
『完璧な男』第9話04「消された父」09-10

■ 【前回までの話】

港区の応接室。テーブルに置かれたのは、父親の欄だけが空白の「認知届」
立真はためらうことなくペンを取り、
血の繋がらない赤子を自らの「娘」として引き受ける決断を下す。
誰の子かもわからない赤子に命を与える異常な光景に動揺する日下部。
しかし、その声なき戸惑いは「構造に従え」という岩村の冷徹な言葉に封じ込められ、
制度は音もなく更新されていく
。
「父性は血ではなく記号で足る。制度は記号で継続する。」
立真は微かに目を覚ました赤ん坊と視線を交わす
。
「……あんたが、どう生きるかはわからない。
でも、俺があんたの父だってことは、ここで決めた」
強要された「記号としての父」ではなく、
ただ目の前の小さな命を見つめ、
彼は自らの意志で「父でいる」ことを静かに決意するのだった── 。
◆年表:消された父◆
◆構造起点◆
葛城立真は、もともと少女として生まれた。
十三歳の春、父・葛城顕臣の判断により、
「完璧な男」を実現する国家計画の中核に据えられた。
その過程で身体は制度的に再構築され、
声を失い、戸籍は上書きされ、
女性としての将来は完全に断絶された。
この改変は不可逆であり、
彼の人生は父の決断から始まっている。【第一段階:再構築】
2019:団地→愛宕邸(01-01〜01-05)/監視選定開始
2019:身体改変・声喪失/完璧な男の誕生
2019年4月:嶺征学園高等部2年に13歳で編入
2019秋:「ドーナツ事件」
2019晩秋:「桐塚高校事件」
【第二段階:制度への固定】
2021:成人式、「成人登載儀礼」
2022:性別変更に抵抗、タカ(高橋孝)と共に逃亡
2023:捕縛・タカの死/「再構成」による少女性の根絶
2024:国際戦略応用大学(ISAU)開校
2026:メディコア・ホールディングス登壇式、身体完全体へ
2029:北郷と会い、目覚める
【第三段階:覚醒】
2035:制度輸出段階(虎ノ門・ISAU)
2038夏:立真長女の認知
2038冬:芝浦マザー号制圧戦
2058:カフェ再会・告白開始(01-01)/過去記録の覚醒■本編
Scene09-10【場所:港区海岸某ラウンジスペース/夜、2038年冬】
港区の高層ビル、静かなラウンジスペース。
湾岸の光が、窓の外で静かに瞬いている。
「あなたに、どうしてもお願いしたいことがあるの」
女が静かに切り出した。
声には熱はないが、内側に何か固いものがあった。
立真はグラスに向けた視線を動かさないまま、わずかに眉を寄せた。
脳裏によぎったのは、かつての葛城邸の会議室や、
構造庁の廊下の風景だった。
分厚いファイルを抱え、いつもこの女の斜め後ろに控えていた男。
自分の「父」としての法整備を進めながら、
決して前に出ず、静かに視線を伏せていた官僚の姿だ。
「……あの人のこと、覚えてる?」
「……名前は知らない。だが、制度の設計図を引いていた男だな」
女はかすかに頷き、夜の窓へと視線を移した。
「彼とは……子供が生まれる前に道が分かれたの。
嫌いになったからじゃない。むしろ、ずっと感謝していた。
でも私は──そういう選択しかできない人間だった。
合理的な未来を選ぶことに、迷いはなかった。
ビジネスと制度と、期待される役割の中で生きることを、
あの頃は当たり前だと思ってた」
立真は背を向けたまま、答えない。
氷の溶ける音だけが、ゆっくりと響いていた。
女は一度だけ息を吸い直した。
「それでも彼は、最後までそばにいてくれた。
あの子の出産に、全力で関わってくれた。
知識も技術も、惜しみなく差し出して。
だから彼には、何も言えなかった」
静かな沈黙。
「彼は精子バンクに登録していたけれど、結局、彼のものは使わなかった。
だから、あの子と彼に血のつながりはない。
でも──その子が生まれたあと、彼は姿を消したの。
制度にとっては“不要になった提供者”だったから。
記録からも、名前からも、すべて消された」
立真がようやく振り返る。
その目に、わずかな光の揺れが映っていた。
「それで、俺に何をさせたい?」
女はまっすぐ彼を見た。
「仇を討ってほしいの」
「……お前の元恋人の、仇を?」
「そう。私は彼を選ばなかった。
でも、彼は子供の誕生に命をかけた。
それなのに“いなかったこと”にされた。
私はあなたを父にした。
制度が選んだ父であると同時に、私が“責任を引き受けさせた”父でもある」
立真は無言でグラスを置いた。
「だからお願いしたいの。
彼がなぜ消されたのか。
誰がそう決めたのか。
その理由を、あなたに見つけてほしい」
ガラスの向こうで、船が一隻、静かに滑っていた。
女は背を向けかけて、ぽつりと言った。
「……狂ってると思う?
元恋人の仇討ちを、今の子供の“父親”に託すなんて。
でも私はもう、彼の名前を呼べなかった。
あなたしかいないと思ったの」
足音も香りも残さずに、彼女は去っていった。
立真は、ただその静けさのなかに立ち尽くしていた。
Scene09-11【場所:港区の海岸・研究16棟、第3ラボ/夜、2038年冬】
夜の研究16棟、第3ラボの壁一面に、
淡い光を放つ構造図が浮かび上がっていた。
青白いディスプレイに映るそれは、
どこか臓器めいて、有機的な美しさと同時に不気味さをまとっていた。
その前に立つ女は、操作パネルに指を滑らせながら語り始めた。
背を向けたまま、しかし語調には確信があった。
「これが“巣”。
正式名称は、汎生殖最適化プラットフォーム。
産みたい者が、産めるようにするための装置。
かつてはそう定義されていたわ」
モニターには、人工子宮の断面図やホルモン誘導の制御マップが映し出され、
隣にはいくつもの遺伝子提供者のプロファイルが並んでいた。
「始まりは、善意だったのよ」
彼女は続けた。
「かつて、女は“産むか、働くか”の二択しか持てなかった。
だからその両方を叶える技術は、希望だったの。
AIが妊娠曲線を設計し、iPS細胞から精子も卵子も作れるようになって、
出産は“業務委託”できる時代が来た──と、誰もが信じていたわ」
声には温度がなく、どこか感情を置き去りにしたようだった。
「でも、最初に狂ったのは“選ぶ側”じゃない。
“選ばせる構造”そのものだったのよ」
再び画面が切り替わる。
DNAインプリンティングの異常。
代理母の妊娠維持失敗率。
人工配偶子との受精エラー。
無機質な報告と統計が並び、光が室内に冷たく降り注ぐ。
「誰と誰の遺伝子を組み合わせるのか。
誰が“産む役割”を担うのか。
決めるのは、もはや“当事者”ではなかった。
最適化はやがて“選別”になったのよ。
母たちは、自分が選ぶ側、“女王”のつもりだった。
だけど──」
言葉を切った彼女は、小さく息を吐いた。
「その夢の裏で、何人が命を落としたか……誰も、数えていない」
沈黙。
そして、背を向けたまま、彼女はわずかに首を傾けた。
「……じゃあ、“その女王”が誰だったか。
もう、わかってるでしょう?」
立真は答えなかった。
だが、その問いかけが意味するものは、
すでに彼の胸の奥に突き刺さっていた。
ラボのディスプレイだけが、青白く明滅している。
人工子宮の断面図。
遺伝子提供者の一覧。
“最適化”の名で積み上げられた、無数の選別。
女はもう何も言わなかった。
立真は、その光景をしばらく見つめたあと、静かに踵を返した。
自動ドアが閉まり、研究棟の無機質な廊下に足音だけが残る。
そのまま地下駐車区画へ降りると、
待機していた車のヘッドライトが闇を切り裂いた。
車内は静かだった。
窓の外、東京の灯が遠ざかっていく。
深夜、高速道路。
立真と岩村は、無言で闇の中を走っていた。
ふいに、岩村が口を開いた。
「……で、あんたは、引き受けるのか」
助手席の立真は、しばらく応えなかった。
その問いが、何を指しているかは分かっていた。
やがて、低い声が返る。
「最初は思ったんだよ。
“それを俺に頼むか”ってな」
岩村がちらりと横を見る。
「それでも、受けたのか?」
「……ああ」
そう言って、立真は上着の内ポケットから、一枚の写真を取り出した。
少し折れた角。
プリントされたばかりの、小さな手のひらサイズの写真。
映っていたのは、白い毛布に包まれた乳児だった。
「この子がいた」
立真の声は、どこか遠くを見ているようだった。
「医務室の片隅。
抱いたのは、ほんの数秒だった。
手順は形式的で、誰も俺の顔なんか見てなかった。
でも、あの子だけは──一度だけ、俺を見た」
「その瞬間、わかったんだ。
“あの子がいるなら、まだ間に合う”って」
岩村は目を伏せたまま、言葉を待っていた。
「制度が、選んだ女の腹に種を植えて産ませた子だ。
父はいない。
母ですら、“産んだ”という感覚を持っていない。
だが──あの目は、確かに生きていた。
その背後に、一度だけ命を賭けた“誰か”がいた」
しばらく沈黙が流れる。
「……あんた、その“誰か”が誰だったか、知ってるのか?」
岩村の問いに、立真は一拍置いて、ゆっくりと頷いた。
「知ってる。
俺の……娘になった子の、母親の元恋人だ」
「……なるほど」
「彼女は制度に選ばれた。
けど、彼は──選ばれなかった。
“父になれないまま、消された”」
もう一度写真を見て、立真は言った。
「だから、やる。
制度を終わらせる。
……その始まりが、彼の遺志だったってことを、きちんと残してやりたい」
岩村は、それ以上何も言わなかった。
車は、闇のなかを走り続けた。
Scene09-12【場所:千代田区永田町・内閣官房未来社会戦略室/深夜、2038年冬】
彼の名は、もう残っていない。
記録上、削除ではない。
抹消だった。
──内閣官房・未来社会戦略室。
その中枢、〈企画調整官〉の肩書を与えられた男。
未来社会戦略室調整官。
政策企画官。
特命官。
いずれも、彼がかつて名乗っていた肩書だった。
少子化と技術統治の融合を掲げた国家プロジェクトの一環として、
生殖工学の制度設計に深く関わった。
“汎生殖最適化プラットフォーム”──通称“巣”。
その倫理・運用フレームは、彼の手による。
だが、完成を見届ける前に消えた。
告発も、訴えもなかった。
彼のファイルは、ある日を境に“実在しなかった”扱いになった。
関係者は語らない。
現場には沈黙の合意があった。
立真が辿れたのは、抹消そのものではなく、“空白”の形だった。
行政文書管理簿の連番の欠落。
人事異動記録の空白年。
公開アーカイブのはずの政策審査資料だけが、ある年を境に欠番になっている。
制度設計の図面の脚注に、存在しない部署名が一度だけ記されている。
どれも断片的で、誰の名前も書かれていない。
ただ、そこに“何者かがいた痕跡”だけが残り、抹消処理が入った案件特有の沈黙があった。
唯一、彼の存在を証言できる者がいる。
メディコアに転籍し、生殖工学部門で〈倫理管理官〉を務めた女──
彼の恋人であり、のちに「長女の実母」となる存在。
彼女は知っていた。
その男が“父にならない父”としてすべてを差し出し、
「制度の骨格に名を刻むことさえ拒否された」ことを。
──ファイルから消された男。
記録されることのなかった誇り。
それを背負うようにして、彼女の前に立ったのが、葛城立真だった。
