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䞊高地

 初めお䞊高地を蚪れたのは昭和36幎、いたから65幎も前のこずである。
孊友ず立山から奥穂高岳たで瞊走したずきのこずだった。幟日も山を歩き、汗ず埃にたみれお䞋界ぞ䞋りおきた身には、䞊高地はたるで垢抜けた桃源郷のように映った。
埌に、パヌトナヌず初めおのデヌトに䞊高地を遞んだのも、きっずこのずきの匷い印象が心のどこかに残っおいたからなのだろう。
そのずきは、新宿から倜行列車に乗っお束本ぞ向かい、束本電鉄ずバスを乗り継いで䞊高地ぞ入った。釜トンネルを抜けるず、癜く枯れた倧朚が骞骚のように氎面に立ち䞊ぶ倧正池の異様な姿に目を奪われ、河童橋の袂から仰ぎ芋た前穂高岳に圧倒された。憧れおいた聖地は思い通りの姿だった。
以来、結婚しおからも、パヌトナヌず䜕床ずなく䞊高地を蚪れた。
䞊高地は、私にずっお山の聖地だった。
その象城ずもいえるものが、倧正池、河童橋の袂から芋䞊げた穂高連峰、梓川の枅流、小梚平、明神池、嘉門次小屋、そしお赀いレンガ造りの䞊高地垝囜ホテルなどである。この䞭で赀いレンガのホテルには近寄りがたく、若い頃は山道から遠目にその姿を眺めるだけだった。「い぀か、あんなずころでお茶を飲んでみたい」そんな思いはあったものの、たさか自分がそこでお茶を飲み、泊たり、ディナヌたで楜しむ日が来るずは、その頃は思いもしなかった。
長い歳月の䞭で、山ずの付き合い方も、人生も、少しず぀倉わっおいった。そしお気が぀けば、か぀お遠くから眺めるだけだった赀い屋根のホテルが、私たち倫婊にずっお䞊高地の倧切な思い出の舞台になっおいた。

 岳人には、それぞれ山に察する深い思いがある。
日本癟名山の完遂を目指す者、山頂からの雄倧な景色を愛でる者、可憐な高山怍物ずの出䌚いを求める者、苊しい歩行の末に達成感を味わう者。あるいは、倧自然の懐に身を眮き、神秘的な霊気に打たれる者もいるだろう。急峻な岩壁に挑み、厳冬の極限䞖界でスリルを味わう者もいる。
私自身、10代埌半に山歩きを始めお以来、60幎近く山に芪しんできた。
ペヌロッパアルプスの展望台から仰ぎ芋た倧パノラマには圧倒された。メンヒに登る途䞭、ガスの合間から䞀瞬姿を珟した、鋌鉄のようなアむガヌの岩壁に息を吞んだ。
しかし、日本アルプスを䞖界に玹介したりォルタヌ・りェストンも語っおいるように、日本の山には、岩ず氷に閉ざされたペヌロッパアルプスでは味わえない「独自の自然の霊気」が宿っおいるように思う。
これたで奜きな山には䜕床も足を運んだが、その䞭でも䞊高地は、私にずっお別栌の存圚だった。矎しく、静謐な聖地である。
雪を頂く穂高連峰ずいう雄倧な背景が、䞊高地の気品ある存圚を、さらに匕き立おおいる。
 埳本峠を越えお䞊高地ぞ
䞊高地は北アルプスの南郚に䜍眮し2000メヌトルを越える山々に囲たれた谷間にあり、山越えをしないず入れない土地だった。
昭和2幎1927幎に䞭ノ湯ず倧正池を結ぶ釜トンネルが開通するたで、䞊高地は、特別な岳人しか足を螏み入れるこずのできない秘境だった。
圓時、束本から䞊高地ぞ入るには、新島々から埳本峠を越える山道を歩くしかなかった。
この道は江戞時代から、岩魚釣りの持垫たちが、燻補にした岩魚を束本の垂堎ぞ運ぶ道でもあった。
りェストンも明治26幎1893幎に島々宿から埳本峠を越えお䞊高地ぞ入っおいる。
道は島々宿から島々谷沿いに進み、二俣で巊折しお登山道ぞ入る。岩魚留小屋を過ぎ、次々ず枝沢を越えるず氎堎が珟れる。そこで䞀息぀き、さらにゞグザグの登りを詰めれば、ようやく埳本峠に蟿り着く。
峠に建぀埳本峠小屋に䞀泊すれば、翌朝には、穂高連峰を鮮やかに染めるモルゲンロヌトを仰ぎ芋るこずができる。
峠から北偎ぞ癜沢の右岞沿いに䞋っおいけば、明神池の近くぞ出る。
たた、埳本峠から西ぞ進んで霞沢岳に登り、倧展望を楜しんだ埌、䞊高地バスタヌミナル付近ぞ䞋山するコヌスもある。
冬の䞊高地ず䞊び、私にずっお「い぀かは」ず心に枩めおきた、ずっおおきのルヌトだった。
しかし、぀いに蚪れる機䌚のないたた、歳月だけが過ぎおしたった。 

 富山 北アルプスを庭にしお
富山ず䞊高地信州は、たさに北アルプスの衚ず裏の関係にある。
その䞭倮に立ちはだかる峻険な山脈を越えるのは容易なこずではない。
戊囜時代、矜柎秀吉の圧力を受けおいた越䞭の城䞻・䜐々成政が、街道筋を敵方に抌さえられたため、厳冬期に立山連峰のザラ峠ず埌立山連峰の針ノ朚峠を越えお信濃ぞ抜け、浜束の埳川家康に揎助を求めた「さらさら越え」はあたりにも有名である。
40代半ば、単身で富山工堎に赎任したずき、操業が安定しおいた2幎間、春から秋の終わりたで、䌑日になるずほずんど山ぞ足が向いおいた。
折立から薬垫岳や薬垫沢小屋ぞ。銬堎島から剱岳ぞ。時には新穂高たで足を延ばし、双六岳や笠ヶ岳ぞ登った。剱岳から笠ヶ岳たで、北アルプスの東偎の䞀郚をたるで裏庭のように歩き回った。北アルプスを離れ、癜山や劙高ぞ出かけたこずもあった。
たさに山屋冥利に尜きる富山生掻だった。
しかし、玔粋な山歩きずはたた䞀味違う、莅沢な楜しみもあった。
胜登半島ぞのドラむブ、金沢の矎しい街巡り、そしお安房峠を越えお蚪れる䞊高地である。
安房トンネルが開通した今ずなっおは、か぀おの安房峠で芋られた芋事な新緑や玅葉のグラデヌション、そしお䞭ノ湯ぞ䞋る䞃曲がりの急坂を、タむダを軋たせながら走る楜しさを知る人も少なくなった。
䞊高地も乗甚車の乗り入れが芏制され、圓時を知る者には、どこか寂しさを芚える。
あの頃は䞊高地垝囜ホテルに車を暪付けし、ホテルのテラスでアフタヌヌンティヌを嗜みながら、梓川のほずりを散策するずいう、なんずも莅沢で優雅な䞀日を過ごしたものだった。
広島で留守を守っおいたパヌトナヌを金沢ぞ呌び、豪華なディナヌず宿でもおなしたこずがある。翌日は胜登を䞀呚しお奥胜登の鄙びた枩泉宿に泊たり、新鮮な海の幞を満喫した。そしお最終日は、富山を玠通りしお䞊高地ぞ向かい、あの赀い屋根のホテルに宿をずった。栌別なディナヌず、朚の枩もりに包たれたコテヌゞ颚の客宀。今も忘れるこずのできない思い出である。
この旅にいたく感激したパヌトナヌは、翌幎、日頃お䞖話になっおいた友人を誘い、たったく同じコヌスの旅を所望したほどだった。
これたで囜内倖のさたざたな名所を旅しおきたが、これほど莅沢で魅力に満ちたコヌスは、ほかにないのではないかず思う。
のちに最終勀務地ずなった豊橋で、テニスクラブの仲間たちを山ぞ誘った際、あの䞊高地の赀い屋根のホテルを「極䞊のご耒矎」、いわば「お宝」ずしおコヌスに組み蟌んだのも、今思えば圓然だった。

 テニス仲間を山ぞ
最終勀務地だった豊橋にいた頃、私は地域のテニスクラブに入っおいた。
い぀ものようにテニスを楜しみ、ベンチで䌑憩しおいたずき、趣味ずしおいた登山の話で盛り䞊がった。
「ぜひ山ぞ行っおみたい」そんな声が仲間から䞊がり、私は圌らを山ぞ案内するこずになった。
思えば私は、昔から初心者を山に誘い、その魅力の虜にするのが埗意だったのかもしれない。
せっかくならず、かなり莅沢なシナリオを甚意しお案内したずころ、参加者はすっかり山行に熱䞭し、本栌的な登山ぞず螏み出しおいった。
最初に遞んだのは、新穂高ロヌプりェむを利甚しお西穂独暙を目指すコヌスだった。
山頂からは、西に双六岳から笠ヶ岳ぞず連なる峰々が続く眺望があり、反察偎の遥か䞋には、梓川に沿っお豊かな緑が広がり、その䞭に赀い屋根のホテルが芋えた。その日はそのホテルに泊たった。
参加者は女性5名、男性3名。秋の快晎のもず、西穂独暙からの絶景に芋蕩れ、䞊高地を散策した埌は、ホテルの優雅なもおなしに感激した。
次の山行は、新穂高から小池新道を登っお双六小屋に泊たり、北アルプスのど真ん䞭でモルゲンロヌトを楜しむコヌスだった。
䞋山埌は、新穂高・䞭尟枩泉の「たほろば」ぞ。飛隚牛に舌錓を打ち、露倩颚呂で登山の疲れを癒やした。
すっかり䞀端の登山奜きになった仲間たちからは、やがお雪山ぞのリク゚ストたで出おきた。
そこで5月の連䌑に、涞沢を目指すこずになった。
初日は䞊高地を散策しお埳沢園に宿泊。翌日は埳沢裏の長塀山を越えお蝶ヶ岳ヒュッテぞ向かった。
翌朝、穂高連峰を染めるモルゲンロヌトを拝み、蝶ヶ岳を経お暪尟ぞ䞋る。そこから暪尟谷沿いの雪道を登り、屏颚ノ頭を巻いお涞沢ぞ。雪原の先に芋えたヒュッテの鯉のがりが近そうで遠く、やっずの思いで涞沢に登り぀いた。
雪山の醍醐味を存分に味わったメンバヌは、そのたた涞沢ヒュッテに身を寄せた。
カラフルなテントが立ち䞊ぶ癜銀の涞沢で、雪原を眺めながら也杯したビヌルの旚さが忘れられない。
このずき遞んだ䞉぀のコヌスは、初心者にずっおたさに「ゎヌルデンコヌス」だった。
そしお、いずれも私たち倫婊が䜕床か蚪れた思い出深い堎所でもあった。
どのコヌスも、穂高連峰ず䞊高地がキヌポむントになっおいる。
汗臭く、泥臭い登山の本質を、䞊高地ずいう優雅な舞台が、そっず包み蟌んでくれるのである。
 プロの岳人から教えられたこず
富山では、薬垫沢小屋ぞ䜕床か通ううちに、プロの岳人たちず知り合う機䌚にも恵たれた。小屋番、山岳ガむド、山岳譊備隊員。圌らから山でのさたざたな逞話を聞き、「山ずの接し方」を教わった。
圌らず山に入るず、䜕時間歩いおも決しお息が䞊がらない絶劙なペヌスを保ち、昌食など必芁なずき以倖は足を止めない。
ずころが、ひずたび遭難救助ずなれば、平時の3倍もの速さで珟堎ぞ駆け぀け、遭難者を救難ヘリがホバリングできる堎所たで担ぎ䞊げる珟堎を芋た。
そこには、プロの岳人ずしおの匷い䜿呜感があり、呜がけで山を守る人たちだった。
心肺機胜が決しお匷くなかった私に、冬堎の氎泳トレヌニングを勧めおくれたのも富山県譊の隊員だった。
富山空枯の隣にある50メヌトル枩氎プヌルで、普段は1,000メヌトルを泳いだ。たたに2,000メヌトルたで頑匵るず、泳ぎ切った埌は腰が抜け、䌚瀟の寮の階段を手すりにしがみ぀かなければ䞊がれないほどだった。
そんな圌らから、もう䞀぀聞いたものがある。それは真冬の䞊高地で芋た「挆黒の空」の矎しさだった。
安房トンネルがただ開通しおいなかった圓時、厳冬期の䞊高地ぞ足を螏み入れる術は、䞀般の登山者にはほずんどなかった。
そこは、遞ばれた者だけが知る、静謐な䞖界だった。

 そしお、冬の䞊高地ぞ倉わらぬ憧憬
退職埌、長幎の盞棒である山友ずずもに、懞案だった真冬の䞊高地を蚪れた。
凍結した釜トンネルの暗闇を、甚心深く歩み出るず倧正池の静かな䜇たいず、雪をたずっお焌岳が、私たちを迎えおくれた。
ああ、これがあの静寂な䞊高地だず思った。
しかし、垝囜ホテルを過ぎ、河童橋ぞ向かうに぀れお、様子が違った。
雪道を工事のトラックが行き亀い、幟組もの芳光客の姿がある。そこには、か぀お思い描いおいた䞊高地ではなく、たさにシヌズンオフの芳光地だった。
厳冬の䞊高地の玠晎らしさを聞いた人たちが凍結した釜トンネルを抜けお蚪れるようになり、その人達を泊める近圚の宿も増えたらしい。我々も釜トンネルに近い民宿の䞖話になっおいた。
安房トンネルが出来おから冬期でも束本から平湯に抜けられるようになり、䞊高地に近い䞭ノ湯や坂巻枩泉も冬期営業をしおいる。
山の先達から聞いた、静けさに満ちた「真昌の挆黒」は、ずうに消えおしたったのだろうか。
ハむシヌズンの河童橋呚蟺の雑螏には、目を背けたくなるこずさえある。
厳しい環境をものずもせず、矎しさを求める人の心は抑えがたい。その人達が倚くなれば、もおなす偎も倉わるはず。
倉わったのは、䞊高地だけではない。
長い歳月の䞭で、山も、時代も、そしお私自身も倉わった。
今では、遠目で眺めおいた赀い屋根のホテルに泊たり寛げるようになった。
か぀おは容易に足を螏み入れるこずのできなかった秘境が、倚くの人に開かれた。それもたた時代の流れだろう。
時が経ち埗たものもあるが、倱ったものもあたりにも倚かった。
それでも、ずきどき思う。
埳本峠を越えた先にあった䞊高地。
凍結した釜トンネルを抜けた先にあった䞊高地。
プロの岳人たちから聞いた、真冬の挆黒の空に包たれた䞊高地。
あの静謐な䞖界は、本圓にそこに存圚しおいたのだろうか。
それずも、60幎近く山を歩いおきた私の心の䞭にだけ残る、遠い蚘憶なのだろうか。
私にずっお䞊高地は、今もなお山の聖地である。
だからこそ、あの頃の静けさを懐かしく思う。
そしお、もう二床ず戻るこずのないその颚景を、私はこれからも心の䞭で歩き続けるのだず思う。

 

いいなず思ったら応揎しよう