「いや。
夜に読もうと思ってた。
今読む?」
「……はい。」
セイルはポケットから、
さっきの手紙を取り出した。
その一瞬一瞬が、
やけに長かった。
車の中の空気が、
全部止まったみたいだった。
顔を見る勇気がなくて、
スンジは視線を少しだけ落とした。
その視界の端で、
セイルが手紙を読んでいるのが見えた。
表情はわからない。
嬉しい顔?
困った顔?
重いと思っている顔?
どう答えればいいのか、
迷っている顔?
読み終えたらしいセイルは、
手紙をまたポケットにしまった。
そして、
何も言わなかった。
その瞬間、
わかってしまった。
これは、
いい空気じゃない。
普通なら、
何か言うはずだ。
何か。
一言でも。
息が詰まった。
目の前が暗くなった。
泣きそうだった。
でも、
返事がないから、
泣くこともできなかった。
笑うこともできなかった。
運転しているジンに、
意味もなく話しかけた。
何を話したのか。
何を返されたのか。
何も覚えていない。
スンジは無理やり目を閉じた。
胸がうるさくて眠れない。
でも、
眠ったふりをした。
今は、
セイルの顔を見たくなかった。
長距離移動の途中、
休憩所に寄った。
「ジン、
渡した。」
「え! セイルさん、なんて?」
「それが……」
スンジはうつむいた。
「受け取ったけど、
読まないでポケットに入れてた。」
「そっか……。」
「もう、
どうしたらいいかわからない。」
「大丈夫だよ、スンジ。」
ジンはそう言ってくれたけれど、
胸の中はぐしゃぐしゃだった。
重たい気持ちのまま、
車へ戻る。
でも。
あれ?
隣に座るセイルの雰囲気が、
少しだけ変わっていた。
「野球、見る?」
突然、
スマホの画面をこちらへ向けてくる。
スンジは戸惑いながら、
一緒に画面をのぞいた。
その時。
こつん。
頭が触れた。
何も言えなくなる。
そのあと彼は、
アニメの名場面まで見せてくれた。
すっ。
セイルの手が、
ゆっくりとスンジの頭に触れた。
え?
何?
頭の中は混乱しているのに。
その手のひらひとつで、
帰り道ずっと抱えていた寂しさも、
ぐしゃぐしゃになった気持ちも、
投げ出されたみたいだった心も、
一瞬で溶けていった。
スンジは、
口元が緩むのを止められなかった。
どういう意味なんだろう。
その日。
試合はもう、
始まっていた。
熱い夏だった。
エピローグ 春が過ぎれば、夏が来る。そして秋へ。
一度逃したと思ったチャンスは、
もう一度だけ、
私の前にやって来た。
まだ返事を聞いていなかった。
だから、
このまま終わるわけにはいかなかった。
旅行のあと、
もう一度、あの球場へ向かった。
今度は借りたユニフォームじゃない。
前から気になっていた投手のユニフォームを買った。
その力を借りて、
もう一度だけ、
セイルさんへ思いを投げてみようと思った。
チャンスは、
思ったより突然やってきた。
「二人で売店行ってきて!」
ジンのひと言で、
私たちは並んで階段を降りた。
今しかない。
私は、
まっすぐ投げた。
「この前の手紙……
どう思いましたか?」
セイルさんは少し驚いた顔をした。
内角ぎりぎりのストライク。
少し迷ってから、
静かに口を開く。
「えっと……
そういうふうに考えたこと、一度もなかった。」
ヒットだったのか。
それとも、
三振だったのか。
一度も。
一度も、
そんなふうに考えたことがない。
その言葉だけが、
頭の中で何度も繰り返された。
私は振られたんだ。
そう思った。
顔が熱い。
泣きそうなのを隠したくて、
うつむいたまま階段を上がる。
「……そうですよね。」
それだけ言って、
彼より少し早く歩いた。
試合は始まった。
私の気持ちなんて関係なく、
白球は今日も飛んでいく。
応援して、
笑って、
普通に話して。
大丈夫。
ちゃんと笑えてる。
大丈夫。
そう何度も自分に言い聞かせた。
でも、
試合は今日も負けた。
告白した日も負けて、
今日も負けた。
私の恋も、
また負けた。
どうして、
いつもこうなんだろう。
泣きたかった。
胸に小さな棘が刺さったまま、
何度も何度も痛んだ。
試合が終わる。
選手たちはグラウンドを去り、
人も少しずつ帰っていく。
ジン夫婦も先に歩いて行った。
私も帰ろう。
そう思った、
その瞬間だった。
ぱしっ。
手をつかまれた。
驚いて振り返る。
セイルさんだった。
いつも迷いなく話す彼が、
今日はうつむいたまま何も言えない。
つないだ手だけが、
少し熱かった。
六月の夕方。
周りはまだ騒がしいのに、
私たちの間だけ、
静かな時間が流れていた。
世界が少しぼやけて見える。
彼だけが、
はっきり見えた。
やがて、
彼は顔を上げた。
そして、
両手で私の手を包む。
ゆっくりと、
息を吸って。
「俺も……」
ほんの少しの沈黙。
「……好き。」
やっと。
やっと、
私を見てくれた。
春に出会い、
野球が熱くなる夏に恋を伝えて、
そして、
私たちはきっと、
一緒に秋を迎える。
完。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
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