
『ベストプラクティス』(2026創作大賞お仕事小説部門 応募作品)エピローグ
著:南野純良
ハドソン川から吹き上げる風が頬にあたる。ピア83を出航したサークルラインは、いったん南下して、エリス島や自由の女神を通過したあと、マンハッタン島東側のイースト川へ向かって北上していく。月曜の朝のせいか、プライムクラスの上部デッキには人影もまばらだった。
摩天楼や静寂な北マンハッタンの姿。リサは10年前、イーサンと初めてニューヨークを訪れたとき、同じようにボートから眺めた光景を、思い出していた。デッキの欄干に手をおいたニックが、ハドソン川の遠い先を見つめるリサの肩をそっと抱き寄せる。リサも微笑み、軽く唇を重ねた。
「リサ、下のカフェでコーヒーでも飲まないないか」
「了解、私はエスプレッソがいいかな」
カフェは思いのほか賑わっていたが、どうにか席を確保し、二人はラテとエスプレッソを手にした。
「君のネイル、素敵だね」
ニックは、リサの指先に目を落とす。
「桜ネイルのこと?」
「日本には行ったことがないけど、ワシントンDCの桜も、ブルックリン植物園の桜も綺麗だったな……。でも、桜って種類がいろいろあるんだね」
「そう。ワシントンDCで有名なのはソメイヨシノ。白っぽい淡いピンクでしょ。ソメイヨシノが散ったあとに咲くのが八重桜。もっと濃いピンクで花がふっくらしていて、アメリカ人は八重桜が好きみたい。日本人にとって、桜というとソメイヨシノなんだけどね」
「そうなんだ……」
「でもね、ニック、私が生まれたフクシマの桜は、また違うの」
「フクシマっていうとあの……?」
「原発で知られているのは海側。私のふるさとはもっと山のほう。海と山のちょうど真ん中あたりに、樹齢千年の桜の巨木があるの」
ニックは静かに耳を傾けていた。
「満開になると、四方に伸びた枝から、薄紅色の花が流れ落ちる滝のように咲くの。『滝桜』って呼ばれてる。子供の頃、両親に連れられて見に行ったけど、本当に綺麗だった」
「リサにとって、桜は故郷の記憶なんだね」
「……そうね」
リサはエスプレッソのカップを置き、ふと顔を上げる。
「ニック、今日の予定覚えてる? 午後はアンリ・ルソーの回顧展、そのあと夜はブロードウェイでコーラスラインよ」
「もちろん。二人でイーサンの分まで楽しもう」
二人は肩を寄せ合いながら階上のデッキに戻っていく。
サークルラインのボートは、やがてイースト川に入り、目の前には、マンハッタンの摩天楼が、朝の光を受けてそびえ立っていた。
(了)
*本作は「2026創作大賞 お仕事小説部門」応募作品です。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
目次はこちら。
『ベストプラクティス』(2026創作大賞お仕事小説部門 応募作品)目次|sumiyoshi