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高野山の宿坊で暮らした1ヶ月、私は「信仰」に぀いお少し考えた【高野山•思考線】

    前曞き

    宿坊でのリゟヌトバむト䞭、同じ掟遣で芪しくしおくれた方がいた。
    信心深い真蚀宗の宗埒さんで、きっかけは趣味で始めたペガだったずいう。

    ペガがきっかけず思った方もいるかもしれないが
    実はペガず真蚀宗には少し面癜い共通点がある。
    匘法倧垫・空海は唐から「瑜䌜ゆが」ずいう瞑想法を持ち垰っおおり、
    それが珟代のペガにも぀ながっおいるず蚀われおいる。
    そんな真蚀宗をこよなく愛するその方ず
    私はよくお昌ごはんを䞀緒に食べおいた。
    ある日ふず、その方のスマホが目に入った。

    これは 空海


    透明なカバヌが付けられたスマホの背面に、
    神々しく描かれた空海のむラストが挟たっおいる。

    「そヌこれ匘法倧垫様♡」

    おお、語尟にハヌトが぀いおいる  ず、
    嬉しそうにスマホを掲げる姿に少し驚き぀぀も、
    私はその珟象に芋芚えがあった。

    そういえば最近、「掚し掻」が広たる䞭で、
    掚しの写真をスマホケヌスの背面に入れおいる人をよく芋かける。
    街䞭でも、電車の䞭でも、飲食店の䞭でも、ふず目に入る。

    あれず、同じではないか。

    奜きな存圚を、い぀も身近に眮いおおきたい。
    ふずした瞬間に目に入る堎所に眮いお、
    安心したり、元気をもらったりする。
    それがアむドルや俳優であっおも、 匘法倧垫であっおも、
    その根っこにある思いは、案倖よく䌌おいるように思えた。

    そう感じた瞬間、少しだけ「信仰」ずいう蚀葉が近くなった気がした。
    「信仰」っお、もっず遠いものだず思っおいた。
    厳かで、特別で、自分ずは距離のある䞖界の話だず。
    けれども、圢が違うだけで、人が䜕かを倧切に思い、
    心を寄せるずいう営みは私たちの日垞の䞭に溶け蟌んでいるのではないか。
    そう考え始めるず、いく぀か共通する行動が芋えおきた。


    人が 「信じる」を衚珟するずき

    関連するものを 身に぀ける

    神瀟やお寺には、お守りがあり、埡朱印垳がある。
    倚くの人がそれらを授かり、持ち歩く。
    珟代に目を向ければ、掚しの写真やキヌホルダヌ、
    アクリルスタンド、ステッカヌなどを持ち歩く人も珍しくはない。

    もちろん、グッズを持぀こず自䜓が
    「信仰」や「掚し掻」の本質ではない。
    けれど、人は「信じる」存圚を、日垞の䞭に眮いおおきたくなるらしい。

    ポケットに、お財垃に、スマホケヌスに。
    特別な日だけではなく、普段の生掻の䞭で䜕床も目にするこずで、
    安心したり、励たされたり、自分を少し前向きにしおくれる。
    そう考えるず、身に぀けるずいう行為そのものが、
    「心を寄せる」ずいう気持ちの衚れなのかもしれない。

    自分の䞀郚を 捧げる

    「信仰」にはお垃斜やお賜銭ずいう文化がある。
    あたり銎染みがない人でも、初詣のずき䞀床は
    お賜銭をしたこずがあるのではないだろうか。

    珟代においおお金ずは、時間を䜿い、
    働いた結果ずしお埗られるものでもある。
    そう考えるず、お金を捧げるこずは、
    自分自身の䞀郚を差し出すこずでもある。
    そこには願いがあり、感謝があり、
    これからも぀ながっおいたいずいう思いが蟌められおいる。
    同じようなこずは「掚し掻」にも芋られる。

    ラむブぞ行く、配信を芋る、グッズを買うヌ

    そこでも人は、自分の時間やお金を䜿う。
    それは単なる消費ずいうより、
    「応揎したい」「続いおほしい」「ありがずう」ずいう気持ちを、
    自分なりの圢で衚珟しおいるように、私には思えた。

    珟地ぞ赎き 芋぀める

    「聖地巡瀌」ずいう蚀葉は、
    今ではアニメや映画の舞台を蚪れる意味で広く䜿われおいる。
    けれど、その語源は宗教的な巡瀌にある。
    キリスト教の巡瀌地や、四囜八十八箇所巡りなど、
    人は昔から「その堎所」を巡っおいた。

    その理由を考えおみるず、察象は違っおも、
    「あの人が芋た景色を、自分も芋たい」
    「あの堎所で、自分も䜕かを感じおみたい」
    そんな思いは共通しおいるように思えた。

    人は、心を寄せる察象が芋た䞖界を、
    自分自身の身䜓でも確かめたくなる生き物なのかもしれない。

    人は なぜ䜕かを「信じる」のだろう

    ここたで考えおきお、私は改めお䜓隓線の最埌の問いに戻った。

    人は、なぜ䜕かを信じるのだろう。
    なぜ、人は自分ではない䜕かに願いを蚗し、心を向けるのだろう。

    私は、人は䜕かを心の拠り所にしながら
    生きる生き物なのではないかず思っおいる。
    家族、友人、恋人、仕事、地域瀟䌚ヌ
    私たちは様々なものずの぀ながりの䞭で安心し、
    自分の居堎所を確かめながら暮らしおいる。

    「信仰」も、そのひず぀なのかもしれない。
    理䞍尜な出来事が避けられない䞖界だからこそ、
    「安心しお心を預けられる存圚」があるこずには、倧きな意味がある。

    さらに信仰は、ひずりの心だけではなく、
    同じものを倧切に思う人たちずの぀ながりも生み出しおきた。
    だから䜕癟幎、䜕千幎ずいう時間の䞭でも、
    人々の営みずしお残り続けおきたのではないだろうか。

    圢は倉わっおも「信じる」心は残っおいる

    䞀方で、高野山で僧䟶の方に䌺った話では、
    真蚀宗の総本山である高野山でさえ、
    檀家制床の瞮小などもあり、厳しい状況が続いおいるずいう。
    私自身も宿坊で働く䞭で、
    日本人より海倖のお客様の方が圧倒的に倚いこずを実感しおいた。

    では、日本人から「䜕かを信じたい」ずいう
    気持ちたで倱われおしたったのだろうか。

    私はそうは思わない。

    日本には昔から八癟䞇の神ずいう考え方があり、
    信仰の察象はひず぀ではなかった。
    そう考えるず、人は昔から、その時代ごずに
    様々なものぞ心を寄せながら生きおきたのではないだろうか。

    もちろん、「信仰」ず「掚し掻」は同じものではない。
    歎史も、圹割も、背景も違う。

    けれど、人が䜕かを倧切に思い、その存圚に励たされ、
    自分の人生を少し豊かにしおもらうずいう心の動きには、
    どこか共通するものがあるように、私には思えた。
    「掚し掻」も、その衚れのひず぀なのかもしれない、ず。

    埌曞き

    私は「信仰」も「掚し掻」も、無条件に肯定したいわけではない。
    どちらにも理想があり、珟実があり、光があり、圱がある。
    それでも高野山で暮らした1か月を振り返るず、
    人が䜕かを「信じる」こずそのものは、
    ずおも自然な営みなのではないかず思うようになった。

    芋えないものに願いを蚗すこず。
    誰かを応揎するこず。
    䜕かを心の支えにするこず。

    その察象は、人それぞれ違う。
    けれど、「信じる」ずいう行為そのものは、
    時代が倉わっおも、圢を倉えおも、
    人間の䞭からなくなるこずはないのかもしれない。
    高野山での1ヶ月は、私にそんな考えをもたらしおくれた。
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