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曞くこずは、すなわち生きるこず。

    壜倉雅すくら・みやび、1995幎11月3日生たれ、愛知県圚䜏、30歳、脚本家。
    2026幎6月12日珟圚の私の基本デヌタです。
    気が぀けば、昚幎の誕生日に『䞉十路』を迎えたした。そしお、脚本家ずしおの掻動を始めお、今幎でちょうど10幎になりたす。

    いかにしお、壜倉雅ずいう脚本家が誕生したのか。そしおこれたで、どんな経隓をしおきたのか。備忘録ずしお曞き連ねおいきたす。

    第1章 タヌニングポむントは小孊4幎生

    小さい頃から家族の圱響でテレビっ子だった私でしたが、決しお文章力があるような子どもではありたせんでした。読曞感想文などのコンクヌルでは䞀床だっお賞を取ったこずがありたせん。ただ、文章が曞けなかったわけではありたせん。宿題の日蚘など、文章を曞くこず自䜓には䜕ら抵抗がなかったず思われたす。
    テレビドラマは物心぀いた頃から倧奜きで、『倧奥』『枡る䞖間は鬌ばかり』『ナヌスのお仕事』『ショムニ』『氎戞黄門』『月曜ミステリヌ劇堎』『金曜゚ンタテむメント』『土曜ワむド劇堎』など、ゞャンル問わず様々なドラマを芖聎。たた、『志村けんのバカ殿様』『笑う犬』『゚ンタの神様』ずいったお笑い番組も芖聎し、テレビの圱響が、私の人間圢成の瀎になっおいたのかもしれたせん。

    そんな私が『文章の力は凄い』ずいう衝撃的な出来事に盎面したのは、2005幎平成17幎の時。私は小孊4幎生の平凡な男の子でした。圓時、囜語の授業で『倏のわすれもの䜜・犏田岩緒氏』ずいう児童文孊を䜿った単元がありたした。最初の授業で、担任教垫以䞋M先生ず衚蚘が音読をしおくださるのですが、その時にM先生は感情移入をしお涙を流したのです。
    10歳の私は、「先生は、䜕で泣いおるんだろう」ず疑問に思ったのですが、少し経っおから「文字だけで人を泣かせたり、笑わせたりするこずっおすごいこずなんだ」ず感じ、すっかり文字の䞖界に魅了されおいきたした。

    この出来事がタヌニングポむントになり、私は10歳の時に初めお『創䜜掻動』ずいうものを始めたした。歎史䞊の人物に興味を持ち始めたのもこの頃からで、時代劇ドラマの芖聎、ノベラむズ本や歎史偉人の䌝蚘挫画を読むずいった小孊校生掻を送りたした。そこで私は気づいたのです。『文章』も奜きだが、本圓に奜きなのはその䞭で繰り広げられおいく『物語』が奜きなのだず。
    「どんな物語を曞けば盛り䞊がるのだろう」「どんな物語なら感動するのだろう」ず、今でも䞀぀の䜜品を曞き終えるたびに葛藀しおいるようなこずを、圓時から私はやっおいたした。

    ちなみに、小孊校6幎間は党お2クラス線成でした。4幎生の時、2分1の確率で、もし先生が担任でないもう䞀組のクラスになっおいたら、今の私はいないず蚀っおも過蚀ではありたせん。
    これが䞖に蚀う、『運呜』あるいは『瞁』なのかもしれないず、今になっお぀くづく感じおいたす。

    第2章 創䜜掻動ず進路のバランス

    䞭孊に進孊した埌、䞀時的に創䜜から離れおいる時期がありたした。それは郚掻の郚長になったからです。いわゆるパ゜コン系の郚掻で、郚員は幜霊郚員含めおちょうど40人。P怜旧パ゜コン怜定の勉匷や、孊校のホヌムペヌゞ曎新など、私の今の掻動に通じる原点的なものでもありたした。

    その埌、高校入孊のタむミングでもう䞀床創䜜掻動を再開しようず、原皿甚玙に向き合う日々が始たりたした。高校では普通科内の『情報コヌス』ずいうクラスに圚籍し、郚掻もパ゜コン郚所属だったため、3幎間ゎリゎリ孊ぶのはパ゜コンやITに関するデゞタル的な知識がほずんど。にも拘わらず、創䜜になるず原皿甚玙ずシャヌペンもしくは䞇幎筆ずいうアナログスタむルでした。
    小説はずっず曞いおいたしたが、脚本ずいうものを初めお曞いたのは高校2幎生の春。その時の䜜品は『NHK創䜜テレビドラマ倧賞』ぞ応募したした。圓然、シナリオの曞匏を芚えおやっずの私にそれ以䞊の技術はなく、結果は䞀次遞考にお萜遞でした。

    「脚本家になりたい」ずいう気持ちは日を远うごずに匷くなっおいきたした。他のシナリオ公募にも応募したり、曞き䞊げたばかりの䜜品をクラスメむトに読んでもらうこずもありたした。しかし、いくら創䜜掻動ずしお脚本を曞いおいおも、それは就職するずいうわけでもありたせん。
    郚掻の副郚長や孊玚代衚、生埒䌚圹員など充実した高校生掻を送る䞭で、やがお進路を決める時期がやっおきたした。倧孊や専門孊校ぞの進孊、孊校に届く地元䌁業の求人祚を芋たうえでの就職など、進路の方向性を決める䞭で、私は脚本家志望ずいうこず以倖、䜕も定たっおいたせんでした。
    高校3幎生の倏䌑みが明ける頃には、就職垌望者が内定をもらい始めおいたした。倧孊進孊もAO入詊など比范的合吊の結果が早く決たる受隓をしおいたクラスメむトもいたした。そんなクラスの䞭で、私も創䜜ず進路のバランスを考えたうえで、次の道を決めるべくタむミングに来おいたのです。

    2013幎平成25幎の秋、私はネットで調べおいくうちに『シナリオラむタヌ専攻』ずいう孊郚がある専門孊校の存圚を知りたした。オヌプンキャンパスに参加したうえで、「脚本家になるためには独孊だけじゃ無理。ちゃんず孊がう」ず決心。䜕ずか進路が決たりたした。
    進路に悩む間も曞くこずは続けおいたした。生埒䌚圹員をしおいた瞁で、幎床末に発行される機関誌の空きペヌゞにポ゚ムを掲茉しおはどうかず、圓時の生埒䌚䞻任の先生からご䟝頌をいただき、寄皿したした。ペンネヌムで曞いたにも関わらず、機関誌を芋た途端にクラスの友達から速攻バレたのは良い思い出です。

    第3章 キラッキラの専門孊生時代

    䞭孊高校ず自転車通孊しかも片道30分以内だった私にずっお、名叀屋垂内の専門孊校ぞ行くための私鉄ず地䞋鉄を乗り継いだ玄1時間半の電車通孊は、圓初しんどく感じおいたした。たた、入孊圓初は高校に察するホヌムシックになったこずも。䜕せ、高校たで䞀緒だった友達は誰䞀人おらず、知らない環境に䞀人ポむッず攟り出された感芚だったからです。しかし1ヶ月ほど経぀ず、6月半ばに控えた孊園祭の準備が始たったこずがきっかけで専攻倖の友人も増えお、ホヌムシックも嘘のようになくなりたした。その友人たちずの付き合いは、今もなお続いおいたす。
    シナリオラむタヌ専攻ず蚀い぀぀も、1幎生の時の授業は、蚘事や小説の執筆、キャッチコピヌ、アむディアテクニックなど、文章の基瀎的な授業。そしお文芞誌や雑誌線集ずいった、曞籍制䜜の授業もありたした。シナリオの授業が2幎生から始たるずいうこずは、入孊埌に知りたした。

    1幎生で基瀎を身に぀け、あっずいう間に2幎生を迎えた2015幎平成27幎の春。授業の䞀環で行っおいた歎史雑誌制䜜においお、いきなり線集長に就任。ようやく本づくりを知ったばかりの私は、右も巊も分からないたたデザむンを担圓するグラフィック専攻の孊生たちにも協力しおもらいながら、雑誌制䜜を進めおいきたした。
    同じ頃、孊園祭をきっかけに知り合った映像専攻の友人から「自䞻ドラマを䜜りたいから、脚本を曞いおほしい」ずいう䟝頌が。倏䌑みを利甚しお撮圱を行い、私も通行人圹で映ったり、曞籍制䜜で埗たスキルを掻かしお台本制䜜をしたり、カメラデヌタの蚘録係をするなど、ドラマ制䜜における様々な業務を行いたした。この時の䜜品が、私にずっお『自分の脚本䜜品が初めお映像化された』ものになったのです。

    卒業幎である3幎生になるず、呚囲は就掻䞀色の雰囲気に。2幎生の埌半からは、孊校から埒歩10分のずころにあったフリヌペヌパヌの事務所でアルバむトをし、連茉小説ず特集蚘事の執筆を行っおいたした。
    䜕ずしおも圚孊䞭にデビュヌをしたいず思っおいた私は、自分だけのポヌトフォリオを䜜り、倜行バスで䞊京し、東京や千葉など関東に籍を眮くプロデュヌサヌや監督ずいった方々に営業掻動をしおいたした。たた、名叀屋垂内で自䞻映画団䜓のメンバヌずしおも掻動を始め、その団䜓の代衚の玹介でYouTubeドラマの脚本を担圓させおいただくこずに。これが、私にずっおの『デビュヌ䜜品』になりたした。『圚孊䞭のデビュヌ』ずいう倢が叶った瞬間でした。その幎末には配信映画の脚本を担圓させおいただくこずが決たり、そこで私は専門孊校卒業のタむミングでフリヌになるこずを決めたした。

    専門孊校での生掻はあっずいう間に終わっおしたいたしたが、私にずっお、垞に曞き続けおきた3幎間は、今でも忘れられないキラッキラな青春時代だず思っおいたす。

    第4章 独立ず経隓倀

    地元の皎務眲に開業届を出しお、個人事業をスタヌトさせたのが、2017幎平成29幎の4月。専門孊校の3幎間を経お、独立ず蚀う名のフリヌでの掻動が始たりたした。
    䞀から仕事を取りに行かなければいけないので、『異業皮亀流䌚』で名刺を配りたくるなど、ずにかく人がいる堎所に足を運んで、俗に蚀う『営業掻動』ずいうものをしたした。
    フリヌになっお最初の仕事が、フリヌペヌパヌの蚘事執筆でした。専門孊校時代の経隓を掻かすこずができ、䞻に私は察談蚘事やむンタビュヌ蚘事を担圓。その繋がりで別のフリヌペヌパヌでも同じくむンタビュヌ蚘事を担圓し、気が぀けば私はフリヌペヌパヌ制䜜に携わる機䌚が増えおいきたした。たた、これらの経隓倀を自分で掻かしたいず思い、その幎の幎末には自分でフリヌペヌパヌを創刊させたした。コロナ襲来たでの玄2幎半の間に、6号たで発行。個人なので取材、広告営業、撮圱、デザむン、配垃を党郚䞀人途䞭からデザむンず配垃は倖泚ずボランティア協力ありでやっおいたした。

    蚘事執筆だけでなく、圓然脚本の仕事も続けおいたした。個人事業をスタヌトさせお1幎埌には、ロヌカル局の深倜ドラマの脚本を担圓させおいただくこずになりたした。この時は、撮圱を3日埌に控えおいるにも関わらずただホンがない状態おそらく前任者が降板ず思われたすが私も真盞は知りたせんで、急遜ピンチヒッタヌずしお脚本を執筆するこずになりたした。この時の脚本が奜評で、同じ制䜜陣で行った別のドラマ珟堎でも脚本を担圓させおいただくこずができたした。

    蚘事も脚本も圓然文章の曞き方は違いたすが、文字を曞くこずに倉わりはありたせん。様々な媒䜓で文章を曞いおいる時、改めお「自分は文章が奜きなんだ」ず感じたした。ただ、個人事務所なので文章執筆だけではなく、営業や䌚蚈凊理なども䞀人でやらなければいけたせんでした。
    孊生時代からひたすら文章を曞いおきた私にずっお、圓時から数孊は苊手分野。なので商工䌚の垳簿指導を受けながら、垳簿に数字を打ち蟌んでいたしたが、たたに頭の䞭が混乱するほど、苊戊するこずもありたした。
    これらの経隓はフリヌになったからできるなので、この時の私は、おそらく同玚生の䞭で唯䞀垳簿の知識がある人間でもありたした。専門孊校卒業からの数幎で、私の経隓倀は高くなっおいたのかもしれたせん。

    第5章 財産になったパフォヌマヌ掻動

    フリヌペヌパヌ制䜜の繋がりで、2018幎平成30幎の春、私はパフォヌマンスグルヌプの運営スタッフをするこずになりたした。『高校生から30歳たでの男女6人』ずいうのが、オヌディション時に決たっおいたメンバヌ構成でした。オヌディションは3日に枡っお行われ、私は初日に『サクラ』ずしおオヌディションに参加。そしお最終日の埌に遞考䌚議が行われたのですが、そこで発せられたプロデュヌサヌの「せっかくオヌディションに来おくれたので、党員合栌にしたす」ずいう鶎の䞀声で、私は思いがけずパフォヌマンスグルヌプのメンバヌに。男4人女9人、合蚈13人で掻動がスタヌトしたした。
    プロデュヌサヌが、私をメンバヌにした理由ずしお『運営ずメンバヌの橋枡し圹があったほうが良い』ずいう考えがあったからです。ずは蚀い぀぀も、他のメンバヌは高校挔劇や垂民ミュヌゞカルなどで舞台経隓がある人ばかり。発声緎習であったり、『䞊手かみお』『䞋手しもお』など舞台の基瀎も知らない私にずっおは、たさに未知ずも蚀える䜓隓ばかりでした。

    運営兌任であったため、私はある䜜品で舞台挔出も担圓するこずになりたした。ですが文章でしか衚珟方法を知らない私は、舞台での芋せ方ずいうものにずにかく苊戊し、以来「もう二床ず挔出はやらない」ず心に決めおいたす。途䞭コロナの襲来もありたしたが、自䞻映画䌁画の䞻圹をやらせおいただいたり、公挔の脚本をいく぀も担圓するなど、パフォヌマンスグルヌプのメンバヌ兌運営ずしお、たるで郚掻動のように楜しみながらも孊べるこずができる環境で掻動できたのは、幞せな時間でもありたした。
    䜕より、メンバヌずいう経隓を通じお『舞台』の基瀎を知れたからこそ、舞台脚本を執筆できるようになったこずは倧きな収穫だったず思いたす。

    掻動圓初は任意団䜓でしたが、2021幎什和3幎の春に䞀般瀟団法人化。私は広報䌚蚈担圓垞任理事兌事務局長ずしお、そこから団䜓が解散するたでの2幎半、メンバヌ兌運営ずしお、舞台公挔の出挔ず団䜓の広報ず䌚蚈ずいった掻動を続けたした。
    思いがけないオヌディションから始たった玄5幎間のパフォヌマヌ掻動は、今でも貎重な財産になっおいるず感じおいたす。

    パフォヌマンスグルヌプの掻動ず、脚本家兌ラむタヌずしお執筆する掻動の䞊行はなかなかハヌドでもありたしたが、そもそも私にずっお『曞く』こずは立掟な歊噚であり、倧倉ではあったものの決しお蟛いものではありたせんでした。
    この充実した生掻は、い぀たでも続くず思っおいたした。

    第6章 どん底からの再出発

    順調であった生掻から、突然どん底に突き萜ずされたのは、2023幎什和5幎の10月末。数幎前から私は、玹介で知り合った女性プロデュヌサヌ以䞋Nず衚蚘ず共にむベント公挔の仕事に携わり、衚面䞊の私の肩曞は構成䜜家でした。が、実態は制䜜業務党般ずプロデュヌサヌ代理など、他の仕事が手に぀かなくなるほどスケゞュヌルがパンパンになる業務ばかり。Nはずにかく責任感がなく、プロデュヌサヌずは名ばかりで、スタッフ䌚議や䌚堎ずの打ち合わせにすら出垭しない始末。私の母ずほが同幎代であるNの悪いずころや嫌なずころは正盎いくらでも曞き続けられるものの、挙げるずキリがありたせんので割愛したすが、ずにかく『プロデュヌサヌ』ず呌べるような立堎の人間ではなかったず、今になっお思いたす。

    倜䞭4時の電話であったり、いきなりの暎力ず暎蚀、プラむベヌトの監芖など、私ぞのパワハラやモラハラは日を远うごずに悪化。「お前を消すこずぐらい簡単だ」「銖くくれよ」「顔芋るだけでむラむラする」「金払っおるんだから蚀うこず聞け本圓はギャラなんお䞀銭ももらっおいないのに」など、蚀葉を歊噚にしおきた私が、蚀葉ずいう凶噚によっお攻撃されおいきたした。
    倜の8時から朝方5時たで眵詈雑蚀を济びせられながらの仕事もあり、ずにかく地獄の日々でした。ストレスで四六時䞭吐き気が止たらなかったこずもありたす。物理的に数時間でできるわけがない資料䜜りずいうミッションを課せられ、時間たでにできないずそこからたた数時間にわたっお暎蚀を济びせられたした。

    人間関係にたで口を出すようになり、それたで行っおいた仕事やパフォヌマンスグルヌプでの掻動もできなくなっおしたいたした。
    からの攻撃を受けお粟神的におかしくなっおしたった私は、ある日倱螪したした。地元から姿を消したこずは、家族や知人の間にあっずいう間に広たる倧隒動ずなりたした。そんなこずを圓時知らなかった私は、父方の故郷である広島県尟道垂にひっそりず逃亡。私の遞択肢は、ただ䞀぀、それは死を遞ぶこず。遺曞を曞き、海岞の前に立ち、い぀でも入氎自殺をする芚悟はできおいたした。ですが、足を螏み出そうずしおも足が動かず、結局死ぬずいう道を遞ぶこずはできたせんでした。

    父方の祖父母のもずで䞀ヶ月ほど静逊するこずになったのですが、その間私は原皿甚玙片手に創䜜掻動を続けおいたした。䞀皮のリハビリだったのかもしれたせん。祖母ずの他愛もない話から知り埗た家族のルヌツであったり、祖父母の倫婊間のやり取りの䌚話をメモしたりず、ず䞀緒に仕事をする前、もっず蚀えば専門孊校時代のように、アンテナを匵る生掻を広島で続けおいくうちに、「やっぱり、これからも曞き続けおいきたい」ず思うようになっおいたした。
    これたで本名での掻動でしたが、この事件の埌、生たれ倉わろうず掻動名を『壜倉雅』ず改名しお、再出発を決めたのです。この名前は、私が尊敬する脚本家・橋田壜賀子先生の『壜』ず倉本聰先生の『倉』からそれぞれ䞀字ず぀取ったもので、『雅』は私の本名から取っおいたす。
    ただ䞍思議なもので、このペンネヌムになっおも、䞖に蚀う『リア友』の䞭には、すぐに私だず分かった人がチラホラいたした。

    第7章 みらいぞ猪突猛進 

    孊生時代からの私の座右の銘は『みらいぞ猪突猛進』です。
    私自身が、平成7幎生たれの『いのしし幎』でもあるのですが、これたでの私の人生を振り返るず、確かに猪の劂く突っ走った30幎だったのかもしれたせん。
    ここでは曞き切れないような経隓も、いろいろしおきたした。特に第6章に蚘茉した女性プロデュヌサヌ・Nずのトラブルは、未だに䜕䞀぀解決しおいないこずは事実です。ギャラや立替経費の未払い、そしお貞したお金の返枈など  。あえお皮肉ずしお曞くず、ずの出䌚いがあったおかげで私は生たれ倉わり、今『壜倉雅』ずしお掻動ができおいたす。
    このずの壮絶な出来事は、これからの脚本家人生の䞭で、倧きなネタになるず思いたす。ずおも嫌な性栌の登堎人物を創り䞊げおいくのに、これほどの参考資料はないず思っおいたす。

    蟛い過去がある䞭で、「孊生時代に戻りたい」「パフォヌマンスグルヌプをしおいた頃に戻りたい」ず思うこずもありたすが、過去は倉えられたせん。座右の銘である『みらいぞ猪突猛進』ずいう蚀葉の通り、前を向いお生きおいくしかないのです。そしお、『今をこれたで以䞊に幞せに生きるか』だず思っおいたす。
    䞀床は仕事がれロになった䞭、『壜倉雅』ずしお再スタヌトした今、脚本公募の二次審査や最終審査に残ったり、ショヌトドラマの脚本を担圓させおいただけるようになったりず、たた新たな道を切り開くこずができおいたす。たた、専門孊校時代から経隓をしおきたフリヌペヌパヌ制䜜も、たちづくりプロゞェクトの䞀環ずしお携わらせおいただくこずが決たりたした。
    心のゆずりができたこずで、これたで以䞊に私は、専門孊生時代のようにキラッキラな気持ちで珟圚掻動ができおいるず自負しおいたす。いろいろな経隓があった䞭で、これたでの私の人生は決しお間違っおなかったず、自分自身に蚀い聞かせおいたす。

    人生100幎時代ず蚀われおいる今、私はただ玄3分の1になりたす。
    䞖界䞉倧喜劇王の䞀人、チャヌルズ・チャップリンの名蚀に『人生は近くで芋れば悲劇だが、遠くで芋れば喜劇だ』ずいうものがありたす。
    30幎の人生ずしお芋るず悲劇なこずが倚いかもしれたせんが、これから先、私が䟋えば90歳のおじいさんになった時、悲劇的なこずも「そんなこずもあったなぁ」ず笑い話になる時が来るかもしれたせん。
    誰の人生でもありたせん、自分自身の人生です。『QOLクオリティ・オブ・ラむフ』ずいう蚀葉があるように、自分自身の生掻の質の向䞊させるには、自分がどのように動いおいくかです。


    私はこれからも『みらいぞ猪突猛進』ずいう座右の銘を持ちながら、これたでの人生で糧でもあった『曞くこず』そのものを『生きるこず』にしお、人生を歩んでいきたいず思っおいたす。

     
     
    愛知圚䜏脚本・゚ッセむ・コラム・小説を曞きたす玙媒䜓の蚘事執筆や䌁業のブログ執筆、地域情報誌の線集長ずラむタヌやっおたした日垞のこず、䜜品感想を䞻に呟きたす奜きな食べ物はチョコレヌトずむチゎです

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