
『わたしが介護福祉士をやめた理由 ― 家族を知らなかったわたし』
#創作大賞2026 #エッセイ部門
わたしは33歳で介護福祉士の仕事を辞めた。
辞めた理由を聞かれるたびに、体力がもたなくなってきた、お給料が安すぎる、と答えてきた。 それも嘘ではなかったが、最近になって気付いたことがある。仕事を辞めた本当の理由は、もう十分満たされたからだった。
夫と子供と暮らして家族という物を体験していく中で、愛されること、必要とされること、認められること、それが満たされたからだった。
わたしは自営業の父と、会社員の母のもとに長女として生まれた。のちに母は専業主婦となった。
家族としての記憶は辛いことばかり。はっきり辛いと気付いたのも最近になってからだ。両親は毎晩喧嘩をしていた。 どれくらいの喧嘩かと言うと、幼心にも「どっちかがどっちかを刺したりして殺すんだろうなぁ」というくらいの喧嘩だ。 なんで喧嘩をしてるかよく分からないけど、毎晩毎晩両親が怒鳴りあっていた。
「親が喧嘩しているってことは、りこん?ってやつになるのか」「りこんって妹と離れるって事なのかな」などと考えていた。
わたしたちが寝静まってから始まる喧嘩はとても怖く、布団をかぶって耳を押さえて泣いていた。
夕飯の時の喧嘩も最悪だった。喧嘩の理由は何かよく分からない。わたしは喧嘩が激しくならないように間に入ってバランスを取った。2人の会話に被るように学校の話などをして食卓の空気をなんとかしようとしていた。 小学生から高校卒業までずっと。間に入ることに必死で、ごはんの味なんて分からなかった。ゴムみたいなダンボールみたいなそういう物を咀嚼してるだけの感覚だった。
「家族でごはんを食べる」ということ、そしてそれが美味しいということ、それを初めて知ったのは自分の家族を持ってからだった。
当然ながら家に居場所はなかった。
好きなことの話、好きな人の話、欲しいもの、悩んでいる事、行きたい場所、やりたい事、そういうことを話せる家庭ではなく、わたしにとっての光みたいな物はなかった。
小中学生の頃、少年犯罪を扱うドラマが多かったように記憶している。少年たちが非行に走り、少年院の中や少年院を出た後に助けてくれる大人に出会い優しさを受けている、そんな内容も多かった。ドラマは創作されたものだと理解しつつも、わたしは犯罪すら犯していないのに…少年たちの方が守られた暮らしをしてるじゃん、と思っていた。だからと言って何か犯罪をしたいと思っていたわけじゃないけど。ただただ虚しかった。
当時さみしいと思った記憶はない。家庭環境が友達にバレないように、自分がみじめなのがバレないように、ただそれだけの毎日だった。今考えてみると、さみしすぎるだろ、と自分で思う。
小学校のクラブや部活が大好きだった。わたしの小学生時代は毎週土曜日も通学していた。土曜日はクラブ部活三昧でわたし的ワクワクする曜日第1位だった。料理クラブ、茶道クラブ、手芸クラブ、けん玉クラブ、吹奏楽部に入った。上級生と活動できる事にワクワクは加速した。
吹奏楽部ではトランペットを習った。 パート練習後の全体合奏では演奏しながらなぜか泣きそうになったことが何回もある。音の厚みに包まれ、音楽ってすごいなと圧倒されていた。当時演奏した曲で好きだったのは、My Little LoverのHello Againや、ワム!のLast Christmasです。懐かしい。
中学校でも引き続きトランペットをやりたくて部活見学に行った。先輩方の演奏を聞き、入部したいと母に相談した。母は「中学の部活は今までより本格的になるでしょう。コンクール遠征も盛んだし、部費がいくらかかるのか分かってるわけ!?」と怒鳴った。子供のわたしにお金の話をされたら、それはもう無理だった。第2候補だった合唱部に入部した。
中学は各教科で先生が変わるため、それもまた大人への一歩みたいでドキドキした。
なぜか竹刀を持ち歩いているサングラスの先生。英語のおばあちゃん先生。 自転車通学時にヘルメットをかぶっていないと殴ってくる生徒指導の先生。などなど今まで出会ったことのないタイプの先生が沢山いた。
時代っていうやつかもしれない、悪い事をした奴は先生に叱られコツンと殴られる時代。怪我を負わすような暴力ではなく、コツンだ。自転車ノーヘル登校はコツンの対象だった。
中2の担任の先生はとてもあたたかい人だった。毎朝生徒が登校する前に、黒板に言葉や絵を描いてくれる人だった。花言葉を書いたり、誕生日メッセージを書いたり、時事ネタを書いたり。 毎朝その黒板を見るのがすきだった。
わたしの家は朝ごはんがなかった。父は早朝から出勤し、母は起きてこない。先に出かけた父が何か用意してくれていたこともない。炊飯器には昨晩洗っていない釜にカピカピのお米が少し入っているだけ。中学生くらいになれば自分で何か作れるだろうと思うかもしれないけれど、とにかく食材が無い。冷凍食品が少しか、 運が良くて食パンが何枚か残ってるくらい。でも妹の分になるかもしれないから自分は食べないでおこうといつも思っていた。
この生活がおかしいと気付いたのは、わたしが40歳になった頃だ。何十年もかかってしまった。
当時は、防御反応で何も感じないようにしていたのかもしれない。
その防御反応がたまに擦り切れる日はあった。毎朝黒板を描いてくれる担任の先生に、助けてと言いたいと思った。思っただけなのだけど。
朝起きて家にいるのも嫌で、朝礼よりもかなり早い時間から学校に登校していた。異常だったと今は思う。先生より早く教室に着いた日、先生は「おはよう」と言って黒板を書き始めた。一旦職員室に戻るときに「大丈夫かね?」と聞いてくれてそれ以上は何も聞かないでくれた。
「 今日も元気でーす!」とピースサインをして返事をした。あの時のわたしは、演技の新人賞を取れたかもしれない。元気に笑えていたと思う。家は闇なのに学校では明るく振る舞う中学生の演技で、その後オファーが殺到したかもしれない。
先生の何も聞かないでくれる優しさが本当に励みになっていた。 勝手な思い込みかもしれないけど、大丈夫?と言ってくれただけで、励みになっていた。
傷付かない為に、防御反応はいつどんな時でも発揮する必要があった。親友の優ちゃんとプリクラに行った事を母に話すと「あの子は頭も良いし、あんたみたいなバカと居たら楽でいいからあんたと居るんだよ」と言ってきた。反射的に「そうだよねー!塾も大変そうだし、わたしみたいなバカとたまには息抜きしないとねー!」と答えていた。本当は1ミリもそんなこと思ってなかったけど。大好きな友達と遊んで楽しかったということを聞いて欲しかっただけ。プリクラを見て欲しかっただけ。頭が良いとかバカだとか、楽だから一緒に居るとかそんなこと考えたこともなかった。そもそも母はわたしのことをそういう風にしか思っていないのか、と思った。
その日、母によってバカにされ「わたしなんて」を刻み込まれた。刻み込まれたものは消せない。
その後「わたしなんて」が2度と消えないように刻み込まれた日がある。プリクラの日は、タトゥーで例えるならアウトラインだった。やりようによってはまだなんとかなった。途中でデザインを変えることだってできたかもしれない。
容赦なくそのタトゥーに綺麗な色が入った日、それは中3の合唱部卒業コンサートの日だった。「わたしなんて」完成版。できれば色は可愛いピンクがよかったな。真っ黒、漆黒で完成してしまった。会場には、保護者、同級生、先生、先輩などたくさんのお客さんが入っていた。3年間の集大成。夕方の本番に向けて朝からリハーサルをした。泣き笑いして青春していたことを強烈に覚えている。大切な日々だった。顧問の先生は「あなたたちなら大丈夫!今日もいい歌になるよ、笑いなさい!」と言ってわたしたちを見た。 にこっとした先生の目はうるうるしていた。 先生の表情は今でも思い出せる。最後の発表会、さみしい、みんなだいすきーーー! という心境で本番を迎えた。先生の言った通りわたしたちは大丈夫だった。最高の合唱をして、ありえないほどの拍手をもらい、達成感に満ち溢れていた。 このメンバーと過ごした日々は一生忘れない。これから待っている受験や、もっと大人になってからも色んなことを一生懸命やり切ろうと思った。
満ち溢れた気持ちで帰宅し、すぐにそれは起きた。会場に来ていた母が 「あんたちゃんと歌ってた?小さく口開けてぇ、ポストくらいしか口開けてなかったじゃん」とニヤニヤしながら言ってきた。「席どこだった?遠くからじゃ口まで見えないでしょう?」と返した。どれだけ頑張ってもどれだけ納得いって満足しても、わたしなんて何も認められないんだ、悟った。冷静だった。
部活の引退日から、心が真っ黒から更新されていなかった。あの日は人生の中でいちばん自分に自信を持てていた日だった。それと同時に全身が綺麗に真っ黒になった日だった。
一生消えない。
あの日から人前で一切歌わない人生を送ってきた。人と歌う状況、カラオケや会話の途中で一緒にワンフレーズ歌うことさえも一切避けてきた。頑張ってきたことを貶されトラウマになっていた。今頃になってタトゥーがめちゃくちゃ痛い。もはや無意識レベルで友達とカラオケに行くことを徹底的に避けてきた。もしもあの頃に戻れるなら、友達とカラオケに行きたい。流行ってたモー娘をみんなで歌って踊りたい。あゆやaikoも歌いたい。
部活引退後は高校受験。
綺麗に刻まれたそれは一旦気にせずむしろ前向きだった。 高齢者施設での職場体験がきっかけで、将来は介護の仕事に就こうという夢があった。施設の利用者さんがわたしたち中学生が来たことを喜んでくれたのが嬉しかった。進路希望調査票には介護を学ぶ科がある高校を第一志望に、滑り止めとして第二志望校までを記入した。親のサインをもらうため両親に見せた。母の第一声は「だめでしょ」だった。「第一志望校は家から遠いんじゃないの?」
「寮があるらしいから寮から通いたい。」
「何言ってんの?寮費は?第二志望?二校も受験すんの?受験料はどうするの? 」と捲し立てた。そのやりとりを聞いていた父は、何も言わなかった。わたしは説得しようとしたり、強く反発もしなかった。詰んだ、とは思った。 何も言わない父も意味が分からない。助け船とか出さないんだ…
そして母はどんどん不機嫌になった。
進路について、両親は全く協力してくれないらしかった。
誰にも相談できずに次の道を探した。
寮はだめ、滑り止めを受けるのもだめ、お金がネックなら私立もだめ… ということは道はひとつしかなかった。公立高校一発合格。母は進路調査票を見せた時に「どうしても行きたいなら、おじいちゃんに頭下げて借金でもしてこい!それか自分で金をなんとかしてこい!」と怒鳴っていた。おじいちゃんにまで迷惑はかけられないからだめなんだ、と察した。公立高校一発合格以外に道がなかった。
進路調査最終締め切りの日、第一志望は工業高校で、さらに推薦枠を取りたいという申し出をした。第二志望校は書くことさえ許されなかった。
わたしはズルかった。公立を落とせば道はなくなる、まず推薦枠を取ろう、と考えた。
中2の黒板の先生が中3でも担任だった。
志望校変更の理由を話せていなかったのにも関わらず、先生の後押しがあり無事に推薦枠から受験して内定をいただいた。
進学について両親に相談することは難しく、中3のわたしが考えたのが家から通えるその学校を受験することだった。中学の先生に家の事情を隠して推薦の後押しをしてもらったことに罪悪感は膨らんだ。それをかき消そうととにかく勉強を頑張った。
工業高校というだけあって、専門的な授業が多かった。図面やレポートの締切に追われながら、日々作業服で授業を受ける。 先生の人数も多く、実習棟と呼ばれる工場みたいな場所には普段見たこともない先生が隠れキャラとして存在していた。そして機械の修理などで外部から来る業者さんもいた。誰が先生なのか見分けもつかない。さっきすれ違ったのは誰なのか、M棟の方向から来たからM棟のおじさんかな、などとよく友達と盛り上がっていた。先生でもなさそう、業者さんでもなさそう、中間の「おじさん」と生徒からひそかに呼ばれている人が多く存在していた。
高校では主に、ギャルのユミと一緒に過ごした。休み時間や放課後にユミといろんな棟を回り、謎のおじさんが何科の先生か確認する遊びをしていた。
一度M棟で知らないおじさん(先生)にめちゃくちゃ怒られたことがある。わたしたちの「失礼しまーす」という声が聞こえなかったらしく「お前らはどこの科のもんやー!名乗れっ!」と怒鳴られた。「挨拶しましたよ」と言っても尋常じゃないキレ方をしていて「お前らの科長呼んでこいやー!おらぁ!」…とほとんどヤクザみたいだった。うちらの頭は組長じゃなくて科長だ。
このおじさんはM棟の科長だった。
「うちら悪くないじゃん?挨拶して入ったじゃん?」
「うるせぇ、科長連れてこいやー!」…ほぼ組長だった。
それ以来このおじさんとは廊下で会うたびにバチバチのバトルになった。
「お前ら何歩いとるんや?」みたいな絡みがダルくて「は?うるせぇ…しつこい、絡むな」というような返事をしていた。
ある時バチバチのバトルから一転、この組長おじさんに誘われて放課後に溶接を習うことになった。科も違うし必修でもなかった。遊び感覚でユミと一緒にガス溶接の資格をゲットした。バチバチの関係は停戦となり作業服でプリクラを撮り「先生ありがと♡」とらくがきして渡した。
工業高校はとにかく居残りが多かった。居残りを残業と呼ぶくらいには作業服で残業をしていた。ガス溶接の件みたいに自主的に居残りをしたり。学校じゃなくて働いてるんじゃないか?と錯覚するくらいだった。帰る頃にはしっかり夜で、帰り道のコンビニで唐揚げを食べていた。これもまた青春だったなと思う。
高校受験時の罪悪感からひたすら勉強をした。 結果は付いてきてクラスの1位2位を行ったり来たりする程度の成績をキープすることができた。両親にも成績を報告していたけど、母の第一声は「2位の子は誰?点数はどれくらい離れてる?」だった。 誰なのかも点数も細かくは分からない、と淡々と答えていた。普通教科と専門教科オール満点の成績表を見せても褒めてはもらえなかった。「おー!」だけでもいいから頼む、言ってほしい!と思っていたけど、頑張っても頑張っても認めてはくれなかった。
虚しかったけど将来のためにとにかく突っ走った。
高1の夏頃、バスケ部のマネージャーをしている3年生女子2人組に声をかけられた。マネージャーの後輩がいないので、と勧誘に来ていた。 放課後体育館で待ち合わせをした。他の部活マネージャーも居て、自己紹介をし合った。マネージャーの部室は居心地が良かった。先輩たちはみんな優しかった。頼ってもらえた事や他のマネージャーの先輩たちにも受け入れてもらったのが嬉しくて、即日バスケ部マネージャーとして入部を決めた。
次の日先輩2人がロッカーの鍵用に、とっとこハム太郎の南京錠をプレゼントしてくれた。女子マネージャーのロッカーは色々なキャラクターの南京錠が掛けられていて、わたしも仲間入りした。とにかく受け入れてもらったことが嬉しくて、この居場所にすごく安心していた。先輩が卒業されるまで3人でマネージャーをした。 バスケ部の隣のコートではバレー部が、上階では卓球部が練習をしていた。バスケットボールを拾い、バレーボールも拾い、時々上から降ってくるピンポン玉も拾った。
練習が終わり洗濯機の横にいると、体育館から出てきた部員たちがこちらにゾロゾロとやってきた。 わたしはみんなに「どうしたの?」と聞いた。今日は先輩たちバイトだし追加の洗濯物はちょっときついなぁなどと考えていた。すると部員から想像してなかった方向の返事が返ってきた。
「 マネージャー!洗濯終わるの待って一緒に干すよ 」と言ってくれた。わたしの感覚がおかしいのか、この人たち何言ってるの???めちゃくちゃ優しくない???と思った。わたしなんかになぜ優しいの?と思った。部活終わりで外は暗いから、誰かが大通りまで一緒に帰ってくれたりもした。
家が地獄すぎて、わたしの感覚がおかしいのか?それとも普通は人って人にこんなに優しいの?と混乱した。
部活が休みの日の放課後はいつもユミの家に居た。ピンク色が好きな子で、ユミの部屋は超かわいかった。壁やソファやベッドや小物、全てがピンク色だった。本当にかわいかったなぁ。メイクもすごく上手だった。
ユミの部屋ではひたすらしゃべっていた。プリ帳を作ったり、スーファミをしたり、一緒に居すぎてしゃべってない時間もめっちゃあった。人の家にお邪魔しているのにも関わらず無言で課題をやったり、無言でUFO焼きそばを作って食べたりしていた。ユミもわたしが来てるのに寝たり、途中でバイトに行ったりしていた。わたしはユミんちで飼っているうさぎちゃんにエサをあげるのを日課にしていた。放課後めっちゃ楽しかった。
家か学校しかない世界で、家と学校のギャップに戸惑った。学校の人たちがとにかく猛烈に優しい。
いつものようにユミの家に居るとその日はなぜか次から次へとクラスの女子が来た。学校のすぐそばの家で溜まり場みたいになっていた。みんなユミのことが大好きだった。
「今日うちに来る日かぶりすぎじゃね!?」 と、彼女はいつもの調子だった。 愛されキャラすぎる。
女子全員揃ったんじゃない!?何人いる!? みたいになった時、部屋の電気が消えた。
ハッピバースデートゥーユー
ハッピバースデートゥーユー
ハッピバースデー ディア、、、 キホ!
ハッピバースデートゥーユー
わたしだった。
隣の部屋からケーキとピザが運ばれてきた。
泣いた。
誕生日なんて祝われないのが普通だったから祝われるのに慣れてない。 食卓=地獄だもん。
嬉しくてみんなの前で泣きまくった。
ユミは「もうええてぇ、はよ食べろや〜」と言っていた。ユミがみんなに声をかけてくれたんだとすぐに分かった。
学校と家のギャップにわたしは混乱を極めていた。
人の優しさに混乱を極めていたある日、バスケ部キャプテンの3年生に話しかけられた。「俺のクラスのやつがマネージャーと話してみたいって言ってるけど今日部活終わりちょっと話せる?」ということだった。 部活終わりに先輩と待っているとその話してみたいっていう人が現れた。
わたしなんかと話してみたい?? と、刻み込まれたあれが暴走しかけた。
だいたいそういう流れだと、恋とかなんだと思う。
ドラマとかだとそういう流れだもん。
現れた人は、さっき隣のコートでバレーをしていた人だった。
「あ、俺バレー部のカズキです 」
「はい。見たことあります。先輩のクラスの人なんですね」
「うん、なんか話してみたくて。ごめん、俺こわい?」
「…こわいです。」
そういう感じで、THE初対面みたいな会話をした。
よかったらメアド教えて?と聞かれメアド交換をすることになった。
そして例のわたしなんかが暴れ出した…
これって賭けとかにされてるんじゃないか、わたしからメールが来るかどうか賭けて仲間内で楽しんでるだけなんじゃないか、と。キャプテンがそんな悪い人じゃないのは分かっているのに。たぶんカズキ先輩も悪い人じゃないのに。わたしなんかが気にかけてもらえるわけないじゃん。なんか虚しいような、でも、警戒するのが当たり前か、と自分を正当化したりしていた。
次の日昼休み頃、カズキ先輩からメールがきた。「昨日はありがとう。今日も部活終わりちょっと話そう? 」
わたしはまだ警戒していた。ドラマとかなら先輩からメール来た〜!って浮かれたりするはずだけど。
仲間内で共有されたりするんだろうなぁと疑ってしばらく返信できずにいた。
カズキ先輩はほんのりクローズ系だった。短めの学ラン(短ラン)を着ていた。初対面のときにこわいですと言ったのは本音だった。
偏見だけど、なぜクローズの雰囲気を醸し出しながらバレー部なの? 放課後は部活じゃなくてバイクを走らせるんじゃないの?なぜクローズの雰囲気を醸し出しながらも優しいメールを送ってくるの?
部活までに返信しないと放課後気まずいと思い「はい。部活終わったら体育館の玄関で待ってます 」と返信した。
ちなみにわたしの通った高校はたぶんヤンキー高校だった。3年生はほんのりクローズの雰囲気の人が多かった。とにかく学ランが短い。2年生は山ピーみたいな襟足長めの茶髪で腰パンの人が多かった。女子は皆さんギャルだった。1年生からするとちょっと「こわい」のだ。
カズキ先輩と体育館の前でまた初対面みたいな会話が続いた。
「担任だれですか?」
「あ、化学の先生一緒だ!」
「あいつマジおもしろいよね」
共通の先生ネタでかなり打ち解けた。
工業高校の先生ってなんであんなにおもしろいんだろう。
わたしたち平成の学生はゴリゴリのメール世代。メールのセンター問い合わせの文化については後世に語り継ぎたいと思っている。
カズキ先輩と毎日メールをして、部活終わりに会って話をした。授業中に「さっきすれ違ったね。俺今、L教室だから隣だね!」というメールが来たとき、恋に落ちた。
…メール最高か!
初めて話してから1ヶ月くらい経った頃、告白されて付き合うことになった。
勉強、恋愛、友達、部活、楽しすぎて工業高校最高かよ!と思っていた。
高校の先生はとにかく褒めてくれた。先生がどんどん踏み込んできてくれる気がして勉強の相談もしやすかった。
体育はおじいちゃん先生だった。好きな遊びやっていいぞー!校庭も体育館も卓球場も使えー!バレーのネットも出すかー!という調子で。一人一人を大事にしてくれる先生だった。体育のおじいちゃん先生がみんなに優しいっていうだけでなんかすごく胸がいっぱいになっていた。
「野田は今日何して遊ぶ?ちょっと先生と卓球してみるかー?」と声をかけてもらった。高校生で初めて、体育という授業を楽しいと思えた。小中の体育教師はスポーツ出来る人だけしか眼中にないって感じだったから…体育ってこんな楽しいんだ、って好きになった。
工業高校は、人の心を育ててくれる場所だった。
高3になり進路調査の時期がきた。夢は変わっていない。しかし…ここは工業高校で介護系の求人が来ていないことは入学前から分かっていた。でも正直なところ、しっかりと成績を収めているという自負があり両親もさすがに認めてくれるだろうと思っていた。地元の介護の専門学校に進学したいと両親に話した。母が「学費は誰が出すの?」と言ったのでパンフレットなどを見ながら話した。「受験料は自分で出します。入学金をお願いします。学費はバイトをしながら自分でも支払っていくから、行かせてほしい」と頼んだ。今の成績だと授業料減免も受けさせてもらえるかもしれないから、と付け加えた。納得してくれると思っていたけど無理だった。やはり学費の面がネックらしかった。
父が唯一言ったのは、「保証人になりたくないから奨学金もだめだぞ」だった。高校卒業後にバイトをして自分で学費を稼いでから専門学校に行く、という案も却下された。理由は教えてもらえなかった。わたしが何を学びたいとか、成績がどうだとか、そんなこと関係ないっぽかった。頑張ってみなさいという様な言葉もなかった。
これまでも両親に自分の話を聞いてもらえることは無くて。当然ながら進路について相談したり、アドバイスをもらうようなことも難しかった。成績が上位ならきっと認めてもらえると、わたしが勝手に頑張っていただけだった。
なかなか進路が決まらず、担任の先生や進路指導室の先生を困らせてしまった。いろんなことを調整して下さり、介護系の求人と地元企業の求人の2つを提案してもらった。
介護系の求人は受かれば県外就職になる。わたしの地元にも事業所はあるが、初年度は県外に配属される可能性が高いということだった。地元企業の求人は研究室だった。化学系を専攻していたため専門科の先生が成績から推薦をしてくれるという話だった。科長からは「うちの科からは初めてのことだぞ。あなたなら大丈夫だから是非頑張ってほしい」と嬉しい言葉をいただいた。
我が家の今までの流れからして県外就職はたぶん無理だろう。引越しや一人暮らしの初期費用をわたしだけで支払うのは難しい。両親も助けてくれないことは明らかだった。地元企業への就職は安定した収入が得られる。推薦してくれる先生には申し訳ないけど、しばらく稼がせてもらったら専門学校に行こうかなと考えていた。
2つの求人について両親に話すと、ここで初めて父が意見を言った。「介護の求人受けてみたら?」と。母は「地元企業を受けなさい。あそこの求人を蹴るなんてもったいない。一生食べていけるはず」 と。
やっぱりそうだよなと思った。
一生かどうかは分からないけど、たぶん収入に困ることはないだろう。専門学校の学費のために地元企業を受けることにした。
願書を出すタイミングで母が変なことを言い出した。「あんた地元企業受けるって言いながら、本当は勤めたくないから面接ドタキャンする気じゃないでしょうね?」
面接をドタキャン???
どういう発想? なんで、そんなふうに思われてるんだろう。ちゃんと働くつもりだしその先の目標も考えてるのに。
ここで全部ダメになった。
いつも全部ダメにされる。
全部否定。何をやっても認められない。
わたしのやってることは全部意味ない。
死のうかなって思った。
地元企業の願書提出期限が迫っていた。いろんな先生に「提出間に合いそうか?」と聞かれたけど気持ちの整理が全くできていなかった。願書を出すのが当然、と思われているのも分かっていた。
願書は出しません、と担任に話した。
理由は話せなかった。親に言われたことを話す勇気がなかった。惨めで悔しい。
願書を出さないと伝えたあと自然と口から出ていた。「まだ間に合えば介護の求人受けてもいいですか?」やっぱりなりたかった自分に少しでも近付きたかった。先生方には多大なる迷惑をかけてしまったが、介護系の会社を受けれることになった。
無事に内定をもらう。配属先はやはり県外だった。とにかく頑張ろうと思った。引越しで出費があることも分かっていたけど、親には働きながら返していけばいいだろう、と甘えた気持ちを持っていた。配属先を両親に伝えた。
喜んでくれるはずもなかった。
母は「引越しや家賃はどうするつもり?うちは無理だから」と執拗に詰めてきた。「だから地元企業にしておけばいいって言ったのに」とも言っていた。
あれだけ振り回しておいて、最終的に地元企業にしておけばよかったとはどういう意味なのか…
もう全く意味が分からなかった。
内定をもらったからには頑張りたいと粘ってみたけど無理だった。さらにヒートアップする母。
そして何も言わない父。
ここでも助け船はなかった。
夢に近付くチャンスだったのに。
卒業式の前日に全校集会で表彰された。賞の名前をはっきり覚えていないけど、全国の工業高校の賞だった。3年間のわたしが認められた。
クラスメイトも喜んでくれた。壇上に慣れていないわたしは所作がぎこちなくなってしまった。みんなゲラゲラと笑い、いや大爆笑しながら拍手をしてくれた。「…やっちゃった」とみんなに目線を送った。
卒業式の最後のホームルームで、担任から学級だより最終号が配られた。クラスの中で起きた印象的な出来事や先生が撮ってくれた写真がズラリと載っていた。そして進路先の内訳も載っていた。
就職 20名
進学 13名
進路未定 1名
「進路未定1名」は、わたしのことだった。
最後の最後で、この結果だ。
さすがに友達に聞かれた。
「進路どうした!?」
わたしはギアを上げた。
何段階にもギアを上げてヘラヘラと答えた。
「もう勉強も働くのも嫌になってぇ〜明日から何もしないよ〜!しばらく遊ぶよ〜!」とピエロを演じた。
惨めで恥ずかしくて死にたかった。
それと同時に、誰にも何も話さず卒業できて安堵した自分もいた。
打ち上げの食事会を断り、一人で歩いて下校した。
3年間歩いた学校の坂道はけっこう好きだった。
最後の坂道で「これで全部終わり、今日で終わり。」とつぶやいた。
卒業式を境に友達との連絡を断った。最後の最後で恥をかいて逃げるようにみんなから去った。
37歳以降、高校の友達にばったり会うことが急激に増えた。
「会いたかったよ。いきなり連絡取れなくなったじゃん!きほだけ、どこに居るか、何してるか分からなかったんだよー」と言っていた。
高校生の頃もとにかく徹底して自分の事を友達に話さなかった。何気ない会話でわたしのターンがくる度にびくびくしていた。その話題が家族の話になってしまったら、進路の話になってしまったら、と。
大人になって大後悔した。連絡を断つなんて馬鹿だった。もしあの頃に戻れるならば…もっと友達と話してみんなのことも知りたかった。
卒業後にやることは決めていた。通信講座でホームヘルパー2級を取得した。この時のわたしは違っていた。爆速で行動し続けた。
地元の高齢者介護施設の求人を見つけた。
臨時募集
経験者優遇
ホームヘルパー2級以上
産休に入る職員の代替要員としての採用
研修あり
初心者の方も応募可能
産休に入る職員の代替要員なら、即戦力が必要だろうということは求人票を見れば容易に分かった。しかしわたしは若く、怖いもの知らずだった。
「初心者の方も応募可能」この一文に賭けて迷わず応募した。人生で初めてのスーツを買いに行った。何を選べば良いのかも分からずお店でいちばん安い就活セットを買った。まだ応募を済ませただけなのに、すぐにでも働けるようにジャージとスニーカーも買い揃えた。若さゆえの勢いで。
面接当日は法人の理事長が面接をしてくださった。
履歴書に記入した高校時代に取得した資格について「頑張ってきたんだねー、そんな資格も取ったの?」と興味を持ってくださった。経験のない自分ですがどうかここで学ばせてください、とこれまでのわたしの全部を込めた。
数日後に採用の電話をいただき、ここから介護の仕事について学ばせてもらう日々が始まった。
入社から2年が経った頃、1年後の介護福祉士国家試験受験のための勉強も始めた。受験資格には実務経験3年以上が必要だった。
出勤前に1時間、帰宅後に1時間、1日2時間を勉強時間に充てた。
利用者さんと雑談の流れで出身校の話になった。最終学歴は高校だと話すとそこからあからさまに差別が始まった。
「学校出てない人はやだわぁ、わたしの介助はしないで」
「あなたやだわ、担当他の職員さんと替わって」「今うちの孫は大学生だよ。あんたは学校出てないかい」
容赦ない。
ニヤニヤして馬鹿にするように「あんたはだめだわ」と面と向かって言われた。悔しい反面、わたしなんて結局そういう風に扱われる程度の人間だよな、と諦めていた。
先輩たちは「この人はちゃんと資格持っているから、そんなこと言わないで下さい」と庇ってくれた。
入社1年目後半、仕事関係の出先で高校の同級生の男子と偶然再会した。仕事中に何度か顔を合わせる事があり新しい連絡先を交換することになった。
お互いに仕事終わりで会うことになったりした。会うのはいつも夜で、食事してドライブするのが定番コースだった。
そんな風に会い、いつの間にか付き合っていた。たまには休日に昼からデートしたいと提案したけど、休日も社長の手伝いがあるからと言ってはぐらかされていた。浮気?と疑い始めてしまい、単刀直入に「浮気してるんだったら別れよ」と切り出した。「浮気なんだけど…彼女いるんだよね」と言ってきた。一瞬意味が分かんなかった。
…わたしが遊ばれてる側か。
わたし選んでこっちに来てよ、とも言えず「じゃあ別れてよとか言える立場じゃないか、わたしとは付き合ってないんだよね?もう会うのやめよ」と伝えた。向こうは会うのをやめたくないと泣いていた。泣きたいのはこっちだった。
自分の事を大事にしてないからこんなクズに遊ばれたのか…?クソが。お前が先に泣くなよ。
クソがクソがクソがクソが、、、好きだった気持ちとか全部返せ。
出勤前の勉強、8時間の勤務、遊び、帰宅して勉強、という全く休めない週5を過ごしていた。
働き出すと再び中学の合唱部で仲良かった子たちと遊ぶ機会が増えた。高校はみんなバラバラで、同じ新社会人として付き合えてよかった。仕事終わりに集まって食事をするのが日々のモチベーションになっていた。
合唱部メンバーで何度も合コンに行った。今の若い方たちは合コンっていう言葉を使うのかな?
夫に出会ったのも合コンだった。
わたしたち女子チームは合コン前にファミレスで軽食とお酒を一杯入れてから参加した。
夫と話をしてみると、同い年で同じ高校だったとか。教室も隣だったらしい。まじか、運命なの?そういう風に組んでくれたの主催者?と思っていた。
働き始めると家の事を考えている余裕はなかった。仕事も遊びも充実していて自分の気持ちをいちばんに考えることができていた。お給料がある事も心の余裕になった。妹に必要な物を買ってあげることができて、食事に連れて行ったり、日用品なども不足無く揃えることができた。
食卓=地獄で、日用品や着る物、下着さえも足りないような、そんな家からなんとか脱したかった。
両親に高校卒業後すぐに「離婚してくださいお願いします。親が怒鳴り合ってるこんな家で妹が暮らすのは良くないからお願いします」と土下座をしたことがあった。父は「まあ…そうだな」と言い、母は「夫婦には夫婦にしか分からないことがあるからね」とか言っていた。
話にならなかった。
「離婚しないなら、妹連れて出て行くから。ご飯はわたしがちゃんと食べさせるから」と言った。
結局、未成年のわたしと中学生で部屋が借りられるわけもなく…実家で妹を気にかけつつ暮らした。
そんな生活を隠しつつ…合コンで知り合った人(夫)と2人で会うようになっていた。
仕事で時間が合わない時は、ちょっとの時間だけでも会ってくれるような人だった。深夜に仕事が終わる時にも待ち合わせ場所を決めて少しの時間だけ会った。今まで付き合った人はみんな自分の都合でわたしを呼び出していた。それにわたしはしっぽを振って会いに行っているみたいなところがあった。なんか対等な関係ではなかったのかもしれない。
中学からの友達は、優しそうな人だからその人を大事にした方がいい、とアドバイスをしてくれた。
お互いに本が好きでデートはいつも本屋さん集合だった。日帰り温泉に行き食事に行った。
出会って半年くらい経ったころ付き合うことになった。
お互いに仕事が忙しく会う時間がなかなか作れなかった。事前に休みを合わせ有給を取って予定を入れた。予定をすり合わせるのがめんどくさくなり始めて、交際2年目からは同棲をした。
一応、家族に報告した。
タイヨウくんと一緒に暮らすので、とだけ話した。
中学生の頃、仲良くしてた男子から誕生日プレゼントを貰ったことがある。母はその男子とは付き合っているのかとか、家はどの辺の子かなとか聞いてわたしの反応をみて茶化してきた。茶化す意味が分からなすぎて、恋愛の相談なんてしたこともなかった。もちろん付き合った人のことも一切話してこなかった。今回はまぁ、さすがにわたしも一言報告してから家を出た。
タイヨウくんと一緒に暮らせるんだと思い嬉しかった。それと同時に、こんな静かなところで眠れるという安心感に驚いた。両親が怒鳴り合っていて怖いしうるさいし、耳を塞いで夜をやり過ごすしかなかったから。狭い家の中で父が吸うタバコの煙とにおいも嫌だった。
タイヨウくんと暮らす部屋では何一つ苦痛なく眠れた。
子供の頃からあったもの、うっすらとずっとあったもの、死のうかなっていうものがスッと消えた気がした。
タイヨウくんは物腰が柔らかい。状況をみて人のサポートに回るようなところが優しい。聞き上手で肯定してくれる。同い年だけど少年っぽいところがありそれは可愛かった。そんなタイヨウくんに惹かれた。
山や川に遊びに行き、温泉に行き、やたらピースの多いパズルで遊んだ。服や家具など好きな系統が似ていて、よくお店巡りもした。
同棲中に徐々に揃えた家具は今も大切に使っている。
3年間付き合い結婚した。
勤務時間の関係で会う時間がなかなか作れず同棲を始めたわたしたち。結婚してもそれは変わらず、同じ家に住みながらもすれ違いで生活していた。
休みが同じになれば、張り切って料理を作った。やがて子供も生まれた。
子供をとにかく死なせないように育てた。当たり前だけど。歩けるようになり散歩を喜ぶようになった。嬉しくてはしゃいでいる子供はすごく可愛かった。それと同時に、もしも、咄嗟に走り出したら簡単に死んでしまうようなそんな命を守っている怖さも感じた。絶対に死なせないように、大事にした。
子供が中学に入る頃にも、また違う責任感を感じた。いずれ社会に出て行くことを見据えて、見守り励まし、時にはきつく叱ることも増えた。何か相談してきてくれたら、お母さんとしての想いも話したし、それくらいの年齢だと…と子供の目線でも考えた。分からなければ一緒に調べた。
高校受験の時期、この頃にもたくさん話をした。こちらから急かすように受験のあれこれを聞くことはなかった。相談されればアドバイスをした。「決めるのはあなただよ。自分の事は自分で決めていいから頑張りなさい」と繰り返し言った。
自分は衣食住を整えてもらえず、助けも求められず、そんな状況の家庭であることがバレないように取り繕って生きてきた。そのことがおかしいと気付いてしまい、耐えられなくなってしまった。
わたしは虐待されていたんだ。
高校受験の頃がフラッシュバックした。受け止めないようにしていた全てのことが、まさかの子供の高校受験というタイミングで降りかかった。
食べ物も、着る物も下着も足りなかった事、子供が多くて食いもんが減って金が減ってゴミばっかり増えていくわと言われた事、狭い部屋にぎゅうぎゅうに置かれた勉強机とタンスしかない部屋で自分だけの空間は勉強机の前だけだった事、床に敷かれた薄っぺらい布団で寝ていた事、冬の夜は寒くて凍えそうだった事、お弁当も作ってもらえず毎朝コンビニでおにぎりを2個買っていた事、お昼用のおにぎりを朝に1個食べてお昼はおにぎり1個だった事、痩せて体が辛かった事、栄養が足りなくて生理の時はさらに体が辛かった事、高校で進路未定者1名となって友達から去った事。
最悪のタイミングで全てのことが降りかかった。
受験生真っ最中、子供のサポートをしながらも、すごく苦しくなった。頑張っているのは子供なのに。わたしはわたしの出来ること、部屋を暖かくして栄養が取れるように食事を準備すること。
衣食住を整える事くらいしかしてやれない。親がしてやれる事って衣食住を整えることだと思うし、それしかできないけどそれ以上でも以下でもないというか…それでいいはずなのに苦しくて仕方がなかった。
わたしは倒れた。
「お母さんのごはんすきだよ」と言ってもらえたり、趣味の話で盛り上がったり、家族が自然に言葉をくれるのが嬉しくて。家族の中で会話していくことや生活していくことがこんなにも幸せなことなんだと知ることができた。
自分が認めてもらえる場所は介護現場で人をケアさせてもらっている時だけなのでは、と思っていたところがあったけど…わたしはわたしのことを大切にして好きなことをしてもいいんだよなぁ…という想いに変わっていった。
「カフェで働いてみたい!!!」
夫に口走っていた。
「いいじゃん、やってみたら?カフェすきだもんね」
「転職していいの?介護の仕事やめていいの?金銭面とかいいの?」
「いいよ」
タイヨウくんの返事はあまりにもさらっとしたものだった。わたしも今までになくさらっと決心した。
15年間続けてきた介護の仕事を辞めた。
最大の理由は、家族と暮らし、安心して自分が自分らしく生きることができて満たされたからだった。
子供の頃から満たされない何かと、うっすらとした死にたさ。仕事に打ち込むことでそれに飲み込まれないようにしていた。人をケアしてありがとうと言ってもらえた時、認められたと感じていた。その中毒性は強すぎるものだった。
もういいかな、とスッと手放せた。
これまで仕事関係でお世話になった方、利用者の方、利用者のご家族、沢山の方に感謝して次の挑戦に進んだ。
転職活動は順調に進み、念願のカフェで働けることになった。
カフェの仕事は異世界だった。出勤時のドレスコードがこれまでと全く違う。まずはその事に心躍った。初出勤の日に合わせ新しいリップを買った。
慣れない作業に戸惑い、教育をしてくれる人から発せられるカタカナの用語に戸惑った。コーヒーの香りが充満する店内でケーキやクッキーをお皿に乗せている自分にも戸惑った。お客様にコーヒーの銘柄を聞かれて戸惑った。業務用の食洗機にも戸惑った。
戸惑うことばかりだったけど、楽しかった。
働きだして1ヶ月くらい経ったころタイヨウくんは「毎日笑ってるよね?顔がこれまでと全然違う!いいね!」と言ってくれた。
言われてみればそうかも。
仕事を覚えなきゃと焦る気持ちはあったものの、楽しいという感情しかなかった。
前職は、自分のミスで人が死ぬかもしれないという緊張感の中で働いていた。日常生活の支援の他に終末ケアもあった。もっと良いケアができたのではないか?と悩んだりすることも多く、帰宅後も頭の中はすっきりしない日々だった。オフの日でも利用者の急変などを知らせる連絡が入った。
カフェにこの緊張感はなかった。当たり前だけど。
美味しいコーヒーを淹れて、目の前のドリンクを綺麗に仕上げ、一杯ごとに完結する仕事に気持ちよさを感じた。
仕事後、体は疲れていても気持ちは常に明るかった。タイヨウくんはよく「ご機嫌で帰ってきたね」と言う。
連休を挟むと早く仕事に行きたくなる。
「早く仕事行きたいって普通そんな人あんまりいないよ?変だね」と褒めてもくれる。
誰かに必要とされることでしか自分の価値を感じられなかった。
でも今は、「おかえり」と言ってくれる家に帰っている。
わたしはやっと、家族というものを知った。