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Photo byminatozaka_yawa

【小説】いちばん前の壁際の席(改稿版)

    教室の引き戸が勢いよく開いた。驚いて顔を上げる。地理の教師と視線がまともにぶつかり、鉛筆が右手からこぼれて床に落ちた。集中しすぎて、昼休みが終わったことに気づかなかった。必要ないとはわかっているが念のために壁を隠すように体を傾けながら、そっと周囲をうかがう。教師はもう教卓の前にいて、あちこちに散らばったままの生徒たちはあわてて自分の席に戻ろうとしている。誰もぼくなんて見ていない。背を曲げて床から拾い上げた鉛筆を机の上に置く。
     教科書を開きながら、教室のようすをうかがう。教師が黒板にぶらさげた大きな地図でどこかの国を指しながら前の授業の続きを始めている。大半の生徒は聞く振りをしながらぼんやりしたりこっそりスマホを見たり、何人かは教師の目を盗み隣の生徒とひそひそ話をしている。つまり、いつもと変わりない授業中の教室だった。
     地理は好きではない。行ったこともない国の山脈や油田や農産物の名称を記憶していったい何になるというのだろう。ただ、いいこともある。地理の教師は、一方的にお経のように説明をたれ流すだけで、数学や国語のように生徒を指名して答えを求めたり朗読を指示したりしない。生徒たちが黙って席に座ってさえいれば彼は満足なのだ。だからぼくは、地理という科目は嫌いだが、地理の授業は大好きだ。授業時間がすべて自分だけの時間だから。
     作業の続きに取りかかる。鉛筆を持った右手を壁に沿って下ろす。その時、周囲の視線をうかがうのはただ癖になっているからで、そんなことは必要ないのはよくわかっている。この教室でぼくのことを気にしている人間なんて誰もいないからだ。
     右手はほとんど意識することなく自動的に動く。ぼくの顔は前を向いたままだ。見なくても、鉛筆がどのように動いているかは正確に把握している。約半年の間、ぼくは、ほぼ毎日欠かすことなくこっそり壁に絵を描くという作業を続けているのだ。
     いちばん前の壁際がぼくの席だ。ほとんどの生徒はこの席に座りたがらない。出入り口となる引き戸がすぐ目の前で落ち着かないということもあろうが、一番端の先頭という位置が、授業中教師に指名される確率が極めて高いというのが一番の理由だろう。けれども、壁という自由に描けるキャンバスを与えられているこの席は、ぼくにとっては最高の席だ。
     地理の授業が終わった。教師はさっさと去り、生徒たちは解き放たれた魚のように友人の元に流れるように移動したり、教室を駆け出ていく。彼ら一人一人がピースとなって教室というジグソーパズルが形成されている。ジグソーパズルはきれいなフレームに納められているが、ぼくだけがそのフレームの外にいる。だれのぼくのことなんて気にとめてもいない。彼らの目にはぼくの姿が映っていないのだろう。ジグソーパズルから1ピースが抜け落ちたところで全体の構成には特に支障はない。ぼくにとってそれはかえって好都合でさえある。頬杖をついて、壁を眺める。彼らが、ぼくなんて気にもとめていないからこそ、こうして、休み時間に一人席に座ってゆっくりと、自分の作品を鑑賞できるのだから。
     きっかけは、ただのヒマつぶしだった。昼休み、読んでいた本を読み終えてしまい、退屈しのぎに壁に絵を描き始めたのがきっかけだった。別に絵を描くのが好きだったわけではなく、どちらかといえば苦手意識があった。というより当初、それは絵ですらなかった。ただでたらめに壁に鉛筆を走らせているだけで、そこにあるのはただのぐちゃぐちゃな曲線にすぎなかった。退屈を感じる度に、無意識に手が動くようになった。ただの癖にすぎないその行動がはっきりとした能動性を帯びてきたと自覚したのは、例の地理の授業中だった。
     ブラジルの形って、小島のアザに似てない?
     当時ぼくのすぐ隣の席だった田中という男子が、すっとんきょうな声をあげた。ぼくの左頬には生まれつき、アザがあった。遠目にはわからないほど薄いアザだったが、光の加減でやけにはっきり見えることもあった。クラス全員の視線がぼくの顔に向いた。ぼくの存在が教室内で一瞬でも浮き上がるきっかけとしてアザは大きな要素のひとつだったが、それをネタに皆がとことん盛り上がるほどの面白みはぼくは持ち合わせていない。乾いた笑いがぱらぱらと起こっただけで、すぐに彼らの興味はぼくから離れていた。田中が引き起こした小さな波はすぐに消え、いつもの退屈な地理の時間に戻った。
     授業を聞く振りをしながら、ぼくは、頭の奥に何かが引っかかったような妙な気持ちを持て余していた。真夜中に遠くで誰かが騒いでいるかすかな声が気になって眠れないように、その妙な気持ちに、いらだちを感じ始めていた。その気持ちを保ったまま、ぼくは右手に鉛筆を持って、壁に手を伸ばしていた。その行為は、それまで休み時間にしかしたことがなく、授業中は初めてだった。また、退屈しのぎではなく、自分で意思をもって描こうとしたのもその時が初めてだった。具体的な物とか風景とかを描こうとしているわけではないの明らかだった。描こうとしたところでぼくにそんな技術はないのだ。けれども、ぼくの意識が右手と連動していることははっきりとして感じた。これまで暇つぶしで描いていたときとはまったく存在しなかった核のようなものが自分の中で蠢いていた。その意識状態はうまく表現することはできないが、好きな小説や映画に入り込んでいるときのようでもあり、親に嫌なことを言われたことを後から思いだしてそれが脳内をぐるぐる回っている時にも似ていた。気づけば授業終了のチャイムが鳴っていた。
     寝起きのようにぼんやりした頭のまま、恐る恐る壁に視線を走らせてぎょっとした。そこにあるのはぱっと見はただの黒い塊だったが、よく見ると、毛むくじゃらの顔とか目とか手足の区別のないいきものにも見え、どす黒い煙のようでもあり、ネットで見た海外の心霊写真にも似ていた。「これは何の絵ですか」と聞かれても何も答えることのできないのに、壁に描かれたそれが、とても大切で愛しく思えた。
     その日から、絵を描くことがぼくの学校生活の中心になった。あの地理の時間を境に、描くことの意味が、ぼくの中でただのヒマ潰しから能動的なものに変わった。自分の中に蠢くものが鉛筆を通して壁に映し出されているのだ。壁の絵は、日をおうごとに様相が変わっていった。ただの黒い塊は、森になり、宮殿になり、街になった。ある日、ぼくは少し離れたところから壁を眺めていた。自分の絵だけがくっきりと浮かんで見えた。他の生徒には、ただのしみだらけの薄汚れた壁でしかないのだろう。
     その日のホームルームの時間は席替えだった。席替えは月一度の頻度で行われることは一年生の頃からの恒例なのに、ぼくは、ひどく動揺した。席が替わるということは、絵を描き続けることができないということだ。おそらくぼくの顔色は変わっていただろうが、誰も気づくはずもない。すでにクラス委員に指名された数人がくじ引きを作成し始めていた。他のことだったら、きっと、そのまま流れに従っていたはずのぼくが、立ち上がっていた。
     クラス委員は男子と女子一人づつだったが、男子は親類の誰かが亡くなって欠席でその日の議長として教卓の前にいるのは石野さんという女子だけだった。すらりと手足が長く、髪は毎日カットしているのではないかと思えるほど肩のあたりできれいに切りそろえられていて、吹奏楽部か手芸部かの部長らしい。ぼくに気づいた石野さんがふり向いた。少し驚いたように硬かった瞳がすぐに幕が開くようにはっきりとぼくを見た。その瞬間、ぼくの全身はこわばった。石野さんと目が合う度に、ぼくのからだは同じ反応をした。何かいやなことを言われたとかされたとかいうことはまったくない。それどころか、石野さんはぼくを助けてくれたことがある。定期試験の日に筆箱を忘れてしまったことがあった。購買部が開くのは二時間目からだ。教師には「友だちに借りろ」と言われた。恐る恐る教室を見回してみても、皆、知らん顔をしている。その中で、ただ一人ぼくを見ている人がいた。石野さんだった。彼女が貸してくれた鉛筆と消しゴムで、一時間目の英語のテストを白紙で出さずにすんだ。彼女はきっとやさしい人なんだろう。
     ぼくは、彼女と目を合わせられないので、かといって完全に違う方をみるのも変なので、教卓の角のあたりを見ながら、クジ引きをパスしてもいいかな、と言った。
    「くじ引きをパス」
     石野さんはぼくのことばをそのまま繰り返したので少しだけ暗い気持ちになった。父が、よくぼくの言ったことをそのままオウム返しにしてニヤニヤするのを思い出したからだが、石野さんは父みたいな顔ではなくて、飼っているねこをなでるときのような、やわらかい表情だった。ぼくは、意味なく何度もうなづいて、席替えしなくてもだいじょうぶなんだ、つまり今のままの席でいいんだけれど、と震える声で言った。
     石野さんはほんの一瞬何かを考える顔をしてから、ぼくの意向を皆に伝えた。皆の反応はぼくの期待通りだった。ぼくがどこに座ろうと誰も興味などない。しかも、誰もが嫌ういちばん前の壁際の席だった。誰も異論などあるはずもない。ぼくの席の番号である「1」はクジからはずされ、ぼく抜きで席替えが行われた。
     次の席替えは、同じ手続きを踏まねばならなかったが、その次からは、ぼくがクジを引かないことは暗黙の了解となり、特に意向を確認されることもなくなくなった。
     こうして、ぼくは、居場所がなかったはずの学校に自分だけの王国を手に入れた。ぼくが、席に座って絵を描いていることを誰も知らない。それがたまらなく愉快だった。席替えの度に、ぼくの周りのメンバーは変わるのに、ぼくだけが断固として変わらずに同じ場所にいる。まるで世界や時の流れからぼくだけが切り離されたようだった。クラスメイトたちが、ぼくには関係ないところで、ぼくにはよくわからないことで騒ぎ、笑い、恋をして、泣いていた。壁の中の街は城になり巨大な目玉になったかと思えば翌日にはUFOになっていた。まるで石像のように何の変化もないぼくとは対照的に、壁の絵はまるでいきもののようにめまぐるしく進化していった。
     ひやりとしたことは何度かある。授業中に、後ろの席の男子が落とした消しゴムがぼくの方に転がってきたことがあった。消しゴムがうまく足元に転がってきたからよかったものの、そうでなければ、気づかずに制作に集中し続けていたにちがいない。拾って渡してあげたら、男子は、礼をいいながらちらっと壁に目をやった。明らかにけげんな顔をていたが、結局何事もなく終わった。その後も、なんとはなしに不審げな視線を向けられているように感じたことはあるが、誰もぼくに対して何のアクションもおこしてこなかった。
     壁に絵を描いているとき、ぼくの意識はすべてのものから解放された澄み切った状態だった。かつてのぼくは四六時中、特に学校にいるときは、常に周囲からどう見られているのか、何か攻撃を受けやしないだろうかという不安との格闘に精神の大半の領域を汚され続けていた。残ったわずかなエネルギで休み時間に好きな本を読んだりイヤホンで音楽を聴いたりするわずかな時間だけが自由の瞬間だった。絵を描くことによってぼくは奪われていた意識を取り戻すことに成功した。
     時は過ぎ、卒業式はもう翌月に迫っていた。学校から解放される日を指折り数えて待つだけだった虫けらのように無力なぼくが、学校と言う場に確固たる目的を見いだす日がくるなどほんの数か月前には想像もしなかった。
     絵は、日々変化していたものの、どこに向かっているのかわからなかった。描くことに目的があるわけではない。だから別にどこにも向かう必要はない。ただ、卒業式を境に、ぼくは教室に来ることはなくなる。つまり、卒業式の日にぼくの制作作業は終わりを告げる。つまり絵が完成するのだ。誰から指図されたわけではなく自分の意思で具体的なものを完成させるのは生まれて初めてだった。そのことはぼくの気持ちを浮き立たせた。
     そうして、最後の席替えの日がやって来た。クジの入った箱が生徒たちに回されようとした時、それを制止する声がした。
    「提案があるのですが」
     いつもと違った空気に顔をあげたぼくの目に飛び込んできたのは、教卓の前に立つ石野さんだった。ぼくの胸が硬いもので突かれたように跳ねあがったのは、彼女の目がまっすぐぼくを見ていたからだ。
    「小島くんにもクジをひいてもらいましょう」
     教室の空気が少し揺れた。早くすませてしまいたい面倒ごとが発生したときのどよめきだった。「なんで?」「あの席が好きだって言ったなかった?」「だったらいいんじゃね」。あちこちからさざ波のように意見ともいえない声が浮かんで消える。
    「確かに、くじをひかないのは小島くん本人の希望なんだけど、それでいいのかな」
     いったん、皆の方を向いた石野さんはまたゆっくりとぼくを見た。ぼくはあわてて視線をそらせた。黒目の部分が大きく光っているわけではないのに石野さんの目は何かが放たれているようで、見られていると、気持ちがもやもやとした。自分の部屋を見られているような感じだった。
    「小島くんはあの席が気に入っているからってことだけど、その席が、たまたまみんなが嫌がる席だったからクジなしでオーケーになっているだけだよね。小島くんだけが、クジをひかないっていうのは、何て言うか」
     石野さんは、息継ぎをするようにことばを切った。
    「平等じゃないと思う」
     額のあたりに石野さんの視線を感じたが、顔を上げることができなかった。だったらいいんじゃね。さっきの男子が同じことを言ったが意味は真逆だった。「じゃそういうことで」「小島にもクジまわせよ」教室の空気がいらだちをはらんでいた。最後の席替えだ。みんな早くクジをひくことしか頭にないのだ。
     まわってきた箱から取りだしたクジを開くと、「15」という数字が書かれていた。すでに生徒たちが荷物を抱えて移動を始めて教室内は騒然としていた。もやがかかったような気持ちで、腰を上げる。
    「15」は、教室の中央あたりの席だった。前後左右を他の生徒に囲まれて息がうまくできなかった。手に持ったままの鉛筆を机に置く。初めて気づいたが鉛筆には幼い頃にはやったアニメのキャラがプリントされていた。いつ買ったものかすら覚えていない。シャープペンシルがあるので、勉強やテストに鉛筆なんてもう使うことがないのだ。
     ホームルームが終わった。帰り支度をしながら、それまで見ないようにしていた、いちばん前の壁際の席に目をやった。そこにいたのは石野さんだった。石野さんは、右に顔を向けたまま身動きしなかった。その視線の先をたどって、ぼくも壁を見た。昨日までは、離れていても、ぼくが描いた絵がくっきり浮かんで見えたのに、いくら目をこらしても、そこには汚らしいしみが点在する壁がのっぺりと広がっているだけだった。

    (了)


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