気休めの薬
盲腸になった。入院をした。
病室のベッドで天井をぼんやりと眺めながら、
なぜだろう。なんで今なんだろう。
と繰り返し繰り返し頭の中で自問した。
答えは出るはずもなかった。
お見舞いに来てくれた友人は
「休めっていうサインだよ」
とか
「自分の心に素直に向き合ってね」とか言う。
わかっている。彼女たちはそれを"優しさ"として言っていて、それが"正論"だということも。
その当時の私は、自分の心を置き去りにして突っ走っていた。
その頑張り方に疲れていた。
だからこそ、彼女たちが放った"正論"は、
私が頭の中で自問していた答えとして立派なものだったはずなのに、心はなぜかピリっと痛かった。
また別の日に、兄がお見舞いに来た。
普段から気の利いたことを言えるタイプではない兄が病室の椅子に腰掛け、いつもの他愛ないトーンで言った。
「理由とかないから。中学の時タカシもなってたし。」
何か相談したわけでもなく、突然に、しかしいつもと変わらない兄からの一言になんだか心がふっと軽くなった。
頭の中では、病気になった理由に値する正論や本質的な答えを探していたはずだったのに、
正論に値する答えが出ても心が軽くならなかったのは、
その正論が、病気になるまで頑張った自分の頑張り方が違うと責められているように感じたからかもしれない。
正論はその名の通り、いつだって正しい。
しかしその正論が時として自分を量る刃になることがある。
気休めは一時的なもので本質的ではないかもしれない。
しかし時として自分を軽くしてくれる。
正しさと優しさは時として共存しないことがある。
少なくともその時の私には、
"心のこもった正しさ"よりも、"無骨な気休め"が薬だった。
それこそが私が求めていた答えだった。