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金の切れ目が縁の始まり、経営企画部長松田の六ヶ月

    あらすじ
    建設業向けSaaSスタートアップの経営企画部長・松田陸人は、ランウェイ六ヶ月という現実に直面する。資金調達の鍵を握るのは、自社サービスのコアエンジンの知財を持つ取引先・能登システムズ社との交渉だった。

    笑顔で「難しい」と言い続ける能登英二。リードVCの城島が静かに告げる、「ディールブレイクですね」。そして「なぜか正義は勝つ」と言って動き出した老弁護士・菅野先生。

    何度も気持ちが折れた。それでも手を動かし続けた六ヶ月。ファイナンスとは数字ではなく、この山を一緒に登るかどうか——その意志の話だった。

    プロローグ「虚無」

     「現状維持としませんか?」

     その言葉を聞いた瞬間、松田陸人の頭は真っ白になった。

     あと四ヶ月で資金がショートする。それはわかっていた。だからこの二ヶ月、走り続けてきた。なのに「様子を見る」とはどういうことか。

     隣で誰かが息を呑んだ。対面の男は、穏やかな笑顔のままだった。

     しばらくして、静かな声が聞こえた。

     「それはディールブレイクですね」

     終わった、と松田は思った。何度目かの、その感覚だった。

     ——二ヶ月前のことから、話さなければならない。

    第一章「覚悟」

     午後十一時を過ぎても、Kソリューションズのオフィスに残っているのは松田陸人だけだった。

     五十人が詰めるオフィスは、昼間はそれなりに賑やかだ。営業チームの電話の声、エンジニアたちのキーボードの音、会議室から漏れてくる誰かの笑い声。でも夜になるとしんと静まり返り、松田のモニターだけが白く光っている。

     画面には一枚のスプレッドシートが開いていた。現預金の残高、毎月の支出、売上の見込み。いわゆる資金繰りの見通しを示す表だ。

     松田は経営企画部長という肩書きを持っているが、やっていることは何でも屋に近い。予算管理、契約書のチェック、採用計画、株主総会の準備。社長から「これ、松田さんお願い」と言われたものが、気づけば全部自分の仕事になっている。資金繰り表もそのひとつだった。

     数字を眺める。

     この表に並んでいるのは、ただの数字ではない。社員五十人の給与であり、顧客との約束であり、この会社が始まった日からの積み重ねだ。数字の多い少ないに、いろんな人間の思いが詰まっている。

     計算するまでもなかった。もうずっと前からわかっていた。でも改めて数字として見ると、胃のあたりがじわりと重くなる。

     あと六ヶ月で資金がショートする。

     松田はふと、最悪のケースを頭の中で整理した。このまま資金調達ができなければ、会社はどうなるか。

     まず給与が払えなくなる。社員五十人への給与が止まった時点で、実質的に終わりだ。その後は債権者への弁済、資産の清算という流れになる。

     では自分はどうなるか。

     Kソリューションズは株式会社だ。会社が潰れても、社員が個人的に借金を背負うわけではない。社長も同じだ。会社の資金は投資家からの出資が中心で、金融機関からの融資はほとんどない。会社が清算されても、社長が自己破産するような事態にはならない。それが、スタートアップという形態の一つの特徴だった。

     松田はそのことに、少し安心していた。自分が安心しているのが少し不思議だったが、事実として安心していた。最悪でも、誰かが人生を失うわけではない。会社がなくなるだけだ。

     ただ、五十人が職を失う。それは事実だった。

     スタートアップの世界では、資金が何ヶ月持つかを「ランウェイ」と呼ぶ。飛行機が離陸するための滑走路。その滑走路が尽きる前に次の資金調達を成功させなければ、会社は飛び立てないまま終わる。今のKソリューションズのランウェイは、六ヶ月。半年以内に次の資金を確保できなければ、会社は終わりだということだ。

     松田はスプレッドシートを閉じた。見ていても気持ちが沈むだけだ。

     立ち上がってコーヒーメーカーに向かう。カップに注ぎながら、窓の外を見る。夜の街が静かに光っている。十月の終わり、窓ガラスが少し冷たくなってきた。

     廊下から足音がした。

    「まだいたんですか」

     黒川誠が立っていた。Kソリューションズの社長だ。スーツのジャケットを脱いで、シャツの袖をまくっている。体育会系らしく、どんな時間でも姿勢だけはいい。論理的で決断が早い。外から見れば隙がない人間に映るだろう。でも松田が入社してから気づいたのは、黒川が「お願い」と言うとき、それはほぼ命令だということだった。柔らかい言い方をするが、断れる雰囲気がない。そして断れない仕事は、全部松田のデスクに積み上がっていく。それが黒川誠という人間だった。

    「資金繰り表を見ていました」

     松田がそう言うと、黒川は少し間を置いた。

    「そうですか」

     それだけだった。コーヒーメーカーがかすかに音を立てている。

     黒川がカップを手に取り、窓の外を見た。松田も同じ方向を見た。しばらく、二人とも何も言わなかった。

     松田は頭の中で、この会社の構造を整理した。

     Kソリューションズは建設業向けのSaaS「K-SiteLink」を提供している。通称KSL。SaaSとは、月額課金型のソフトウェアサービスのことだ。顧客は毎月お金を払い、KSLを使い続ける。売り切りではないから、顧客が離れなければ毎月安定した収入が入る。現場の工程管理、図面の共有、職人とのコミュニケーション。アナログな業界にデジタルを持ち込む、というコンセプトは悪くなかった。いや、今でも悪くないと思っている。実際、売上は着実に伸びていた。ただ、問題は別のところにあった。

     原因はわかっていた。ずっとわかっていた。でも健康診断の結果を引き出しにしまい続けるように、見て見ぬふりをしてここまで来てしまった。そういう存在が、この会社にはある。

     KSLのコアエンジンは、能登システムズ社が開発した「NOTO-Engine」だった。建設現場向けのデータ連携プラットフォームを動かす、いわば心臓部だ。そしてその知財は、能登システムズ社が持っている。KソリューションズはNOTO-Engineの知財を借りてKSLを成り立たせている構造だ。NOTO-Engineを活用して、KSL向けのプラットフォームを開発してもらったとき、トータルで三億円かかった。毎月分割で支払う契約で、利息もついている。これが毎月、じわじわとキャッシュを削っていく。

     さらに、コアの知財を持っているのが能登システムズ社である以上、改修も拡張も、全部能登システムズ社に頼むしかない。何かするたびに「改修費」という名目で請求が来る。断れない。断ったら、システムが動かなくなる。気づいたら、Kソリューションズは能登システムズ社なしでは何もできない体になっていた。

     発注を絞り始めたのは一年ほど前からだ。改修の見積もりが明らかに高すぎた。相場の倍以上。さすがに黒川も「これは払えない」と言った。保守契約も範囲を絞り、金額を落とした。能登システムズ社との関係は、気づけばぎこちないものになっていた。最初はうまくやっていたのに、いつからこうなったのかと松田は思うことがある。でもNOTO-EngineなしではKSLは動かない。ライセンス料だけは払い続けている。月に何百万という金額が、毎月能登システムズ社に流れていく。これが、問題の根っこだった。

     黒川もわかっているはずだ。同じ数字を見ている。でも二人とも、口に出せなかった。この問題とは向き合いたくなかった。能登システムズ社が苦手だった。正確に言うと、いつの間にか嫌いになっていた。最初はそうじゃなかったのに。

    「次の資金調達、難しいですよね。今の状態では」

     松田が先に言った。黒川はゆっくりと頷いた。

    「ええ」

     少し間があった。

    「能登システムズ社との関係を何とかできれば、変わるんでしょうけど……」

     松田がぼやくように言った。

     黒川はその言葉には答えなかった。窓の外を見たまま、少し間を置いてから言った。

    「まず城島さんに連絡を入れましょう。ファーストウェーブに相談するところから始める」

     話をそらされた、と松田は思った。でも自分もそうしたかった。能登システムズ社の問題には、できれば触れたくない。黒川も同じなのだろう。

     松田は頷いた。

     その夜、松田は日付が変わる前にオフィスを出た。

     家に着いたのは午前一時を過ぎていた。玄関の鍵を開けると、リビングの電気が消えていた。妻の時音はもう寝ているだろう。そっと廊下を進んで、寝室のドアを開けようとしたとき、中から声がした。

     「今日も遅かったね」

     起きていたのか、と思った。「うん」とだけ答えて、ドアをそっと閉めた。

     隣の子供部屋を覗いた。長男が中学受験の問題集を枕元に置いたまま、口を開けて寝ていた。小学校五年生。来年が受験本番だ。塾の費用も馬鹿にならない。

     松田は思った。会社がなくなったら、どうなるだろう。転職はできるはずだ。四十を超えているが、経営企画の経験は積んだ。でも転職先の条件次第では、この子の受験を見直さないといけないかもしれない。

     時音はなんと言うだろう。怒るか。呆れるか。

     たぶん何も言わない。ただ「そっか」と言って、翌日には何事もなかったように動いているだろう。昔のクライアントに連絡を入れて、デザインの仕事を再開する算段を、松田が気づく前に始めているかもしれない。そういう人だ。

     廊下の壁には、週末の予定が書かれた紙が貼ってあった。時音が書いたものだ。塾の保護者会、学校説明会、冬期講習の面談。息子の中学受験に向けた予定が、隙間なく並んでいる。松田の名前も書いてある。同席してほしいということだ。

     松田には友人との約束もなく、休日の予定など自分では作れない。仕事が入ることもたまにある程度だ。でも時音は毎回、事前にこうして壁に貼って教えてくれる。確認もしてくれる。仕事ができるとはこういうことか、と松田はいつも思う。

    第二章「戦慄」

     ファーストウェーブ。KソリューションズのリードVCだ。担当の城島達也は、いつも静かで、感情をほとんど表に出さない人間だった。でも松田は城島のことを信頼していた。数字を見る目が正確で、余計なことを言わない。

     翌朝、黒川がファーストウェーブにメールで連絡を入れた。

     城島からの返信は三十分以内に来た。

     「ちょうどよかったです。私からもお伝えしたいことがあります。明日十時でいかがでしょうか」

     松田はその一文を読んで、嫌な予感がした。「私からもお伝えしたいことがある」。それはつまり、城島もすでに何かを把握しているということだ。

     翌日、松田と黒川はファーストウェーブのオフィスに向かった。

     エレベーターを降りながら、松田は思った。城島が何を言ってくるか、不安しかない。都合の悪い数字を突きつけてくるのも城島なら、それでも一緒に動いてくれるのも城島だ。敵なのか味方なのか、いつもどこかわからなくなる。

     ファーストウェーブのオフィスは、Kソリューションズとは対照的に整然としていた。無駄なものが何もない。観葉植物すらない。会議室に通されると、城島達也はすでに座って待っていた。

     「お時間いただきありがとうございます」

     城島は立ち上がりもせず、軽く頭を下げた。感じが悪いわけではない。ただ、余計な動作をしない人間なのだ。松田はこの人と会うたびに、少し背筋が伸びる気がした。

     黒川が口を開く前に、城島が資料を取り出した。

     「先にこちらをご覧いただけますか」

     一枚のシートだった。Kソリューションズへの投資額と、その後の資金の流れが図示されている。シリーズAで調達した金額。月次の支出内訳。そして能登システムズ社への支払い累計。

     松田は数字を追った。

     目が止まった。

     「これは」

     「シリーズAで調達いただいた資金の、かなりの部分が能登システムズ社に流れています」

     城島が静かに言った。感情のない声だった。ただ事実を述べているだけ、という話し方。

     松田は隣の黒川を見た。黒川は資料を見たまま、表情を変えなかった。

     やはりこの話か、と松田は思った。月次の資金繰り表で見ていた数字とは角度が違う。自分たちは売上から能登システムズ社に流れていると見ていた。でも投資家から見れば、調達した資金がそのまま流れているように映る。同じことを言っているようで、見え方が全然違う。改めて図示されると、その構造の歪さが腑に落ちた。

     図を追いながら、松田は頭の中で整理した。投資が入れば能登システムズ社への支払いに消える。資金が減ればまた投資が必要になる。またそこに消える。構造として、そうなっている。

     ループだ。完全な負のループになっている。

     「投資した資金が能登システムズ社に流れ、またKソリューションズが資金不足になり、また投資が必要になる。この構造が続く限り、我々も追加の投資判断ができません」

     城島が続けた。

     黒川が静かに口を開いた。そんなことはわかっている、という含みがあった。苛立ちを抑えているようにも見えた。

     「では、どうすればいいですか」

     待ってましたと言わんばかりに、城島が資料をめくった。その手がどこか生き生きとしていた。負のループを説明していたときとは、明らかに違う。

     「今回、我々は四億円の調達を想定しています。ファーストウェーブから二億、アルファパートナーズから一億。この二社がリードとして引っ張ります。残りの一億をフォロー投資家から集める想定です。ただし、この資金から能登システムズ社への支払いに充てられるのは、最大で二千万円です」

     松田はメモを取った。四億調達して、能登システムズ社に使えるのは二千万。能登システムズ社への未払い残債は一億円ある。差額の八千万をどうするか。

     「残りの八千万は」

     「能登システムズ社側に諦めてもらうしかありません」

     城島がはっきりと言った。

     「債務放棄、ということですか」

     「そうなります」

     債務放棄とは、債権者が「もうこのお金は返さなくていい」と宣言することだ。能登システムズ社にとっては、持っていた一億円の債権のうち八千万円をゼロにするということ。普通なら到底飲める話ではない。でも今回は、それを飲んでもらうしかない。

     松田は数字を整理した。未払い残債一億のうち八千万の債務放棄。月五百万のライセンス無償化。売上連動の十五パーセントの撤廃。能登システムズ社にとっては、どれも簡単に飲める条件ではない。

     売上連動の十五パーセントというのは、Kソリューションズが顧客から得た売上の十五パーセントを能登システムズ社に支払う契約のことだ。顧客が増えれば増えるほど、能登システムズ社への支払いも増える。成長すれば成長するほど、キャッシュが出ていく。この構造が残り続ける限り、Kソリューションズが本当の意味で自立することはできない。だからこれも、必ず撤廃しなければならなかった。

     「理想は、能登システムズ社との関係を完全に整理することです」

     城島が続けた。

     「ライセンス契約を解消して、システムをKソリューションズ側で内製化する。そうすれば、毎月の支出構造が根本から変わります」

     松田は思った。NOTO-Engineへの依存をなくして、KSLのコアを自前で作り直す、ということだ。自社にもエンジニアはいる。できない話ではない。理想はそうだ。でも現実には、能登システムズ社はそれを簡単には認めないだろう。少しでも知財を侵害していると判断すれば、すぐに文句を言ってくる。それが彼らの唯一の武器だ。

     「城島さんは、能登システムズ社が動くと思いますか」

     黒川が聞いた。珍しく、率直な問いだった。

     城島は少し間を置いた。

     「正直なところ、簡単ではないと思います。ただ、VCが同席して条件を提示すれば、プレッシャーにはなる。我々が本気だということを示す意味でも、一緒に動きます」

     松田はその言葉を聞きながら、少し複雑な気持ちになった。

     城島は助けに来ているのか。それとも——。

     VCがスタートアップに投資するとき、ただお金を出すわけではない。様々な権利を持つ。たとえば残余財産分配権というものがある。会社が売却されたり清算されたりするとき、普通の株主より先にお金を回収できる権利だ。また、今回のように前回より低い評価額で資金調達をする場合、VCの持ち株比率が自動的に調整される条項が入っていることが多い。いわゆるダウンラウンド調整だ。つまりKソリューションズが苦しくなればなるほど、VCにとっては有利な条件になる仕組みだ。

     城島は助けに来ているのか。それとも、より有利な条件を積み上げに来ているのか。

     おそらく両方だ、と松田は思った。城島個人はKソリューションズの成功を願っているはずだ。でも城島はファーストウェーブの人間だ。ファンドの投資家に対してリターンを出す義務がある。感情と利益は、必ずしも一致しない。

     昨日の友が今日の敵になる。スタートアップの資金調達とは、そういう世界だった。

     「松田さん、準備しましょう。能登システムズ社への要求を整理して、次の会議に備える」

     黒川の声は、さっきとは少し違った。いらつきは消えていた。覚悟を決めた人間の声だった。

    「はい!」

     松田は思わず力強く返事をした。自分でも少し驚いた。

    「うまくいくと思いますか」

     黒川が聞いた。その言葉が、松田を一瞬冷静に戻らせた。そうだ、うまくいくかどうかはまだわからない。松田は少し考えた。

    「わかりません……」

     正直に言った。黒川は小さく笑った。

    「そうだよな」

     エレベーターが一階に着いた。扉が開く。二人は並んでビルの外に出た。夕方の風が冷たかった。

     松田は歩きながら、黒川のことを考えた。この問題を、黒川はずっと一人で抱えていたのかもしれない。でも今日、城島と松田を巻き込んで、一緒にやらなければならない状況になった。あの笑いは、もしかするとそのことへの安堵だったのかもしれない。

     その夜、松田はオフィスに戻り、一人でホワイトボードに図を書いた。城島が示した数字を、自分なりに整理するために。

     未払い残債一億円。VCが出せるのは二千万。残り八千万の債務放棄。月五百万のライセンス無償化。売上十五パーセントの撤廃。

     書けば書くほど、これは交渉ではなく、ほとんど「お願い」に近いと思えてきた。

     それでも松田は、不思議と絶望していなかった。やることが明確になった。難しい交渉になるとはわかっていた。こういう時、武者震いとかするものなのかもしれない。でも松田は特に震えなかった。

     ホワイトボードのペンを置いた。

     明日、連絡を入れよう。今日はもうこれ以上考えたくなかった。

    第三章「疲弊」

     能登システムズ社のオフィスは、都内の古いビルの四階にあった。何度か来たことがある場所だ。

     エレベーターを降りると、総務を兼任している女性が笑顔で出迎えてくれた。いつも何か別の仕事をしているのに、来客があると瞬時に切り替えてくれる。この人はプロだな、と松田は毎回思う。

     能登英二が入ってきた。いつもの穏やかな笑顔で手を差し出してきた。小柄で、グレーのジャケット。愛想がよく、自らお茶を注いでくれる。

     この笑顔で一緒にやっていこうと思えた。最初は本当に仲間だと思っていた。何が彼を変えたのか。もともとそういう人間だったのか。そもそも変わったのはこちら側なのか。原因を探っても答えは出ない。それよりも今は、この先をどうするかしかなかった。

     黒川が切り出した。

     今のKソリューションズの状況。資金の状況。このままでは立ち行かないこと。そして能登システムズ社との関係を整理しなければ、次の資金調達ができないこと。

     能登は頷きながら聞いていた。時折「なるほど」「そうですか」と相槌を打ちながら。まるで初めて聞く話のような顔をして。

     だが松田には、何かが引っかかった。

     能登の目が、少しも動揺していなかった。Kソリューションズが資金難だと知って驚く人間の目ではなかった。

     考えてみれば、わかるはずだった。

     能登は長年の経営者だ。最初に黒川と会ったころ、二人は夢を語り合っていた。黒川は「建設業界を変える」と熱く話し、能登もそれに乗った。ところがいつの頃からか、黒川からの連絡は夢の話ではなく、「もう少し費用を抑えられないか」という相談に変わっていった。発注が絞られ、保守契約の範囲が縮小され、支払い金額が落ちていく。財務諸表を見なくても、経営者なら気づく。この会社は苦しくなっている、と。

     Kソリューションズは追い詰められている。能登にはとっくにわかっていたはずだ。

     黒川が要求を述べた。事前に城島と整理した三つの条件だ。

     一つ目。KSL開発費の残債、一億円の免除。

     二つ目。NOTO-Engineのライセンス料および売上連動契約の無償化・撤廃。

     三つ目。両社の関係の正常化。

     能登は少し間を置いてから、穏やかな声で言った。

     「関係性については、良好だと思っていますよ。Kソリューションズさんはうちにとって、とても重要なお客様ですから」

     松田はパソコンで議事録を打ちながら、次の言葉を待った。

     「ライセンスの件は、ある程度調整できると思います。ただ全廃となると、それはさすがに……」

     能登が微笑んだ。笑顔のまま続けた。

     「ただ、負債の免除というのは、うちが債権放棄をするということですよね。分割払いにして支払いの延期もしています。それはさすがに難しいですね」

     能登が微笑んだ。笑顔のまま続けた。

     「考えてみてください。うちが債権放棄をして、さらにライセンスも無償にする。損をするのは我々だけです。VCの皆さんはそのまま投資を続けられる。黒川さんたちも事業を続けられる。我々だけが一方的に損をする構造になりませんか」

     松田はメモを取りながら、頭の中で整理した。債権放棄の話はとりつく島もない。ライセンスは調整レベル、せいぜい減額に応じてくる程度だろう。関係性については「良好」と言われてしまった。突っ込む気すら失せた。

     でも松田は思った。そもそもその負債はどこから来たのか。相場の倍以上の見積もりを出し続けたのは誰か。ライセンス料を毎月請求し続けたのは誰か。Kソリューションズの資金をじわじわと吸い上げてきたのは、他でもない能登システムズ社ではないか。

     松田は入社してからずっと、三億円という数字が気になっていた。KSLのプラットフォームを開発してもらった際の費用だ。一度に払えないため分割払いにしてもらっている。能登なりの配慮なのかもしれない。でもそもそもその三億円は妥当だったのか。同じ規模のシステムを別の会社に発注していたら、いくらかかっていたのか。誰も検証していない。そして今もまだ一億円が未払いとして残っている。

     仮にこの金額が二億だったら、今のこの未払いの話はなかったかもしれない。そんなもしもを、松田はふと想像した。でも答えの出ない話だ。

     黒川が「世界を獲る」と言っていたころ、細かい数字を疑う余裕がなかったのかもしれない。でもその判断が、今のKソリューションズを縛っている。そしてその負債を作った側が、今「我々だけが損をする」と言っている。

     松田は口を開きかけて、やめた。言ってやりたかった。でもここで感情的になったら負けだ。話がもめれば交渉は確実に破綻する。それだけは避けなければならなかった。今は言う場面ではない。

     黒川が静かに言った。「正直に申し上げると、このままでは資金が半年以内に尽きます」

     能登は少し首を傾けた。

     「それは大変ですね」

     そして一拍置いて、こう続けた。

     「ただ、我々だけが損をする形では、しょうがないですよね」

     松田はキーボードを打つ手を止めた。

     黒川の顔が、かすかに変わった。松田はそれを横目で見た。黒川が感情を表に出すのは珍しかった。体育会系らしく普段は表情を崩さない人間が、その瞬間だけ、何かを堪えるような顔をした。

     松田は黒川のことを、完璧な人間だと思っていた。論理的で、冷静で、どんな場面でも動じない。でもこのとき初めて、黒川も人間だと思った。笑顔で「しょうがない」と言われて、それでも表情を保っている。その必死さが、横顔からにじみ出ていた。

     その日の交渉は、それ以上進まなかった。

     帰り道、二人は並んで歩いた。夜の繁華街だった。人通りはあるのに、二人の周りだけ静かだった。

     しばらくして、黒川が低い声で言った。

     「能登さんは、最初からわかってたんですかね」

     松田は答えなかった。答えられなかった。

     「俺が、甘かったんですかね」

     黒川がぽつりと言った。松田は驚いた。黒川がこういう言い方をするのを、聞いたことがなかった。

     「そんなことは」

     「いや」

     黒川が遮った。

     「最初に能登さんと組んだとき、俺は信じてた。同じ夢を見てると思ってた。でも気づいたら、こういうことになってた。俺の見る目がなかったのか、途中で変わったのか、わからないけど」

     松田は何も言えなかった。

     「松田さんに、こんなことに巻き込んで申し訳ないと思ってます」

     「そんなことは思ってません」

     松田は言った。本当にそう思った。巻き込まれたとは思っていない。ただ、目の前に仕事があるから、やっている。それだけだった。

     黒川が小さく頷いた。それ以上は何も言わなかった。

     オフィスに戻り、松田は一人でデスクに座った。一回目の交渉が終わった。結果はゼロだった。でもこれで終わりではない。次の手を考えなければならない。松田はメモを広げ、今日の交渉を整理した。能登が動いた点、動かなかった点。城島を同席させれば圧力になるか。他のVCも連れてくるべきか。

     交渉とは体力の消耗戦だと、松田は思った。論理だけでは動かない相手がいる。そういう相手には、時間をかけて、角度を変えて、何度も当たり続けるしかない。

     二回目の面談には、城島も同席した。

     ファーストウェーブとして、負債問題が解決できれば追加投資を検討すると伝えるためだ。VCが同席することで、交渉に圧力をかける狙いがあった。

     城島は相変わらず感情を出さない声で言った。

     「解決できれば、動けます」

     それだけで会議室の空気が少し変わった。でも松田は、その言葉の裏側をまた考えていた。

     城島は助けに来ているのか。それとも、より有利な条件を積み上げに来ているのか。

     おそらく両方だ。感情と利益は、必ずしも一致しない。それがわかっていても、今は城島と一緒に戦うしかなかった。

     能登システムズ社側も、今度は幹部が二人出てきた。

     でも結論は変わらなかった。負債の免除はできない。その一点が動かない。

     二回目が終わったとき、松田は帰りの電車の中で目を閉じた。疲れていた。交渉の疲れというより、同じ壁に何度もぶつかり続ける消耗感だった。

     座席に座ったまま、今日の交渉を頭の中で振り返った。何が足りなかったのか。城島が同席した。VCが本気だと示した。でも能登は動かなかった。

     松田は窓の外の夜景を見た。電車が走るにつれて、街の明かりが流れていく。

     終わるのかもしれない、と思った。一回目が終わったときも思った。二回目が終わっても、同じことを思っている。

     でも次の日、また資料を作り始めていた。自分でも不思議だった。諦めているわけでも、希望があるわけでもない。ただ、やることがあるからやる。それだけだった。

     三回目。

     今度は能登システムズ社側の幹部が全員出てきた。松田は「これは決着がつくかもしれない」と思った。全員が出てくるということは、それだけ本気だということだろうと。

     でも会議が始まってすぐ、その期待は消えた。

     能登の態度は、一回目と何も変わらなかった。穏やかな笑顔。丁寧な言葉。でも一センチも動かない一線。松田はパソコンで議事録を打ちながら、思った。何週目の議論だろう。負債の免除。ライセンスの無償化。VCの投資条件。同じ言葉が、また画面に並んでいく。

     交渉は二時間に及んだ。城島も粘った。黒川も粘った。

     負債の免除が通れば、次の投資が入る。投資が入れば会社は続く。会社が続けば能登システムズ社とのビジネスも続く。それがお互いにとって一番いい結果ではないか。

     論理は正しかった。でも能登は笑顔のまま首を縦に振らなかった。

     会議室の時計が二時間を過ぎた。誰もが疲れていた。松田の目は、画面を見続けて少し乾いていた。

     そのとき、能登が静かに口を開いた。

     「一つ、提案があるんですが」

     全員が顔を向けた。

     「現状維持としませんか?このまま様子を見るということで」

     松田は一瞬、聞き間違いだと思った。

     現状維持。様子を見る。

     能登システムズ社との交渉を始めてから、すでに二ヶ月が過ぎていた。その間、松田は何度も同じ資料を作り直し、同じ論点を繰り返し、同じ壁にぶつかり続けた。最初にランウェイが六ヶ月だとわかったとき、あと六ヶ月あると思っていた。でも今は四ヶ月しかない。

     あと四ヶ月で資金がショートする会社に向かって。

     松田は能登の顔を見た。穏やかな笑顔だった。いつもと同じ、何も変わらない笑顔。

     その瞬間、松田はわかった気がした。これは提案ではない。

     能登の頭の中を想像した。Kソリューションズが潰れた場合、能登システムズ社は債権者として、株主よりも先に資産から回収できる。会社が清算されても、債権は優先的に弁済される。知財も能登システムズ社に残る。一方、Kが生き残る場合、能登が求められているのは八千万の債務放棄だ。それはつまり、持っている債権の大部分がゼロになるということだ。

     待てば回収できる。動けば何も取れない。

     「現状維持」は、計算の結果だった。論理として、間違っていない。能登は最初からそのつもりだったのかもしれない。

     黒川が口を開いた。声は静かだったが、松田にはわかった。抑えている。

     「様子を見るとおっしゃいますと、具体的にはどういう意味でしょうか」

     能登が穏やかに答えた。

     「今すぐ結論を出さずに、もう少し状況を見てから判断したいということです。我々も社内で検討が必要ですし」

     城島が静かに言った。

     「それはディールブレイクですね」

     交渉決裂を意味する言葉だ。これまでも何度か「終わった」と思った。でも今回は違う。本当に、終わったかもしれない。

     能登が少し困ったような顔をした。でも何も言わなかった。

     松田は能登の顔をもう一度見た。困り顔の奥に、何かが見えた気がした。薄く、笑っている。口元ではなく、目の端が。本当にわずかだったが、松田には見えた。

     この人は、今回の交渉はもう終わりだと思っている。そしてそれを、悪いとも思っていない。

     帰り道、松田は黒川と並んで歩いた。夜の街だった。どちらも何も言わなかった。

     オフィスに戻ると、松田は自分のデスクに座ったまま、しばらく動けなかった。

     いつもと違う感情が出てきていた。仕事をやりきったとは言い切れない。悔しかった。どうすればよかったのか、わからない。能登をぎゃふんと言わせたかった。一発殴ってやりたいとすら思った。そんな感情が自分の中にあることが、少し不思議だった。普段の松田なら、こういう時に感情的にはならない。でも今回は違った。自分に何ができるのか、わからなくなっていた。

     スマートフォンが光った。黒川からのメッセージだった。

     「今日はお疲れ様でした。菅野先生に連絡してみます」

    第四章「逆襲」

     菅野先生。Kソリューションズの監査役だ。七十三歳の弁護士。

     建築業界では知らない人がいないと言われている。長年にわたって建設会社の契約紛争や瑕疵担保訴訟を手がけてきた、業界では有名な弁護士らしい。「らしい」というのは、松田自身は詳しく知らないからだ。黒川から「業界ではかなりの大物です」と聞いたことがある。城島も「菅野さんがいるのは心強い」と言っていた。

     でも松田が実際に見ている菅野先生は、そのイメージとはだいぶ違う。

     会議では半分眠っているように見える。発言はほとんどしない。グレーのカーディガンを着て、お茶をゆっくり飲んでいる。たまに目が合うと、にこっと笑う。それだけだ。

     のほほんとしたおじいちゃん、というのが松田の正直な印象だった。

     でも黒川は、こういうときに必ず菅野先生に連絡する。松田はそれが少し不思議だった。あのおじいちゃんが、何かを変えられるとは思えない。でも他にできることもわからなかった。信じるしかなかった。

     黒川からのメッセージを受け取った翌朝、松田のスマートフォンが鳴った。

     菅野先生からだった。電話だった。メールではなく、電話。

     「松田さん、もう一度だけ場を設けましょう。能登さんには私から連絡します」

     それだけだった。詳しい説明はなかった。でも声のトーンが、いつものんびりしたものとは少し違った。静かだが、はっきりしていた。

     松田は電話を切ってから、少し驚いた。菅野先生がこんなに早く動くとは思っていなかった。のほほんとしているように見えて、事の重大さを完全に理解していたのだ。

     菅野先生は全部電話で連絡してきた。だから松田が黒川と城島に代わってメールを送った。「菅野先生から連絡がありました。もう一度場を設けてくださるとのことです」。二人からの返信はすぐに来た。黒川は「わかりました、よろしくお願いします」。城島は「承知しました」。

     二日後、日程が決まった。菅野先生の調整は早く、的確だった。能登側も断らなかった。菅野先生の名前が効いたのかもしれない。建築業界での信頼というものが、こういう場面で動くのかと松田は思った。

     松田は半信半疑だった。三回やって動かなかった交渉が、菅野先生が入ったからといって変わるとは思えなかった。でも黒川は「やってみましょう」と言った。他に手がない以上、やるしかなかった。

     会議の日、Kソリューションズの会議室に能登システムズ社の面々が集まった。能登英二と、その側近たち。城島も来た。そして菅野が、少し遅れて入ってきた。

     グレーのカーディガンを着ていた。会議に来る格好ではないかもしれない。でも菅野はいつもこんな感じだ。業界の大物弁護士が、なぜこんなに生活感があるのか、松田にはいつも不思議だった。

     「お時間いただいてありがとうございます」

     菅野が頭を下げた。深々と。七十三歳の老人が、丁寧に頭を下げる姿に、松田は少し胸を突かれた。能登の側近たちも、思わず姿勢を正しているように見えた。業界では知られた人物なのだろう。松田には実感がなかったが。

     会議が始まった。

     最初は前回と同じだった。負債の話、ライセンスの話、投資の条件の話。堂々巡りだった。松田は議事録を取りながら、また同じ結論になるのかと思い始めていた。

     そのとき、菅野がお茶を一口飲んだ。

     ゆっくりと、カップを置いた。

     「少し、昔話をしてもよいですか」

     誰も止めなかった。

     「私ね、若い頃に富士山に登ったことがあるんですよ。友人と二人で。七合目くらいまで来たところで、友人が言い出したんです。『もう無理だ、先に降りる』と」

     会議室が静かになった。

     「でもその友人、結局降りなかったんです。なぜかわかりますか」

     誰も答えなかった。

     「一人で降りる方が怖かったから。上も怖い。でも一人で降りるのはもっと怖い。だから一緒に登り続けた。最後は頂上まで行きましたよ」

     菅野が能登を見た。穏やかな目だった。

     「怖いのはみんな同じですよ。損をするのも、うまくいかないのも、みんな同じです。だから一緒に登るんです」

     会議室が静まり返った。

     松田は能登の顔を見た。

     能登の表情が、初めて変わった。笑顔でも、困り顔でもない。何か考えている顔だった。

     松田はその顔を見ながら、能登の頭の中を想像した。

     能登にとって、Kソリューションズが潰れることは悪い話ではなかったはずだ。負債を免除する必要もなく、ライセンスを無償にする必要もなく、ただ待っていればよかった。システムの知財は能登システムズ社に残る。それが能登の計算だったはずだ。

     でも菅野の話を聞いて、何かが揺れたのかもしれない。

     怖いのはみんな同じ。

     能登も経営者だ。最初に黒川と握手を交わしたとき、二人は同じ夢を見ていたはずだ。建設業界をデジタルで変える。それだけの話だったはずなのに、いつの間にか、こんなことになっていた。

     松田は以前、能登から聞いた話を思い出した。飲み会の席だった。まだ関係が良かったころ、能登はよく昔の話をしてくれた。

     若いころ、能登は会社を売却したことがあったらしい。でもそのときは知識がなかった。契約の仕組みがわからなかった。気づいたら自分に不利な条件で売ってしまっていた。悔しかった、と能登は言っていた。お酒が入っていたせいか、珍しく本音を話していた。

     さらにその後、知財絡みで訴えられたこともあったという。相手が自分の技術を無断で使っていた。でも訴訟は長く、消耗した。勝っても負けても、疲れるだけだった。

     だから能登は、知財にこだわる。契約にこだわる。自分が損をしない仕組みにこだわる。それは単なる強欲ではなく、過去に何度も痛い目を見てきた人間の、防衛本能だったのかもしれない。

     そう考えると、能登の「自分たちだけが損をする形ではしょうがない」という言葉も、少し違って聞こえてくる。

     Kソリューションズという取引先が消えれば、能登システムズ社にとっても痛手だ。新しい取引先を見つけるのは、言葉ほど簡単ではない。そして能登は本当に計算だけで動いてきたのだろうか。一緒に登り始めた仲間だったはずだ。それがいつの間にか、こんなことになっていた。

     能登が静かに口を開いた。

     「菅野さん、富士山は結局、頂上まで行けたんですか」

     菅野が少し目を細めた。

     「ええ。くたくたになりましたけどね」

     能登が小さく笑った。これまでの愛想笑いとは違う、少し疲れたような、でも本物の笑いだった。

     城島が静かに口を開いた。

     「一つ、提案があります」

     全員が城島を見た。

     「負債を免除するのではなく、優先株に転換するというのはいかがでしょうか。能登システムズ社さんにも投資家として同じ立場に立っていただく。損を免除するのではなく、リスクを分かち合う形にする」

     松田は思わず議事録用にとっていたパソコンを打つ手を止めた。

     免除ではなく、転換。優先株というのは普通株より優先されることが多い株式でVCへの投資家へ株式と同じものだ。

     能登システムズ社が一方的に損をするのではなく、他のVCと同じ投資家の立場になる。債権という「確実に回収できるもの」を手放す代わりに、会社が成長すれば大きく回収できる可能性を得る。損をするかもしれないが、うまくいけば取り返せる。

     能登にとっても、悪い話ではないはずだ。

     「ライセンスについては」

     城島が続けた。「二年間の無償利用でいかがでしょうか。その間にKソリューションズ側でシステムを作り直していただく。二年以内に自前のシステムが完成すれば、能登システムズ社との依存関係を解消できる。完成しなければ、ライセンス料が復活する形です。能登システムズ社さんには、知財を侵害していないかシステム監査の権限を持っていただく」

     松田はその条件を頭の中で整理した。

     二年間でシステムを作り直す。できれば完全に縁が切れる。できなければライセンス料が戻ってくる。能登システムズ社にとっては、失うものが最小限に抑えられる条件だ。うまくいけば優先株で回収できる。うまくいかなければライセンス料が復活する。どちらに転んでも、そこまで悪い話ではない。

     城島はよく考えた条件を出してきた、と松田は思った。

     また沈黙があった。

     長い沈黙だった。松田は息を止めるようにして待った。

     能登がゆっくりと頷いた。

     「……検討します」

     その言葉は、これまでの「難しい」とは違った。松田にはわかった。空気が変わっていた。

     菅野が静かに微笑んだ。お茶を一口飲んだ。また何事もなかったような顔に戻っていた。

     会議が終わり、能登システムズ社の面々が帰ったあと、松田は黒川と二人になった。

     黒川が静かに言った。

     「うまくいけば、能登さんは株主になります。取締役の指名権も持つことになる」

     松田は少し考えた。

     「敵が、身内になるということですか」

     黒川が苦笑した。

     「そういうことです。でも、それでいい。同じ山を登ってもらうというのは、そういうことだから」

     松田はその言葉を聞きながら、思った。

     ビジネスとは不思議なものだ。昨日まで対立していた相手が、明日には同じ方向を向いて歩くことになる。感情はついていかなくても、利害が一致すれば人は動く。それが現実だった。

     松田は菅野に近づいた。

     「ありがとうございました」

     菅野は首を振った。

     「いやいや。あとは若い人たちがやることです」

     そう言いかけて、菅野はふと思い出したように付け加えた。

     「なぜか正義は勝つんですよ」

     松田は「はい!」と力強く答えた。でも正直、意味がよくわからなかった。正義とは何か。この交渉のどこに正義があったのか。能登の論理も、城島の計算も、正義とは少し違う気がした。

     でも菅野は満足そうに頷いて、カーディガンのポケットに手を入れながら帰っていった。

     本当によくわからない人だった。でも黒川が頼りにする理由が、少しだけわかった気がした。理屈ではなく、何か別のものを見ている人間がいる。そういう人間が、ときに場を動かす。

     松田はその背中を見送りながら、思った。

     この人は、怖くないのだろうか。

     いや、きっと怖いのだ。それでも動いた。それだけのことなのかもしれない。

     会議が終わった後、松田は城島に声をかけた。

     「一つ聞いていいですか」

     城島が振り返った。

     「優先株への転換という提案、なぜあのタイミングで出したんですか。ディールブレイクのときには出さなかった」

     城島は少し考えてから、静かに言った。

     「前から考えていました。ただ、あの場では言っても無駄だと思っていた」

     「無駄、というのは」

     「テクニックの話になると、進まなくなるんです。優先株への転換といった瞬間、会計処理はどうするのか、税務リスクはどう考えるのか、という話になる。でもそれは本質じゃない」

     松田は城島の言葉を聞きながら、メモを取りたい衝動を抑えた。

     「本質は、同じ山を登るかどうかという話です。そのレベルで考えられるようになっていないと、テクニックを出しても響かない。菅野先生の話があって、初めて能登さんがそのレベルに来た。だからあのタイミングで出した」

     松田は思った。城島はずっと、この展開を読んでいたのか。

     「ライセンスの条件はどうですか。あれも最初から考えていましたか」

     「ある程度は」と城島は言った。「能登さんを見ていて、お金より知財を大事にしている人だと思っていました。だから知財を守る仕組みを提案すれば、動くかもしれないと。ただ、債務の話が落ち着かないと聞いてもらえない。順番が大事でした」

     松田はしばらく黙っていた。

     「最初から全部見えていたんですか」

     城島が少し笑った。珍しかった。

     「見えていたわけではありません。ただ、相手が何を怖がっているかは、わかっていたつもりです」

     それだけ言って、城島はエレベーターに乗った。扉が閉まった。

     松田はその場に立ったまま、しばらく動けなかった。

     昨日の友が今日の敵、と思っていた。でも城島は、最初からこの結末を考えながら動いていた。それは敵の動きではなかった。ただ、松田には見えていなかっただけだ。昨日の友は、今日も友だと信じていいのだろう。そう思うことにした。

    第五章「戦闘」

     能登システムズ社との合意が取れた。

     松田はその事実を確認しながら、しかし全く安心できなかった。合意が取れたということは、次のステージに進むということだ。各VCの投資委員会。そこを通らなければ、何も終わらない。

     投資委員会とは、VCが投資判断を下す社内の会議だ。担当者がいくら「やりたい」と思っても、この会議で否決されれば投資はできない。担当者は投資先の窓口であり、交渉相手でもある。でも最終決定権は担当者にない。組織の論理が、個人の意志を上回ることがある。

     今回の投資委員会には、一つ厄介な問題があった。

     能登システムズ社が株主として入ってくることだ。

     スタートアップへの投資を検討するとき、VCが必ず確認するのが資本政策表——キャップテーブルと呼ばれるものだ。誰がどれだけの株を持っているか、一覧になった表のことだ。今回の合意によって、このキャップテーブルに能登システムズ社が新たな株主として加わることになる。

     これが投資委員会で説明しにくい。

     「取引先だった会社が、なぜ突然株主になるのか」。委員会のメンバーにそう問われたとき、担当者は長い説明をしなければならない。負債の経緯、交渉の経緯、優先株への転換。それを短時間で理解してもらい、納得してもらう必要がある。担当者レベルでは文脈を共有できていても、委員会では全員が初めて聞く話だ。

     松田は各社の担当者に資料を送りながら、正直に思っていた。これは通りにくい案件かもしれない、と。

     でも他に手がなかった。

     五社のVCに状況を報告した。

     マウンテンキャピタルはすぐに返事が来た。「今回は追加投資が難しい状況です」。丁寧な断りだった。松田は「そうか」と思った。驚きはなかった。早い段階で動けないと言ってくれた分、まだ誠実だと思った。

     残り四社。ファーストウェーブ、アルファパートナーズ、デルタキャピタル、パシフィックベンチャーズ。

     ファーストウェーブとアルファパートナーズはリードとして最初から入る前提で動いてくれていた。デルタとパシフィックはフォロー投資のスタンスだった。フォロー投資とは、リードや他の投資家が入るなら自分たちも追加で投資する、という姿勢のことだ。単独で判断するのではなく、他が入ることを前提に動く。

     各社の担当者と個別に話した。みんな頑張ってくれていた。事業計画を丁寧に確認してくれて、質問してくれて、社内に持ち帰ってくれた。松田はそれぞれの担当者に感謝していた。この人たちは本当に動いてくれている、と思った。担当者と会社は別物だ。担当者の気持ちと、組織の判断は別物だ。それはわかっていた。でも感謝は本物だった。

     松田は資料を準備した。事業計画、財務モデル、能登システムズ社との合意内容、株主構成の変化。膨大な量だった。特に能登システムズ社が株主に加わる経緯の説明には時間をかけた。委員会のメンバーが初めて見ても理解できるように。でも書けば書くほど、複雑になっていく気がした。

     これを短時間で委員会に納得させるのは、難しいかもしれない。

     松田はそう思いながらも、やることが明確になったときの自分は強い。そう思っていた。徹底的にやる。それが自分の武器だ。気持ちを切り替えて、資料の作成に取り掛かった。

     最初にパシフィックベンチャーズの結果が来た。

     「今回は見送りとなりました」

     担当者からのメッセージだった。申し訳なさそうな文面だった。転職活動の面接で落ちた時のような気持ちになった。お祈りメールほど儀礼的ではなかったが、内容は同じだ。松田は「わかりました、ありがとうございました」と返した。

     やはり、か。

     心のどこかで予感していた。能登システムズ社が株主に入る構造は、説明が難しい。担当者がいくら頑張っても、委員会で「なぜ取引先が株主に?」という疑問が出れば、そこで止まってしまう。

     次の瞬間、頭の中で別の計算が走った。

     パシフィックが落ちた。デルタキャピタルはフォロー投資のスタンスだった。パシフィックが落ちた今、デルタはどう動くか。

     嫌な予感がした。

     翌日、デルタキャピタルから連絡が来た。

     「大変申し訳ないのですが、今回は見送りとさせてください」

     松田は画面を見つめた。

     デルタの担当者は、投資委員会の一回目を通過していた。二回通過すれば決定、という社内ルールだと聞いていた。一回目を通過してから落ちることは、まずない、と担当者自身が言っていた。

     でも落ちた。

     松田は悔しかった。事業計画には自信があった。能登システムズ社との問題を解決した上で、一年で売上を立て直す計画を作った。数字の根拠も、実行の道筋も、しっかり積み上げたつもりだった。担当者も「計画はしっかりしている」と言ってくれていた。

     でも投資委員会が見たのは、事業計画ではなかった。

     パシフィックが落ちたから、フォローのデルタも社内を通せなかった。一年かけて作った事業計画は、その判断に一切関係なかった。やりたいかやりたくないか。同じ山を登るか、登らないか。最後はそこに帰着する。

     これは日本特有の横並びの姿勢だ、とマクロ目線で考えて、松田は自分を納得させようとした。今回の交渉が良くなかったわけではない。そう思わないと、やってきたことが全部否定される気がした。能登との交渉も、この資金調達も、絶対に10年後に成功体験として語るつもりだ。

     松田はしばらく動けなかった。

     デスクの前に座ったまま、画面を見つめた。デルタの担当者のメッセージ。「大変申し訳ないのですが」という書き出し。この人も辛かっただろう、と松田は思った。一回目の委員会を通過して、二回目も通ると信じていた。それが覆された。組織の論理に個人の意志が負けた。担当者のせいではない。でも結果は変わらない。

     松田は「わかりました、ありがとうございました」と返信してから、しばらくスマートフォンを置いたまま動けなかった。

     デルタの担当者は最後まで頑張ってくれていた。投資委員会の結果を待つ間、松田は全ての資料を用意していた。株主への事前承諾の書類、取締役会の決議資料、書面による株主総会の準備。一回目を通過したら落ちないと言っていたから、通過した時点で全部動けるようにしておこうと思っていた。

     全部、やり直しだった。

     松田は深呼吸した。

     やり直す。それだけだ。感情は後回しにする。今は手を動かすしかない。

     ファーストウェーブとアルファパートナーズは通過していた。この二社で進める。金額は当初の想定より少なくなる。でも進めるしかない。

     松田は資料の修正を始めた。深夜だった。オフィスには誰もいない。自分のキーボードの音だけが聞こえる。

     株主構成の計算をやり直した。能登システムズ社が優先株主になることで、既存株主の持ち分がどう変わるか。ダウンラウンドによる調整がどこに影響するか。数字が数字を呼んで、計算が終わらない。エクセルのセルを埋めながら、これで合っているのかと何度も自問した。正直、自信がなかった。時間がなさすぎた。誰かに確認したかった。でも深夜に電話できる相手もいない。一人でやるしかなかった。

     書面株主総会の同意書を修正した。全株主に送る書類を確認した。

     本来、株主総会は株主を一堂に集めて開催するものだ。でも招集通知の送付から開催まで、一定の期間が必要になる。今回はその時間がなかった。だから書面決議という方法を使った。全株主に書類を送り、それぞれが署名して返送する。全員が同意すれば、実際に集まらなくても決議が成立する。一人でも反対すれば、すべてが止まる。

     時計を見ると、午前三時を過ぎていた。

     翌朝、全株主に書類を送った。

     返事を待った。待ちながら、別の書類の修正を続けた。止まっている時間がなかった。

     一人ずつ、合意の返事が来た。松田はそのたびに確認した。全員から合意が取れた。

     取締役会の決議も通った。

     その後も怒涛の日々が続いた。

     投資契約の締結。株主間契約の調整。登記申請の準備。一つ終われば次が来る。経営企画部長の仕事とは、こういうものだと改めて思った。誰かが決めたことを、形にしていく。地味で、細かくて、間違えると全部止まる。でもやるしかない。

     株主総会は、少し緊張した。能登システムズ社が株主として加わるという、異例の議案だ。既存株主から反発が出るかもしれないと思っていた。でも事前に全員に丁寧に説明しておいたのが効いたのか、決議はスムーズに通った。拍子抜けするくらい、あっさりしていた。

     着金の確認が取れたのは、それからさらに数日後だった。

     松田は銀行の入金通知を見て、黒川に一言メッセージを送った。「着金確認しました」。黒川からの返信は短かった。「ありがとうございました」。

     翌日、黒川はいつもの黒川に戻っていた。姿勢がよく、論理的で、決断が早い。「次の事業計画について話しましょう」と言ってきた。あの深夜の「俺が甘かったんですかね」という言葉は、もうどこにもなかった。

     全部終わったのは、また深夜だった。

     松田はデスクに座ったまま、天井を見た。誰もいないオフィス。モニターの光だけが白く照らしている。

     計算が全部正しかったかどうか、今でも自信がない。でも今夜できることは全部やった。それだけは確かだった。

     それから数日後、クローズした。

    終章「達観」

     クローズした日の朝、松田は一人でコーヒーを飲んでいた。

     オフィスはまだ誰も来ていなかった。窓から朝の光が差し込んでいる。いつもと同じ景色だった。

     当初の想定の四億には届かなかった。フォロー投資家が落ちた分、三億でのクローズになった。それでもランウェイは一年以上伸びる。ライセンス料の無償化で月の支出も抑えられる。きっともっとランウェイは伸びるはずだ。まだ戦う準備は整った。

     能登システムズ社との関係は整理できたが、まだ気になることものある。

     城島——ファーストウェーブの城島達也——からの投資契約の条件だ。今回は救済的な色合いが強い投資だった。Kソリューションズが追い詰められている以上、VCに有利な条件を飲むしかない。残余財産分配権の優先倍率は高く設定された。ダウンラウンドによる株式調整も、既存の条件より厳しいものになった。松田は契約書を読みながら、これはKソリューションズにとってかなり不利な内容だと思った。でも断れる立場ではなかった。

     城島は最後まで丁寧だった。「これが我々にできる精一杯です」と言った。嘘ではないと思う。でも精一杯とは、ファーストウェーブにとっての精一杯だ。Kソリューションズにとっての精一杯ではない。

     それでも、会社は残った。

     もう少し感慨があるかと思っていた。でも特になかった。達成感というものが、自分にはどうも薄い。これだけのことをやったのに、という感覚が湧いてこない。不思議だと思う。でも昔からそうだった。

     この数ヶ月を振り返った。

     ランウェイが六ヶ月だとわかった夜。城島に資金の流れを図示された日。能登に「しょうがない」と言われた帰り道。「現状維持としませんか」と言われた瞬間。菅野の富士山の話。パシフィックが落ちた日。デルタが落ちた日。深夜の突貫作業。

     何度、終わったと思っただろう。

     松田は思った。自分はこの数ヶ月、何度も気持ちが折れていた。落とされていた。それでも続けていた。なぜ続けられたのか、と問われると、正直よくわからない。使命感があったわけでも、会社への強い愛着があったわけでも、たぶんない。ただ、目の前にやることがあったから、やっていた。それだけだった。

     ただ、あの「現状維持としませんか?」と言われた瞬間の悔しさだけは、今思うと少し面白い。いつもと違う感情が芽生えていた。熱くなれない自分が、あの瞬間だけは確かに熱くなっていた。

     ふと、能登英二のことを考えた。

     今、能登はKソリューションズの株主だ。取締役の指名権まで持っている。数ヶ月前まで交渉の相手だった人間が、今は同じ山を登っている。

     不思議な話だと思う。

     能登のことが好きかと言われると、よくわからない。嫌いかと言われても、それもよくわからない。ただ、あの笑顔の裏で何を考えているのか、この数ヶ月で少しだけ見えた気がする。自分たちが損をしない範囲で、最善を尽くす人間。それが能登英二だ。論理として、間違っていない。

     これからまた何か起きたとき、能登がどう動くか。おそらく予測できる。笑顔で来る。穏やかに話す。でも譲らない一線がある。それがわかっているだけで、次は少し違う対応ができる気がした。

     敵だと思っていた相手が、株主になる。

     経営企画の仕事をしていると、こういうことが起きる。昨日まで対立していた相手と、明日は同じ数字を見ながら議論することになる。感情はついていかなくても、利害が一致すれば人は動く。それが現実だった。

     もしこれが失敗していたら、どうなっていただろう。会社は終わっていた。自分は仕事を失っていた。でもそれはそれで、何か別のことが始まっていたかもしれない。

     落ちてもいい経験だった。乗れてもいい経験だった。どっちでもよかった、と今は思う。

     この数ヶ月で松田が学んだことがあるとすれば、ファイナンスは数字の話ではないということだった。

     投資委員会で事業計画と関係ない理由で落とされた。能登が動いたのは城島の論理ではなく菅野の富士山の話だった。黒川が感情を表に出したのは、数字を見せられたときではなく、笑顔で「しょうがない」と言われたときだった。

     結局のところ、全員が問われていたのは同じことだった。

     この山を一緒に登りたいか、登りたくないか。それだけだった。

     数字はその答えを出すための材料に過ぎなかった。登りたいという気持ちがある人間は、数字を使って理由を作る。登りたくない人間は、数字を使って断る理由を作る。どちらも同じ数字を見ているのに、結論は最初から決まっていた。

     経営企画部長という仕事は何でも屋だ。使命感があるわけでも、強い志があるわけでもない。でも答えのない交渉を続けること、よくわからない人間の動きを読もうとすること、落とされても次の日また資料を作ること——気づいたら、そういう仕事が自分には合っているのかもしれないと思うようになっていた。

     松田はコーヒーカップを置いた。

     オフィスの扉が開いた。最初に出社してきた営業の若いスタッフだった。「おはようございます」と言って、自分のデスクに向かった。

     松田も「おはようございます」と返した。

     いつもと同じ朝だった。窓の外に、街路樹の桜が見えた。まだつぼみばかりだが、一輪だけ、白く咲いていた。

     今日もやることは山積みだった。能登が株主になったことで、新しい調整事項が増えるだろう。それでいい、と思った。よくわからない人間と付き合い続けることも、この仕事の一部だ。

     怖いのはみんな同じだ。それでも、登り続ける人間がいる。今回の資金調達を経て、そういうことが少しだけ楽しめるようになった気がした。

     そういえば、時音にはこの数ヶ月のことを特に説明していない。きっと不安に感じていたこともあっただろう。口には出さないが。ちゃんと説明してみよう。家族と同じ山を登ろうと思う。まずは子供の中学受験か。

     ふと思った。この資金調達の勝者は、誰だったのか。

     城島だろうか。有利な条件で投資できた。ダウンラウンド調整で持ち株比率も上がった。最初から結末を設計していた節がある。松田は城島の手の上で転がされていた気がしないでもない。あの会議が終わった後の城島との会話を思い出す。「相手が何を怖がっているかは、わかっていたつもりです」——あの言葉が、今でも少し引っかかっている。でも怒る気にはなれない。城島は結果を出した。Kソリューションズも助かった。それでいい。

     能登だろうか。債権の一部は回収できる形になった。知財も守られた。株主として将来のリターンも狙える。

     菅野先生だろうか。何も失わず、一言で全員を動かした。

     でも考えているうちに、どうでもよくなった。

     勝ちとか負けとか、そういう話じゃなかった気がする。全員が怖くて、全員が損をしたくなくて、全員が自分なりの論理で動いた。その結果として、会社が残った。それだけの話だ。

     この六ヶ月、黒川と松田を除く社員は何が起きたかわからない。松田はいつも忙しいし、黒川はいつもぴりついている。それだけだ。誰かに話すつもりもない。会社の平穏を守った自分を、今日くらいは少し褒めようと思った。

     
     
    スタートアップ経営企画部長として日々奮闘中 10名規模Series A企業の何でも屋。ISMS責任者なのに一番セキュリティ意識低い謎。 営業経験→起業→倒産→スタートアップ経営企画。失敗談なら山ほどあります。 スタートアップのリアルを綴ります。一緒に悩んで成長しましょう!

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