
夜の私の話
時計の針の音がやけに大きく聞こえた。今、何時なんだろう。時計を気にしなくていいというのは随分と気が楽だった。ゆっくりと目を開けるとぼんやりと天井が見える。視力は小学生の頃から悪かった。メガネを探す気力もないまま、天井の模様を見続ける。よく見たらマス目のようになっているんだ。白というかクリーム色なのか。天井なんて、しっかり見たのはいつ以来だろう。
ブブッとスマホが震えた。さっきから定期的にバイブレーションが鳴っていて、恐らくLINEグループが盛り上がっているのだろう。普段の私なら仕事の合間に返していたけれど、いまはスマホを見るということがしたくなかった。どういうわけか、そのグループLINEも興味がなかった。
もう外はすっかり日が落ちている。ゆっくりと溶けているようで、確実に時間は減っていくのだ。動いていないのであまり空腹も感じなかった。まるでベッドに吸い付いてしまったかのように動かなかった。
「休みって何したらいいかわからないよね」
同期の真弓はお昼ご飯だと言い張るメロンパンを頬張りながらそう言った。ぼろっと溢れたメロンパンの端を上手にキャッチし再度口に放り込んだ。一連の流れが妙にスムーズでつい見てしまった。
「明里は?なんか予定あんの?ゴールデンウィーク」
じっと見られてようやく自分に話がふられているのだと気付いた。真弓はいつも昼ごはんには菓子パンを2つ食べる。今日はメロンパンとクリームパンだ。さっさとメロンパンを半分食べた真弓が、じっとこちらを見ていた。
「いや、私も何していいかよく分からないけど……休みなんだから、真弓のやりたいことをやればいいんじゃない」
「旅行とかさ〜観光地とか?人を見にいくようなもんじゃない?料金もめっちゃ高いし。全然行く気になんない。行列ばっかだよ」
「彼氏さんは?家でお家デートとか」
「彼氏って呼んでいいのか、最近よくわかんないのよねー、てか聞いてよ明里!あいつさ〜……」
真弓はいつも自分の話をする。単純に可愛らしいと思っていた。私は人に話せるエピソードなんて持っていないから、真弓の話を聞くのが楽しかった。大人になったら私の気持ちを求められることも無くなっていた。相手の話を聞いているだけで「聞き上手だ」と褒められるようになったからだ。私はなにも感じて生きていないのだし、せめてみんなの話を聞こう。そのエピソードで、私も経験したつもりになればいい。そうすればこれは我慢ではない。真弓はいつも気持ちよさそうに楽しそうに話している。だからそれでいい。
自分に言い聞かせているように感じて、ハッとした瞬間に手が滑ったのか唐揚げが地面に落ちた。微かに自分の手が震えているのが見えたような気がしたが見ないふりをした。
その日はまるで気絶するように寝てしまった。自分が疲れている自覚はなかった。もう社会人歴も10年を超えているし、仕事で分からないことがあるわけでもない。毎日はしっかりと過ぎていく。お金が全くないわけでもないし、恋人もほしいとは思ってないし、時計の針はずっと鳴っている。
「……さすがにお風呂入りたい」
辛うじて歯磨きだけは済ませたらしいが、メイクも落とさずに着替えもせずに寝てしまった。ということは、ほぼ丸1日寝ていたようだった。だんだんと覚醒し、自分の状況を理解してくるとしっかりしなきゃという焦りが生まれガバッと起きた。休みとはいえ、昨日の格好のまま、メイクすら落とさずに丸1日ベッドにいたなんてびっくりだ。
とりあえずお風呂に……と、これがまた急に全てにおいてめんどくさい気持ちが体を支配する。これからお湯を溜めて、着替えを準備し、メイクを落として、体を洗い、髪を洗って……考えただけでも嫌だった。
「そういえば」
同期の松本が1人サウナデビューしたことを事務所で話しているのを聞いた。事細かに話してくれ、もう行った気になっていたが、実際に体感したらどうなるのかすごく試したくなっている自分がいた。こんな機会はなかなかない。明日も休みだ。細かく振動を続けているLINEの通知を切って、私は即座に近くのサウナのある銭湯を調べた。何もしなかった1日を挽回するような勢いだった。すると、歩いて15分くらいのところにあるのがわかった。地元の人が通っていそうな、雰囲気のある昔ながらの店構えに、隣にはコンビニがあるようだ。普段通勤で使う道の裏路地を入っていくらしい。こんなに身近に銭湯があるなんて知らなかった。
そうと決まれば体はスムーズに動き出した。メイク落としに洗顔、いつか使おうと思っていたお試しサイズのシャンプーとトリートメントのミニパック。化粧水と美容液、乳液とクリームはそのまま詰め込んだ。何かに移し替えるなんてことはしなかった。それでよかった。タオルに着替えを詰め込んだ。半袖のTシャツにスウェットのズボン。髪を縛るゴムまでちゃんと詰め込んだ。靴下なんていらない。裸足にサンダルだ。だってもう春なんだ。
「いらっしゃーい」
銭湯の番台のおばちゃんは若い子の後ろでニコニコと座っていた。若い女の子はこの休み中でも仕事を頑張っている。アルバイトさんなのか、学生さんなのか、おばちゃんの娘なのか……。
「大人1枚ですね。タオルはご利用になりますか?」
「あ、いえ、持って来ちゃって……」
「まあ、ご協力ありがとうございます。うちはね、最近ご近所のお客さんにはね、タオルを持って来てもらうように推奨してるんですよ。ごゆっくり」
若い女の子が一生懸命レジをしている間に、後ろからひょっこりと顔を出したおばちゃんが丁寧にお辞儀する。そんなふうになっているとは知らず、持ってきて正解だったのが少しだけ嬉しかったが、次に会計を待っていた人はタオルなどなく、とても身軽そうだった。確かにタオルを持って帰って洗濯をすることを考えたら持って来たくない気もしつつ、やっぱり慣れたタオルで体を拭くことはちょっとだけ安心だった。
「お客さん、サウナを使うんでしたらね、あのウォーターサーバーで水分補給なさってくださいね。最近はね、流行ってるのか、サウナ目当ての人も多いんですけどね、みんな水分不足になっちゃうんですよ。水分はしっかり摂らないと。食堂の方ではスポーツドリンクと栄養ドリンクを割った飲み物も販売始めたんですよ。なかなか美味しいの。ぜひ試してみてね。あぁごめんなさいね長々と」
「いえ、ありがとうございます」
女湯と男湯の真ん中にウォーターサーバーが置かれていた。その上にはデカデカと「水分補給!!」と書かれた紙が貼られている。コップがたくさん捨ててあるゴミ箱は、さっきレジをしていた若い子がさっと袋を引き抜いて新しい袋を設置していた。顔を真っ赤にしたおじさんが真っ先に水を汲んでは飲み干した。そしておばちゃんに「だから水を飲みなさいって言ったじゃない」と嗜められていた。
女湯の壁に設置された時計は21時を指していた。ワイワイともうみんな上がって帰ろうという雰囲気が漂っていた。レジの若い女の子がくれたロッカーキーの番号を探して歩く。畳のような、なんともいえない踏み心地の床がところどころ湿っていた。小さい女の子がお母さんに体を拭かれて、楽しそうに笑っている。お母さんも楽しそうだ。だが、その親子の真上のロッカーが、私の腕についているキーの番号を示していた。
「あ、ごめんなさい。のんちゃん、こっちおいで。お姉さん使うって」
「おねーたん今からお風呂入るの、へんなのー!」
「今来たところだからね。すみません、ありがとうございます」
「おねーたんねんね遅くなっちゃうよー!」
「のんちゃんは早く帰ってねんねするんだもんね」
「うん!もうねむーい」
のんちゃん、おねーたんはね、ほぼ1日寝ていたからちっとも眠くないんだよ。おねーたんの1日はね、今から始まるんだよ。なんて思いながら。
私は子供のようにワクワクしている。丸1日寝て、近くの銭湯に歩いてきた。この時間に初めての銭湯にいる。そしてこれから、メイクを落として、湯船に体を溶かし、サウナというものを体験して、真っ赤な顔でウォーターサーバーの水をコップに入れて飲み干すんだ。
「だから言ったじゃない、ちゃんと水分摂らないとって」
番台のあるロビー的な所でまるで茹でだこのように真っ赤な、Tシャツスウェットの女がいる。私だ。
意気込んで全てを洗い、まずは大浴場へダイブ(気持ちは)した私はここで先にいた近所から毎日来ているというおばちゃんにサウナのノウハウを教えてもらった。その大浴場のお湯の温度もおばちゃんの温度も高めでサウナに入る前にのぼせ、サウナに入ることなく脱衣所へ向かうこととなった。そして番台のおばちゃんによれば、それはこの銭湯の初心者あるあるなのだそうだ。
エアコンではなくて扇風機の風が妙に心地よかった。気づけば家にスマホを置いてきている。時間も、LINEも、人目も気にせず茹でだこになれた。こんな開放感は初めてだった。ガヤガヤと騒がしく、食堂の方からテレビを見ながら酒を飲むおじさんの声が聞こえ、子供たちが走り回り、おばちゃんは次に来た客にタオルは持参してくれると嬉しいと伝えていた。全てが夢なのかもしれないと思うくらいに、輪郭がない、そんな感覚だった。
そういえばお腹も空いている気がした。ウォーターサーバーの水である程度満たしたお腹は、食いもんをくれよと言わんばかりに音を鳴らした。食堂で食べても良かったが、夜もいい時間だ。変な真面目さがぶり返し、かるく済ませたかった。ゆっくり立ち上がって、おばちゃんに会釈をし銭湯を出ると、隣には調べた通りコンビニがあった。
サンドイッチとか、なにかそういうもので済まそう。そのくらいでいい。そう思ってコンビニに入ると、店員のユニフォームを着た外国の方がイラシャイマセーと言った。
私の他にお客は見当たらないようだった。少しだけぼーっとする頭をぶら下げてゆっくりと店内を周ると、とあるお菓子が目に入る。これも同期の松本が言っていた新作のお菓子だ。パッケージに描かれているのは焼いた鶏肉。「うま塩鶏皮味」と書いてある。ポテトチップスだろう。
普段はそういうものは食べないが、鶏皮味という絶妙な部位のチョイスが気になる。鶏肉とは違う味がするのだろうか。焼き鳥のかわってどんな味だっけ……と思考を巡らせていると、隣から声が聞こえた。
「あ、あるやん」
テレビでしか聞いたことのないような関西弁が急に聞こえ、ゆっくりと隣を見やると、若そうな男性が同じ商品を見つめている。片手にはスマートフォンを持っていて、その小さな四角形からはおーい、あったんやったら買ってやー?と男性たちの声がガヤガヤと聞こえていた。
大学生……だろうか。この辺に大学もないし、そもそも関西弁な時点でこの辺の人ではないと考えるのが普通だろう。整った眉毛に、パーマをあてた黒髪。耳にかかるほど長くて、その耳には1つだけ透明ピアスがしてある。ガタイがよく背も大きかった。恋愛経験がそんなに豊富でもない私から見ても、モテそうだ。
「これで4件目のコンビニやで?ほんで関西にも絶対あるやろ。コンビニなめんな」
電話の邪魔したらいけないし、本来買うものでもないのでそっとその場を離れた。会話を聞きながら、大学生の頃を思い出した。授業に真面目だった私と、よくサボっていた元彼。1度だけ授業を抜け出して朝まで一緒にいたこと。笑った顔が大好きだったけど、ずっと一緒にはきっといられないと卒業式で別れを告げたこと。こんな風に思い出すくらい、それが素敵な思い出になっていたこと。脳内がスライドショーのように思い出を映し始めるのを尻目に、サンドイッチ売り場で割引シールの貼られたハムサンドを手に取ろうとするとサンダルの音が聞こえた。
「お姉さんすんません、これ買いたかったですよね?ラスト2こやったんで」
「あ、あぁ、ありがとうございます」
あの大学生らしきお兄さんは鶏肉がデカデカと書かれたポテトチップスの袋をふたつ持っていてひとつをずいと差し出した。勢いに負けてつい受け取ってしまった。彼が持っていたであろう部分はほんのりと暖かい。
「これでもうここも売り切れですよ、オレめっちゃ探してたんで。そんな人気なんですかこれ」
「私の会社の同期も、このポテチの話してたんですよ。だから気になって。良かったですね、買えて」
「ほんまですか、社会人でもこういうの話題になるんですか」
「ええ。まぁ。こっちには旅行かなにかですか?」
「いや、オレ春からこっちの企業に就職したんですよ。でも大学も関西やったのに急に東京本社て。ゴールデンウィークくらい帰りたかったんですけどねぇー、ハハ、金もなくて。地元の奴らとオンライン飲み会してたんすよ」
そういえば彼の手にはおつまみやお酒の入ったカゴがある。とある病が流行してからは、こういったオンラインの飲み会も文化として根付いたんだ。新卒な彼が真面目に透明ピアスをしていることにちょっと可愛げを感じる。
人懐っこそうで、彼はきっと営業に向いていると思った。そういえば営業の宮下くんも関西から上京してきた子だ。彼はなかなか関西弁を話さないので、今聞いている関西弁混じりの敬語がすごく新鮮だ。背も高いからきっとスーツも似合うだろう。彼がにこやかに営業をしたら、マダムはまず即契約をするだろう。そんな風にぼんやりと考えていたら、急に冷たい缶酎ハイを渡された。
「このポテチには絶対レモンサワーやと思うんで、買うてみてください。金ないんで奢るとかできへんけど」
これが関西の人なのか、それとも彼の人柄なのか。缶酎ハイの冷たさから、ついさっき取り出したんだろうという物語が感じられる。初めて会う見知らぬ人に、急にお菓子とお酒をプレゼンされるなんて、なんて面白いんだろう。こんな経験を、今、私はしている。口角が上がっていくのがわかる。あぁ、楽しいんだな、私は。
「ありがとうございます。そしたら、そのポテチは私が奢ります」
「え、待ってお姉さん、オレそんなつもりで言ったんちゃいますって、知らん若造にあかんですって」
「いいの。今楽しかったから」
「そんなんずるいっすわ、東京こわ……」
私はゴールデンウィーク前におろしてそこそこ厚みがある財布を取り出した。
「結局ずーっと家でダラダラしてたよー」
真弓は休み前にダイエットでも取り組もうかなと言っていたが、今日も菓子パンを食べている。会社の1階に入っているコンビニのつぶあんパンだ。袋から取り出し、1口大にちぎって口に放り投げた。ちぎりが浅かったようで恐らくそこはまだパンだけだった。
「これ何?」
真弓のコンビニの袋とは別の袋が一緒に置いてある。中身が微妙に見えずに、でも何故か気になって聞いた。真弓は片眉を釣り上げて言った。
「松本がプレゼントだよ!とか言ってくれたのよ。最近人気で全然売ってないから、見かけたらぜひ買えよ!とか言ってさ。全く、私はポテトチップスなんか食べないのに。明里も食べないよね、見たことないもん」
ガサガサと袋から取り出したのは「うま塩鶏皮味」だ。銭湯のお湯の熱さ、扇風機の風とウォーターサーバーの水の冷たさ、そして、心地のいい関西弁混じりの声が思い出される。
「結構美味しかったよ、これ」
「え!?なんで明里が知ってんの!?」
レモンサワーと合うことは、真弓には言わない。
だって真弓は甘いものが好きだから。