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今を生きる

    こどもの頃のおはなし

     「ただいま」と家に帰ったらいつも母が家にいる。おやつを食べながらその日の学校でのできごとを話す。もちろん楽しいことばかりではなく、玄関先でランドセルを背負ったまま、泣きながら話をしたこともあった。どんなにつまらない話でも、最後まで優しく話を聴いてもらった。
     夕食の時間は、家族みんなで。休日は、準備から家族みんなで。いろいろな話をして、夕食に数時間かけることが当たり前。
     小学生の頃は、ピアノ、習字、スイミング、たくさん習い事をした。「やりたいことは何でもしていいよ」という雰囲気だったので、友人から話を聴いて、やってみたいと思ったものは、自然な流れで始めていた(と思う)。「やりたいことは何でもしていいよ」の雰囲気は、中学生になっても続いた。3者面談で、担任から母へ進路について尋ねられても、「娘がやりたいように」がいつものことばだった。
     無事に第1希望の高校へ合格。そんなこんなで、順風満帆だと思っていた自分の人生。しかし、高校時代にだんだんと歯車が狂い始める。

    高校生の頃

     中学校までは、努力したら結果がついてきていたのに、高校ではどんなに頑張っても上手くいかなくなっていった。成績はどんどん落ちるばかり。でもそんなときでも、母だけは「やりたいようにやりなさい」「なりたい職業に就いたらいい」と言葉をかけてくれた。本当に心配をかけてしまった。

     私が高校3年生だった受験シーズン、母は体調を崩していた。食後に具合が悪くなるという症状を繰り返していたようだが、塾通いをしていた私は、全く気づいていなかった。母も、私に心配をかけまいと、他の家族に口止めし、受診すら「受験が終わるまでは」と拒んでいたようだ。私ばっかり心配をかけて、何をやっているのだろう。
     センター試験(現・大学入学共通テスト)が終わってからは、少し時間に余裕ができて、母と話す時間が増えた。中学校では部活に明け暮れる毎日だったし、高校受験以降は、勉強に明け暮れる毎日だったので、小学生以来でとても楽しかった。
     ふと、今までどれだけのことを犠牲にしてきたのだろうと思ったことを覚えている。でも、そのときは、「今頑張れば、後からいいことがやってくる」と信じて、何でも頑張ることができた。

    母の診断までを振り返って

     母と父と妹。周囲が羨むとても幸せな4人家族だった。宝物は、いつでも「家族」と答えていた。でも正直、母が1番だったし、今でも1番だ。事あるごとに「お母さんが死んだら、私も一緒に死ぬ」と言っていた。というか、生きられないと思っていた。

     2次試験が終わってからというものの、母の体調不良が顕著になり、私はネットで検索するようになった。そこでたどりついたのは「膵臓がん」だった。大学受験に向けて、医療に関する書籍を読み漁っていた私は、膵臓がんの5年生存率がワーストであることを知っていて、調べたことを一切口にしたくなかった。でも、早く受診してほしい。でも、もし病気だと分かったら…。もうそのときから気持ちがぐちゃぐちゃだった。
     散々心配をかけた末に、地元の大学に進学が決まった。もう9年前のできごとだ。そして4月、初めてスーツに袖を通した大学の入学式。しかし、その家族写真には、大好きな母の姿はなかった。その日、母は病院で膵臓がんの診断を受けた。

    母との最期

     入退院を繰り返しながら、一進一退の状況が続いていたが、とうとう母は化学療法ができなくなった。大学1年生の冬だった。それから、在宅での療養生活を選択した私たち家族。そこで、ある訪問看護師さんと出会う。診断がついてから、あまり話さなくなった母だったが、この訪問看護師さんのことは、「優しいから話しているだけで泣いてしまう」と涙しながら話してくれた。

     最期の日、私はずっと母の手を握っていた。近くの椅子に置いていた携帯が落ちそうになって、一瞬だけ手を離したそのとき、母の指に着けていたサチュレーションのモニターが0を表示した。大学2年生の5月だった。
     葬儀が連休の最終日に終わり、翌日から私は大学の講義を受けた。社会はなにも変わらず、時間が過ぎていることに違和感があった。本当は、全てを投げ出したいような気分だったが、家族に心配をかけたくなくて、いいお姉ちゃんでいたくて、休むことができなかった。それに、これまで母にどれほど迷惑をかけたのかを考えると、ここであっさりと大学を休むという行動が私にはどうしても取れなかった。

    母とお別れして

     葬儀のときに、葬儀場の計らいで、母へ手紙を書くことができた。その手紙は、棺に入れられて火葬された。火葬までの2日間、とても悩みながら手紙を書いた。そのときに、「私たちのように突然病気が発覚し、悲しむ患者さんや家族を少しでも減らしたい」そう決意した。ただ、この夢はとても大きなもので、個人へのアプローチだけではなく、より幅広い視点でシステムの構築なども必要だと感じた。それまでは、市町保健師を目指していたが、県保健師を目指そうと思った原点だ。

     大学では、仲良くしていた友人にも母のことを話すことができなかった。唯一、大学の担任には、自分のことを話すことができた。手続きの関係で母が亡くなったことを知らせていたのだが、2週間ほど経った頃、先生から呼び出してもらい、話を聴いてもらった。そのときに初めて自分の感情をことばにしたら、ずっと抱えていた思いが少しずつ形となり、涙がとまらなかった。自分から誰かに助けを求めることがこんなにも難しいということを改めて知った。

     母が亡くなって、残された家族の関係も変わっていった。父とは全く上手くいかなくなったし、妹とずっと一緒にいることに対してもストレスを感じることが増えるようになった。今となっては、自分のことでみんなが精一杯だったからだと思うことができるが、そのときはそんな冷静に物事を考えられるような状態ではなかった。

    大学卒業まで

     大学2年生で初めて受け持ち患者のいる実習を迎えた。担当患者の状態は悪く、なかなか話すことができない日が続いた。高熱で苦しんでいる担当患者に対して、うちわであおぐことしかできない自分に無力さを感じた。ただ、その状況の中でも毎日自分にできることがないか一生懸命考えて行動したつもりだ。どこかで思いが伝わったのか分からないが、担当患者から「自分が退院するまで、学生にいてもらいたい」と言っていただき、実習最終日には「頑張れ。もう病気にはなりたくないけど、あなたが看護師になったときにはもう一度会いたい。」と声をかけてもらった。医療従事者として、対象者とその家族へ向き合うことに対する恐怖は今も消えない。でも、その分、自分にできることを一生懸命したいと考えるようになった。

     その後の課程を修了し、無事に大学卒業、国家試験合格を果たし、私は県保健師として就職した。どん底の高校生活を思い返すと、夢を叶えることができたと、とても嬉しい気持ちでいっぱいだった。そして、この頃から家族の関係性も元どおりとはいかないが、少しずつ良くなっていったように思う。

    社会人1年目

     とにかく右も左も分からず、大学での学びはどこにいったのか…という感覚だった。初めての業務に加えてコロナ対応。そして通常業務を知らないまま、全ての業務をコロナ禍で実践するということは、とにかく難しいことばかりだった。
     でも、メンターに恵まれ、本当に充実した1年間だった。当時は、担当業務を1つずつクリアしていくこと、またコロナ対応に追われて、このありがたさに十分に気づくことができていなかった。振り返ると、とても良い環境で、のびのびと担当業務に向き合うことができ、そして成長させてもらった1年間だったと思う。

    社会人2年目

     これまで担当内で最年少だった私が2年目にして最年長となった。つまり、同じ係に新採が配属されたのだ。まだまだ教わりたい立場だったのにも関わらず、やむを得ず教える側となってしまった。しかし、メンバーが変わったことで、何もかもが上手くいかず、とにかく悩みが尽きなかった。自分の責任で上手くいっていないのであれば、自分の努力不足だと認識し、改善を重ねることができたと思う。しかし、私は上手くいかないことの尻拭いをさせられる日々で、でも当時は「新採なのだから、2年目の私が我慢するしかない。」と言い聞かせて過ごしていた。しかし、状況はなにも変わらないまま、4か月が経ち、あまりにも異常だと感じた私は、職場で上司に対して「いつまでこんなことを続けたらいいんですか。」と怒り半分(以上だったと思うが)で尋ねた。1年目とのギャップも大きいことは自覚していたが、どう対処すればいいのか分からず必死だった。

     私が声をあげたことをきっかけに、多くの方を巻き込んでしまったが、その多くの方が関わって、今後の対応を検討された。その結果を知ったとき、(ここで多くを語ることはできないが)私が感じていた違和感をあのときに訴えたことは間違っていなかったと思った。

     ただ、こういうときに昔だったら、母に相談していたなと思った。少なくとも大学生までの私は、母にその姿を見てもらったけれど、社会人として働く自分の姿を見てもらうことはもうできない。悩みが尽きず、いつも母だったらどんな声をかけてくれるだろうと考えるが、なかなか思い浮かばなかった。そのたびに悲しくなって、涙が出ていた。

    社会人3年目

     これまでの自分の取組を振り返る中で、「一生懸命頑張っていたけれど、それはただの自己満足なのではないか」とふと思ってしまった。もちろん、普段から対象者中心で考えているが、目に見えて分かる成果はなにもなく、自分が実践してきたことは、本当に対象者のニーズに合っていることなのかと1人で悶々としてしまったのだ。
     おそらく保健師の仕事というのは、そういうものだと思う。ただ、自分の保健師としての軸はあるものの、周囲の職員も同じ気持ちなのか、もしかしたら1人で突っ走ってしまっているのではないかと感じた。そう思いながらも、やはり「自分にできることを一生懸命したい」という思いは変わらず、これまで以上に周囲の意見を聴くことに重きをおきながら、業務に向き合うようになった。

    社会人4年目

     社会人4年目を迎えるときに、異動となった。そこは残業が多いことで有名だったが、自分で希望した部署だった。というのも、これまでの3年間、多くの対象者・家族に関わる中で、いただいたご意見や自分自身が考えてきたことを実現できる可能性のある唯一の部署だったからだ。
     ただ、今思うと本当に劣悪な環境だった。正直、残業は想像していたほどではなかったが、それよりも、最もきつかったのが、上司と考え方がとにかく合わなかったことだった。私の業務は手順が決まっているものが少なく、自分で考えて提案していくものが多かったが、とにかく認められることはなかった。どんなに根拠を並べてもひたすら否定され、私の考え方に対して、「そんなの保健師ではない」とまで言われた。周囲にたくさん意見を聴いて、まとめている考えなのに、だ。その上司以外はみんな賛成してくれていて、状況を知っている人からは、いつも同情されていた。

    異動後の気持ちの変化

     この頃から、「なんのために私は生きているのだろう」と考えるようになった。大学での学びや母の闘病生活を通して、命の儚さをしっかりこの目で見てきているからこそ、「死にたい」とかではないが、私はこのまま私のままでい続けて、どうしたいのだろう…とふと思うことが増えた。予定ではまだまだ続く人生の中で、自分がやりたいことは何だろうと考えようとするものの、いつもなにかに追われている日々で、あまりの忙しさに考えをまとめることができずにいた。
     そして、これまでずっと「自分にできることを一生懸命したい」という思いを持ち続けていたにも関わらず、上司とのやりとりがあまりにもストレスとなり、急に「あ、もうどうでもいいや」と思う場面も少しずつ増えてきた。ただ、いつも諦めようとするタイミングで、母と過ごした日々がよみがえり、一瞬浮かんだ「どうでもいい」気持ちを打ち消すことが続いた。やることは分かっていて、「やれば終わる」という感覚。次々にやってくる仕事をとにかくすべてこなし、どうにか2年間を過ごした。

    社会人5年目

     本当はもう十分に頑張っているのに、まだもう少しできると思い込ませることで、身体にも心にもかなり負担をかけて、自分自身を追い込んでしまっていた。このときも、今も、なぜここまで頑張ることができたのか自分でも不思議に思うほどだ。ストレス源となっている上司とはもちろん毎日顔を合わせなければならず、避けては通られない。
     現時点で分かることは、業務内容が自分に合っていると感じていたことのみだ。この部署での業務の延長線上には、私がずっと持っている県保健師としての考えとつながっているように捉えられていたような気がする。だからこそ、忙しい中であっても、少しだけやりがいのようなものを感じながら業務を遂行できていたと思う。

     この部署での勤務も2年が経とうしており、あと残り1年間、これまで実践してきたことを整えよう、やり遂げようとしていた矢先、内示が出た。いくら組織とはいっても、あまりにも残酷だと思った。

    社会人6年目-初日

     社会人6年目、不本意ながら異動したその部署には、一緒に働いたことのある先輩が1人だけいらっしゃった。当時、かなり良くしていただいていたこともあり、覚えてもらっているだろうという自信もあって、異動初日の朝、1番に挨拶をしたが、その先輩から挨拶が返ってくることはなく、目も合わせてもらえなかった。私が前の所属で上司と上手くいかなかった噂は、あっという間に上司目線の話で広がり、私は完全に変人扱いだった。その先輩の個性もあると思うが、ただ自分の目で見てきたものよりも、他人からの噂を信じて行動されるのだと思うと絶望だった。

     それと同時に、ここはそういう組織だったとも思った。私は「ふつう」や「あたりまえ」ということばが嫌いだ。前の所属の上司から、よく「ふつう、〇〇するよね」とか「●●くらいあたりまえでしょ」と言われてきた。でもそれは、個人の価値観だと私は思う。ただ、上司個人の価値観が、ベテラン勢の価値観となり、それが組織の価値観となっていく。これまでもこのようなことが、それこそ「あたりまえ」に起こる組織だった。

     理不尽なあたりまえをずっと無の気持ちでこなし、「自分が部下を持ったら、こんなことは絶対にさせない」と心に誓いながら日々の業務にあたってきた。「自分がされて嫌なことは他人にはしない」という小学生の頃に学んだこと。社会人になったら忘れている人が多いように感じる。でも、みんながおかしいと思うことは変えればいい、変えられなければ上司になった自分が責任を持ってその業務にあたるだけ。そうすることで、この組織の嫌な風潮を断ち切ることができると思っていた。
     ただなんといってもこのご時世、どこも人がいないのだ。おかしいことは「自分がすればよい」と思っていたが、ここにきて初めて、法律・制度上、その業務に複数の人手が必要な場合、部下にもお願いする必要があり、それが上司の立場では「指示」しなければならないということに気づかされた。

     いろいろなことを考えた初日。そして、異動して2日目の朝、起きると突発性難聴になっていた。母を亡くした後に1度だけ発症したが、そのとき以来だった。働き始めてから、ストレスに対する閾値がおかしくなっていたが、あのときほどのストレスを感じているのだと知った。

    退職まで

     私が前の所属の上司と最も合わなかったのは、前例踏襲で仕事を進めることに対する考え方だ。私は、変えた方が対象者にとって良いものになる場合や業務効率化を図ることができる場合には、必ずしも前例踏襲にする必要はなく、積極的に変えていく方がよいと考えている。しかし、上司はどんな場合も前例踏襲であることを好むタイプだった。
     もちろん、人それぞれの個性はある。ただなんといっても、このような組織である。今までも、様々な理不尽に立ち向かってきた。5年間の中で、おかしなことを変えたこともあった。一方で、前例踏襲を好むベテラン勢の多くに嫌われてしまい、結果的には、思ってもいないレッテルを一方的に貼られる。

     挨拶を無視された初日を鮮明に思い出すことができる今、ここまで自分を苦しめてもなお、この仕事を続けなくてもいいのではないかと思うようになった。「思えるようになった」とも言うだろう。今回も、法律・制度をしっかり読み込み、上司へ提案していくことで、なにかしらの体制を変えることはできるかもしれない。ただ、そうすると変人レッテルの上に、次はどんなレッテルが貼られるのだろう。

     別に、他人の目を一切気にせずに仕事をすることもできるかもしれない。ただ、変人以上のレッテルを貼られてしまっては、もはやどんな提案も通らないだろう。批判的な意見もあると思うが、これはこの組織で5年間働く中で見えてきた直感だった。

     なんといっても、その理不尽をいつか部下に指示しなければいけない日がくるかもしれないことが、決め手となった。そうなったら、そのときに自分が退職することは分かっている。他にも様々な要素が影響しているが、これら全てが背景となって、もうこれ以上続けることはできないと判断した。私は、「保健師として、1人ひとりがその人らしく生活できる地域づくりをしたい」という思いをずっと持っているが、このままでは組織のあたりまえに飲みこまれて、自分がなくなってしまうと感じた。

    「保健師」とは

     退職は、もともと父から勧められていた。次の一歩を踏み出した方が自分にとって納得のいく人生になるかもという思いはあった。ただ、社会人5年目までは、よみがえる母と過ごした日々、ちょっとだけ感じるやりがいといったプラス要素が少しだけ大きかったのだろう。自分の仕事にまだ気持ちを持っていくことができていたために、退職を決断するまでには至っていなかった。

     これまでとはガラリと環境が変わることになった今、予定ではまだまだ続く人生をどう生きていくかいろいろと考える。その中で、自分に対して「今後も保健師として働くのか」という問いを投げかけてみて分かったが、自分が保健師という仕事を十分に知らなかったのだとつくづく感じた。その上、県保健師としてできることを過大評価してしまっていた。5年間働いたのに、「保健師とはなにか」と尋ねられても答えが分からないままだ。正直、県保健師は、私がイメージしていた保健師とはかなり違っていた。だから、もう一度違う場で、保健師として働こうと考えた。

    自分の価値観

     それから、この選択にあたっては、自分のライフデザインなるものも一応考えた。幼稚園生の頃、私は七夕の短冊に将来の夢として「おかあさん」と書いた。小学生になってからは、看護師、薬剤師、教諭、その他にも転々としたが、幼稚園生のときの「おかあさん」にも、自分はなるのだろうと思っていた。ただ、ここ数年のうちに、産みたくないと思うようになっていることに気づいた。こんなに生きにくい社会に新しい命を誕生させるなど、あまりに無責任だ。次は自分が、周囲が羨むとても幸せな家族を築くのだと描いていたが、今ではもう、「独身万歳」である。
     ただ、こういう話は、自分の価値観(人生観や死生観までも)が関わるものだと思う。自分の人生において大切にしたいもの、日々の生活の中で重きを置くところ、このようなものが指標となり、自分の優先順位を決めるときにも大きく影響する。これは、これまでの自分の経験や学びをとおして、理解していたことだと思う。

     改めて実感したことは、生きていく中で、これらの価値観が日々変わっていくということだ。私の場合、特にライフデザインに関する変化は大きかった。
     仕事に対する考え方も変わった。最初は、仕事が生きがいだと思っていた。自分から仕事を取ると、全てがなくなってしまう感覚だった。保健師が天職だと言いたい気持ちもあったのだと思う。
     しかし、退職直前になってふと自分の心の声に耳を傾けると、自分にとっての仕事の存在意義がそう大きくあってはならないような気がした。よくよく考えたら、1日の大半を仕事に費やしていて、その間ずっと心をすり減らしているのだ。安心できる時間なんて一瞬もない。「仕事=楽しい」ではないと考えているが、心をすり減らす大きさと長さに愕然とした。全てがなくなってしまってもいいから、今までのような仕事への向き合い方はしなくていいと思うようになった。
     環境が変われば、また考え方も変わるかもしれない。ただ、今となっては、私から仕事を取ったものの、全てがなくなってしまうことはなく、残ったものもあった。だからこそ、今後もこれまでのような全力投球はやめておきたい。

    母とこれからも

     公務員の安定を手放した今、自分が無敵だと感じる。しばらくは自分が好きなように生活していけばいい。他人の基準や好みに強制的に合わせることはせず、自分を尊重しながら、「自分の人生」を生きよう。仕事は仕事、あくまでも自分を大切にしたい。そして私の中には、やっぱりずっと母がいる。でも実在はしない。母が亡くなったことにちゃんと向き合って、きちんと受け入れられるように。これに関しては、努力が必要だ。
     母が亡くなったとき、もうこれ以上の後悔はしたくないという思いが強かった。でも、後悔しない人生なんてあるのだろうか。これからも、失敗を繰り返してしまうかもしれない。それでも、毎日を大切に過ごしたい。

     しばらく仕事をお休みして、小さなことではあるけれど、今までやりたいのにできていなかったことをやってみた。例えば、自分の部屋と家の掃除、読書、運動。他人から見ると、代わり映えのしない毎日を送っているように見えるかもしれないが、自分の中では、毎日新しい発見もあった。多忙を理由に、掃除を後回しにして、片付かない部屋での生活に慣れきってしまっていたが、部屋がきれいであることが自分の心をきれいにするということを感じることができた。家中の掃除も、最初は大変だったが、一度きれいにしてしまえば、それからは毎日短時間ですむ。日々の中に達成感がうまれた。

     しっかり食べて、しっかり睡眠をとる。規則正しい生活は最高だ。それだけで、自己肯定感が上がるくらいだ。日々の生活の中で、自分の「ちょうどいい」を見つけていこう。それが自分らしさであり、そういう自分が選択する「今」という瞬間を幸せに生きていきたい。

     
     
    * 保健師 * 看護師 * パペットスンスン大好き

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