
『完璧な男』第9話02「消された父」09-04

■ 【前回までの話】

「あの夜の体温を潮風に探すのをやめ、立真は小さく息を飲み込んだ」
タカとのやさしい記憶が残る竹芝の海辺。
感傷を振り払い、彼は再び制度の中枢へと視線を向ける。
北郷の死を「くだらない。……誰かが贄になってるだけだ」と冷酷に切り捨てた雨の夜。
しかし、葛城邸で待っていたのは、
完璧に淹れた紅茶を「女の名残」と全否定され、
同時に「父になれ」と認知届を強要される、逃げ場のない絶望だった。
無言のまま、真鍮のシンクを白く軋むほど握りしめる限界の右手。
その強張った手の甲を、馬場がポンと叩く。
「毒でも、ぬるくても──黙って飲まれる相手のほうが、よっぽど怖いのよ」
狂った支配の中、裏の共同戦線だけが彼の呼吸を繋ぎ止めていた。
◆年表:消された父◆
◆構造起点◆
葛城立真は、もともと少女として生まれた。
十三歳の春、父・葛城顕臣の判断により、
「完璧な男」を実現する国家計画の中核に据えられた。
その過程で身体は制度的に再構築され、
声を失い、戸籍は上書きされ、
女性としての将来は完全に断絶された。
この改変は不可逆であり、
彼の人生は父の決断から始まっている。【第一段階:再構築】
2019:団地→愛宕邸(01-01〜01-05)/監視選定開始
2019:身体改変・声喪失/完璧な男の誕生
2019年4月:嶺征学園高等部2年に13歳で編入
2019秋:「ドーナツ事件」
2019晩秋:「桐塚高校事件」
【第二段階:制度への固定】
2021:成人式、「成人登載儀礼」
2022:性別変更に抵抗、タカ(高橋孝)と共に逃亡
2023:捕縛・タカの死/「再構成」による少女性の根絶
2024:国際戦略応用大学(ISAU)開校
2026:メディコア・ホールディングス登壇式、身体完全体へ
2029:北郷と会い、目覚める
【第三段階:覚醒】
2035:制度輸出段階(虎ノ門・ISAU)
2038夏:立真長女の認知
2038冬:芝浦マザー号制圧戦
2058:カフェ再会・告白開始(01-01)/過去記録の覚醒■本編
Scene09-04【場所:港区嶺征学園・旧訓練所跡】
午後、港区。
陽の傾いた路地の奥、鉄のフェンスの先には、まだ残っていた。
旧制度学園──訓練所の跡地。
誰も使っていないはずの体育棟から、ジャブの音が規則正しく響いていた。
リングの中には、数人のスキンヘッドの少年たち。
無言で、寸分の狂いもない動作。
打撃音と呼吸だけが、空間を刻んでいた。
「……おいおい、マジかよ」
フェンスに顔を寄せた日下部が叫ぶ。
「ここ、まだ使ってんのか!?
制度、終わったんじゃなかったのか?」
岩村が煙草に火をつけながら呟く。
「俺も知らなかったな。
現役稼働とは、恐れ入った」
松村は何も言わず、まっすぐリングの奥を見つめている。
ロープをくぐって、少年の一人が降りてくる。
動きは素早く、無駄がない。
だが顔立ちはまだ幼く、唇には年齢特有の赤みが残っていた。
骨格は細く、拳の重さに対して肩がやや華奢に見える。
日下部が顔をしかめて呟いた。
「……まつ毛、長くね?
あれ、女の子じゃないのか?」
岩村がちらりと視線をよこしたが、黙っていた。
日下部はさらに首を傾げる。
「っていうか……なんか、昔のお前に似てないか?
最初に見た頃の、お前。
顔っていうより、あの空気がさ……」
立真は答えない。
だが視線だけは、静かに少年を追っていた。
「違う。
“男として見られる場所”を探して、ここに来た子だ。
ボクサーを目指してる。
将来、本当のリングに“男として”立ちたいって言ってた」
立真の声は静かだった。
「でもな──
いまのボクシングじゃ、生まれた性別でカテゴリが決まる。
“安全のため”
“身体差のため”
本人が望んでも、リングに立たせてもらえない。
ホルモン値だの戸籍だの、出場以前の壁がある」
フェンスの向こうで、ミット打ちの乾いた音が続く。
「でもここなら違う。
誰も問わない。
ただ、男子学生として同じように殴り合える。
特別扱いされない。
倒れるときも、“男として”倒れる。
それだけを望んで、ここにいる」
日下部が顔を引きつらせたまま叫ぶ。
「ええええっ!?
じゃあ、“性別不問”って書いてあったの、マジだったのか!?
俺、ずっと“男だけの矯正地獄”だと思ってたのに……!」
松村が静かに言った。
「いたよ。当時から、ああいう子。
自分でここを選んで、何も言わずに訓練受けてた。
“男として扱ってもらえる場所”が、他になかったんだろうな」
日下部が振り返る。
「……嘘だろ?
立真だけが特例なんだと思ってたのに……
あんなの、他にもいたのかよ……?」
松村は肩をすくめた。
「俺たちが気づかなかっただけさ。
あの頃の俺たちに、見る目も、余裕もなかった」
松村の指がフェンスに触れ、錆の粉が落ちる。
「……あいつは、目立たないけど、全部見透かしてるような奴だった。
一撃で全てを決めるタイプだ」
日下部が首を傾げる。
「なんでだよ?」
「最後の護衛選抜で招待されてたんだけど、
『自分はそばにいない方がいい』って言って去っちまった。
『自分が一緒だと、カタチが揃いすぎて、何かがバレる』って言ってた」
岩村が紫煙を吐きながら頷く。
「……だから代わりにお前が選ばれたわけか」
「あいつは自分で考えて、そう判断した。
本当に強い奴だったよ」
松村の指が、もう一度フェンスに触れる。
細かな錆が、夕陽の中に落ちていく。
「……あいつがいたら、もっと違う道もあったかもしれんけどな」
リング脇のロッカーの前で、少年がしゃがみこむ。
履いていたスパーリングシューズのかかとはすり減り、
補修の跡が残っていた。
だが紐は真っすぐに揃えられている。
まるで、それが“誇り”かのように。
拳をゆっくりと開いたまま、少年が一度だけこちらに目を向けた。
短く、簡潔に頭を下げる。
その礼に、立真もわずかに頷いて返した。
岩村がぼそっと言う。
「……お前、全部壊したと思ってたけど、残してたんだな」
立真は、フェンス越しの光の中に目を細めながら答えた。
「壊すだけじゃ足りない。
その中で生きてる奴らまで消えてしまう。
必要なものがあるなら──別の形で組み直す。
それが、俺のやり方だ」
陽は完全に傾き、体育棟の床に斜めの影を投げていた。
リングの上、正確なミットの音だけが、今も変わらず響いていた。
陽が沈み切った時、松村はふと当時のシューズの結び目を思い出した。
あの同級生が直した紐は、誰よりも早くほどけなかった。
「自分で決めて、自分で去る」
——それが、本当の強さだと立真は思った。
Scene09-05【場所:港区嶺征学園・旧訓練所跡(食堂)】
昼の光が、食堂の大きな窓から差し込んでいた。
訓練が終わったあとの空気は、どこか張り詰めていて、
それでいて緩やかでもあった。
整然と並んだ生徒たちが、
給食のように一列になってカウンターへ向かっていく。
その列に、日下部の姿もあった。
皿を手に、真剣な面持ちで順番を待っている。
彼の番がきた。
カレーの鍋から、訓練生が静かにルーをよそう。
その量は、あまりに正確だった。
まるで計量器でも使っているかのように。
日下部が、そっと目を細めてつぶやいた。
「……おい、ルー少なすぎね?
上だけ色ついてるじゃん、これ“見せかけカレー”だよ」
真面目な顔の厨房訓練生が、ぴしりと返す。
「ルールです。
全員200gまでと指導されています」
「じゃあルー濃くして?
水っぽいとこ減らして、濃いとこだけ乗せて。頼むよ。
俺、命懸けて見守ってんのよ、ここ」
列の後方で、それを聞いていた岩村がくすりと笑う。
「見守ってるのは胃袋だろ」
松村も、スプーンの柄をまじまじと見つめながら首をかしげる。
「てかルーの濃度って“指導”できるのか?」
日下部はそのままカレー皿を受け取り、食堂の隅のテーブルへ。
ぶつぶつと文句をこぼしながら腰を下ろした。
「もういい……
これが令和の暴力だわ……」
少し離れた窓辺の席。
立真は、手を合わせるわけでもなく、
ただ遠くの空を見つめていた。
そして、ぽつりと漏らす。
「……残すか?」
その問いに、岩村が静かに水をコップに注ぎながら応じる。
「ああ。必要とする奴は、まだいる」
立真は、窓の外を見つめたまま、かすかに微笑んだ。
「なら、ちゃんとカレーのルールも更新しとこうか」
その言葉が届くやいなや、
すぐに日下部が手を挙げて声を上げる。
「マジでそれだけは頼むわ。
制度より先に直せ、そこ」
松村がふと立ち止まり、立真の方を向く。
「……ここに残るってことは、ルールも変えられるってことか?」
立真は頷く。
「変えられる。いや、変えていいんだ」
岩村がコップを置きながら言う。
「じゃあ、明日からはカレーのルールも変わるな。
誰かが困ってるなら、そいつに合わせてルールを変えていいんだ」
食堂の隅に、さざめく笑いと湯気がゆるやかに立ちのぼる。
それは、まだ続いていくものたちの、
静かな合図のようでもあった。
Scene09-06【場所:港区大門/カフェ玻璃館、2058年】
テーブルでは、次女と友達がスマホを囲み、キャッキャと笑っていた。
画面をのぞき込みながら、肩をぶつけ合う。
時折、誰かが声を上げ、また笑いが連鎖する。
その横を、小さな足音が駆け抜けた。
四女が勢いよくキッチンへ飛び込んでくる。
「ママ、今日は何?
ボルシチ? やだー。日下部のカレーない?」
「彼女」は鍋をかき混ぜたまま、すぐには答えなかった。
だが、その前に次女が振り向く。
「お父様にわがまま言わないの。
もう作ってくださってるんだからさ」
四女は唇をとがらせ、ちらっと結菜を見上げる。
その視線に、結菜は小さく息を吐いた。
棚を開け、奥からレトルトパックをひとつ取り出す。
「……ひとつだけ残ってたわ」
「やった!」
四女がぱっと顔を明るくし、手を叩く。
その様子を見た次女の友達が、小声でささやいた。
「お父様……?」
すぐにまた笑い声が弾む。
誰も悪意はない。
ただ、その呼び方の不思議さが、年頃の少女たちには面白かった。
──そのにぎやかさの奥で。
片瀬が、声を潜めて「彼女」に問いかけた。
「……あなたは、あの子たちの、その……何なんですか?」
「彼女」は鍋を混ぜる手を止めない。
赤いスープの表面に、静かな渦だけが広がる。
「父か母か聞いてるんでしょ」
さらりとした声だった。
「──戸籍上は父よ。
認知したの、四人とも」
少女たちの笑い声は、まだ部屋に響いている。
スマホの通知音。
食器の触れ合う音。
レトルトを温める湯の小さな沸騰音。
だが、結菜と片瀬のあいだだけ、別の緊張が立ち上がっていた。
家庭の温度の中に、制度の輪郭だけが静かに残っている。
