
空中スロウ -第6話(最終話)【創作大賞2026】
「卒業生、入場」
私は三年間見慣れた体育館に入っていく。
卒業証書授与。
私の二人あとが千砂だった。ステージの階段を下りながら千砂の方を見た。千砂は泣いていた。
在校生送辞、卒業生答辞、こういうのを喋る人はどうやって選ばれるんだろう、とぼんやりと思った。私もいつかどこかで、選ばれる人になってみたいと思う。
式歌の「仰げば尊し」を歌う。
何度も歌った歌だけど、鼻が少しツンとした。
校庭で皆が別れを惜しんでいる。男子生徒ラグビーみたいに肩を組み合って、「わーー!」と叫びながら飛び跳ねている。
私は千砂と一緒にそれを見ている。
「千砂、泣いとったね」
「泣いてしまうけん、賀名子は涙でないん?」
「私は何だかうまく泣けないんよ」
千砂は、そっか、という顔をして微笑んだ。
カバンから千砂が小さな袋を出して私に渡す。
「何?」
「出してええよ」
袋から出すと可愛い皮のパスケースが入っていた。
「東京じゃ電車多くなるじゃろうけ、よかったら使って」
じんと心があたたまる。
「ありがとうね」
パスケースに何かキーホルダーが付いている。
「ん?」
見ると金色の小さなトランペットのキーホルダーだった。
「それ、あたし。忘れんなよ!」と千砂は言った。
「忘れるわけないじゃろ」と私は言う。
だいぶ日が短くなった。竹原の寒い冬、私はコートに身をくるみながら、お母さんのお墓に向かい、卒業証書と東京の大学の合格証書を出してお墓に向ける。
「お母さん、あたし東京いくけん」
私の心の中は1年前ほどごちゃごちゃしてはいなかったし、冬の空は穏やかだった。
帰り道、賀茂川の川べり、桜並木をひとりで歩く。部活を引退して少し髪が伸びた。
川の流れは穏やかで、私はその水の揺らめきを見ながら歩いている。
気付けば、卒業式で歌った「仰げば尊し」を口ずさんでいる。
思えばいと疾 し、この年月
今こそわかれめ、いざさらば——
この町とお別れだ。桜並木を見上げる。私は立ち止まる。
風が吹いて桜吹雪が舞う。
帰る家はなくなっちゃったけど、ここが私の故郷 。
目からと涙がつーっと流れる。
「うっうっ…..」
桜の木の下で、私はいつまでも泣いていた。
上京の日が来た。
「本当にお世話になりました」
「娘できたみたいで、楽しかったよ」伯母さんが言った。
となりで伯父さんは涙ぐみながら言う。「元気にせいな、困ったら電話よこすんよ」
「はい。……あの、お位牌を、すみません、よろしくお願いします」
「あぁ、大丈夫よ、気にせんで、いつでもおいで」
「いつかちゃんと引き取るけん」
伯父さんはうなずいた。
慶介は二階の私が暮らしていた窓から顔を出し、こっちを見ている。
「慶介ー、ありがとうな」
「あん」
慶介は変な返事をした。
東京駅に着いた。ここから山手線に乗り換えて、数駅先にあるカレッジコートに向かう。
ガラガラとキャリーケースを転がし、乗り換えのホームへ向かう。リュックの中には伯父さんから「一応持っていき」と渡された、父の東京の住所が書かれた現金書留の封筒が入っている。
いつか行く時があるだろうか。今はまだ決められない。
ホームで電車を待つ間に、携帯電話が鳴った。慶介からだ。
「東京着いたんか?」
「今、着いた。乗り換え待ちじゃけん」
「何年東京におるつもりじゃ」
「そんなん分からん。ずっとおるかも知れんし、そもそも竹原には私の家はないけん」
「また、うちに来ればいいじゃろ」
「もう大人になるんじゃ、借り暮らしはもうええ」
少しの間黙ったあと、慶介は言った。
「貰い手なかったら俺が貰ったるけん」
「何を?」
「お前じゃ、結婚しちゃるわ」
「余計なお世話じゃ、そんな心配いらんけん」
電話を切ってからしばらく、賀名子は竹原の風景を思い返す。
離れてみると、故郷が故郷らしく感じるから不思議なものだ。家はないけれど、私はまたいつか竹原に行くと思う。また竹灯りを千砂と一緒に見たい。
東京に来て、少し前に進めた気がする。人生は怖い。けれど私は少しずつ前に進む。
ふいに頭の中に学校の校庭が映る。
周りの音が消える。
私は走り幅跳びの助走路に立っている。大きく息を吸い、静かに吐く。
ゆっくりと走り出す。中盤からスピードが勢いに乗り、踏切板まで残り数歩のところで体を少し沈め、右足で思い切り蹴り上げる。
空中で、私はピットの向こう側を見る。あと少しだけ、遠くへ。
(終)
——空中スロウ