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発酵する週末

新潟へは、金曜日の最終の新幹線で向かうことにした。

僕、じゃなくて彼女はそう決めた。名前は仮に美咲としておこう。二十六歳。都内の広告代理店でデスクワークをしている。仕事といっても、大半はエクセルの数字を睨み、誰かの作った資料に赤を入れることだ。窓のない部屋で、蛍光灯の下、コーヒーだけが唯一の変化らしい変化だった。

きっかけは特になかった。強いて言えば、水曜日の夜、洗い物をしているときにふと「日本海が見たい」と思っただけだ。理由のない欲求ほど、抗いがたいものはない。

新幹線のシートに座ると、彼女は缶ビールを開け、持ってきた文庫本を開いた。開いただけで、一行も読まなかった。窓の外を流れていく関東平野の夜景は、まるで誰かが適当にちりばめた小さな噓のように見えた。

新潟駅に着いたのは夜十時過ぎだった。空気はひんやりとして、どこか鉄と塩の匂いがした。彼女はホテルにチェックインする前に、少しだけ町を歩いた。人通りは少なく、居酒屋の看板の灯りだけが、水たまりに滲んで揺れていた。

翌朝、彼女は日本海まで歩いた。想像していたより海は静かで、灰色がかった水面が、どこまでも同じリズムで寄せては返していた。波の音を聞いていると、東京での自分の生活が、遠くの誰かの話のように感じられた。会議、メール、上司の機嫌、そういったものすべてが、砂浜に置き去りにされた古い荷物みたいに軽くなっていく。

近くの食堂で、彼女はのどぐろの塩焼きと、あたたかい白米を食べた。魚の脂が、じんわりと舌の上で溶けていった。店主は無口な男で、テレビでは知らないローカルニュースが流れていた。誰かの田んぼが冠水した、というだけのニュースだった。それでも彼女は、そのニュースに、自分の知らない誰かの生活の重みを感じた。

午後は、酒蔵を訪れた。ひんやりとした蔵の中で、杜氏らしき年配の男が、静かに樽の様子を見ていた。「待つのが仕事のようなものです」と彼は言った。彼女はその言葉が、なぜか自分の胸の奥に長く残るだろうと感じた。デスクワークの世界には「待つ」という時間がない。すべてが締め切りに追われ、結果だけが求められる。だが酒は、人の都合など気にせず、ただ静かに時間をかけて発酵していく。

夕方、彼女は信濃川のほとりに座り、缶コーヒーを飲みながら、川面に反射する夕陽を眺めた。川はゆっくりと、海へ向かって流れていた。その流れを見ていると、自分の人生もまた、同じように、意志とは関係なく、どこか決まった場所へ運ばれているだけなのかもしれない、という気がした。それは諦めというより、むしろ小さな安堵に近い感覚だった。

東京に戻る新幹線の中で、彼女はもう一度、日本海の静かな波音を思い出そうとした。だが記憶というのは不思議なもので、輪郭がぼやけ、色だけが残る。灰色と、青と、白い波頭。それだけが、confirmed な事実として残った。

月曜日、彼女はいつも通りオフィスに座り、パソコンの電源を入れた。画面が光り、日常が何事もなかったように再開する。けれど彼女のデスクの隅には、新潟で買った小さな酒瓶が、静かに置かれていた。誰も気づかないその瓶の中に、彼女だけが知っている、あの週末の静けさが、少しだけ閉じ込められていた。

#創作大賞2026
#お仕事小説部門

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