
やわらかい土 | シンガポール
シンガポール空港から街へ向かうバスの窓の外に、整然と並んだマンション群が見えた。
それまでアジアで訪れた国といえばインドとタイだけだった僕は、大雑把に言えば雑然とした空気をアジアらしさだと思い込んでいたので、その光景に少し驚いてしまった。
街の中心部を歩くと、道路はきれいに整備され、ゴミひとつ落ちていない。行き交う人々はこぎれいな服を着ていて、きちんと信号待ちをして横断歩道を渡る。
海外にいるはずなのに、ときどき東京のどこかを歩いているような感覚さえあった。
その感覚は新鮮だったが、同時にどこか物足りなさも感じていた。
旅に出ると、その土地にしかないものを、つい探してしまう。景色でも、建物でも、文化でも。ここでしか触れられない何かがあると思うから、遠くまでやって来てしまうのだろう。
けれどシンガポールには、それが見当たらないように思えた。
しかし街に並ぶ文字には興味を惹かれた。
標識にはマレー語、英語、中国語、タミール語が併記されているが、広告となるとひとつの言語だけで書かれたものも多い。自分が暮らす街に、自分には読めない言葉の広告も並ぶ。この街では、それもまた日常なのだろう。
そんなことを考えながら歩いていると、どこからか強いお香の匂いが漂ってきた。
その方向へ進むと大きな仏教寺院が現れ、そのまま周辺を歩いているうちに、お香の匂いがふっと変わり、今度はヒンズー教寺院の前に出た。さらに歩くとカトリック教会があり、その先にはモスクも見えた。
ほんの短い散歩の中で、仏像とクリシュナ神と十字架を見る。
そんな経験は初めてだったかもしれない。
自分が属していない文化や、自分が信じていない宗教や、自分が話せない言語が、自分のものと同じくらい当たり前に存在している。
そして、それらはそれぞれに主張を持っていながらも、どれも他を押しのけることなく、ただ同じ街の中に並んでいた。
その風景は、複雑でやわらかい土のように見えた。どんな種も受け入れてしまうような。
もしかするとそれが、この街にしかないものなのかもしれない。
Singapore, 2000
