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見えない鎖——春花の話――

    一枚の指導履歴のメモ。

    私は今も捨てられずにいます。

    春花(仮名)は、中1に上がる直前に入ってきました。

    そのメモは、初日のものです。

    太郎君のひもの長さは、花子さんのひもの長さの6倍で、42cmです。花子さんのひもの長さは何cmですか。

    春花は、こう書きました。

    式 6×42=252  答え 252cm

    次の問題。

    1まいの画用紙から9まいのメモ用紙を作ることができます。35まいのメモ用紙を作るのに画用紙は何まいあればつくれますか。

    式 9×35=315  答え 315枚

    最後は小学校1年生の教科書に載っていた問題。

    これから中1に上がる子ですが、念のため、出してみました。

    16人、1れつに並んでいます。たろう君の前に7人います。太郎君の後ろには何人いますか。

    式 16−7=9  答え 9人

    ……なるほど。

    三問とも、計算そのものはひとつも間違っていません。

    6×42は確かに252だし、16−7は確かに9です。

    筆算は、むしろきれいなくらいでした。

    計算はできる。答えは全滅。

    春花は、この状態で、うちに来ました。

    小4からの塾通い

    春花は小学4年生に上がるタイミングから、ずっと近くの大手塾に通っていたそうです。

    丸3年。

    まじめな子で、宿題を忘れたことは一度もない。言われたことを言われた通りに守る。だから、手順の決まっている計算だけは正確にできました。

    でも、文章題になると手が止まる。

    式が立てられない。

    春花は、学校で「あの子は頭が悪い」と言われていたそうです。

    計算ドリルはできるのにテストは取れない。当てられると黙り込む。聞こえるように笑われることもあった。

    休み時間は一人。帰り道も、いつも一人だったそうです。

    一番まずかったのは、春花自身が、「あの子は頭が悪い」というレッテルを信じていたことです。

    入塾面談のとき、お母さんは「うちの子、本当にできなくて、すみません」と、話の区切りごとに頭を下げました。春花はその隣で、ずっと自分の膝を見ていました。

    私は春花に聞きました。

    「算数、嫌い?」

    春花は、ちらりとお母さんの顔を見ました。不安そうな目。自分のことなのに、答えていいかどうかを、隣に確認するんです。それから、小さな声で言いました。

    「……すみません」

    嫌い? と聞いたんですが。質問しただけで、謝るんです。

    その日に出題した確認問題が、冒頭の答案です。

    途中、春花は一度だけ、小さく手を挙げました。

    「あの……これ、かけるんですか? わるんですか?」

    ひもの問題でした。

    「どっちだと思う?」

    「…………すみません」

    また謝る。かける根拠も、わる根拠もない。

    ただ、どちらかの計算をすれば答えが出るはずだ、とだけ思っている。

    数字は見えているのに、たろう君と花子さんがどういう状況にあるのかは見えていない。

    この一問で、春花の算数に何が起きてきたのか、だいたいわかりました。

    解き終えたプリントを出すとき、春花は小さな声で言いました。

    「ぜんぶ、やりました」

    できた、と思っている声でした。

    ふと、春花と目が合いました。春花はすぐにまた下を向いて、ぽつりと言いました。

    「先生。私、たぶん、ここでも無理だと思います」

    「どうして?」

    「頭、悪いので」

    嘘を言う子ではありませんでした。本気で、そう思っていたんです。

    「アメリカ人の子どもってさ、4歳くらいの子でも日常会話ぐらいなら英語がペラペラにしゃべれるよ」

    「……?」

    「でも俺は全然しゃべれない」

    春花は不思議そうな表情で、顔を上げました。

    「それって、アメリカ人の4歳児、みんな俺より頭が良いから、なのかな?」

    「……いや、アメリカ人はアメリカに住んでるから……」

    「そう。彼らが英語をしゃべれるのは、生まれたときから英語に囲まれているからね。そりゃしゃべれて当然だ。つまり、必ずしゃべれるようになる環境が、彼らを『英語がしゃべれる状態』にしたわけだ。そこに生まれつきの能力なんて関係ない」

    「……」

    「うちの塾に半年通って、定期テストの数学で80点取れるようにならなかった生徒は開業以来一人もいないよ。全員だ。っていうか、80点台って一番伸びなかった生徒の話で、90点取れなかった生徒なんてほぼいない。ほとんどが90点~100点を取るようになってる。なんでだと思う?」

    「先生の教え方がうまいから、ですか?」

    「それはもちろんある。けど、それだけじゃない。教え方がうまい人なんて実はいくらでもいる。でも、他の塾だと数学を習っているのに全然上がらない人はいっぱいいる。教え方がうまい塾講師から習っても、だ。つまり教え方がうまいかどうかは一番大事な要素ではない」

    「……そうなんですか?」

    「そう。学歴が高い人から教えてもらえば点数が上がるかと言えば、それも違う。例えば、学校の先生でわかりにくかったものを、友達から教えてもらったらわかったことって今までなかった?」

    「あります」

    「だろ? じゃあ、その友達の学歴はどうだろう。同級生なんだから、小学生のはずだ。小学生の友達から教えてもらった方が、高学歴の先生よりわかりやすかったりすることがある」

    「たしかに」

    「だから、教え方のうまさや学歴より大事なことが他にあるわけだ。この塾でみんな数学ができるようになるのは、アメリカ人がみんな英語をしゃべれるのと一緒なんだよ。英会話も、数学も、全部一緒。その環境、つまりできるようになるシステムがここにはある。頭の良し悪しなんて関係ない。必ずできるようになる」

    「必ずですか?」

    「必ずだ」

    「私でもですか?」

    「私でもだ。俺を舐めるなよ」

    冗談っぽく、笑いながら言いました。

    春花は、しばらく私の顔を見ていました。

    冗談なのか本気なのかを、確かめる顔でした。

    それから、ようやく少し、笑いました。

    「私、ここでやってみたい」

    春花は、お母さんのほうを向いて言いました。

    面談のはじめに、答えていいかどうかを確かめるために向けた、あの目です。

    でも今度のは、確認ではありませんでした。

    消しゴム

    入塾してすぐ、春花の癖に気づきました。

    答えを書くと、左手で隠す。私が見ようとすると、こちらが覗きこむより早く、消す。

    間違いを見られる前に、消してしまうんです。

    提出する課題はいつも答えしか書いていませんでした。

    途中の式がわかっていないことが、自分でも薄々わかっていたのでしょう。

    それでも答えが合っていることは算数ではよくあるので、きっとこれまでそれで乗り切っていた。

    乗り切ったつもりでいた。

    春花の消しゴムは、他の子の倍の速さで小さくなっていきました。

    新しい消しゴムは2週間ともたなかった。

    だから最初に教えたのは、算数・数学ではありません。

    「途中式とか殴り書きのメモを消すのはナシだ。間違いは先生へのお土産だから、消さずに持ってきてな」

    間違えた式、あるいは殴り書きのメモには、その子がどこで何をどう勘違いしたのか、思考過程が全部書いてあります。私にとっては宝の地図。消されたら困る。

    ——という理屈を説明しても、癖はなかなか抜けませんでしたが。

    授業は、小学1年生の内容からやり直しました。あの、16人の列からです。

    たぶん、小学校低学年の問題であることは気付いていたと思います。

    しかし黙って取り組んでいた。

    ○を16個、描かせました。

    太郎君を黒く塗らせて、前から7個、数えさせる。それから、後ろを数えさせる。

    「太郎君の後ろに、何人いる?」

    「……8人」

    「そう。どういう間違いをしてたか、説明できる?」

    春花は、自分の答案と、いま描いた図を、何度も見比べていました。それから、小さな声で言いました。

    「私、太郎君のこと、数えてなかったです」

    「そう。問題文に書いてある。読んで、図にすれば見える。視覚的に、構造で判断できるようになる。逆に言うと——構造を読み解かずに、数字だけ拾って、掛けたり引いたりしてただろ?」

    春花はうなずいて、それから、こう言ったんです。

    「……だって、そういうふうに教わったんです。『倍』って書いてあったら、前の数と後ろの数をかけるんだよ、って」

    私は、この一言を聞くために、この仕事をやっているようなものです。

    上がらない子は、サボっているんじゃない。教わった通りに、算数じゃないことをやっているんです。

    『倍』と書いてあったら、前と後ろを掛ける——そんな法則は、ありません。特定の書き方のときにしか通用しない偶然です。

    でも春花は、それを『いつでも通用する公式』かのように教わった。少なくとも彼女はそう解釈していた。そして、忠実に守ってきた。

    守れば守るほど答えが合わなくなるとも知らずに。

    そこからは、地味な訓練の日々です。

    図を描かせる。式の意味を聞く。「なんで、その式になるの?」と問いかける。

    もちろん、最初から説明できるわけではありません。理屈はまず、私が授業でしっかり教えます。その上で、それがきちんと理解できているかを、練習問題と口頭試問で身につけさせるわけです。

    最初のころ、春花は「なんで?」と聞かれるたびに固まりました。

    責められていると思うんでしょう。「責めてるんじゃない。理由がわからなければまた間違うからね。だから、正解のときも理由を聞く」と伝えました。

    うちでは、答えが合っていても理由を聞きます。

    「なんで、ここは引き算にしたの?」

    「……えっと」

    「合ってるよ。合ってるけど、どうしてそうしたか言ってみ」

    はじめのうち、春花は答えられませんでした。合っているのに、なぜ、と聞かれる。前の塾では、丸がつけばそれで終わりだったのでしょう。

    それが普通の塾です。

    「わからないなら、それはまだできてない」

    「……合ってるのに、ですか?」

    「合ってるのに、だ。まぐれで合うのと、わかって合うのは違う。わかっていれば、絶対に間違えない。100回やって100回間違えない」

    「……それは嘘だと思います」

    初めて、春花は異を唱えた。

    「そうか? じゃあ、今からケーキを作るとしよう。イチゴのショートケーキ。甘い生クリームが必要だわな」

    「はい」

    「じゃあ質問だ。生クリームを作るのに、砂糖と塩、どっち入れる?」

    「砂糖です」

    「即答だな。なんで?」

    「え、だって。普通に」

    「普通、じゃダメだ。『普通』では理由になってない。なんで砂糖なの?」

    「だって、甘くしたいから」

    「そうだ。甘くしたいから砂糖を入れる。ここは絶対に塩じゃないのはわかるな?」

    「はい」

    「じゃあもう一つ聞くぞ。お前、100回生クリーム作るとしてだ。1回でも『あれ、砂糖と塩、どっち入れるんだっけ?』とか言って、間違えて塩入れることあるか?」

    「ないです」

    「ないよな。甘くしたいから砂糖を入れる。その理由・理屈がわかっているなら、100回やったって100回間違えない。1回たりとも間違えない。『どっちだっけ』ともならない。俺が言ってるのはそういうことだ」

    「!!」

    「もっと言えば、学校の授業で『教科書とマンガ、どっち使うんだったっけ?』って迷った挙げ句間違えて授業中にマンガ読み始めたことなんて一度でもあるか?」

    「ないです」

    「それと一緒だよ。わかってる、ってのはそういうこと。わかっていたら絶対に間違えない。どっちを使うべきかを暗記して引き出しから答えているわけじゃないからね。わかっていれば、目的に合わせて現場で組み立てられる。だから初見の問題も『なんだっけ』じゃなくて、『どうすれば条件に合う?』って、その場で考えられる。実テや模試・入試で必要な能力はそれなんだ」

    「……模試、前の塾のときに小4から小6までいつも受けていたけど、いっつもダメでした。こんなの習ってないって思って全然解けなくて」

    「何点くらいだったの?」

    「……40点取れたことないです。だいたい20点くらい」

    「まぁ、計算問題が必ず出るからな。それが合ってれば20点は取れる。それ以外がわかっていないと、かけるべきか割るべきか、たまたま合っていたときだけ正解して40点近くになる。でも、それって真の意味では20点のときと変わらなくて」

    「……」

    「でも、わかって答えられる人はその場で即興で解ける。『わかる』をすっ飛ばして答えの出し方だけ暗記してきた人は、そのシーンで即興ができない。だから、わかるのが大切なんだ。でも、『わかる』って、そんな難しいことではなくて。なんで砂糖なの?ってのと一緒で、必ずそこには理由がある。理由を無視して暗記するより、理由を理解する方が脳にとっては自然なことなんだ。だからその方が覚えやすくて忘れにくい」

    「なるほど」

    「もちろん、人間は間違うことがあるから、凡ミスをしたり思わぬ間違いをすることは当然ある。よくあるよ。計算ミスとかね。でも、砂糖を入れるべきか塩を入れるべきかとか、教科書とマンガどっちを使うべきかとか、そういう根本のところで迷ったり間違えたりすることはない。それが『わかってる』ってこと。わかってる人は、勉強がどんどん進む。わかってない人は、どれだけ勉強してもつまずき続ける。理由を無視して暗記した内容は必ず忘れるから。だから点数は上がらない」

    「……はい」

    「前に『できるようになるシステムがここにはある』って言ったことがあるんだけど、そのうちの一つがこれだ。うちでは絶対に、原理原則をわからせる。そうすれば、必ず勉強は進む」

    「そっか……」

    春花は腹落ちしたようで、ニコニコ顔になりました。

    「じゃ、もう一回さっきの問題考えてみようか。なんでこうなるんだろうな」

    春花はしばらく自分の式を見ていました。

    それからぽつぽつと説明を始めました。つっかえながら。何度も詰まりながら。それでも最後まで言い切った。

    「よし、正解。いいじゃねえか。それが『わかった』ってことだ」

    「はい!」

    春花はそれまで、『わかった』ということがどういうことなのか、わかっていませんでした。

    理由がわかってなくても、答えさえ合っていれば『わかった』と解釈していた。

    しかしそれは『わかった』とは言わないんです。

    『わかった』と、『正解までの作業手順を暗記した』の違い。

    これを知ることが、勉強では重要です。

    中学の内容に入って、文字式を扱うようになったころのことも、覚えています。

    初めて、こちらが助け舟をひとつも出さないまま、春花が最後まで一人で説明しきった日です。

    「なんで、その式になるの?」

    「……周の長さは、紙が一枚増えるごとに6cmずつ増えているから、枚数をaとすると、まず6aと考えました。でも一枚だけのときの周の長さは12cmだから、aに1を代入しても12cmになりません。6cm足りないです。だから6aに6を足したのが周の長さの式になる。6a+6。でもまだ合っているかわからないので、確かめ算で、二枚のときを計算しました。数えたら18cmになったから、6a+6が合っているならa=2を代入すると18になるはず。計算したらなったので、この問題は6a+6で周の長さが求められます。元々の問題は22枚のとき周の長さを求めなさいだから、6a+6にa=22を代入すると、138cmです」

    「正解」

    春花は、しばらく黙ってから、聞きました。

    「……いま、合ってました?」

    「合ってる」

    「……ほんとですか」

    正解と言われても、まだ疑う。無理もありません。自分を疑う練習だけは、それまでの算数で嫌というほど積んできたんです。逆の練習は、これから積めばいい。

    まじめさというのは、恐ろしいものです。

    間違った手順を渡された子は、間違った手順を、誰よりも忠実に守り抜いてしまう。

    でも、正しい道具に持ち替えた瞬間から、同じまじめさが、そのまま武器になります。

    春花は、私の話を理解しようと努め、少しずつ、できるようになっていきました。

    夏が過ぎたころ、ふと気づくと、消しゴムはあまり減らなくなっていました。

    他の日。

    課題に取り組んでいる春花の手が挙がりました。

    「先生、そこ、わかりません。なぜそうなるんですか?」

    彼女が自分から本質的な問いを私に投げかけたのは、これが初めてでした。

    なんでもないやり取りに見えると思います。でも、質問の中身が全然違う。

    このときの「わかりません」は、意味を聞いていました。なぜなのかを知ろうとしています。

    初期の頃の「わかりません」は、オートマチックに答えが出る作業手順を知ろうとしていた。

    これは似て非なるものです。

    講師の腕はここで試されます。

    「わかりません」一つとっても、その意味はまるで異なる。

    どう教えればいいのかもまた違ってきます。

    安直な『答えの出し方』を教えてはいけません。

    原理原則を教えた上で、再度質問を投げかけ、自分で答えを出させるんです。

    スタディーイノベーション数学教室名物の、口頭試問。

    これができないと帰れません。

    最終的なゴールは『答えが合うこと』ではなく、『原理原則がわかった上で答えが出せること』。

    私が大切にしている教え方です。

    入塾のときの「かけるんですか? わるんですか?」のような問い。

    それは理由を聞いているのではありません。オートマチックに答えを出すための手順を聞いている。

    しかしこのとき春花がしてきた質問は、同じ「わかりません」でも内容がまるで違います。

    この進歩に本人は気付いていないけれど、私には伝わりました。

    よかった。春花は数学の本質を理解しかかっている。

    94点

    中1の11月。秋田ではめっきり寒くなる季節です。

    その月のはじめ、学校の数学の授業で、春花が当てられたそうです。

    答えられずにうつむく——以前の春花はそうでした。

    しかしその日、黒板に書きながら説明した。声は小さかったけれど、合っていた。

    先生が「……完璧ですね!」と言って、ノートを取っていた何人かが顔を上げて春花を見た。

    春花は席について、机の下で、両手を握ったそうです。誰にも見えないように。

    テスト前日。

    授業終了後、帰り際に私は言いました。

    「明日のテストは絶対できるからな。わからない問題は一問もないから」

    「ほんとですか?」

    「絶対ない。っていうか20分は余る。残った時間はフルで見直しをすること」

    「わかりました」

    「90点超えたらチーズケーキ作ってやるからな」

    「はい!」

    私の塾では、目標点数に達したらチーズケーキを作って生徒に渡すようにしています。

    これは18歳で初めて家庭教師のアルバイトをした頃からずっと続けている習慣です。

    自慢のチーズケーキ。

    ハーゲンダッツバニラを2個使い、その他にも意外な隠し味となる材料を加えることによって絶品に仕上げた自慢の逸品。

    研究を重ね、この味に到達するまで中学生の頃から作り続けて20年かかりました。

    「もうケーキの材料買ってあるからな。ダメでしたとか言ったら俺全部食うから」

    「ええ~~! 頑張ります!」

    定期テストが返された日、春花は塾に来るなり、カバンから答案を出して、両手で私に差し出しました。

    「先生、やらかしてしまいました・・・」

    数学、94点。

    「お、やったじゃねえか!」

    「いや、ダメです。これ100点取れました」

    「なに間違えたの?」

    「これ問題用紙に書いた計算の答えは合ってるのに、答案用紙にマイナスを書き写してませんでした。あともう一つは約分し忘れです」

    「お、そうか。まぁええやん。全部わかって、解けてるんだから」

    「いやぁ、でもくやしいです!」

    嬉しさより悔しさが勝っているようでした。

    小学生の頃でもこんな点数は取ったことがなかったのに。

    それから、付け足すように言いました。

    「あ、あと先生。今回、ぜんぶ図が描けました。全問ちゃんと説明できます」

    点数より先に、そこを報告したがるようになっていました。

    かけ算なのか割り算なのかという判断基準すら持っていなかった半年前。

    「わかりません」という発言は、意味を知るためではなく、答えまでの手順を知るために使っていた半年前。

    小学校1年生の問題からやり直した半年前。

    そして、書いた内容を左手で隠し、消しゴムを頻繁に買い換えていた日々。

    半年前の本人に見せたらどれほど驚くだろう、そんな変化でした。

    帰りぎわ、約束のチーズケーキを渡しました。

    「90点超えの約束、達成な。おめでとう」

    「……! ありがとうございます!」

    春花は、箱を両手で抱えて笑いました。

    その日は迎えに来たお母さんも、ご報告に来られました。普段は保護者の方が教室に入ってくることはないのですが。何度も頭を下げるんです。

    「この子が、テストを自分から見せてきたんです。今まで一度も、なかったことで」

    そこで言葉に詰まって、それだけ言って、また頭を下げて帰っていきました。

    面談の日、「すみません、うちの子、本当にできなくて」と謝り続けていた、あのお母さんです。

    次に塾に来た日、春花は席に着くより先に言いました。

    「先生! チーズケーキ、めちゃくちゃおいしかったです! お母さんと半分こしました」

    「だろ。ただな、一つ言っておくことがある」

    「はい?」

    「次からチーズケーキがもらえるのは、97点以上だ」

    「ええ~~!?」

    「うまいもんは、ハードルの向こうに置くことにしてるんだ」

    「……いいです。じゃあ私、100点取ります!」

    「言ったな?」

    「言いました!」

    同じテストで、42点だったクラスメイトがいたそうです。

    Aさんとします。小学校のころ、春花を「頭悪い」と笑っていたグループの、中心にいた子です。

    ここから先は、後になって、春花から聞いた話です。

    テストが返された日、Aさんは自分の答案を半分に折って、すぐ机の中にしまいました。

    春花はそれを見て、思ったそうです。

    あ、私が小学生のときにいつもやってたやつだ、と。

    それから何日かして、数学の授業で、Aさんが先生に当てられました。

    立ったまま、答えられない。

    教室が嫌な静かさになる。

    Aさんの前の席は春花でした。

    春花はそのとき、ノートの新しいページを開いて、式と答えを大きく書いたそうです。

    それからそのノートを、そっと立てました。

    Aさんに見せるために。

    かつては答えを隠すために手でノートを覆っていた子が、人に答えを見せるために、ノートを立てた。

    Aさんは、その場をしのぎました。

    「なんで」

    授業のあと、Aさんが春花のところに来ました。

    「……なんで」

    「え?」

    「なんで、教えてくれたの。私、あんたのこと、ずっと……」

    その先を、春花は弾んだ声で遮って言いました。

    「Aちゃん、小2のとき、覚えてる?」

    「……小2?」

    「私が男子にいじわるされて、泣いてたとき。……『一緒に帰ろ』って言ってくれたでしょ」

    「……そんなこと、あったっけ?」

    「あった。私、すっごく嬉しかったんだ」

    Aさんは、黙りました。

    「あのとき、私人と関わるのが苦手だったから。ありがとうも言えなくて。でも、ずっと、何か返せたらいいなって思ってたんだ。だけど、なんにも取り柄ないから、できなくて」

    「……」

    「いまは数学ならちょっとわかるから。……だからさっき、やっと返せたの」

    そう言って、春花は笑ったそうです。

    しばらくして、Aさんが言いました。

    「……ごめん」

    「え? なにが?」

    Aさんは、少し黙ってから言いました。

    「……いろいろ。……あと、今度、教えて。数学」

    「うん、いいよ!」

    二人はその日、一緒に帰ったそうです。5年ぶりに。

    助けてもらった恩を、春花は5年間、覚えていました。「何か返したい。でも私はなんにもできない」と思いながらの、5年間です。

    「嬉しい気持ちになるんですね」

    その週、塾に来た春花が、この話をしてくれました。

    いつもより早口で、ちょっと笑いながら。

    「Aちゃんが急に『ごめん』って言うんですよ。私、なんのことだろうって、一瞬わかんなくて」

    ——わからないんです、この子は。本気で。

    小学校の高学年、ずっと『頭の悪い子』扱いをされていたんですよ。普通なら、そう簡単に忘れられるものじゃない。

    でも、春花が5年間抱えて歩いてきたのは、そっちじゃなかった。

    たった一度の、「一緒に帰ろ」のほうでした。

    恨みは覚えていないのに、恩だけは覚えている。

    そういう子なんです、春花は。

    最後に、こう言いました。

    「先生。誰かの役に立つって、嬉しい気持ちになるんですね」

    私は「そうだな」とだけ言って、手元の丸付けに戻りました。

    戻ったふりを、しました。しばらく、ペンは動きませんでした。

    自分のことをあざ笑っていた相手を助けて、出てくる言葉が、それですよ。

    ただただ、嬉しかった。

    生徒が大勢いる中で、私は顔が見えないように下を向き、丸付けはいつもの倍の時間がかかっていました。

    それから

    そこからの春花は、見ていて面白いくらいでした。

    ある日、塾に来るなり言いました。

    「先生。今日、数学の授業で発表しました」

    「おう」

    「間違えました」

    「おう」

    「……でも、なんか、平気でした」

    「そうか」

    「席に着いてからすぐに間違いに気付いて。なんか悔しかったので、別のアプローチで解けないか考えて、違う解き方を見つけました。ちょっと嬉しかったです」

    「ええやんけ。どれ、見せて」

    「これです」

    「……。へぇ。おもしれーじゃん」

    「ですよね!?こうした方が絶対早いと思って、やってみたら合ってました!」

    「やるやんけ」

    理屈が合っているなら手段を変えても大丈夫なはず、それが数学であり、あるいは社会人になった後の、問題解決の考え方です。

    仕事ができる人は原理原則から方法を考えます。「こうしなさい」って言われたからという理由で手段を選ぶのではなく、「なぜそうするのか」を考える。

    こういう力は、このようにして磨かれていきます。

    次の定期テストで、春花は100点を取りました。学年でただ一人の、100点です。

    報告の第一声は、「見てください」でも「やりました」でもありませんでした。

    「先生、帰りに問題ください。とびきり難しいやつ」

    強くなったもんです。

    チーズケーキは、宣言どおり、満点で持っていかれました。

    学校では、Aさんに教え、Aさんの友達にも教えるようになりました。

    「これ、かけるの?わるの?」と聞かれると、「図を描いたらわかるよ!」と返すそうです。

    作業手順を教えるのではなく、「なぜ」を考えさせる。

    私の教え方が、そのまま身についているようでした。

    あるとき、春花が言いました。

    「先生。私、教えるの、けっこう好きみたいです」

    「うまいもんな」

    「先生のまねです」

    点数の話ばかりしてきましたが、私はこれを、点数アップの話だと思っていません。

    できるようになったから、自信がついた。

    自信がついたから、人を助けられた。

    助けたら、「役に立つって嬉しい」と知った。

    94点も100点も、この連鎖の、入口にすぎません。

    そして、その入口は『できたという事実』でしか、開かない。

    だから、この仕事は『できるようにさせる』という義務があると私は考えます。

    一生懸命頑張った生徒が、『できない』『結果が出ない』ということはあってはならない。

    少なくとも義務教育で問われるのは、正しく学べば必ずできるようになることだけですから。

    全員必ず高得点を取ることができます。

    取らせることができます。

    それによって、子どもは自信を持つことができるんです。

    春花のように。

    あるとき、帰りぎわに、改まって言われました。

    「先生、ありがとうございました」

    「なんだ、急に」

    「私、ずっと、自分はなんにもできない、取柄もないって思ってたから。……いまは『教えて』って言われるんです。私が、ですよ」

    「頑張ったもんな」

    「ここに入ってなかったら……」

    その先は言わずに、笑って帰っていきました。

    中3になった春花は、入試直前期の12月と1月の実力テストで2回連続96点を取りました。どちらも学年で最高点だったそうです。

    掛ければいいのか割ればいいのか判断できなかった、あの子が、です。

    進路の話をしたとき、春花は、教える仕事に就きたいと言いました。

    「私みたいに、自分は頭が悪いって思ってる子に、そうじゃないよって、教えてあげたいんです」

    あの春、膝を見つめて「頭、悪いので」と言った子の面影は、もうどこにもありませんでした。

    春花は今も、ときどき塾に顔を出します。数学で私が教えることは、もうほとんどありません。あるとき、後輩の女の子に文章題を教えていました。ノートに丸を並べて、こう言いながら。

    「そう、合ってる。でも、なんで割るんだと思う?」

    あの答案メモを捨てない理由

    最初の答案メモの話に、戻ります。

    あれを見て、「この子は頭が悪い」と思った人が、いるかもしれません。

    しかしそうではない。

    中3終盤で学年唯一の96点を2回取る頭の持ち主です。

    最初から、頭が悪いなんてことはなかった。それは結果が証明しています。

    「私はなんにもできないから」という思い込みが、春花の力を閉じ込めていた。

    この「思い込みによって可能性が閉じてしまう」ということについて、有名なエピソードがあります。

    象を調教する方法の一つに、エレファントシンドロームという現象を利用したものがあります。

    野生の象を捕まえてきて、絶対にちぎれない頑丈な鎖でつないでおく。象はしばらく暴れて逃げようとしますが、数日のうちに、暴れなくなります。

    そして一度そうなると——鎖を細いロープに付け替えても、もう逃げないんだそうです。

    象の力なら、ロープなんて簡単にちぎれます。でも、ちぎろうとしない。

    『自分はつながれたら逃げられない』『自分には無理』と刷り込まれた象は、本当はできるはずのことを、試すことすらしなくなるからです。

    実は人間にも、同じことが起こります。

    『あんなに頑張ったのに、できなかった』——この経験を何度も繰り返すと、無意識のうちに『自分には無理』が刷り込まれ、見えない鎖につながれます。

    「なんでこんなこともできないの?」「頭悪い」——他人から言われ続けても、同じ鎖が巻かれます。

    春花は、両方でした。

    3年間、まじめに頑張って、それでもできなかった。

    そして周りから「頭悪い」と言われ続け、本人が、それを信じた。

    二重に、つながれていたんです。

    初日の、「私、たぶん、ここでも無理だと思います」。

    あれは、鎖につながれた春花の声です。

    スタディーイノベーションがやるべきこと。

    それは、この見えない鎖を外すことです。

    ただし、鎖は説得では外れません。「あなたはできる」と100回言っても、外れない。

    実際に、できるようにさせるしかない。

    その経験だけが、鎖を切ることができるんです。

    その事例がまさに春花です。

    お子さんが「どうせ無理」と言っているなら、それは能力の申告ではありません。鎖につながれているというサインです。

    そして、これは勉強だけの話でもありません。

    この鎖が外れれば、子どもは「自分なら何だってできそうだ」という自信につながります。顔つきだって違ってくる。その自信こそが、未来の可能性を広げると、私は確信しています。

    この塾は、ただ勉強を教えるだけの塾ではありません。

    鎖を外して子どもの可能性を広げること。それが、スタディーイノベーションの役割です。

    生徒の鎖は、私が外します。

    つながれている子は、今この瞬間にもたくさんいます。

    悪いことに、つながれているという自覚が、本人にありません。親からも見えません。

    見えないのがこの鎖のやっかいなところですから。

    では、その鎖は——誰が、どうやって巻いたのか。

    なぜ春花は小4から3年も塾に通って、計算以外ほとんどなにもできない状態だったのか。まじめで、宿題をひとつも忘れず、言われた通りに守る子が、なぜ。

    ——「まじめで、言われた通りに守るから」こそ、そうなったんです。

    最初に教わったのが、「覚えれば答えが出せるから、覚えなさい」というやり方だったから。

    それを、誰よりも忠実に実行したから。

    そして大人は、「わからなかったら聞きなさい」と言う。

    しかしその状況において生徒が発する「わかりません」は、答えの出し方を教えてくださいという、まさに春花の陥っていたあれです。

    意味を知ろうとするのではなく、オートマチックに答えが出る方法を知りたがる。

    最初の教え方でミスってしまうと、子どもはどうしてもこういう方向に行きがちです。

    春花が変わった要因に、生まれつきの能力や才能は関係ありません。変わったのは考え方。

    「どっちを入れるんだっけ」と暗記に頼るのではなく、甘くしたいから砂糖を入れる——『根拠に基づいた思考』に持ち替えた。それだけのことです。

    では、なぜ大人たちは、良かれと思って、鎖を巻くような教え方をしてしまうのか。

    この、にわかには信じがたい話の正体を、次の記事に書きました。

    タイトルは、西洋の古いことわざから取っています。

    『地獄への道は善意で舗装されている』

    あのメモを捨てないのは、忘れないためです。

    いまもどこかの教室で「私はなんにもできないから」とうつむいている子がいる。

    それはただ、答えまでの作業手順を覚えさせられているだけかもしれない。

    その見えない鎖を、良かれと思って巻いているのが、実は塾の先生かもしれない。

    地獄への道は善意で舗装されている。

    恐ろしい言葉ですが、本当は悪い人がいるわけではなく、悪い現象があるだけ。

    そんな話です。

    続きは、次の記事で語ることにします。

    続き▶『地獄への道は善意で舗装されている』



    ※この記事はnote創作大賞に応募しています。
    ただしここに書いた生徒の話はフィクションではなく、脚色のない実話です(名前だけ仮名にしています)。


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    #オールカテゴリ部門


     
     
    秋田にある数学専門の個人塾です。 直近9年では、卒塾生38人中14人が模試の数学で秋田県1位。 それ以外のすべての生徒がトップ校合格者レベルの数学力を身につけています。 数学は論理。必ずできるようになります。

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