
残響 -母の自死と、父の秘密と、私が描いた7枚の絵
喪失
2013年8月31日。
あの日、仕事を終えた私はいつものように白衣から私服に着替えて、職場である病院を出た。夏の終わりで雨も降っていたせいか、それほど暑さは感じなかった。
「保育園のお迎え、カッパを着て行かなきゃ。」
自転車置き場に向かって歩き出そうとした時、カバンの中の携帯が鳴った。夫からだ。
「すぐに妹さんに電話して。おれからは、言えないから。」
そう言って夫は電話を切った。携帯に、妹からの着信が何件も入っている。
さっきからずっと、鼓動が早い。嫌な予感がする。祈るような気持ちで電話をかけると、すぐに妹が出た。
「お母さんが亡くなったよ。」
予感していた通りの内容だったのに、口から出た言葉は「なんで…?」だった。
「なんでって…」
妹は消え入りそうな声でそう言って、口をつぐんだ。
鬱病を患っていた母は、ここ数ヶ月ずっと「死にたい」と口にしていた。 だけど、本当に死んでしまうなんて、思わなかった。
だって、毎日のように電話して、話をして、大丈夫だよって、諭して、大丈夫なんだからどうか死なないでって、何度も何度も、お願いしたじゃないか。それなのに、なんで…。
その後、妹と何を話したのか覚えていない。
雨の音だけが、今も身体の奥で響いている。

おかえりなさい
子どもの頃は絵を描くことが好きだった。だけど年齢を重ねるにつれて、自分の絵を上手じゃないと認識するようになり、 いつしか「絵を描くことが好きだ」と言えなくなった。学校の授業を最後に、絵筆をとることはなくなった。
それなのに2021年の春、 絵のワークショップ(アート合宿)に参加してみようと思ったのは、 単純に絵を描いてみたいと思えたから。大人になったおかげで、上手じゃないことへの恥ずかしい気持ちも薄れていたのかもしれない。こういうとき、大人になるって悪くないなと思う。
私が参加したアート合宿は、2泊3日絵を描き続けるというもので、絵の技術を学ぶというよりは、自分の内側にあるものを表現するという主旨だった。私は気分の赴くままに色を選び、心地よさに任せて筆を動かした。上手いとか下手だとかに捉われることなく、次々とキャンバスに色が重なって、次第に絵が現れてくるのが楽しかった。絵を描くのが好きだった頃は、こんな感覚で描いていたのかもしれない。
1枚目は水の流れのような絵を描き、2枚目は太陽のように迫力のある絵になった。次に何を描こうかな?と考えたとき、ふと思い浮かんだ。
「そうだ、玄関に飾る絵を描いてみようかな。」
ちょうど新居が完成したばかりで、玄関には絵を飾りたくてそのスペースを作ってあった。まさか自分の絵を飾るとは思っていなかったけれど、新居の玄関に飾る絵を、描いてみようか。上手く描けるかどうかはわからないけれど、チャレンジしてみてもいいかもしれない。家に帰ってきた家族を迎えるための絵。
そんな光景を思い描いていると、8年前に亡くなった母の記憶が蘇ってきた。
「マルやな!」
母はよく、私や妹にそう言った。「マル」はもちろん、◯のことだ。
「よく眠れた?マルやな!」
「朝ごはん食べた?マルあげるな!」
母から「マル」をもらえると、どんなに疲れていても気持ちが解れた。いい大人になってもマルをもらえることが嬉しくて、私と妹はわざと母に「今の、マルくれる?」と聞いたりした。
母が亡くなってからは玄関で母に迎えられることもなく、マルをもらえないことが寂しかった。
それなら、私が母の「マル」を絵に描いてみようか。寂しさも紛れるかもしれないし、私の家族もその温かなマルに迎えられるなんて、とても良いアイデアに思えた。
家族を迎える絵を描くために、キャンバスを手に取った。この絵にはマルしか書かないぞ、と決めて。
はじめに、太陽みたいに明るい黄色の絵の具をたっぷり筆に取り、キャンバスにひたすら、ぐるぐると円を描いた。
「その服ええやん、マルやな」
「じょうずにできたな、マルやな。」
母の声を思い浮かべながら、子どもたちの背中をなでるように、筆を動かし続けた。黄色の次はピンク、その次は緑色、紫色…。
筆やローラーを使っていくつもの丸を重ねた。
気が付くと、最初にのせた黄色い絵の具はほとんど見えなくなり、色も形もどんどん変化して、だけどほとんど迷うことなく手が動いて、不意に筆が止まった。
完成は、絵が教えてくれた気がした。
出来上がった絵を見て、その場にいたみんなが「あなたそのものだね」「まるであなたの分身みたい」と言った。けれど、眺めれば眺めるほど、それは母の面影と重なっていた。母を知る人が見たら、きっと同じように感じたと思う。
翌朝、合宿の最終日。10人の参加者によって描かれた絵が、大広間一面に並べられていた。みんなの絵を眺めながらゆっくりと歩く。昨日描き終えたばかりの「マル」の絵で視線が止まった。少し開いた窓からは、冷たい朝露の湿り気を含んだ風が吹いてくる。
「万が一この先自分に何かあっても、この絵が私の代わりに夫や子どもたちに”おかえりなさい”を伝えてくれるんだ。だとしたら、思い残すことが一つ減ったな。」
ふとそんなことを思って、ぽろぽろと涙がこぼれた。
この絵が描けて良かった。
失われていた何かが、形を変えて戻ってきた気がした。
この絵を描いた時から、新しい物語が始まっていたのかもしれない。

いってらっしゃい
京都に通っていた時期がある。あの頃、自然と祈ることが増ていった。道すがらに小さな神社がいくつもあって、つい足を止めてしまう。当時(そして今もだけれど)、遠く離れた場所で暮らしている大切な人がいて、私はただ祈ることしかできなかった。
「自分にはどうにもできない。」そう諦めて手をあげるような気持ちと、 「それでも、どうか幸せでほしい」と、手を伸ばすような気持ち。両方の気持ちを手放すことなく、そっと合わせる。
お社の前で手を合わせていると、それだけで少し安心できる気がした。
祈るという営みは、どこまでも自分のためだ。祈るだけで、こんなにも心を落ち着かせることができるのだから。
思えば私の母も、日々の暮らしの中で、いつも誰かのことを祈っていた。それは、いかにも「祈り」という形ではなかったけれど、あの人の胸の奥には、いつも誰かを案じる優しい不安が感じられた。そんな母の姿を思い起こさせる、忘れられない光景がある。
私も妹も、実家から仕事に通っていた頃のこと。当時妹は営業職で、自転車で営業先を回っていた。ある寒い冬の朝、「いってらっしゃい」と妹を送り出した後、母は玄関に置かれたままの手袋を見つけた。「こんなに寒いのに、手袋を忘れて…」心から残念そうに呟いて、「悔やむわぁ」と小さくため息をついた。その声には、手袋を忘れないようにと声をかけなかった自分への後悔がにじんでいた。母は誰かを送り出した後も、ずっと心でその人を追いかけているみたいだった。
何より、母の「いってらっしゃい」は、いつもちょっとだけ切実だった。私の記憶の中では、どこか必死な響きすら帯びていた。「いってらっしゃい」と言ったその瞬間に、大切な人は自分の手の届かないところへ行ってしまう…そんな恐れにも似た感情を、母は無意識に抱いていたのかもしれない。
母は、幼い頃に自分の母親を亡くしている。
当時、母の弟か妹になるはずの子をお腹に宿していた私の祖母は「赤ちゃんを産んでくるね」と病院に向かったまま、帰らぬ人となった。
出産時の事故による、突然の死だった。

She was here.
「いってらっしゃい」と「She was here」は、2023年の8月に八ヶ岳で描いた。2021年に「おかえりなさい」を描いたときと同様、私は再びアート合宿に参加していた。自宅でも絵を描くようになっていたものの、3日間寝食以外の時間を全て絵に費やせるという環境は、やはり特別だ。
8月だというのに八ヶ岳はそれほど暑さを感じることもなく、朝夕は肌寒いほどだった。絵を描いている間中、庭からはひぐらしの鳴き声が聞こえてきて、その一定のリズムが、ゆっくりと時間の感覚を遠ざけていった。記憶の深いところへと意識が沈んでいくのも、自然なことだったのかもしれない。
「いってらっしゃい」の絵を描き終えたのは二日目の午後だった。昼食も取らずに集中して描いたせいか、描き終わった後しばらくはその場から動けなかった。描き終えた満足感と引き換えに、蓄積した疲労が体の奥にずっしりと沈んで「今回はもうこれ以上絵を描かなくてもいいかな」とすら思っていた。ただ、ピンクと緑の2色に塗り分けたキャンバスが一枚余っていた。グラデーションの練習をしたときのものだ。「せっかくだから、この1枚だけ描いてお終いにしよう」そう思って、キャンバスを見つめた。ピンクと緑色のこの背景に、何を描き出そうか?
熱海で「おかえりなさい」の絵を描き、今回の八ヶ岳で「いってらっしゃい」の絵が完成した。それならば、行ってらっしゃいと送り出してお帰りなさいと迎え入れる、その存在を描いてみようか。ピンクと緑色に塗り分けた真ん中に少し深い色を塗り、そこに「存在」としての人物像を描くことに決めた。
とはいえ「人」を描くって、一体どうすればいいんだっけ。子ども達が小さかった頃にアンパンマンやドラえもんを描いたくらいで、本格的に人を描いた記憶なんて無い。
途方に暮れていると 「何か画像を参考に描くといいよ」と、アート合宿の主催者さんがアドバイスをくれて、私はスマホで仏像を検索し始めた。だけど、仏像ってだいたい座っているし、そもそも服装やポーズの癖が強い。それならマリア像はどうか?と探し始したところ、シンプルで描きやすそうな画像が見つかった。
まずは紙に鉛筆で下書きをし、それを見ながら今度はキャンバスに下書きし、さらに細い筆で絵の具を重ねながら陰影をつけていく。画像を見ながらとはいえ、人の形を描くってやっぱり難しい。
なんとかマリア像が形になってきて、もう少し描き込もうかと時計を見ると、いつの間にか終了時間が迫っていた。
ほとんど動かずにキャンバスと向き合っていたせいで、肩や背中がすっかりこわばり、軋むように痛む。名残惜しさを抱えながらも、私はあきらめて筆を置いた。
合宿の締めくくりとして、みんなでチェックアウトの時間を迎えた。参加者は円になって座り、それぞれが楽な姿勢で目を閉じ、静かに呼吸を整える。私は仰向けに寝転がって、ついさっきまで描いていたマリア像のことを思い返していた。
ひんやりとした床の感触が気持ちいい。
ひぐらしの鳴き声は、まだ聞こえている。
– もしかしたらこのマリア像って、お母さんなのかもしれない。
そういえばずっと、「いつか母の絵を描きたい」と思っていた。肖像画のようなものではなく、母を象徴するような絵を。たとえば、母が好きだった紫陽花のイメージだとか。でも、それならこの絵が、まさにその願いに応えてくれているような気がした。
行ってらっしゃいと送り出し、おかえりなさいと迎え入れる存在。 どんなときも受け止め、許し、ただ祈るマリア像。
– なんだ、この絵、お母さんだったんじゃん。
そう気づいた瞬間、目を閉じたまま涙が頬をつたった。

メッセージ
「メッセージ」という絵は、2023年の9月に開催されたedge展というグループ展に向けて描いたものだ。雨の日の母のエピソードを思い出し、こんなキャプションが先に浮かんでいた。
【メッセージ】
雨が降ると思い出す。
何日も続いた日照りの後、ようやく空から雨粒が落ちて地面を濡らし
「うわぁ、恵みの雨!畑の野菜が喜んでる!」と、まるで自分が畑の野菜であるかのように嬉しそうだったあなたのこと。
日常は悦びに溢れていると教えてくれた
あなたからのメッセージ。
母が渡してくれた溢れんばかりの愛情をイメージして、ひたすら筆を動かした。描き終えたのは、搬入日の前日だった。
「おかえりなさい」「いってらっしゃい」「She was here 」そして、描き終えたばかりの「メッセージ」。グループ展ではこの4点を中心に出展作品を構成した。会期中は、作品を見ていろんな人が声をかけてくれた。「母の愛情を思い出した」「絵から優しさと温かさを感じる」そう伝えてもらえることが多かった。私は、自分の絵を褒めてもらえたというよりも、母を褒めてもらえたような気がして、嬉しかった。

母が亡くなる前の数週間は、不安や希死念慮が特に強く、実家から離れた場所に住んでいた私は毎晩のように母と電話で話をした。当時の母は、「こんな自分は誰からも愛されないのだと」いう絶望を訴えていた。
私は、必死に否定した。私がどんなに母を愛しているか、母がどんなに素敵な人だと思っているか。家族も、母の友人たちも、どんなに母を誇りに思っているか、ありとあらゆる賛辞を伝えて、母に安心してもらおうとした。
だけど、私の言葉は母には届かなかった。届かないどころか、むしろ母を追い詰めていた。 後からわかったことだけれど、その時の私には想像もできない出来事が、母を苦しめていたから。
そんなことを知らない私は、「大丈夫だ」「愛されていないなんて、あなたの思い過ごしだ」と、母を励ましたつもりだった。だけどそれらの言葉は、きっと母を余計に苦しめた。私の言葉は「辛い」と言っている人に向かって、「いや、それはあなたの思い過ごしですよ。」と、本人の気持ちを否定するものだったから。母は、どれほどの孤独を感じただろう。
鬱病に対する知識がなかったとはいえ、母を想ってのことだったとはいえ、私はあまりにも無神経だった。「どうか死なないでほしい」と、自分のことしか考えてなかった。せめて、母の気持ちに寄り添ってあげられたらよかったのに。
母が亡くなった後、そんな後悔ばかりが募った。自分を責めることを、やめられなかった。けれど、本当はどこかでわかっていた。私が罪悪感にまかせて自分を責めるのは、自分自身のためだということ。
もし、私が母の気持ちに寄り添うことができていれば、自分は母を救えたはずだ。そんな理想の自分でいられたら、もっといい現実があったという希望を私は、手放したくなかった。自分を責め続けることで「母に寄り添えたはずの自分」という幻想に、少しでもすがりついていたかった。
「もっとできたはず」と思い続けることで、「できなかった」という辛い事実から目を背けようとしてたなんて、本当に嫌になる。
だけど、そんな嫌になってしまう自分と、もう少し一緒にいてあげよう。 あの日から13年という歳月を経た今は、少しずつそう思えるようになってきている。
私は、母を失った悲しみを乗り越えるために、母との記憶を表現したかったのかもしれない。あるいは、母に受け取ってもらいたかった愛を、絵として世界に残すことで、もう一度母に渡そうとしているのかもしれない。
いずれにせよ、確かなことがある。
母が自ら命を絶ったあの日、世界は色も形も失った。
だけど絵を描き始めたことで、母の存在は、色や形を持ってキャンバスの中に再生された。
「母に寄り添えたはずの自分」ではなく、「母の存在を再生する自分」として、私は今、生きている。

誇り
2024年9月、私は通算3度目の参加となるアート合宿で、新潟県の妙高高原にいた。今回の会場は、静かな森にあるロッジだった。外に出ると背の高い草がやわらかく風に揺れていて、少し歩けば妙高山が姿を現す大きな公園が広がっていた。遠くで鳥の声が響き、空気は澄んでいて、深呼吸するだけで心が少しずつほどけていった。
合宿中のあるワークで、「忘れられない思い出を」話した。子どもの頃、私は絶対に人前では泣かない子だったのに、たった一度だけ、どうしても我慢できずに隠れて泣いてしまった時のこと。
保育園である日、紙飛行機を作った。飛行機の先端の部分をズレないように折り、きれいな水色の紙飛行機ができた。飛ばして遊んでいたら、ある男の子のそばに私の紙飛行機が落ちた。男の子は紙飛行機を拾って、その先端を彼の鼻の穴に突っ込んだ。
きれいに尖っていた紙飛行機の先端が、男の子の鼻水で濡れてクニャっと潰れた。
ショックで涙が出そうになった私は、慌ててロッカーに頭を突っ込み、声を押し殺して泣いた。泣いているところは、絶対に誰にも見られてはいけないのだった。
ワークで語った記憶と一緒に、キャンバスに向かった。
あの時の私の内側で渦巻いていたのは、大切にしたかったものが損なわれた衝撃と、悲しみだった。誇りに思っていたものが傷つけられたことへの怒りと、屈辱の痛みだった。
私がこんなに大切にしているものを、どうして平気で傷つけるの?
私が誇っていたものを、どうして踏み躙るの?
私はその感情をぶつけるように、ペインティングナイフで絵の具をキャンバスに叩きつけた。斬りつけるように表面を削っては、その上からまた絵の具を叩きつける。
怒り、悲しみ、悔しさ、寂しさ、愛おしさ…
さまざまな感情を地層のように重ねながら、自分の奥深くに隠れていた、声にならない叫びに触れるのを感じていた。
こういう、何層にも重なってぐちゃぐちゃになった感情に、とても覚えがあった。
父親への、想いだった。

残響の前夜
父とは、もう2年以上会っていなかった。もしかしたら、もう二度と会わないかもしれないとすら思っていた。もしそうなったとしても、自分は後悔しないだろうとも。
母が亡くなって1年と少し過ぎた頃、父が幼い子どもを引き取って一緒に暮らしはじめたことを知った。子どもは当時1歳か2歳くらいだったけど、どう考えても母が亡くなる前に生まれていたことは確かだった。
父は定年退職後、人材交流事業で起業し、頻繁にアジア諸国へ出張で出かけていた。そんな中、現地の女性との間にできた子どもだった。たまたま戸籍を調べた兄が気づいて父を問い詰め、その事実がわかった。
父は「気づいてなかったはず」と言い張っていたけど、そんなわけない。母は、当然、気づいていたのだろう。
母がなぜ、あれほどまでに「自分は誰からも愛されない」と繰り返していたのか。なぜ、還暦を過ぎた自分の体型を「醜くなった」とまで言って落ち込んでいたのか。ずっと疑問に感じていた母の態度がようやく腑に落ちた。
その瞬間、母の絶望が私の中に流れ込んできた。胸の中が冷たい水でいっぱいになって、息ができなかった。
あの時、私は大好きだった父を失った。ずっと誇りに思っていた父を失った。あんなに大好きだった父を、もう、愛せなくなってしまった。 同時に私は、父のことが大好きだった自分自身も、失ってしまった。
父のことを嫌いになったわけじゃ無い。どんなことがあっても私の父だし、苦労して私を育ててくれた事実に変わりはない。だけど、以前のように父を慕う気持ちは遠くへ追いやられてしまった。会いに帰ることも、ほとんどなくなった。
だって、私が父を許してしまったら、お母さんはどうなるの?
私の中に、ずっと消えない叫びがあった。
それが、この合宿へ来て、「誇り」の絵を描きながら父への折り重なった感情を思い出すうちに、父への想いが少しずつ動き始めた。ずっと閉ざされていたその蓋に、ほんのわずかな隙間ができたような気がした。
「父を、描いてみようかな。」目の前に立てかけられた一番大きなキャンバスを見ながら、心の中でそうつぶやいた。
ここでなら、描けるかもしれない。
きっと、ここでしか描けない。
イーゼルを調節して、キャンバスをセットする。こんなに大きなキャンバスに絵を描くのは、初めてだった。長いヘラを使って、キャンバスにのせた絵の具を塗り広げるように描き始めた。色を重ねていくうちに、大きな山のような姿が浮かび上がってきた。自分で描いていながら、得体の知れないものが出てきた気がして、怖かった。
なんで、こんな絵になったんだろう?
しばらくその場に立ち尽くしていたけれど、気晴らしも兼ねて庭に出た。
木の根元に絵を立てかけ、私は少し離れた場所に腰を下ろした。草を揺らす風の音が、私を慰めるように辺りを包んでいた。しばらく座っていると、少しだけ、その怖さが和らいだ気がした。
けれど、この絵をここで仕上げることはできそうになかった。まだ完成にはほど遠いような気がしているのに、何が足りないのかわからなかった。残りの時間で描けるところまで描いて、いったん家に持ち帰ることにした。

残響
新潟で描き始めた父の絵は、姿をはっきりと表したものの、中途半端なままだった。自宅に持ち帰った後も、部屋の片隅に置かれた絵を眺める日が続いていた。父にまつわる感情の端にふれるたび、小さな傷がまた開くような気がした。にじむ痛みが、まだ終わっていないことを告げていた。
妹から突然の連絡があったのは、まだ正月の余韻が残る、2025年1月の夕暮れ時だった。 父がICUに入院し、危篤状態であるとの知らせだった。
認知症を患い、少し前に施設に入居していた父は、誤嚥性肺炎を発症してそれが急激に重篤化した。肺の炎症が強く、呼吸苦で自らチューブを抜く恐れがあるため、鎮痛剤で眠らせる処置が取られているという。高齢であることもあり、このまま肺炎が改善しなければ、万が一のことも覚悟しなければならなかった。
翌日、私は父の入院する病院へ向かった。妹も、横浜から駆けつけた。父は鎮静剤の影響でほとんど意識がなく、たくさんの管に繋がれたまま眠っている。呼吸が荒い。久しぶりに見る父の姿は、苦しそうではあったけれど、力強い印象は変わっていなかった。
私は父のそばに歩み寄り、顔を近づけ、手を握って呼びかけた。
「お父さん、わかる?」
「ずっと大好きだったよ。ありがとうね。」
私の口から出てきたのは、ずっと父に渡したかった愛と感謝の言葉、それだけだった。
母があんなに苦しんだのに、父を愛してしまったら、母の悲しみを裏切ることになるんじゃないか?どうせ父に愛されないなら、もう期待なんてしたくない。そんなふうに頑なだった気持ちは、どこかに押しやられてしまっていた。意識のない父に呼びかけた時、私は、父に愛を渡せる自分自身を、取り戻せたような気がした。
翌週、抗生剤が奏功したのか父の容体は奇跡的に回復した。私と妹は再び病院を訪れ、意識が戻った父と、今度はほんの少しだけ言葉を交わすことができた。父は私の名前を呼んでくれた。ただそれだけのことが嬉しくて、涙があふれた。
父は驚異的な回復力を見せ、翌月には慢性期の病院へ移り、家族で面会ができるようになった。私が持参した塩味饅頭を見て大喜びし「おお、これこれ!」と言いながら美味しそうに頬張った。
父は久しぶりに会う孫たちの成長にも目を見張りながら、それでも終始、穏やかで嬉しそうだった。「来てくれてありがとう」そう言って、私たちに微笑みかけてくれた。
父と再び会うまでに、積み重ねてきた時間。危篤状態の父に愛と感謝を伝えられたこと。意識を取り戻した父に、名前を呼んでもらえたこと。お土産のお饅頭を、食べてもらえたこと。それらすべてが、私の中にあった長い痛みを、少しずつほどいてくれた。
響き続けていた叫びは、もう、聞こえなかった。
自宅に戻った私は、部屋の隅に立てかけてあった父の絵に手を伸ばした。描き加えたいことは決まっていた。「ずっとそこにあった愛の感覚」を、この絵に吹き込んであげたかった。
筆をとり、幼い頃から親しんだ父の面影を、少しずつ絵に重ねていく。
芯の強さ、奔放さ、そして不器用な優しさ。父の、そうした性質に尊敬と愛おしさを感じる反面、その奔放さゆえに母が味わった苦しみを思うと、抗いようのない悲しみとやるせなさがこみ上げた。
父と親子であり続けた歳月と、言葉にしきれないほど絡まりあった父への想いが、絵の中でゆっくりと蘇っていく。
傷つくくらいなら、いっそ愛を渡さない方が楽だと、どこかで思っていた。 だけど今は、ただ渡せることが自分の喜びなのだと知っている。
父を許してしまったら、母を裏切ることになるんじゃないかと怖かった。
けれど今は、母の痛みごと父を愛していけたらと思っている。
たとえ痛みも悲しみも苦しみも全部引き受けることになったとしても、 もう一度父の愛に触れたいという想いだけは、消えなかった。 どんなに傷ついても、 心の奥に残っていた温もりの記憶は、失われることはなかった。
描き終えたとき、絵の中に息づいていたのは、もう痛みではなかった。
懐かしい記憶のさざめきが、静かに響き始めていた。
私は、長かった旅路をようやく終えられた気がした。

表垢。
ここでは、表で言わない(言えない)ことをこっそりと。