遠くなったものほど、近くで匂う
遠くなったものほど、
近くで匂う。
触れていないはずなのに、
指先だけが、覚えている。
静かな朝の台所、
まだ火をつけていない鍋の底。
光だけが先に差し込んで、
空気は、少し遅れて動く。
音のない時間が、
少しだけ濃くなる。
棚の奥にしまった瓶が、
わずかに揺れた気がした。
何も触れていないのに、
中身だけが、先にほどける。
八角を割る。
乾いた芯が、ゆっくりほどける。
指先に残るかすかな油分が、
時間の温度を変えていく。
甘さでも、苦さでもない、
名前を持たない輪郭。
ねえ、
近づいたつもりで、
ほんとは、離れていたのかもしれない。
距離は、目に見えないまま、
少しずつ、形を変えている。
しまい忘れたままの午後、
引き出しの奥で、軽く揺れる。
開けるつもりのなかった場所ほど、
よく残っている。
触れなければ、
そのまま静かだったはずのもの。
スターアニスの影が、
机の上で、少し歪む。
輪郭だけが先に変わって、
中身は、あとから追いつく。
光の角度だけで、
形は、いくらでも変わる。
遠くなったものほど、
近くで匂う。
思い出そうとした瞬間に、
別のかたちになる。
近づこうとするほど、
少しずつ、ほどけていく。
ねえ、
確かめるほど、
少しずつ、ずれていく。
同じ場所にあるはずなのに、
少しだけ、位置が違う。
火をつける。
小さな音が、空気を分ける。
見えないところで、
何かがほどけていく。
揺れたのは火なのか、
それとも、こっちのほうなのか。
残っているのか、
残しているのか。
もう、わからないまま。
手放したはずのものが、
形を変えて、ここにある。
遠くなったものほど、
近くで匂う。
それだけが、
確かに、ここにある。
はっきりとは見えないまま、
でも、消えないままで。
言葉にすれば、
たぶん、消えてしまう。
名前をつけた瞬間に、
別のものになるから。
だから、
このまま、
少しだけ、ずれたままで。
触れきらない距離のままで、
残しておく。
遠くなったものほど、
近くで匂う。
