
【最終話】万助さんのいる町⑩ 始まり
万助さんは、そのユーモアでよく私を笑わせた。
ある時、万助さんは言った。
「東京にいる頃は、こんなに誰かを笑わせる人間ではなかったですよ」
万助さんといる私は、東京にいた時の私とは少しちがう顔をしているのだろう。
鏡で見たわけではない。けれど、わかる。
東京にいたころも、私は笑っていた。
楽しいこともあったし、華やかな場所へ行くこともあった。
でも、あの頃の笑顔は、どこかで自分を守っていた気がする。
今の笑顔は、もう少し静かだ。
何かを得ようとして笑うのではなく、ただ、そうなってしまうような笑い方だ。
私は、その顔を気に入っている。
恋愛ではない、と思っていた。
そう思っていれば、それで済むはずだった。
けれど、山道でふと振り返った万助さんの横顔を見ると、私は時々、自分の胸のうちを見失った。
私が惹かれた男の人たちは東京色に洗練されていた。
万助さんには、そういうものがなかった。
竹のような柔らかく甘い香りのする、陽によく焼けた男性だ。
同じ東京の生まれなのに、もう東京の時間では生きていない。この土地の風や土や水の中に、いつのまにか静かに馴染んでいた。
私は、そういうところに惹かれていた。
華やかではないのに、見ていると心がほどける。
何かを言い立てなくてもよく、何かを証明しなくてもよい。
その人のそばにいると、私まで、余計な力を抜いていられた。
それが恋なのかどうか、私はまだ知らない。
今の生活が好きだ。
竹の香りも、豚汁の湯気も、山の風も、木漏れ日のあたたかさも好きだ。
そして、そう思う時、その中にはもう万助さんがいた。
万助さんは今日も竹を編んでいる。
私は私で、画面に向かって仕事をする。
休みが合えば、一緒に昼ごはんを食べる。時々、山を歩く。
日々は目立たないまま、静かに満ちている。
そういう日々の中にいられることを、私はありがたく思う。
そして、その静けさの中で、この万助さんがいる町で、何かがほんの少し、始まりかけているような気もしている。
-終わり-