
米津玄師「烏」に見る ナショナリズムなき愛国は可能か?
結論から、可能です。
何故なら、例えば日本という枠組みで共に生きる誰かを、日本という枠組みを抜きにして、共に生きる者として愛するならば、それはナショナリズムを超えた愛国だからです。
先に結論から書いてみました。ややこしい話はこれから続きますので、ご関心のある方は是非読んでみてください。
W杯のお陰で、四年に一度サッカーに強い関心が芽生えます、箱柳近陽です。それとはまた別途、米津玄師さんの曲が大好きな箱柳近陽です。
先般W杯のテーマソングとなっている「烏」を聴き、いたく感動し、また米津玄師さんのインタビュー記事を読んで、いたく感銘を受けました。
ここしばらく書いていた、国家だとか、愛国だとかと極めて近接した話題のように思われましたので、気の向くままにまたnoteを書く次第です。
初めに聴いたのは、テレビでワンフレーズ、恐らくサビの部分だけでした。そのときの感想は、「いやに爽やかでサッパリした曲だなぁ」です。W杯は国際試合ですし、団結ですとか、国家ですとか、そういったテーマが来るのかなぁと思っていたところに、そういった風味を感じさせないスッキリさを感じていました。
その後、私が出会ったインタビュー記事がこちらです。
ここで、米津玄師さんが敢えて団結、国家、勝利といったテーマを避けていることを知り、腰を据えて聴くのが礼儀だと思い、配信開始に合わせて聴いたところ、強く感動しました。
以下私の駄文ですが、これは読まなくても良いので、まずはインタビュー記事を読むべきでしょう。
日本代表としてW杯に参加している面々ですが、彼らは別に日本のためだけにサッカーに身を投じているわけではありません。もちろん日本代表ですから、日本を代表して戦っているわけですが、それは必ずしも「日本のために」戦うことを含意しません。たまたま日本人として生まれついて、あるいは代表となる資格があって、そしてその範囲内で最良の結果を収め続けたからこそ、彼らは日本代表として参加しているわけです。
念のため申し上げますが、これは、彼らの動機を断定するものではありません。もちろん日本のために戦いたいと思って代表になった方もおられましょうし、その思いは尊ぶべきものです。他方で、敢えて徹底的に客観的に、すべての個人的情念を取り払ってみるならば、日本代表となる資格を持つ者の中で最もサッカーの上手い人々が選りすぐられたのがサムライブルーなのです。
一方で、我々一般国民の立場からすると、彼らサムライブルーは「私たち日本国民の代表」として国際試合を戦っている人々のように見えます。彼らは我々の象徴である日の丸を背負って、同じく他の国々を代表するチームと戦っていますので、まるで日本という国家を背負って、我々の思いを受けて戦っているように見えます。
無理もないことです。もちろん私もそのように思いながら、つまり、日本という国家を彼らに託しながら、固唾を飲んで試合を見守っています。これは、簡単に言えば、ナショナリズムの発現です。日本という国家を体現し、そのために働くものとしての代表を支持し、そのために熱狂することは、国家に対するナショナリズムだと評価できます。
しかし、日本という国家は、あるいは「我々一般国民」という存在は、代表の面々がサッカーを極め、楽しみ、プレーするにあたっては、何ら関係のない、意味のない存在です。彼らは自らの道を究めんとして、その先に「日本代表」というステージがあったに過ぎないのです。
ここに国際試合に内在的な――米津玄師さんの言葉を借りるなら「構造」的な――グロテスクさがあります。つまり、我々は、国家という眼差しを通して、彼らの個人的極致を集団的に消費してしまっているのです。
以前の大河ドラマに「いだてん」というのがありまして、そこで描かれた前畑という水泳選手のエピソードを思い出します。彼女は女子水泳で金メダルを獲るわけですが、外野は彼女に、全くの善意から、「がんばれ」と言うわけですが、彼女は日本のために頑張るのではなく、個人として突き進んだ先に代表があっただけだったのです。
これは、彼らの辿ってきた道のりを、ともすれば侮辱することになりかねません。彼らは、彼らのために、彼らの信じる道を突き進んできて、遂にW杯というステージを得たのです。決して、「我ら日本国民」の急先鋒として、サッカーの試合で、我々を団結させ、勝利に導くためだけに、代表となって戦っているのではありません。
では、我々一般国民が、彼ら代表を応援するのはいけないことなのでしょうか?
私は断じてそうは思いません。日本という国家像を託すこと以上に、我々が彼らに対して送るべき賛辞、届けるべき祝福のあり方は、必ずあるはずだと確信しています。
そしてまさにその点が、米津玄師さんが「烏」の中で描いていることなのです。
日本代表の面々は、多少乱雑な言い方になりますが、日本人の中で最もサッカーの上手い人たちの集まりです。つまり、我々と同じ日本人です。共に日本という枠組みの中で、共に生きる人々として、共に育ってきた同胞です。
であるならば、彼ら代表のことを、私たち日本国民を「代表する」集団ではなく、私たち日本国民と「共に生きてきた」集団として捉えることも可能ではないでしょうか。
つまり、日本という抽象的な存在を付託して、自身に成り代わって戦う者として声援を送るのではなく、共に生きてきた人々が、自らの才覚を大きく発揮させ、更なる高みへと昇ることを、共に生きてきた者として祝福する営みとして、再解釈するのです。
このとき、日本代表の面々は、抽象的な国家観念から解放され、具体的な個人として立ち現れます。しかし一方で、日本という枠組みの中で、共に生きてきた「事実」は残り続けます。この「日本という枠組みで共に生きてきた事実」こそが、我々を繋ぐ鎹になります。然して、我々は、その鎹を通して、彼ら代表と我々一般国民の間に連続性を見出します。
彼ら代表は、自らがサッカーを愛し、その才覚があり、機会に恵まれたからこそ、その舞台で輝くチャンスを得ました。そのようにして生きてきた同胞が、我々と共に生きていたのです。我々一般国民は、こうした代表の面々の生き様を肯定し、祝福するが故に、彼らに対して、その才覚が存分に発揮されることを望み、またそのことを祝福するのです。
私は、この作用を「ナショナリズムなき愛国」と呼びたいと思います。つまり、我々の同胞が、彼らの生き様の極致においてその才覚を発揮して輝くことを、心の底から祝福し、またそうあってほしいと願うことです。
このとき、例えば日本という国家を観念する必要はありません。何故なら、我々は、代表の面々が我らの同胞であり、その個性を存分に発現させることを祝福しているのであるからです。決して、日本という抽象的な国家を背負い、我らの代わりに戦うから声援を送っているわけではないからです。
従前申し上げている通り、国家とは国民です。共に生きる人々のことです。即ち愛国とは、自らの共同体で共に生きる人々を愛することです。
であるならば、サムライブルーとは、日本という共同体で共に生きてきた人々であり、その中でもサッカーを生業として、今まさに輝こうとしている人々です。
彼らに対して、共に生きてきた者として、彼らの道のりに対して賛辞を送り、これからの活躍を願い、更なる高みへ至ることを祈ることこそ、ナショナリズムなき愛国の一つの発現形態であると言えましょう。
そして何よりも重要なのは、我々はこうした願い、祈りさえ、彼ら代表に受け止めてほしいとは思わないのです。何故なら、それが呪詛として、彼らを苦しめ、あるいは縛り付けかねないからです。
あくまで我々が望むのは、彼ら代表の生き様が最も素晴らしい形で輝き、花開くことであって、もし我々の思いがノイズとなるのであれば、それはそっと引き出しにしまっていてほしいのです。
受け止めるかどうかは、優れて彼ら代表の選択です。ただ我々は、どのような形であれ、(つまり我々の思いが届かなかったとしても、)彼らが輝くことを望むのです。これこそ、共に生きてきた同胞に対する最大の賞賛であり、祝福なのです。
インタビュー記事の趣旨から反れました。米津玄師さんは、恐らく私のようなやり方での、国家との接続の観念は快く思わないのではないかと思います。大変申し訳ございません。
一方で、どうしても結ばずにいられない私もいます。ご容赦ください。国家という構造を解体し、その本質である共に生きる人々に焦点を当てたいと思うからこそ、上記のような物言いにもなるのです。
個人的に申さば、落ちサビの「上手く言えないけど」以降のフレーズに非常に感動しました。誰かのためにならなければと、半ば脅迫めいた思いが胸の中に満ちている私からしてみると、救いのフレーズのようにスッと入ってきたことを、ここに記したいと思います。