参政党を躍進させ、れいわ新選組を伸び悩ませたもの
最初にお断りしておきますが、これはあくまで個人的な「見立て」であり、それ以上でも以下でもありません。一介の素人による“感想文”として、気軽に読んでいただければと思います。
さて、参政党の大躍進で幕を閉じた参議院選挙ですが、その躍進の理由について、案外語られていないように感じます。
参政党は、「日本人ファースト」というキャッチフレーズから、しばしば極右的と見なされるように、「強い保守思想を持つ政党」として理解されがちです。
そして、保守勢力が全体的に勢いを増した中で、参政党はその中でも特にわかりやすく保守思想を打ち出し、それが多くの大衆に受け入れられた
―そんな文脈で語られていますが、実はそれは本質をとらえていないように思います。
むしろ、彼らの特徴はその「思想性」のなさにあります。
そして、この“思想性のなさ”こそが、彼らの躍進を導いた最大のドライバーだったのではないかと考えます。
そもそも、「思想性」とは何でしょうか。
それはイデオロギーとも言い換えられますが、端的に言えば、
「真・善・美の規範や基準、何が正しく、何が誤りか。何を理想とし、何を堕落と見るか」という価値判断の方向性です。
「いやいや、参政党は明確な理想の日本像を提示し、それが共感を呼んだじゃないか」と感じる方もいるかもしれません。けれど、実はそれは「思想性」ではないのです。
この点を考える上で、同じく注目された新興政党でありながら票を伸ばしきれなかった、れいわ新選組との対比が参考になるでしょう。
れいわ新選組は、生活困窮者や社会的弱者への支援というテーマにおいて、非常に高い倫理性と理想を掲げる政治グループです。
その支援を実現するために、既存政党との対立も辞さず、政治的手段で道を切り開いてきました。その過程で、彼らは、思想的一貫性・統一性・理論的整合性を徹底的に追求してきました。
つまり、彼らの主張は、理論に裏打ちされた明確な「思想」に支えられているわけです。
しかし、ここにひとつの問題が生じます。思想というのは、経済・社会・政治といった複数の理論が、矛盾なく織り上げられたタペストリーのような構造をしています。そのため、思想に共鳴しようとすればするほど、理論の理解や理想への共感が必要となります。
つまり、れいわに共鳴するには、
その理論を理解すること
その理想(博愛・倫理性)を、日常で実践する姿勢を持つこと
が求められることになり、結果、共鳴のハードルが非常に高くなってしまったのです。結果として、れいわに共感できるのは、
概念的思考が得意で、
高い倫理観と社会意識を持った層
に限定されることになってしまいます。すると、「自分や家族の生活を良くしたい」と思う、いわゆる“半径3メートルの幸せ”を願う層にとっては、距離を感じる存在になってしまった可能性が高いわけです。
一方、参政党はどうでしょうか。
参政党の主張には、れいわのように精緻で統合された「思想」が見られません。もしかすると神谷代表の中にはあるのかもしれませんが、候補者一人ひとりには明確な思想性※はありません。
むしろ、その多くは「一般大衆(populus)」の代表であり、政治的言葉を使い慣れない人々―すなわち「思想を持たない人々※」でした。
(※ここで言う「思想がない」とは、個人的な理想がないという意味ではなく、イデオロギーとして練り上げられた統合的な理論を有していない、という意味です)
だからこそ、参政党に共鳴するために、難解なイデオロギーの理解は必要ありません。また、「理想的な誰か」や「正しさ」を演じる必要もなく、自分の感覚世界をそのまま投影できたのです。
誰もが、自分の感覚で心理的に「参加」できる。
それが、党名にもあるように、参政党のコンセプトであり、最大の強みであり、躍進の理由だったわけです。
さて、その結果、参政党は、政治にこれまで関心を持ってこなかった層、すなわちイデオロギーや思想的なものに反応しない層を取り込むことに成功、ブルーオーシャンを切り拓き、ムーブメントが生まれたのです。これは明確に、意図されて設計されているものでしょう。
(逆に、思想に共鳴する層をターゲットにしたれいわや維新などは、レッドオーシャンの中でのシェア争いに巻き込まれてしまいました)
総括すれば、今回の選挙は「思想」vs「非・思想」の戦いだったといえるように思います。思想性の高い政党は、軒並み支持を伸ばせませんでした。
立憲民主、共産、社民、れいわ、そして日本保守党も同様です。
一方で、思想性をもたず、経済合理性や日常感覚を軸に行動した国民民主やチーム未来は、一定の支持を得ることになりました。
では、自民党はどうだったのか?
自民党もまた、実のところ思想性を持たない政党です。
けれど、彼らは政治のプロフェッショナルです。
そのため、徹底的に「政治」という形式化された言語に染まりきってしまっています。
政治家としての言動、言葉遣いがあまりに洗練されすぎて、
結果的に「大衆の日常世界」とは隔絶した存在になってしまったのだろうと思います。
さて、この状況を「ポピュリズムだ」「文明の退化だ」と批判する声もあります。実際、マスコミはそう語りがちです。しかしそれは、マイケル・サンデルが指摘したように「エリート層による高慢な差別意識」からの発言であることを、忘れてはならないと思います。
では、ポピュリズムによって人々は、短絡的で排他的になり、狭量なナショナリズムへと傾いていくのか?
私は、そうは思いません。
ここから先は、ただの「願い」でしかありませんが…
若い世代と対話していて感じるのは、
彼らが、非常に高い利他性をもって生まれてきた世代だということです。
イデオロギーや思想的統制がなくとも、
彼らは「異なる他者」と共にあることを、自然と選び取っていくように思えます。
それは、人類史上、おそらく極めて稀有な体験です。
宗教的でも、思想的でもない自由な空間で、人は自ら感じ、考え、判断し、行動していく。
つまり、イデオロギーに依存せず、自らの生を自らの責任で生きるということ。常に“自分のあり方”を問いながら、他者との出会いを通じて、
自分自身を更新し続ける―
そんな未来が、始まっているのかもしれませんね。
長くなりましたが、この辺りで筆を置くことにします。
<追記>
非・思想についてを、考えてみました。
そもそも「思想」とは何か?という視点から開始し、思想が私たちに、何をもたらしているのかを考えます。
https://note.com/sudoshun/n/ndd02d679a375?sub_rt=share_pb
