
おじいちゃんの野球帽
こんにちは、すあまです。
親や祖父母にも、当たり前ですが「自分が生まれる前の時間」があります。 昔のモノを通して、そんな家族の知らない歴史にふと触れた瞬間の、少し不思議で温かい空気を描いてみました。
【おじいちゃんの野球帽】
おじいちゃんが入院したのは、九月のことだった。
大したことじゃないと言っていたけど、二週間も病院にいた。骨折だ。庭で転んで、足の骨を折った。八十二歳の骨折は、思ったよりちゃんと大変らしかった。
僕、木下れん、中学二年生。おじいちゃんと同じ家に住んでいる。父方の祖父で、もう十年以上一緒に暮らしている。
入院している間、おじいちゃんの部屋が妙に静かだった。
毎朝六時に起きて、庭で体操して、朝ごはんを三杯食べるのがおじいちゃんのルーティンだ。その音がない。ラジオの音がない。廊下をスリッパで歩く音がない。
気にしていないつもりだったけど、気になっていた。
お見舞いに行ったのは、入院して五日目のことだった。
病院の廊下は消毒の匂いがして、白くて、静かだった。おじいちゃんの病室に入ったら、ベッドの上で退屈そうにテレビを見ていた。僕の顔を見るなり「れんか、大きくなったな」と言った。
「毎日会ってるじゃん」
「そうか。でも、病院で見ると大きく見える」
なんでだよ、と思った。でも、笑えた。
「痛い?」
「痛いよ。でも、もう慣れた」
おじいちゃんは窓の外を見ながら言った。
「早く帰りたいな。庭の手入れが気になる」
帰り際、おじいちゃんが
「部屋のタンスの上に野球帽があるだろ」
と言った。
「あのボロいやつ?」
「ボロくない。大事なやつだ。持ってきてくれないか。ここが暑くて」
翌日、タンスの上を見たら、確かに古い野球帽があった。どこかのチームのロゴが入っているけど、色が褪せて読めない。つばが少し曲がっていて、内側に汗の染みがある。どう見ても古かった。
でも、大事なやつ、と言っていた。
持っていったら、おじいちゃんはすごく嬉しそうな顔をした。さっそくかぶって、
「これだ」
と言った。
「何のチームの帽子なの」
「昔、草野球をやっていたんだ。チームを作って、週末に集まって。お前のお父さんがまだ小学生のころの話だ」
「お父さんが?」
「よく見に来ていた。ベンチで麦茶を配る係をやっていたよ」
お父さんが麦茶を配っている。その光景が、なんか面白かった。
退院した日、おじいちゃんはその野球帽をかぶって家に帰ってきた。
お父さんがそれを見て、
「あ、その帽子」
と言った。
「覚えているか」
とおじいちゃんが言った。
「覚えてる。俺、あの麦茶係が好きだったんだよな。試合よりも」
「そうだったな」
二人でしばらく笑っていた。
僕には見えていない時間の話だ。でも、なんか、いいな、と思った。
それから、おじいちゃんはリハビリをしながら少しずつ元気を取り戻した。
ある朝、庭で体操をするおじいちゃんの頭に、野球帽があった。
庭仕事をするときも、近所を散歩するときも、あの帽子をかぶっていた。
僕はそれを見るたびに、お父さんが麦茶を配っていた話を思い出す。
知らなかった時間が、あの帽子の中に入っているみたいだ。
【了】
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
自分が子供だった頃、親がどんな風に笑っていたか。自分が生まれる前、おじいちゃんがどんな風に日々を楽しんでいたか。 中学生のれんくんの目線を通して描きましたが、実はこれ、大人になった今だからこそ深く刺さるテーマなんじゃないかなと思っています。
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