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Photo byfuten_seisuke

思想と分断|イデオロギーの幻想を超えて

    前回の記事(https://note.com/sudoshun/n/n2dce2b3a247b?sub_rt=share_pw)では、参政党の伸長という現象を、
    「思想」と「非・思想」という視点から読み解いた。

    強い思想を打ち出す政党が支持を集めている一方で、
    リベラルや保守、右・左といった枠組みや、体系化され、理論化された「正しいあり方」から距離を置く層が、増えているのではないか。
    そして、私は、この「思想」への違和感、さらには、「思想から離れたい」という願望は、本質的なものであると思う。

    というわけで、今日は、そもそも「思想」とは何か?という視点から開始し、思想が私たちに、何をもたらしているのかを考えていきたい。

    1|思想とイデオロギー

    ここで少し用語を整理しておきたい。
    今回の文脈で扱う「思想」は、もう少し正確に言えば、「イデオロギー」と呼ぶべきものだ。イデオロギーとは、思想が体系化され、規範や価値判断として人間の判断基準を作り出す“心のOS”のようなもの。
    噛み砕いて言えば──
    ・〜が正しく、〜が間違っている
    ・〜は価値があり、〜は無価値である
    ・〜は美しく、〜は醜い
    …といった尺度を生み出す「信じるべき世界観のパッケージ」だ。

    典型的な、イデオロギーとは、○○主義と呼ばれるものだ。

    民主主義、民族主義、愛国主義、共同体主義、原理主義・・・
    快楽主義、菜食主義、平和主義、相対主義、多文化共生主義・・・

    こうして並べると、どこか遠くの話のように感じるかもしれない。
    しかし、実は、イデオロギーは、私たちの日常に存在している。
    それは、私たちのあらゆる日常シーンにおいて、不可視の構造として機能しているのだ。

    2|分断装置としてのイデオロギー

    さて、まずはイデオロギーについて、より詳細に見ていこう。
    イデオロギーは、大きく3つの機能を持つ。
    ・同じイデオロギーを持つグループを仲間として結集させる
    ・その内部で、で「信仰心の強さ」によるヒエラルキー(階層)を生成する
    ・異なるイデオロギーを持つ存在・グループを、敵対・排除・分断する

    つまりは、こういうことだ。
    たとえば、菜食主義というイデオロギーを信奉する人がいるとする。
    当人にとっては、「動物を殺さない」「自然に優しい食生活」こそが“善”だ。
    同じ菜食主義である仲間とは価値観が共有でき、深く共感し合える。
    しかしその中でも、「たまにチーズは食べる」という人は“ゆるい”と見なされ、「完全に植物性食品しか摂らない」人が“より純粋で正しい存在”として上位に位置づけられる。さらに、肉を食べる人々は、倫理的に“誤っている”とされ、敵視の対象となっていく。

    このように、イデオロギーに属する人々は、
    ・イデオロギー内で“上位の正統性”を得たいという欲求
    ・イデオロギー外から“排他される恐れ”に対する回避
    という、2つの心理圧力に促されながら行動を選択していく。

    その結果、ほとんどすべてのイデオロギーにおいて、
    ・イデオロギー内部での争い(誰がより“正統”か)と、
    ・異なるイデオロギー間の対立(冷戦、宗教戦争、リベラルvs保守の論争など)が、繰り返し発生する構造が生まれることになる。

    3|心の中にインストールされた“思考のOS”

    さて、ここからはもう少し、イデオロギーという装置の特性に踏み込んでみたい。

    もともとイデオロギーは、外側にある「考え方の枠組み」に過ぎない。
    だが、それを一度吸収すると、個人の内的プログラムの一部として作動するようになる。

    それは、単なる参照用の“教科書”ではない。
    それは、もっと深く──意識のOS(オペレーティングシステム)として、判断や行動の根っこを支配するようになる。

    すなわち、私たちは、自分で考え、感じ、選んでいるつもりでいるが、
    しかし実際には、内面化されたイデオロギーという“思考エンジン”が、
    外部からの情報を自動で分類し、意味づけし、反応しているに過ぎない。
    それは、“自分の声”ではなく、あらかじめインストールされた「他人の声」なのだ。

    これは、何も過激な政党支持者や宗教原理主義者に限った話ではない。
    すべての人間に共通する“マインドの基本構造”の話である。

    私たちは、生まれたときから──「これは善いこと」「これは悪いこと」
    という価値観を、親から、学校から、社会から、絶えずインストールされ続けている。そして、気づけばもう、物心ついた頃には、すでに立派な“信徒”になっているのだ。

    もちろん私たちは、特定の○○主義者を名乗ってはいないし、宗教の信者でもないかもしれない。けれども、文化的な価値の“座標軸”を、自分の中にしっかりと内在させている。

    そして、残念ながら、ほとんどの場合、私たちはそのことに気づいていない。イデオロギーによって駆動されている思考や判断を、「自分の考え」や「自分の感性」だと誤認している。

    つまり、「自分らしさ」とは、(全てがとは言わないが)その多くの部分が、イデオロギーによって編み込まれたプログラムの別名に過ぎないのだ。

    4|なぜイデオロギーは語られるべきなのか

    では、イデオロギーを生きること、イデオロギーに無自覚に生きることは、悪いことなのか?
    答えは、NOだ。
    というより正確に言えば、人間はそもそも、イデオロギーから逃れられない。それどころか、人間が“共に生きる”ためには、イデオロギー(真善美の共通基準)は必要不可欠な仕組みでもある。

    では、なぜそれについて、あえて語らなければならないのか?
    それは、あらゆるイデオロギー ─すなわち「善悪・美醜・真偽の基準」は、本質的に“人間が作ったもの”に過ぎないからだ。

    人間は神ではない。ゆえに、我々が決める「善」や「正しさ」は、
    恣意的なものであり、時限的なものであり、そして何より、ファンタジーなのだ。

    自然の世界には、善悪は存在しない。ひまわりは、カエルは、カゲロウは、紫陽花は、黒曜石は、積乱雲は、善悪を持たず、ただそこに在る。
    つまり、善悪には「実体」がない。善悪は、人間の「言葉の世界」にだけ存在する。それは、言語が作り出した物語=言語ゲームの産物でしかない。

    しかし、ここからが重要なのだが、このファンタジーが、イデオロギーとして個人の内面にインストールされたとき、それは一気に“現実の重み”を持ち始めるのだ。

    5|実体化される“悪”と終わらない戦い

    信じるイデオロギーに反する出来事や人物、考え方との出会いに対し、
    私たちは実際に──怒り、悲しみ、嫉妬、侮蔑、憎悪……感情という実体のある身体反応を通じて、「悪」をリアルに体験してしまうことになる。

    このようにして、“悪”は実体化する。

    そして、多くの人が人生の大半を費やしているのが、
    この“実体化された悪”を倒すこと──つまり、「自分は正義の側に立ち続けるための戦い」に他ならない。

    政党と政党が争い、宗教と宗教が争い、民族と民族が、国家と国家が、争う。親子で、夫婦で、同僚で、隣人同士で、争う。
    人間の争いのほとんどは、イデオロギーが作り出した、“正義と悪のごっこ遊び”にすぎない。

    「黒は悪だ」と決める。黒に出会う。黒を“悪”として体験する。
    この“敵を作り、敵と戦う”というマッチポンプこそが、イデオロギーのもたらす第一の災厄である。

    6|内なる敵──シャドーと抑圧の力学

    そして、もう一つの災厄は、人間の心の深部で起こる。
    イデオロギーは善悪の基準を与え、外部に“敵”を作る。
    だが同時に、それは自分の内部にも敵を作ることに他ならない。

    例えば、あるイデオロギーにおいて「謙虚の美徳」が善であるとされている場合、放蕩や贅沢、浪費は明確に悪であり、そのような人は「悪」とみなされる。しかしそれは同時に、自分の中にある放蕩者的な資質をも「悪」としてしまう。その恥ずべき、抑えるべき資質は「シャドー」として心の奥に押し込められる。

    イデオロギーは、必ず人間の中に、
    • 善い資質=ペルソナ
    • 悪い資質=シャドー
    を作り出し、人格の分裂と抑圧を生む。

    実は、人間の感じるほとんどの「ストレス」の正体は、この内なるせめぎ合いにある。多くの人は勘違いしているが、ストレスは外部環境から来るのではない。自分の中の、相反する二つの声がぶつかり合うことで生まれる。

    典型的には、こうした構造を取る:
    「〜したい」vs「〜してはいけない(〜すると問題が起きる)」
    人間の悩みとは、この二つの声に引き裂かれ、何かを選択できない状態に他ならない。

    7|“自分”からの自由

    こうしてイデオロギーは、
    1. 自分の外部に敵を作り、終わりなき戦いを引き起こし、
    2. 自分の内部に敵(シャドー)を作り、終わりなき抑圧を生み出す。

    もうお気づきのように、人間の苦しみ、生きる上での問題のほとんどは、
    この二つのどちらかに分類される。

    であるならば、生きる苦しみも、悩みも、対人関係の争いも、
    イデオロギーから自由になることなしには解放されない。

    そしてそれは、「自分」からの自由を意味する。

    自分からの自由とは何か。
    それは、自分の信じる「真・善・美」からの自由である。
    自分が信じる、「善い・悪い」「美しい・醜い」「正しい・間違っている」
    という尺度から解放されること。つまり、自分の信念や正義から、自分自身を解放することだ。

    では、どうやって?
    …というのは、次回に譲り、今日はここまで!

     
     
     
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