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マチアプの記録⑫ 丸の内OL、現実的に考える

    マチアプの記録第十二弾。前回の記事はこちら。

    マッチングアプリに疲れていた初夏の時期。

    見知らぬ異性とマッチングし、いくつかのメッセージを交わして、相性が合いそうだったら会ってみる。
    会ってみて、身なりはどうか、会話は成立するか、居心地はどうか。

    どこまでも相手を評価し、評価される構造に辟易しつつあった私だったが、それでもアプリを継続していたのは、これまで書いてきたように、異性の中に内在している寂しさや、私自身の母性への欲求が存在していたからかもしれない。

    名前のついた関係性を作ろうともがきながら、深層心理ではそういった関係性を望まない私は、どこまでも不在だった。

    その私が、ただ一度だけ、心から「在る」ことを望んだ相手の話を、これから書く。

    森田さん(仮名)は、私より2つ下の26歳で、仕事は社長秘書となっていた。

    プロフィール写真にははっきりと容姿が分かるような写真は掲載しておらず、本人がカフェで座席に座っている姿を遠くから撮った写真と、いくつかの風景の写真のみだった。

    記載されている文章も当たり障りのないもので、これといった個性を感じさせない女性。

    森田さんには、そんなような印象を抱いた。


    森田さんとマッチングしてからは、例のごとく仕事や趣味の、当時読んでいる本についてメッセージを交わした。

    『傲慢と善良』は、当時ではまだそれほど知名度はなかった作品だが、「アプリ疲れ」と称する森田さんには、私のおすすめ本が刺さったようだった。

    ピンと来ない感覚。それは相手につけた点数に対し、自分が自分につけている点数が上回っているから生じる感覚。

    顔写真を掲載していた時期に、見た目でいいねを送られることが多かったこと、実際に男性と会ってみてもピンと来なかったこと、職場の男性にもアプローチされていること。

    「自己肯定感はあまりない」と言いながらも、常に男から求められる森田さんに対しては、羨ましいような、そうではないような、そんな印象を持っていた。

    森田さんは「見た目」で判断されることに若干の拒否反応があり、上述した諸々の経緯もあって、アプリ上では容姿が詳しく分からないような状態として、内面をしっかり見てくれる異性を探している、とのことだった。

    「律儀な割にマイペース」である森田さんは、私の淡々としたメッセージにきちんと反応しながらも、突発的に電話を打診してくるなど、読めない部分があった。

    人の底が見えた気分になると、その人に対する魅力がなくなっていくように感じられる私にとっては、そういった森田さんの乱雑さはむしろ好印象だった。


    やや暑さを感じさせる季節に、お互いのアクセスが良い四谷で、私は森田さんとカフェで話す約束をしていた。

    顔の見えない相手と現実で会うことに対し、不安が無いと言えばそんなことはなかった。けれど、メッセージや何度かの電話を経て想像していた人物像と、実際の人物の答え合わせが出来ると考えると、どこか楽しみを感じていた自分がいた。

    「もうすぐ着くと思います!」
    「連絡ありがとう。ゆっくりで大丈夫だから。◯◯で本読みながら待ってます。」

    『噛み合わない会話と、ある過去について』。
    日常で起こりうる人と人のコミュニケーションのかけ違いについての短編集。分厚い単行本に目を通しながら、私は森田さんを待っていた。

    人はどこまでも自分の都合の良いように、不都合を打ち消すように、物事を解釈する。今思えば、私と森田さんの関係性も、そんな不安定な土台のもとに成り立っていたのかもしれない。

    「あの、すきまさんで合ってますか?」
    「え?ああ、合ってます。森田さん...でいいのかな?」

    声をかけてきた女性に目をやると、思いのほか気合の入ったメイクが施された森田さんの顔に圧倒された。

    かなり作ってきたな、と思いつつも、素の顔立ちは可愛らしく、ひよこのような唇が象徴的で、うっかりミスが多いけど周りがフォローしてくれることが多いと自称する森田さんらしい見た目だった。

    初夏の暑い日差しが照っていたのもあって、森田さんは黒色の日傘に、夏らしいワンピースという装いであり、それはガーリーな雰囲気を感じさせつつも、女性としての美しさも同時に感じさせた。

    「駅で待ち合わせだと思い込んでて、違う人に声かけちゃった。笑」
    「え、マジ?」
    「そうなの。人と待ち合わせですか?って声かけたんだけど、違いますって言われて。私が混乱した笑」
    「そうなんだ。まぁ、無事に会えて良かった。ここから数分歩いたとこにカフェがあるから、話そか。」
    「はーい。」

    若干の遅刻や勘違いはあったものの、本人の雰囲気や愛嬌もあって、それを責める気持ちは全く湧いていなかった。

    「人に恵まれている」と森田さんはひとりごちていたが、十分な愛情をもって育ててくれた両親や、温かいまなざしを向けてくれる職場など、確かに人間関係はうまくいってそうだな、と、一人納得しながらカフェに向かった。


    四谷駅から少し歩いた場所に位置していたそのカフェは、立地の割に人が少なく、座席が空いていることが多いこともあり、当時よく利用していたカフェだった。

    少しレトロなBGMが店内に流れており、ひんやりとした空調がきいており、落ち着いて話すには申し分ない場所だった。

    四人がけの席に互い違いで座った私たちは、今日一日にあったことや、電話で話していたこと、お互いの仕事の話、これまでのアプリで会ってきた人たちの話。

    そんな典型的な話をしながらも、少しずつお互いの理解を深め、距離を近づけていた。

    森田さんは地方の進学校出身ということもあって、高校の友達はエリート揃いで、士業に就いている人も少なくないらしかった。

    高校の同級生、特に異性からは今でも連絡が来ることがしばしばで、都会生活を経て垢抜けた森田さんの姿に心惹かれた男性が多いようだった。

    また、勤務先もそういった方々が集まる企業であり、社内恋愛が禁止ではあるものの、社内で声をかけられることもあり、本気のアプローチとしてホテルで豪華なディナーをご馳走してもらうこともあったとか。

    その話自体には驚きもあったし、恵まれているのだなと感じたが、不思議なことに森田さんならそういう世界で暮らしていても違和感はないな、と思わせるほどには、彼女は魅力的な女性に思えた。

    出るとこは出ている女性らしいフォルムと、少しウェーブがかかったセミロングのヘアスタイル。愛嬌があるとともに美しさも感じさせる顔や表情。
    世の中の男性なら、チャンスがあればこういう女性を一回抱いてみたいと思うのは当然だろう。

    「顔で判断されたくない。」

    そんな森田さんは笑いながら言っていたが、顔の良い女性から出るその言葉はどこまでも残酷だな、と、森田さんに対して微笑みながら思った。
    また、森田さん自身の内面性を象徴するには十分な言葉で、安易な外見へのコメントは、そのまま森田さんの好感を下げることになると直観した。

    その日は1時間に満たない時間ではあったが、森田さんとカフェで小話をして、そのままお互い帰ることにした。

    意外に森田さんは人見知りな面があるとかで、会社のランチの時間は一人の時間を取りたいとか。

    きっと、初対面の私と数時間も一緒にいるのはそれなりのストレスがかかるだろうと考えて、早々に切り上げることにした。


    二回目のお出かけは夜の浅草だった。

    経緯は忘れてしまったが、夏の夜の中、浅草を散歩するのは乙だよね、とか、夜の隅田川を眺めながら話してみたい、となったからだ。

    当日は夕方の6時半頃、一足先に浅草に到着。
    待ち合わせ場所の目印として認識合わせしていたコンビニの前で、今日はどんな一日になるのだろうかと、薄暗くなってきた空を眺めながら夢想していた。

    「ごめん~、準備に時間かかっちゃって。」
    前回よりはナチュラルめなメイクと、相変わらず丁寧に巻いてあるセミロングの髪。ノースリーブの黒いニットとジーンズという格好の森田さんが声をかけてきた。

    「お、森田さん、お疲れ様。迷わなかった?」
    「ちょっと迷った笑」

    浅草の夜の道をゆっくり歩きながら、お互いの近況のこと、二人ともアプリを辞めたこと、お互いいいなと思っていること、中高生時代の思い出などを話した。

    この頃にはLINEを交換していて、特に話題があるわけでもなかったが長時間の通話をしていたし、毎日やりとりもしていた。

    森田さんの話しぶりや自分に対する態度から、私に対して好感を持ってくれていたことはなんとなく察することができたし、私は私で森田さんを魅力的と感じていたので、そう思った瞬間はしっかりと伝えるようにしていた。

    森田さんと合流してから数時間。
    気がつけば、二人で夜の隅田川を眺めていた。

    少し歩くのに疲れを感じて、私たちは隅田川沿いのベンチに場所を移していた。

    ゆっくりと隅田川をうつろう遊覧船を眺めながら、お互いの肩が触れる距離で、ただただその時間を楽しんでいた。

    自身の見た目が良いことを自覚しつつも、それを表立って武器として用いず、内向的で、自分のことをひねくれてると称する森田さん。

    浅草での数時間を共にして、そんな森田さんのことがどんどん好きになっていたし、この女の子のことをもっと知りたいと感じていた。後にも先にも、こんな出会いはないと思った。

    心から愛情を感じる目の前の女の子と、もっと距離を近づける選択肢を取るには十分過ぎるほどに、森田さんを魅力的だと感じた。
    私も、誰かに対してこんな風に好きだという気持ちを持つことが出来るんだと、そう思った。

    肩を並べて座る森田さんの手をゆっくりと握る。森田さんも私に応じるかのようにゆっくりと手を握り返す。

    「今日、楽しかったね。」
    「そうだね、久々に楽しく話せた感じがする。」
    「お互いひねてるところもあるからね。」
    「そうそう笑」

    生暖かい風を全身で感じながら、こんな瞬間が永遠に続けばいいのにと思った。

    終電が過ぎた私たちは、しっかりと手を繋ぎながら歩き出し、一夜を共にすることとした。


    私たちは付き合うことになった。

    浅草の夜、身体を重ね合った私たち。緊張しながら伝えた「付き合ってくれますか」という言葉。森田さんの了承の言葉。

    はたから見れば、ただの一組の男女の一夜の話。それでも、未来を前向きに生きていこうと思えた。
    そう思わせてくれるかけがえのない一日だった。

    独占欲は無い方だと自認しつつも、会社であった嫌なことや彼女の考え方、感じ方を私にだけ話してくれることが嬉しかったし、そんな話をする彼女を大切にしようと思っていた。

    泊まりの約束をしていないのに泊まることになっていたり、遅刻してきたり、わがままな面は多分にあったけど、そんな一つ一つの日常が思い出のように刻まれていく感覚に尊さを感じていたし、そんな彼女と一日一日を歩んでいけることが私に幸せをもたらしてくれた。

    私とは育った環境も、今いる環境も全く違う彼女が、こうして私と出会い、隣で一緒に人生を歩もうとしてくれる事実は、苦労もあったこれまでの人生が報われた気がした。

    自分の人生は、この彼女のためにあるんじゃないか。そんな発想にすら至ることがあるほど、私は彼女のことを愛していた。

    いつもなら、こういう感情にもどこかで点数をつけ、距離を測ろうとする。けれどこのときばかりは、それがうまく働かなかった。ただ、好きだった。

    きっかけは、付き合ってから半年後の、何気ない一本の電話だった。

    当時の私たちは、お互いの家に泊まったりすることはあったものの、お互い異なる部屋を借りていた。

    将来的には一緒に住みたいね、と言うと、彼女は私の勤務地から30分以内ねと冗談めいて返してくれたが、二人とも前向きに将来を考えていた。

    地方にいる彼女のご両親にも、彼女と付き合っていることは彼女越しに伝わっており、いずれ地方で会えるといいね—、そんな話をしていた。

    「例えば俺は、十分な愛情を注いで育ててくれた人たちと、そうでない人たちの間には明確に物事の認識の違いがあると思うんだよね。前者の人が何気なく使った言葉でも、後者の人を傷つけることがあるって。」

    軽率な一言だった。何気ない雑談の文脈で、持論を展開しただけだった。

    いつもの癖だった。人と人の間にある断層を見つけ、名前をつけ、距離を測る。
    これまで私が女子たちの空洞に対してやってきたことを、私は無意識に、最愛の彼女との間にも持ち込んでいた。

    でも、結果的にその一言が彼女を悩ませることになった。

    「確かに、私もそういうことがあるのかもしれない...。」


    彼女からのLINEがまばらになり、二週間が経過していた。

    体調は特に悪くはないらしい彼女からの連絡に間が空いた理由は、今考えると明確だが、当時の私はなんとなく不穏な雰囲気を感じるのみだった。

    「ねえ、元気にしてる?」
    「うん、元気だよ。そっちは。」
    「うん、大丈夫。今週の週末、家に行ってもいい?」
    「いいよ。ケーキでも食べようか。」

    文脈のない誘いだった。時折マイペースでわがままな彼女は、遅刻することや突発的に遊びに行こうと誘いにくることがあったが、その動機は単純に私との時間を楽しみたいという、ポジティブな判断だった。

    けれど、このメッセージから感じる淡々とした文章は、なにか彼女なりに考えて起こした行動のように思えた。


    当日の彼女は、大きな袋を持って現れた。待ち合わせは、いつもの改札口の前。

    時刻は夕方で、少しずつ日が暮れていくように感じていた。

    「お待たせ。」
    「うん、来てもらってありがとう。荷物多めだね、持とうか?」
    「ううん、大丈夫。」

    一緒にショッピングに行く際は、荷物を積極的に持つようにと言ってきた彼女が、持たせたがらない荷物。
    なんとなく、ここ最近の彼女の態度と、今、目の前で見た彼女の姿から、その中身が何であるか、分かった気がした。

    「あ...、そっか。とりあえずケーキ買っていく?そのままうち行く?」
    「ケーキ買おう!」

    今思うと、LINEでも、電話でも、一言言えば終わることを、こうして時間を作って私に会いに来て伝えようとしてくれていること。
    彼女の一方的な判断とは言え、それは彼女なりの私への誠実さだったのかもしれない。

    ケーキを選ぶ彼女の姿はいつも通り無邪気なように見えたが、家に着いてからはどこか落ち着かない様子だった。

    彼女が私に伝えるべきこと。伝えたいと思っていること。その内容を十分に理解した私は、一先ず夕食を作り、ケーキを食べながら話すのはどうか、と彼女に提案した。

    わかった、と言う返事と共に、彼女と一緒に、手狭なキッチンで料理を始める。

    別れの前の、恋人らしい一時の時間だった。彼女は彼女で楽しそうに私の料理を手伝ってくれた。

    これから数時間後に、厳しい言葉を私に向けてくる人の態度とは決して思えなかったが、それでも彼女の決心は揺るがないことを、私は理解していた。

    二人で夕食を摂り、ケーキを食べた後。

    「あのさ、すきまくんは家族とどういう感じだったの?」

    二人しかいない、静かな私の自室で、彼女はそう聞いてきた。

    そこから、少しずつ私の育った環境について、私は話した。

    いわゆる機能不全家族であること、主観的には居場所がない空間で学生時代を過ごしたこと、家族とは今もうまくコミュニケーション出来ないこと。
    それでも両親は両親なりに子育てに励んだことは理解していること。

    そして、両親と仲が良い環境で育った人が羨ましいこと。
    彼女が当たり前のように行っている、家族とのLINEや電話。そういった一つ一つが自分にはなかったこと。

    淡々と告げたつもりではあったが、これから彼女が告げてくる言葉を思うと、私は少し感情的になっていたし、感傷的にもなっていた。

    そんな姿を見た彼女は、たまらなく悲しい表情をしていた。

    「そんな環境、私だったら耐えられない。よく頑張ったなって、すごい思う。」

    涙を流しながらそう告げる彼女の姿につられるように、目が熱くなるのを感じた。

    気がつけば彼女は私のベッドでうずくまるように泣いていた。

    ただの私の境遇で、心から好きな彼女が泣いている事実。それは許容しがたいものであったし、なにより笑顔で居てほしい彼女が目の前で泣いていた。

    そんな状況に耐えかねた私は、目頭の熱さを感じながら、ゆっくりと彼女に近づき、ゆっくりとキスをした。
    キスをしながら、ゆっくりとお互いの身体を重ねた。

    この行為に意味はあったような、なかったような気がした。


    翌朝、目が覚めた私たちは、改めて向き合っていた。

    「で、今日は別れにきたんでしょ?」
    「えっ...」

    私が彼女が告げる言葉を察していたことに対して、彼女は少し驚いていたようだった。
    彼女は淡々と、思っていたことと別れたい旨を私に告げた。

    将来的に相手方の家族とも仲良くしたいこと、私が自身の家族とそう出来ていない状況でのポジティブな未来は描けないこと、時たまある私の落ち込み*が不安なこと。

    *アダルトチルドレンの気分変調のようなイメージ。当時の私は明るく人と接することは努めていたが、それでも時折厭世的な気分になることがあった

    別に、機能不全家族で育つことを望んだわけでもない。その主観的事実を忌避しているわけでもない。

    そうして生きてきた素養を軸に、自分なりに向き合い、前に進み、やっと出会えた彼女との関係性。

    それなのに、自身では手の届かない、変えられない事実を理由に別れを告げられている事実。

    喉の奥が締まって、声がうまく出せなかった。膝の上に置いた手のひらに、知らないうちに爪が食い込んでいた。

    どうしようもなく悲しかった。一体どうすれば良かったのかと、ただただ自分自身に対する強い怒りが生じているのが、自分でも理解できた。

    「昨日、今日の様子見てれば分かるよ。その荷物も、きっと家に置いておいてもらった俺の着替えなんでしょ。」

    うん...、と言いながら、彼女は袋の中から、当時彼女の家に置かせてもらっていた下着類や、パジャマを出し、私に返す。

    受け取りたくなかった。彼女との関係性が、少しずつ終わっていくのを感じていた。

    それでも、私は彼女が幸せになることを願っていた。たまたま、彼女の描く将来に、私という人間が存在しなかっただけ。

    ただそれだけの事実。胸にこみ上げてくる気持ちを必死で抑えて、できるだけ優しい表情で、受け取ることにした。

    「その様子だと、お母さんともしっかり話したんだよね?」
    「うん、一週間前くらいに...。」

    別れの時間は近づいていた。

    私たちって、魂の片割れだよね、と冗談めいて笑い合っていた関係性が、ただただ壊れていくのを感じた。

    二人とも涙を流しながら、最後の別れの挨拶として、ゆっくりハグをした。

    「じゃあね。元気でやってね。」
    「うん...。」

    玄関先まで森田さんを見送って、エレベーターに乗る森田さんの姿を、ぼんやりと眺めていた。

    今、ここで、行かないで、と言うべきなんだろうかと、少しだけ思った。それでも行かなかったのは、きっと森田さんが苦しんででも出した別れという結論を尊重したかったからだろう。

    打ちひしがれた思いを感じながら、自室のドアを開ける。

    現実は無慈悲だった。森田さんが立ち去った自室は、何もない、ただの空間だった。
    肩を並べて一緒に歩いた日々、美味しいものが好きな彼女のためにお店をリサーチした日々、長時間電話して寝落ちした日々。

    そういった、私にとってかけがえのない日々が、今はもう、全て喪われたことがよく分かった。

    これまで私は、人の感情の輪郭を遠くから眺め、名前をつけて理解した気になってきた。

    けれど今、自分の中で起きていることには、うまく名前がつけられなかった。

    ただただ悲しかった。涙が止まらなかった。


    二ヶ月後と少し。

    森田さんと別れてから、いろいろ立て直す時間が必要だった。

    森田さんの方が、どうだったか知るよしはなかったが、この二ヶ月は喪失感が押し寄せる日々が続き、変えられない過去に対する怒り、自分自身の無能をひどく責めていた。

    そんな気持ちが少し落ち着いたある日、意を決して森田さんに連絡することにした。

    「元気でやってる?」
    元カレからのメッセージほど痛いものはないと自覚していたけれど、森田さんが元気で新しい生活を始めていること、ただそれだけを確かめたかった。

    「うん。やってるよ。あれからちょっと落ちてたんだけど、連絡くれてちょっと心が楽になった。」

    森田さんは森田さんで、私との別れに相当のエネルギーを要していたようだった。

    しばらくメッセージを交わし、お互いの状況について少し話したいということになり、その日の夕方に電話することに。

    久々に聞く森田さんの声は、やはり心地が良かった。

    付き合っていた頃と同じように会話が進むことは、まだその関係性が続いているんじゃないか。そんな風に錯覚した。

    あの日の別れから、私は私で思い悩んでいたが、森田さんは森田さんで色々あったらしい。

    別れの直後の電車では、偶然にも当時私がよく聞いていた音楽が流れ、涙が止まらなかったこと。しばらく仕事が手につかなかったこと。
    それでも今は少しずつ落ち着いてきていて、前向きに生活を送っていけている、そんな風に少し明るい口調で、笑いながら森田さんは教えてくれた。

    「すきまくんは?新しい人とか見つけてる?」
    「うん、なんかやっぱり人に恵まれているみたいで、良いなって思う人に会えてるよ。」
    「そっか~、私も頑張らないと。」

    森田さんを、励ますための嘘だった。そんな人はいない。私にとっての一番はあなたなのに、そう言いたかったけど、言えるわけがなかった。

    どこまでも森田さんの幸せを願う私にとって最善なのは、森田さんの邪魔にならないことだった。

    小一時間ほど、お互いの近況を共有し、健康にやっていこうね、と言って、その電話は終わった。


    数年後、森田さんは結婚した。なんでも無いある日に、LINEが来て、知った。

    これまで私は、女子たちの空洞を観察し、共感するふりをして、頃合いを見て立ち去ってきた。踏み込まれる前に、踏み込まない場所に立っていた。

    森田さんは、私を本気で踏み込ませた最初の人で、そして私を立ち去らせた最初の人だった。
    立ち去る痛みを、私はようやく、立ち去られる側から知った。

    あの日で読んでいた本のことを、ときどき思い出す。噛み合わない会話と、ある過去について。私たちは何も知らないうちは楽しく話せて、過去を知ったとたんにかけ違えた。あのタイトルは、はじめから私たちのことを言っていたのかもしれない。

    けれど、そんな風に整理してみても、森田さんを思うとうまく言葉にならない何かが残る。たぶん、これは観察し終えることのできない、最初で最後の話なのだと思う。

    けれど、そんな風に整理してみても、森田さんを思うとうまく言葉にならない何かが残る。たぶん、これは観察し終えることのできない、最初で最後の話なのだと思う。

    今日、この世界のどこかで森田さんは笑って過ごしているだろうか。

    ではまた。


     
     
    外に出せない人間関係、恋愛、性についての記事を発信。含フィクション。

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