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あなたが呼ばなかった名前

    名前を呼ばれることは、最後まで少なかった。

    代わりに繰り返されていたのは、
    「いなくならないで」という言葉だった。
    それが愛だと、あの人は信じていたらしい。

    部屋はいつも静かだった。
    隣に人がいるのに、音はほとんどなかった。
    時折、キーボードを叩く乾いた音だけが、
    ここに二人いることを思い出させた。

    会話がなくても成立する関係を、
    穏やかだと呼ぶこともできたはずなのに、
    あの沈黙には、どこか逃げ場のない硬さがあった。

    必要とされている、と思ったことがある。
    けれどそれは、私である必要のない“何か”としての役割だった。
    形があればよくて、中身は問われていなかった。
    人は、愛している相手の名前を忘れない。
    呼ばなくてもいい関係は、たぶん最初から壊れている。

    あの人は優しかった。
    少なくとも、自分を守ることに関しては丁寧だった。

    崩れないように、欠けないように、
    そのための手段として、私はそこに置かれていた。

    満たされているように見える夜ほど、
    何かが静かに減っていった。
    与えられていたのではなく、
    削られていたのだと思う。

      愛されている実感よりも、
    消耗している実感のほうが先に来る関係は、もう終わっている。

    気づいたときには、
    何を失ったのかもはっきりしなかった。
    ただ、もう戻らないものがあることだけが、
    確かな重さで残っていた。

    「いなくならないで」と言われたとき、
    それが誰に向けられた言葉なのか、少しだけ考えた。
    私なのか、それとも、私が担っていた役割なのか。

    答えは、たぶん後者だった。
    だから、いなくなった。
    あの人は泣いていたけれど、
    失われたのは私ではなく、
    均衡を保つための一部だったのだと思う。

    愛は、ときどき似た形をしている。
    けれど、縛ることでしか保てないものは、
    最初から愛ではなかった。

    そう気づいたとき、
    ようやく自分の輪郭が戻ってきた気がした。

    #創作大賞2026 #エッセイ部門

     
     

    無音

     
     
    本が好き。書くことが好き。読むことが好き。ただそれだけ。 ただの自己満 私の言葉が1人でも刺さってくれたら嬉しい

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