
先日、旅行先の神戸で銭湯へ行った。「二宮温泉」と書かれたレトロな銭湯。宿のお風呂が狭かったために、同じところに泊まっていた人が「夜から朝までずっとやっている銭湯があるみたい。」と教えてくれて、私は銭湯に向かった。
絶滅危惧種のような銭湯だった。そこには備え付けのシャンプーもリンスも、ボディソープも無く、本当に素朴な銭湯だった。若い人が多い。地元の人だろうか。大学生だろうか。外国の言葉も聞こえてくる。本当に純粋に地域のための施設だった。みんな、この銭湯の勝手が分かっているらしく、ちゃんとこじんまりしたかごに、シャンプーやボディソープのボトルを入れて持ってきていた。私はというと、試供品でもらって取っていたシャンプーの小さな小袋をもって、お風呂に入った。
昭和映画に出てくるような銭湯だった。きっと私の生まれる前からこの銭湯はあるのだろうな、と思う。誰かが経営し整備し掃除し、残してきたのだなと思う。この地域の人に必要とされ、その思いを汲んだ人が残してきたのだ、と。
最近、「地元の施設や伝統的な祭や仕事は、誰が残していくのだろう」と考えることがよくある。地元の学校で働いているからだろうか。人が減っている中で、何を残し何を無くしていくのだろう。誰が残していくのだろう。どうやって残していくのだろう。教員をしながら、この中学生たちはこの町に残っていくのだろうかといつも考える。私の同級生でこの町に残って住んでいる人は少ない。私に子どもができたら、私はこの町に残るだろうか。
だから、この銭湯がこの近代的な町に残っていることが不思議だった。誰かが「意図的」に残したのだろう。その「意図」を感じた。
時間差で同じ銭湯を使っていた私の夫は、この地域から見ると「部外者」なのでひどい目に遭ったようだった。銭湯にシャンプーや石鹸が設置されていないことを知らず、何も持たずに行ったために、身体も髪も洗えない状況で困ったらしい。私の夫と一緒に温泉に行ってくれていたヒロシくんはというと、なぜか洗顔用の石鹸ボトルだけは持って行ったそうで、二人して洗顔用の石鹸で全てを洗ったそうだ。誰も知らない町の、古めかしい銭湯で、二人が肩身狭く困っている姿を想像して笑ってしまった。
女性のほうのお風呂は利用客が5,6名程度だったが、男性のほうは大学生くらいの利用客が多くいたそうで、私の旦那は「ガンジス川でした」と言っていた。汚い、という意味での比喩ではなく、沐浴をするためにみんなが集まるような場所だという意味で。その表現をいたく気に入ったヒロシくんは、けらけらと笑って、次の日の朝六時にも「ガンジス川に行ってきます」と一人で銭湯に出かけた。次はちゃんとシャンプーとリンスとボディソープを持って。
誰かが必要し町の中にきちんと残したあの銭湯を、私は生きている中で何度か、ぽつんと思いだすかもしれないなと思った。